本当は怖いスイカの話
読者の皆さんはスイカをご存知だろうか。電貨決裁用のあれのことでも、夏に食べるとおいしいあれのことでもない。漢字では「誰何」と書く。
字面で推測がつくかもしれないし、軍隊物や歴史物の創作物に親しんだ人や軍隊経験者は知っているかもしれない。相手の身分と姓名を質すことである。平たく言えば「お前はどこの誰だ」と問いかけることだ。誰何された側は「練馬一郎准尉、一中隊」などと答えなければならない。答え方は部隊や状況によって様々であり、一概にこれと言えるものはないが、氏名、階級、所属を答えれば多分問題はない。
古今東西、軍隊というものは部外者を嫌うものだから、たとえ平時であっても、部外者の出入りを制限する領域は沢山ある。戦時ともなれば尚更その辺りは厳しくなる。だから、身分や姓名、時には然るべき合言葉を知っているかどうかも大事となる。
我が古巣、帝国陸軍も例外ではなく、こういった誰何に関する規則や要領がきちんと存在する。これがまた民間の人には信じられないであろうほどに厳しい――その辺の警備会社にはもっと凄まじい基準を採用しているところもあるらしいが――ものであり、教範には「三度誰何しても答えない者は、捕獲するか殺害する」と物騒なことが書いてある。その上、実務上では、指揮者が必要と認めた場合、一度目が無視された段階での捕獲や殺害さえ許されている。規則通りに呼びかけているうちに曲者を取り逃がしては元も子もないからだ。つまり、私が皆さんの内のどなたかに向かって突然、「誰か!」または「誰何!」と声を張り上げたとき、最悪の場合は一度無視しただけで小銃で撃たれたり銃剣で刺されたりする可能性があるのだ。とはいえ、指揮者や上級者が不要と見做した場合は省略することもでき、戦時でもなければ民間人を相手にそこまで厳しくすることは滅多にないので、読者諸氏にはどうか安心していただきたい。ただし、実際に誰何されるようなことが起こったときに備え、一つの可能性として軽くでも気に留めていただければ幸いである。
電子タグの皮下埋め込みや各種身体パターンの照合などによっていくらでも個人証明のできる現在、一般家庭ならばともかく軍隊においてこんなやり方をするのは時代遅れだと感じる人もいるかもしれない。
だが、電子的なものは偽造や干渉が比較的容易である上、電子機器を盲信していると万一そういった事態が起こったときに気づきにくいこともあって、被害が甚大なものになりやすい。また、我々は電子的識別の可能な者だけを相手にしていればよいわけではない。たとえば、宗教上の理由で体に電子機器を埋め込めないという人を相手にするときのことを考えてみてほしい。そういう人に対して電子的な判別を試みるのは難しくはないだろうか。アメリカで実際に起こったことでもあるが、仮に科学技術を拒否する宗教の人に電子タグの埋め込みを強要すれば人権問題となってしまう。また、クローン技術や整形技術を悪用した種々の犯罪を見てもわかる通り、手間と金さえかければ、身体的な情報も性能の低い機械ならば騙せるほどに再現可能である。実用レベルの模倣ができないのは人格くらいのものだが、これも空っぽの培養脳に複製記憶を転写すればある程度ごまかせる。
脳味噌の中身以外は全く本物と同じ姿をした家族や友人の偽者に出会ったときのことを想像してみてもらいたい。そのとき、どうすれば偽者だと見抜くことができるだろうか。やはり、言葉を交わして相手の癖や二人だけの秘密などを確かめ、その振る舞いや応じ方に神経を研ぎ澄ませるしかないのではないか。
