バケモノ少女は死にたがる
一目見た瞬間にこのおじさんだと確信した。私を殺してくれるのはこのおじさんしかいないのだと。
そうだと気が付いた時にはもつれる足をメチャクチャに振り上げてその背中を追っていた。
「殺してください」
「貴様、誰だ」
「ちょっとその十字架、貸してください」
やっと追いつき伸ばした手はいともたやすく払いのけられた。酷薄そうな鋭い視線が私を怪訝に観察している。その時になって初めてただ追いついただけではなかったことに気が付いた。たくみに誘い込まれた廃墟然とした倉庫は窓からの月明かりにぼんやりと照らされているだけで他には誰もいない。
ああ、私の死に場所にしては上等すぎる。
思わず笑みがこぼれそうになった時、銀色に光る十字架が差し出された。十字架というより肉を切り裂く刃を備えたそれは八端十字架と呼ぶ方が相応しいかもしれない。私にはどっちだっていいのだけれど。
「ほらよ」
カチンと鳴らして十字架が地面に置かれた。拾い上げれば命を丸ごと吸い取られてしまいそうな冷えた温度に身震いする。その切っ先を心臓に向けてそれを一気に抱き込んだ。
「やっぱりこれでも死ねないみたい……」
足元に広がるのは黒い血溜まり。諦めて十字架を引き抜くと流血は止まって傷口も塞がってしまった。こんな足掻きをするのはもう何度目だろう。
† † †
私が三才の頃、突然パパはどこかにいなくなった。パパによく似た私を胸に抱きながらママは泣いていて、もう泣かないでと濡れた頬に額を寄せた。
パパは、シんだのよ。
生とか死とかの概念がまだなかった私にも、ママに聞かされたそれが永遠のお別れを意味していることだけは肌感覚で解していた。そしてこれからはママとふたりきりで生きていかなければいけないことも。
「どうしてなのよ……!」
ママの血走った目が怯えた様子も隠さずに私を睨んでいる。
私に生じた異常が無視できないレベルになったのは十才になろうかといった時だった。元々発達がよろしくなかったことを差し引いても私の身体はいつまで経っても小さなままだった。食が細いわけでもないし、肉体以外の知能や精神的な部分については人並みに成長をしていた。しかしそれにしても十才になっても幼児と見間違えられるほどだとは。
私に与えられたのは三畳程度の広さしかない外鍵付きの物置部屋だった。いわゆる座敷牢というやつだ。日なが壁のシミを数えながら過ごす時間は退屈有り余るもので、どうしてこうなってしまったのだろうと堂々巡りの思考に支配され続けていた。
でもそれは長く続かなかった。一、二ヶ月ばかり経った頃、突然ママがお出掛けしようと扉を開けてくれたのだ。久々にまともに見たママの顔は老け込み、白髪もそんなに多かっただろうかと首を傾げた。
連れられ来たのは夜の港湾。ねえママ、なんか怖いよ。強く握った手が握り返されることはない。
「ごめん、死んでちょうだい……」
背中を押されて私は頭から海に落ちた。冷たい海水とくすぐったい泡の中をグルグル回って海面から顔を出すと棒切れを携えたママが見えた。浮かび上がろうとする私をママは棒切れで何度も何度も叩きつける。その顔は必死の形相に怯えきっていた。
「ごめん、ごめん、死んでちょうだい!」
「ごめんなさい、ママの方が死んじゃうなんて」
何を起こしたのか詳細は触れないでおく。ずぶ濡れた私の手の中にはママの心臓があった。長く閉じ込められて満足な食事も摂れていなかった私には熟れた果実に見えていた。それを囓ると私の身体は少し大きく成長した。そして『死なない身体』にもなっていた。
† † †
「半吸血鬼だな」
おじさんは胸を一突きにしても気絶すらしない私を見て冷静に呟いた。その通りだけど違う、私は生き血を吸おうなんてそんなことはしないから。
「おじさん、バケモノ殺しの達人でしょう。きっとそう、分かるんだもん。だから私を殺して欲しいんです」
「生憎だけどそれはできないねえ」
「どうして? それがお仕事なんでしょ、手首に印があるじゃない」
