指南役筆頭 犬殿!!
「橘 剣之介殿。貴殿を本日を持って我が藩、藩主 里見正重様が一子 里見宗政様の鉄砲指南役に任ずる。」
趣の良い簡素な部屋で橘 剣之介は思わず、にやけそうになる頬を目の前の御家老に察せられない様に頭を下げる。
「身に余る御役目なれど、若君に精一杯、我が術を手ほどきをさせて頂きたく思います。」
「うむ。橘殿、どうぞ宜しくお願い申す。」
戦国最後の大合戦から三十と少し過ぎた泰平の世、刀より筆を、軍略や謀略より政略が求められる御時世で勉学はダメ、剣術も基本ダメ、あるのは父から受け継ぐ鉄砲の技術だけの橘 剣之介はこの度、見事に里見藩という小さな藩に仕官が叶った。
どの藩に行っても今時、鉄砲侍など需要が無く齢二十にしても何処にも仕官出来ずにいたが、泰平の世だからこそ武士は武士らしく戦の術を磨く者とのお考えであるらしい里見藩の殿様に感謝し、剣之介はやっと嫁様からの嫌味を言われなくなると安堵するのであった。
「ところで橘殿、この後は何かご予定はあるかな?」
「いえ、特に今のところはありませんが、何か後用事でしょうか?」
長屋に帰っても故郷の親に仕官が叶った旨の手紙を書く以外にやることは無いし、今の内に目の前の御家老に胡麻をすっておこうと人良い笑顔で剣之介は訪ねた。
「用事という訳では無いのだがね。もし、暇があれば指南役筆頭の『犬塚 惣十郎』殿にご挨拶に行かれると、よかろう。」
指南役筆頭とは剣術、体術、勉学、作法などの指南役を纏める役職でもちろんの事、橘の直接的な上司となる。
「そうですね。では早速、ご挨拶に行かせていただきたく思います。」
善は急げ、新参者だけあって、これからの上司の印象を良くする為にも早く挨拶した方が良いだろうと剣之介は御家老に一礼して部屋から出ようとすると、橘殿と御家老が呼び止めた。
「仕官に辺り、例の約束事はお忘れなきように頼みお頼みしましたぞ。」
「えっと、指南役筆頭殿の事は他領には話すべからずの事で御座いますね。心得て御座います。」
仕官の条件であり、幾分か訝しながらもこれから主君とする里見様の命令だ。
命令ならば、従うだけと剣之介は心得ている。
「よろしい。では、今だと『犬殿』はおそらくはご自分のお部屋で書物を読んで居られると思われるのでお訪ねする様に」
「わかりました。」
「橘殿、最後に『犬殿』を見ても取り乱す事の無い様に頼み申す。」
何か含みのあるにやけ顏を張り付け、剣之介に言う御家老に犬塚殿はそんなに奇抜なお姿をしているのかと若干の不安を抱えて部屋から出る剣之介であった。
里見藩の城は小さい。
それはもう、剣之介が仕官の為に訪ね歩いた諸藩の城を比べれると、この城はちょっと武家屋敷よりは広いかなと言った具合だ。
しかしその分、部屋や廊下が複雑になっており、いざ攻められた時には護りやすい作りになっているそうで剣之介は指南役筆頭の部屋まで三刻も掛かってしまった。
(やれやれ、やっと着いた。犬塚殿はまだ居られかな?)
御家老のお部屋を出て直ぐに迷い、女中や小姓はては下男に部屋を教えてもらいながらも着いたが果たして犬塚殿とは行き違いなどになって無いかと不安を感じる。
(まあ居なくても後日、ご挨拶に行けば良いか。、、、それにしても、)
剣之介にはここまで来るのに女中やら、小姓に下男まで口々に犬塚殿の事を『お犬様』やら『犬殿』、『犬のダンナ』と愛称の様に言っていたことを思い出す。
普通、武士をその様に呼ぶ事など無いだろう。
(もしかして、犬塚殿がそこまで犬に似ていて本人が気にするから、殿のご配慮で他領には話すべからずという事かなのか?)
「どちら様でごさるか?」
犬に似た顏を想像し、悶々としていると部屋の中から低く渋みのある声が聞こえてきた。
「あっ、いや、失礼しました!私はこの度、若君の鉄砲指南役に任ざれた橘 剣之介という者で御座います。里見藩指南役筆頭 犬塚 惣十郎殿にご挨拶にとお訪ねして来ました。」
まさか、廊下にいた事に気付くとはと剣之介は慌てて両膝を付き、犬塚殿に名乗りを上げた。
「おお、そうでござったか。ささっ、橘殿お入りください。」
「はっ、では失礼いたします。」
この藩は御家老を始め、随分と気さくな御人が多なと感じつつ、剣之介は失礼の無い様に静かに襖を開いた。
「橘殿、お初に御目に掛かる。拙者がい、」
ピシャンと襖が外れる勢いで剣之介は襖を閉めると徐に片手で両目を揉み出した。
そして、昨日は緊張でよく眠れなかったからなと自分の何かに言い訳して再度、襖を開いた。
「橘殿、喉が乾いてはござらんか?今、茶を入れるので中でゆっくりされよ。実は最近、茶道指南役に茶をならっ」
今度は音を立てずに目の前のモノを刺激しない様に慎重に襖を閉めた。
(てっ、鉄砲!鉄砲はいずこか!?)
襖を背に剣術、体術が苦手な剣之介の唯一の武器を探すがもちろん、そんな物は都合良くは転がってない。
そのうちに背後から、スッと襖を開けられた。
「橘殿、先程からいかがされたかな?ご気分が悪いならば、後日にでも挨拶に来れば良いでござるが?」
恐る恐る、振り返ると先程からの低く渋みのある声で剣之介を気遣う(おそらく)自分の直属の上司、犬塚 惣十郎が犬に似ているどころか正に犬そのもののお姿で腰を抜かして動けない剣之介を不思議そうに見下ろしていた。