だからこそ、科学技術の産物には決して完全な信用は与えられない。「科学は科学でごまかせる」とはよく言ったものである。最終的には訓練された生身の人間がじかに接して判別するしかないのだ。今日、無人兵器が多数開発され、ヘリコプターや戦車の性能も著しく向上したことで戦場から人間が追い出されつつあり、世界的潮流として兵員削減に向かっていることは事実である。一方で、歩兵の絶対数に大きな変化はなく、人員に占める比率という意味では歩兵部隊は相対的に規模拡大の傾向にある。機械的或いは生物的に増強処置を施された生身の精強な歩兵は、依然として戦闘の鍵を握り、その決をつける役目を他の兵種に譲らずにいるのである。戦友達と戦場を駆け抜けた歩兵の一人として言おう。最後の決を任務とするのは、いかなる場合であっても常に歩兵である。
前置きが長くなってしまったが、今回はかつて起こったとある痛ましい事件を基に、この誰何の話をしようと思う。
その時、私は習志野二等軍曹の指揮下で臨時の警衛勤務に就いていた。思い返してみると、何か事件に巻き込まれるときには、大抵その場にこの人がいた。この人にはおいしい思いをさせてもらったことが一度ではないが、ひやりとさせられたことも二度や三度では利かない。
小型小銃(いわゆるカービン銃のことだが軍ではこう呼ぶ)を抱えて駐屯地内の某所を巡回していたところ、前方から肩に桜星を二つつけた将官がぞろぞろと随員を従えてやってくるのが見えた。第一空挺団長の市ヶ谷少将だと一目でわかった。副官や広報班等を連れた団長の傍には、高そうな背広の襟元に議員バッジを光らせた偉そうな中年男と護衛やら秘書やら新聞記者やらの取り巻き連中の他、陰険な顔の憲兵達もいた。このため私や他の者は、視察に来た代議士を団長が自ら案内しているところに出くわしたのだとすぐに察しがついた。
その代議士は若手ながら当時の防衛大臣の腹心とも呼ばれ、東亜戦争が起こる少し前に政務官を務めた経験もあったいわゆる防衛族の大物である。この時は習志野駐屯地の抜き打ち視察に訪れていたのだ。軍に対する影響力を有権者に誇示する目的があったと言われているが、生憎と今も昔も政治には無関心なのでその辺についてはよく知らない。
ただ、東亜戦争で得た知名度を武器にしての政界入りを目論んでいると内外で噂されていた団長を除けば、上は副団長から下は二等兵まで某代議士を歓迎する者はいなかったのではないかと思う。何しろ完全な抜き打ちだったので対応に大わらわになった上、その後も、お偉いさん同士で仲良くお喋りしていればよいものを現場にまで顔を出した挙句、事もあろうに新聞記者達の前で今の軍や省に不満はないかなどの答えに困る質問ばかりしてきたため、多くの将兵が仕事の邪魔をされた。同行の記者達などはもっとひどく、貴重な休憩時間に割り込んできたかと思えば、訓練や任務の所感を訊くのであればまだしも、人間関係のような個人的な話や某代議士の抜き打ち視察への感想などの、状況に馴染まないことばかりを訊ねて回るありさまだった。
また、警備強化ということで、無駄飯食らいの憲兵連中でも働かせればよいのに、私や習志野二曹など本来警衛に上番する必要のない者まで駆り出される破目にもなった。この臨時の警衛というのがまた面倒臭いもので、下番した後はまず反省会が開かれる。開いて集まること自体が目的となっているので全く意味がない。もっとも、これは体のいい休憩なのでまだいい。問題は課業が終わった後だ。自由時間に入ると、今度は安酒しか置いていないしみったれた兵員クラブに連れて行かれ、慰労会名目の強制的な飲み会が始まる。これで貴重な自由時間が潰れてしまうのだ。私のような長いものに巻かれる小心者には逃れるべくもなかった。習志野さんのように豪胆で我の強い人ならば一人だけ逃げることもできたが、彼を以てしてもこの忌々しい風習自体を改めることは遂にできなかった。習志野さんにできたことと言えば、階級の上下を問わずたちの悪い酔っ払いのお目付け役を務めることくらいだった。彼には落ち度のある上官を殴りつけたり脅しつけたりする非公式の権限があった。事実、私は、新兵に一気飲みを強要する大隊先任准尉のこめかみに習志野「一曹」が腰の入った直突きを叩き込むのを目にしたことさえある。
とは言っても、面倒ばかりの警衛だけならば仕方のないことと諦めもついたかもしれない。我々は国家の飼い犬である。ご主人様の都合が第一だ。