指摘したおじさんの手首には始末屋を意味する扇模様のタトゥーが刻みつけてあった。魑魅魍魎の人間ならざるものを葬り去るスウィーパー。日陰の番人とでも呼ぶべきか。今までに何人か見かけたことはあったけれど、どれも本当に私を殺してくれるような力はなかった。そんなつもりはないのに、あくまで積極的な意思でもって殺されるため対峙したはずなのに、ふと我に返れば相手の方が死んでいた。それはまるでママの時のようだった。
「私は仕事でやってるんじゃないんでね」
くくっと喉を鳴らしておじさんが笑う。仕事じゃないならなんでそんな十字架を持っているのかと言い募ったけれど、ただの趣味だからと切り捨てられるだけだった。
「趣味でもいいから、私を殺してくださいよ」
「だって君、人間に危害は加えないだろう?」
「そんなんじゃない。だって今までに何人も……」
「そいつらはスウィーパーだったろう? ならば返り討ちに遭うことだって織り込み済みだ。だから無差別に市民を殺めるケダモノと君は違う。例えばほら、向こうにいるね……」
金属バケツを叩いたような音がした。窓の外、人影がふたつ揺れていた。その一方はリボルバー式の拳銃を構えていた。ブラックホークとか言うんだっけ。西部劇に出てきそうだと思って調べたらそんな名前であることを知ったのだ。
ああ、私はあの人には会ったことがある。そのブラックホークで頭を撃ち抜かれたはずなのにやっぱり死ねなかった。つまり、もうひとりの正体は……。
「嬢ちゃんはあまり見ない方がいい」
すっと背後に回ったおじさんは私の両目を塞いでしまう。確かに見た目はまだ中学生かそこいらだけれど中身の方はお嬢さんというほどの齢でないのよ。でも瞼に触れる掌の温度が心地よくて私はそれに従った。
感覚を研ぎ澄ませながら窓の外側に意識を注ぎ込んだ。発砲音は四回目で聞こえなくなった。代わりに湿り気のある音と一瞬の呻き声が虚しく響く。嗅覚を撫でる鉄の匂いに私の内側が静かに燃え上がっていた。
「私は行くよ」
視野を遮っていた無骨な掌が離れていく。待ってよ、ひとりにしないで。目を開けるとさっきまで人の形をしていた肉塊が四散していた。その中央には見た目こそ人間だけれども明らかに尋常ならざる殺気を放つ男が立っていた。頭から浴びた血が月光に怪しく照りを返している。
そいつのど真ん中におじさんは走り出していた。男はおじさんの心臓を狙い右手をかざしている。おじさん、死んじゃうよ。思わず目を背けるとまた同じ湿った音がした。
けれども続いたのは呻き声ではなかった。生身の声帯が鳴らせるわけもないほどの低音域に咆哮が走る。恐る恐る目を開けると、男が突き出していたはずの腕はあらぬ方へねじ曲げられていた。おじさんの左手は完全に男の動きを封じている。そして右手には私を殺してはくれなかった十字架のナイフがあって、寸分狂わず男の心臓を捉えていた。
「くそォ!」
曲がった腕は動かないはずなのに、貫かれた心臓は痛むはずなのに、男はおじさんの力を押し返さんと深く踏み込んだ。まだ自由な左腕がおじさんの首を抱え込む。関節は曲がらない方向には曲がらない。無理な力が加わればポキリと折れるか反動で吹き飛ぶかのどちらかだ。おじさんは幸いにも後者、首を軸にグルリと半回転して地べたに叩きつけられた。その勢いで握っていたナイフに自らの手が傷つけられたようで、うっすらと血が滲んでいる。ちょろちょろと燃えていた私の中の熱が大きな火柱を上げた瞬間でもあった。
ナイフが引き抜かれた胸部の傷は再生を始めているはずだ。ゆるりとパワーを取り戻しつつある男はおじさんに覆い被さった。
まだおじさんは死んじゃダメなんだ、おじさんが死んだら私はどうやって死ねるというのか。
おじさんが振り上げた足が男の脇腹にぶつかる。そこに生じた間合いは私が男の背後に飛び出すだけの時間をくれた。
自分以外の殺し方なら知っている。
男の背中に両手を当てる。そう、ママが私を海に落とした時のように。
死んでもいいけど、どうせ死ぬならママと一緒がよかった。だから必死に海から這い出た。ママを海に落としてから自分も飛び込むことに決めたから。