しかし、犬にも都合や感情がある。個人的な話で恐縮だが、私は某代議士の視察のせいでひどく残念な思いをする破目になった。この日は習志野二曹が勤務態度の良い何人かの若い者に化学養殖ではない本物の焼肉を食べさせてくれることになっていたのだが、慰労会のおかげで当然お流れになってしまった。私を始めとする食べ盛りの精勤者数名は、深い溜息と一緒に代議士への不平不満を何度も漏らしたものである。
もっとも、いくら憎らしいと言っても相手は代議士、それも遠くない将来に防衛大臣になっているかもしれない大物だ。たかだか昇任したてのにわか伍長ごときに何ができるものでもない。先頭を行く二曹と一緒に銃礼をして、変に目をつけられないうちにさっさと通り過ぎてしまいたいものだと私は思った。
だが、二曹は団長及び代議士御一行様の前で立ち止まると銃口を向け、大きな声で「誰か」と怒鳴った。
すると、某代議士に情けない顔で媚びていた団長が表情を変えた。団長の随員は唖然としていた。代議士や取り巻きは何が起こったか理解できていない様子で団長らの顔と二曹の顔の間で視線を行ったり来たりさせていた。動哨班の面々は目をぱちくりさせて間抜け面を晒していた。きっと私も同じような間抜け面をしていたはずだ。
しばしの間を置き、困惑顔の某代議士が団長に視線で問いかけた。しかし、団長が誰何のことを手短に説明した途端、代議士は急に怒り出して話を遮り、二曹を睨みつけて「俺が誰だか見てわからないのか」と怒鳴った。それから団長に視線を戻して「市ヶ谷くん、部下の教育がなってないんじゃないか」と叱責の声を上げた。団長は恐縮した様子で何度も頭を下げていた。
駐屯地で一番偉い上官の情けない態度を目の当たりにし、私はひどく嫌な気分になった。これではまるでその辺の小役人や会社員だ。こんなものは陸軍最強部隊の指揮官が取る態度ではない。私は団長がかつて我々に示してくれた立派な姿を思い返し、深い失望感に見舞われた。
さて、読者諸氏におかれては、ここで少し、老兵の思い出話に付き合っていただきたい。もちろん本筋と関わりのある話なので、寄り道をご容赦いただけると幸いである。
歴史の授業でお馴染みであり改めて説明するまでもないと思うが、まだ生まれていなかった読者も大勢いるであろう何十年も前に、我々は中国と戦争をした。東亜戦争とも極東戦争とも呼ばれる戦いである。この戦いのことは処女作の『上海降下作戦』に書いたので詳しく繰り返すつもりはない。ここでは直接関係のある部分だけを要約して述べる。
我らが第一空挺団はこの戦いで極めて重要な役割を果たした。我々は特殊作戦群や特殊武器防護隊などとともに「第二作戦集団」として編合され、空中機動部隊である第十二師団を基幹として強襲上陸部隊である水陸機動団ほかを編合した第一作戦集団、及び市街地制圧部隊である近衛師団基幹の第三作戦集団に先行して、石洞口原子力発電所を制圧確保すべき任務を命ぜられた。我々は空挺部隊だから、当然その任務は空挺作戦によって決行された。戦史に明るい読者がご承知の通り、第二作戦集団は上海市宝山区に強行降下を敢行したのである。第二次世界大戦後初めての本格的空挺作戦であるこの作戦は、伝統的な空挺降下が時代遅れのものと看做された風潮もあって、世界からは「最後の空挺作戦」と呼ばれた。
あの日の上海はまさに地獄と言うにふさわしかった。元々人民解放軍の精鋭が集結済みであったことに加え、副次的被害を出さない形での戦域を局限した奇襲的短期決戦を要求する政府の意向のせいで敵陸上部隊への準備攻撃が徹底を欠いたために、上海市街とそれを含む南京軍区には有力な迎撃部隊が国土と国民を守り抜く決意を固めて準備万端待ち構えていたのだ。空では正確無比の激烈な対空砲火に輸送機や高速降下筒が次々に撃墜された。地上では精強で勇敢な地上部隊に包囲圧迫された。このとき、着陸までに参加兵員の一割近くが銃を撃つことすらなく戦死し、展開までに一割以上が、原発の確保のために更に二割、そして第一、第三作戦集団と連絡するまでに一割が戦死した。対空砲火に曝された輸送機は一割以上が撃墜された。撃墜された機体の多くには要員脱出の余裕があったにもかかわらず、一部の例外を除き「市街地への着陸と墜落を厳禁する」交戦規定に従った機長達の決死の操縦によって、彼ら諸共、あるものは長江や日本海に沈み、あるものは家屋等の少ない地区に散った。悲しいほどに誠実な機長達は、他の乗員や降下要員を可能な限り脱出させた上で、自らは脱出の機会を放棄して乗機と運命を共にしたのである。運良く機体炎上前に脱出できた者も、多くは人民解放軍に捕らえられ、その場で嬲り殺しにされた。私は市街地で行動中、中国兵が捕獲した日本軍人を虐殺するさまを何度か目撃した。
最終的に我らが第二作戦集団全体の戦死率は五割を超え、損耗率に至っては九割に迫った。輸送機に乗って飛び立った者の半数は帰ることができず、無傷で日本の土を踏めた者は十人に一人もいなかった。二次大戦時の日本軍を思わせる記録的大損害であり、今世紀における空挺作戦としては降下兵員数、損耗数、損耗率、全て最高記録である。きっと塗り替えられることもあるまい。かく言う私自身も市街地で装甲車輛狩りをする中で装甲戦闘車の機銃掃射を受けて一時的に左脚を失ってしまった。習志野伍長は避け損ねた狙撃に頬の肉を毟り取られたし、船橋上等兵などは不幸にも戦車砲の跳弾を食らって腰の辺りで上下泣き別れとなった。当時、国民の多くは人民解放軍を前時代的で練度の低い烏合の衆と見ていたようだし、軍内でもそういった楽観論がないでもなかったが、事実は全く逆だった。空母を撃沈した海軍は圧勝、損害を遥かに超える戦果を挙げた空軍は優勢だったようだが、最後に仕上げだけした近衛師団の連中以外、陸軍部隊は軒並み大苦戦を強いられた。人民解放軍陸軍は、高い練度と士気を保ち新鋭の兵器を装備した精強な軍隊であり、最初から最後まで果敢に抵抗を続けていた。
最初に任務が伝達された時、我々の中に生きて帰ることができると楽観した者はほとんどいなかったのではないかと思う。飄々とした態度で「生きて帰ってもいいことになってる分、義号作戦よりはましだな」と嘯く習志野伍長やいつものように風俗店やパチンコの話ばかりして顰蹙を買う朝霞中尉、「札幌に帰って雪祭りの手伝いでもしていたい」と頻りにぼやく十勝一等軍曹、『哀 戦士』とかいう古いアニメ映画の歌を作戦中に大音量で流してはどうかと提案して団長に叱られていた古典アニメマニアの霞ヶ浦中佐などの剛の者もいたことにはいたが、私を含む大多数の者は、二次大戦後初の対外戦争、その辺の愚連隊やヤクザとも海外派遣先で遭遇する反政府ゲリラとも比べ物にならない先進国軍への初挑戦、生還を期しがたい任務、と三拍子揃った状況に尻込みしていた。これはC‐4輸送機に搭載する高速降下筒に乗り込むときも変わらず、私などは手が震えて靴紐一つ満足に結べないありさまだった。
だが、いざ降下筒に乗り込んだときには、我々の震えは止まっていた。我々も訓練を積んだ精鋭だったのだ、と言えれば格好もつくのだろうが、生憎とそういった立派な話ではなかった。
我々の恐怖を打ち払ってくれたのは、第二作戦集団司令官と第一空挺団長を兼務した市ヶ谷准将の行動であった。当初彼は比較的安全な指揮管制機に搭乗して集団全体を指揮することとなっていたが、我々の不甲斐なさを見かね、一緒に降下して地上で指揮を執ることを選んでくれたのだ。それも、空挺堡確保後に降下する主力部隊としてではなく、最も危険な第一陣としてである。准将の階級に在る上官がこれほどの心意気を示してくれてなお奮い立たない部下などいるだろうか。我々は団長の男気に感激し、先を争うようにして降下筒に乗り込んだ。