ママがそうしたように、私はママの背中を突き飛ばした。でもママは海に落っこちなかった。海に落ちる前に地面へ倒れてしまったから。傷ひとつない綺麗な亡骸がそこにはあった。ママを落とそうとした両手にはまだ脈動している心臓があって、空腹のあまり私はそれを食べてしまった。
「驚いたな」
自分の上に崩れ落ちてきた男を押し退けながらおじさんは言った。視線は私の手に包まれた男の心臓に釘付だ。
「これ、どうしたらいい?」
「好きになさい」
「食べたら引く?」
「君の得物なんだから私が口を挟むことじゃない」
少し考え、それは地面に投げ捨てた。まるで死にかけの蝉みたいにのたうち回っていて気持ち悪いし、口に入れなくて正解だったみたいだ。そういえば死にかけの蝉って、やっぱりそんなに死んでなくて再び飛んでいっちゃうことがある。ころころ転がるそれを思いきり踵で踏み潰しておいた。
そもそも前回食べてからまだ一月しか経っていない。私は半分なだけあって燃費はかなり良い方だ。
「それでよかったのか?」
「きっとこれ、そんなにおいしくないから」
「ダンピールらしくないね」
「そういうの目指してないの」
私がこうなった理由は、パパが消えてしまった理由でもある。
パパは吸血鬼だった。いつまでも幼児のままの姿である私を見てママはひどく怯えていた。あなたにはパパと同じバケモノの血が流れているからだと。吸血願望なんてなかったし、太陽の光を浴びても平気だったし、身体の成長速度が規定外であることを除けば普通の人間と何ひとつ変わりはしなかった。
それでもママが私を恐れていたのは、やはりそういうことなのだろう。パパが死んでいるわけがない。半分の私ですらなかなか死なないのだから、完全なパパはもっと死なないはずだから。いつか娘に生き血を全て抜かれてしまうとでも考えていたのだろうか。
私が普通でないことは知っているけれど、普通であることを諦めた訳ではない。目下の課題は寿命ある人間のように死を迎える方法を探すこと。もう二十年近くは生きている計算だから平均的な寿命と比較しても若過ぎるけれど、あまりに頑丈過ぎるこの身体を殺すためなのだから、今から始めてちょうどいい感じのタイミングで死ねる計画なのだ。
「ねえおじさん、今の私を見てたでしょ。こんなバケモノのさばらせていたらどうなるか分からないよ。だから早く殺してください」
「恩人を手にかけるような真似はできないねえ」
「別におじさんを助けたくてそうしたわけじゃない。私が何もしなくたって、おじさんはきっとやっつけていたでしょう?」
私は見ていた。足蹴りの次の一手に仕込まれたおじさんの作戦を。もう一発膝蹴りを繰り出せばまだ回復不全な男は確実に地面へ落ちていた。おじさんが撒き散らしていた清め塩の上に。それは私の足元にも散らばっているのだけれども、素肌で触れたところで痺れるわけでも腫れるわけでもないから、どれほど丈夫で鈍感な身体なのかと我ごとながら呆れてしまう。
「こいつは今月だけでも五人襲った。君はそんなことしないだろう」
「当たり前じゃない。一緒にしないください」
「ほら、もう言ったことが矛盾している」
「じゃあどうしたら殺してくれるんです? おじさんじゃなければダメなんだって、直感で分かるんです」
「そうだなあ、もっとバケモノらしくなったら殺してあげてもいいだろう。こいつの心臓奪った時の目はそれっぽくてゾクゾクしたね」
口角を吊り上げたおじさんが私に手を差し伸べた。
私は人間なんて殺したくない。
私はバケモノであることを否定したい。
でもやっぱり分かっているんだ、ママを突き飛ばしたその日にははっきりバケモノであることを。
「もっとたくさんバケモノをやっつけたら、そのうち全部いなくなると思いますか?」
「どうだろうねえ。私にも君にもやっつけられないバケモノがいるのかもしれない」
「まあ、それはそれで好都合なんですけど」
「なんだ、私と同じじゃないか」
パンッと手と手を打ち鳴らす音が倉庫街を揺らす。もう少し、おじさんみたいに生きておこうかな。