戦争の中枢を担う将官であるにもかかわらず、危険を顧みず部下と危険を分かち合い、後ろから指図するのではなくその広い背中で全員を引っ張る。我々の上官はそういう立派な男だった。司令官自らが最前線に出たことには賛否あったが、銃を手にして戦場を駆け回った我々の感覚で言わせてもらえば、司令部の椅子に座って作戦指導をするのが司令官だろうと副司令だろうと、そんなことはどうでもいいのだ。副司令は司令官の構想に従って指揮を執るのだし、いざと言う時に司令官の代理が務まるだけの能力を持っているのだから。だが、司令部が作戦計画に対する自信を持ち、前線の兵隊と運命を共にする気概を持つことを知らしめることは、司令官その人を措いて他にできる者がいない。もちろん、将校や学者には違う見解があって当然だし、無学な一准尉の分際で彼らの権威を否定するつもりもない。常識的には、司令官が小銃を抱えて兵士と一緒に前線を走り回るなど論外に違いない。士官学校では、未来の司令官達に対し、きっとそんなことは教えていないはずである。だが、兎にも角にも兵隊の感覚では、市ヶ谷団長のように必要な手続を済ませた上で前線に来てくれる司令官こそが良い司令官なのだ。本物の男なのだ。
その勇敢な男が、既に書いたように、権力者に媚を売る卑屈な男に成り下がっていた。私がどれほどの落胆と失望を感じたかはきっと察してもらえたと思うが、それでも本当の理解には程遠いはずだ。これは一緒に降下した戦友にしかわかるまい。
そして、確かに、あの日一緒に上海に降りた仲間達も私と同様の感情を持っていたはずだ。我々は市ヶ谷少将を尊敬していた。
これに関しては傲岸不遜な習志野さんも同じだったと思う。その後の振る舞いを見る限り、代議士や団長の態度を不愉快に感じていたことは間違いない。踏ん反り返る代議士と平身低頭する団長の不快な漫才を眺めていた習志野二曹は、とんでもないことを仕出かした。
私は某代議士の振る舞いとそれに対して二曹が浮かべた邪悪な表情を見て、直感的にまずいと思った。何かよくないことが起こるような気がしてならなかった。嫌な予感を覚えたのは私だけではなかったようで、代議士先生に頭を下げていた団長もそれを中断し、狼狽した様子で二曹に声をかけようとした。
二曹はもう一度「誰か」と代議士を誰何した。しかし代議士は答えず、怒りも露わな表情で進み出し、間に入ろうとした団長を押しのけるように腕を突き出した。
その瞬間、二曹が動き出した。それは他の誰の動きよりも早かった。その場の誰もが考え或いは待つことで動きを止めていた間に、彼だけが動き続けていた。兵隊としてはまったく惚れ惚れするしかない流れるような動作で薬室に弾を装填したかと思うと、セレクターを連射に切り替え、そのまま一連射を加えて代議士御一行様を皆殺しにしてしまった。新聞記者達も銃口から逃れられなかった。空挺兵と憲兵と御一行様が入り乱れる中、神経を高速化した護衛達をも凌ぐ速度で、一度の撃ち損じもなくそれぞれの鼻の辺りに一発ずつ、という寒気のするほど見事な早業だった。単発でよければ私でも同じことができるが、連発でこんな離れ業をやってのける者は、陸軍広しといえども、精鋭無比の空挺団どころか化け物しかいない特殊作戦群の隊員にもなかなかいない。
我々が見惚れているうちにも二曹は止まらなかった。引き金から指を離しながら素早く死体と団長の間に体を割り込ませると、真面目な顔で「ご無事ですか、団長」と叫んだ。そのさまは不意の脅威から身を呈して上官を守ろうとする模範的な兵士以外の何物でもなかった。私は麻痺したような頭の中で、随分前に二曹が「茶番こそ大真面目に演じろ」と語っていたことを思い出していた。
いくら予想外のことで呆気に取られていたとはいえ、死んだ者達以外は誰もが訓練された軍人である。銃声で我に返り、二曹が団長を確保したかしないかといった時点で機敏な反応を示していた。二曹が団長の傍に寄ったかと思った時には彼――となぜか私達動哨班まで――は、団長の随員と憲兵に包囲されていた。包囲されただけだったのは、我々が軍人だったからにほかならない。何の公的地位もない部外者であればこの時点で射殺されてもおかしくはなかった。訓練された軍人にはそれだけの能力がある。
怒りと苦悩で顔面を蒼白にした団長は、随員に救命処置やら軍医への連絡やらの実施を命じてから、怖い顔で「なぜ撃った」と二曹を詰問した。さすがは東亜戦争で空挺団を率いた歴戦のつわものと言うべきで、その剣幕は凄まじく、戦後入隊組だった同班の某二等兵などは自分が怒鳴りつけられたわけでもないのにびくりと身を縮こまらせたくらいだった。私はさすがにそこまでみっともない真似はしなかったが、二曹の軍事裁判所行きと軍人としての私のお寒い将来が決まったことを思うと、主に後者の理由から目の前が暗くなるようだった。当時、私は新婚だった上、既に妻は身重だった。安定した公務員としての身分すら失われかねないことを思い、今後、どうやって妻子を養っていけばいいかと考えるだけで頭が痛かった。白状すれば、血の気が引きすぎて膝から下の感覚がなかった。あの時、どうやって立っていられたのか、今でもよくわからない。
この瞬間、私は習志野二曹を心の底から憎んだ。東亜戦争で名誉の戦死でもしていればよかったのだとすら思ってしまった。これは何があっても決して思ってはならないことだ。片脚を失った私と腰から下を失った船橋上等兵を本隊まで運んでくれたのは、誰あろう習志野二曹その人である。
また、ちょうど入校中でその場にいなかった船橋伍長に理不尽な妬みを覚えもした。どうしてこの一大事にお前だけがこの場にいないのだ、習志野二曹が起こす騒動からお前だけが無事でいるのはずるい、と心の中でひどく罵ってしまったことをよく憶えている。恥ずかしい思い出である。
とはいえ、私としても、習志野二曹が某代議士に一泡吹かせてくれることを期待しなかったと言えば嘘になる。我々を人のように振る舞う将棋の駒か未記入の投票用紙くらいにしか見ていなかったあの代議士のことは私も嫌いだったのだ。だが、何もあそこまですることはなかった。
ところが最も危険な立場に置かれたはずの二曹は蛙の面に小便といった風で、一向に堪えた様子もなかった。彼は敬礼して平然と答えた。
「不審人物を無力化しました、団長」
人を食ったこの答えに団長は大変なご立腹で、唾を飛ばして二曹を口汚く罵りながら、もう一度同じことを質問した。それに対して二曹が答えて曰く、「誰何に応じない不審者が多数団長の近辺におり、かつその内の一名が団長に危害を加えるような動作を見せたため、止むを得ず奇襲によって全員を無力化する他なしと判断しました」だった。団長はしばらく絶句した後、某代議士であることに気づかなかったはずがないだろうと責め立てた。これに対する答えは、外見は確かにそのようだと思ったが、洗脳等の可能性があったため、その確認が必要だと考えた、本人が答えるか、団長が身分を保証するかしてくれていれば問題はなかった、というものだった。
これは完璧とは言えないまでも妥当性のある意見だった。と言うのも、若い読者は知らないかもしれないが、この少し前にアメリカで洗脳技術を用いた要人暗殺未遂事件があったのだ。イスラム教過激派のテロ組織「アル・イスラミア」が、脳への記憶転写技術を駆使してホワイトハウス職員を洗脳し、大統領を暗殺しようとした事件である。これは大統領を警護していたデルタフォースの活躍によってすんでのところで事なきを得た。天下のアメリカにしてはお粗末な事件ではあったが、三日と経たない内に警備体制が一新された点はさすがと言うべきである。
二十一世紀に幕を開けたテロとの戦争の第一人者であるアメリカでその旗頭である大統領を狙って起こったあの事件を暗に引き合いに出されては、団長としても咄嗟に責めようがなかったらしく、取り敢えずの処置として兵隊の間で「軽営倉」と勝手に呼ばれる特別室に我々を放り込むのみだった。
ここで新用語が出てきたので「軽営倉」について少し説明する。俗に言う軽営倉入りは、正式には特殊居室待機と呼ばれる。一度入ると許可なく出られない上、カメラで四六時中見張られることにもなるが、連絡及び外出の自由を制限される以外の不自由はない。テレビはあるし頼めば新聞や雑誌も購読できるため、退屈もしない。賞罰として記録に残ることもない。精々上官からの覚えが悪くなり、課業を放り出して楽をしたと後で仲間に責められる程度である。外出禁止処分が厳しくなったようなものと言えばわかりやすいかもしれない。このため、中には「公休」だの「休憩室」だのと呼ぶ不届き者もいた。
私達と習志野二曹は別室に分けられた。二曹が単独、我々が相部屋だ。階級ではなく主犯とその他で分けたらしい。そうでなければ伍長だった私は同じ下士官である習志野二曹と同室にされていたはずだ。
応援に駆けつけた憲兵に囲まれて――にもかかわらずまるで臨時に憲兵隊の指揮官に上番しただけであるかのように威風堂々とした足取りで――独り軽営倉に向かう背中を眺めながら、この人と仕事をすることももうないのだな、と私は少し悲しい気分になった。理屈の上では相手方にも非があるとはいえ、代議士を殺してしまったのだ。軍事裁判所行きは確実、有罪も確実、奇跡が起こってそれらを免れたとしても軍に居続けられるとは思えなかった。
事実、軽営倉内で新聞やニュースを見た限りでは、世論は激しくぶつかり合っていた。参考までに記憶にある中から取り上げてみる。
議員といえど規則に従わなければ処分されて当然である。
駐屯地の軍人が視察に来た議員の顔を知らない方がおかしい。
機密の塊である軍事基地に、さしたる必要性もなく、しかも新聞記者を帯同した状態で抜き打ち視察を行なえば、現場に混乱や行き違いが起こっても仕方がない。
議員は議員用のIDタグを埋め込むともに来客用のタグも装着していたはずだから、識別できないはずがなく、明らかに意図的な殺害である。
アメリカで起こった大統領暗殺未遂事件のこともあるから警戒するのは正しい。
事情はわかるが処置が過激すぎる。
きちんと現場との調整を済ませていなかった空挺団側にも責任がある。
軍には議員の安全に配慮する義務があったのだから、その場にいた全ての軍人と特殊作戦集団司令官などの責任者が裁かれるべきである。
犯人に中国や北朝鮮との関係がないか調べるべきである。
過激派の軍人が政治家を多数殺害した二・二六事件の再来であり断じて許してはならない。
軍靴の足音が聞こえる。
あの時にニュースや新聞上で吹き荒れた意見の嵐についてはひょっとすると読者諸氏の方が私よりも詳しいかもしれない。とにかく様々な意見が飛び交っており、極刑になることはなさそうだとしても処分なしでは済まされまい――事によれば私達も危ない――と思えた。我々は戦々恐々として世論の動きを見守った。今となっては笑い話だが、当時は我々を擁護する人々を心の底から応援していた。皆で集まっていた我々でさえ恐ろしくてならなかったのだから、最も重い処分を受ける立場に在り、しかも苦しみを分かち合う者もなく個室で過ごす習志野二曹がどれほどの重圧を味わっていたのかは想像もできない。良くも悪くも常軌を逸した精神を持つあの人のことだから、ひょっとすると、個室に連行されながら示した悠然たる態度を終始崩さず、ゆったりと「休暇」を楽しんでいたのかもしれないが。二曹は解放された後、最近のテレビ番組は才能がない連中が才能のない連中の命令で作っているから全く面白くない、と文句を言っていたから、その可能性は充分考えられる。
事件をご存知の方ならばご承知の通り、我々は一週間もしない内に解放された。ただの一人の例外もなく待機を解除され、処罰されることも氏名を公表されることもなく、通常の勤務に戻された。繰り返すが、ただの一人の例外もなく全員が、一週間も経たない内に、である。特殊作戦集団司令部は――驚くべきことに案件は防衛大臣の遙か手前で差し止められたのだ――任務に忠実であったことが惹き起こした不幸な事故であるため、事故を誘発する環境を放置していた上に現場での対応にも不備のあった第一空挺団長を除く誰の処分も必要なし、と公式に発表した。こうして二曹も我々と共に平然と勤務に復帰し、我々を含む何名かを連れて約束通りの焼肉会を開いてくれた。もしかしたら、この結末が見えていたからこそ、彼はああいった暴挙に及び、ああまで堂々と振る舞っていられたのかもしれない。
その後、隊内で我々は変わらぬ日々を過ごした。習志野さんはいつものことで片付けられ、我々は少しの間、気違いの暴走に巻き込まれた被害者として哀れまれ、やがてすっかり忘れられ、日常に戻った。
以上が私にとっての「習志野駐屯地内国会議員銃撃事件」乃至「習志野駐屯地内国会議員一行殺傷事件」の顛末である。習志野二曹が代議士を「殺害した」のだと言う者もいるが、その見方には断乎として異を唱える。確かに代議士らは銃弾によって脳を破壊されて心肺停止状態に陥りはしたが、そのすぐ後、代議士を始めとする複数人は軍病院の的確な処置できちんと蘇生したのだ。代議士が死亡したのは、退院から三ヶ月ほどが過ぎた頃のことだ。自殺だった。救命処置等を拒む遺書を用意した上で、代議士は家人の目を盗み、猟銃で自分の脳味噌を吹き飛ばしたのである。
当時、この自殺の理由と責任を「銃撃犯」ひいては陸軍に求める声が一部から上がった。あれから何十年か過ぎた今でも、反戦・反軍団体や憲法九条再改正論者が「軍の暴走」の一例として時折引き合いに出すことがある。
某代議士の自殺の原因が二曹であること自体は、否定したくともしようがない。
破壊された某代議士の脳自体は迅速な復元処置で機能を回復したものの、回復処置も空しく記憶の多くは失われたまま戻らなかった。それに伴い、人格も大分変わってしまった。記憶転写によって日常生活に必要とされる最低限の知識は脳に書き込まれたが、最早代議士としての政務に堪える状態ではなかった。身体的生命は取り留めたものの、報道によると、家族が発見した遺書には、長くリハビリを続ければ人格復活や記憶回復もありうると言われていたが、家族との擦れ違いや先の見えない治療にこれ以上耐えることができない、といった主旨のことが書いてあったらしい。
某代議士を追い詰めた記憶障害が二曹によって惹き起こされたものである以上、記憶障害が原因であると言われれば、確かに二曹とそれを掌握する軍は彼の死に無関係とは言えない。
しかし、代議士が最初の誰何を無視し、誰何の説明を受けたにもかかわらず二度目を無視した挙句、団長に向かって不審な動作をしたことは事実である。読者諸氏もご承知のように日本帝国では、たとえいかなる事情があったとしても、正当な手続に基づく警告を無視した場合、それによって生じる損害は自己責任となる。某代議士の場合も同様であり、「不審者」と見做されても仕方のない行動を取っていたことを踏まえれば、救命処置の実施や見舞金の支給等は、ややもすると公的機関としての公平性が損なわれかねない異例の対応であったと言える。この上、更なる責任を軍と二曹に背負わせようとするのは道理に反している。
なお、もしかするとこれこそ読者諸氏の一番気になるところかもしれないが、この事件の最中及び以後にこの一件を取り沙汰した意見の数々について、この記事では一切のコメントを差し控えたいと思う。事件そのものの構造についても同じだ。私の与り知るところではない。
この件については世間でも本当に色々なことが囁かれたものである。
軍関係の票を失うことを懼れた防衛大臣が統合総司令部を通じて習志野二曹を処分しないよう軍に働きかけた。
某代議士や防衛大臣に対立する派閥が勢力拡大のために軍に接触した。
調子に乗り始めた某代議士を疎んだ防衛大臣か対立者の失脚を望んだ別の代議士が二曹に「不祥事」を起こすよう依頼した。
特別扱いを求めがちな政治家への牽制として上層部が二曹に秘密の命令を下した。
堅物で知られた時の陸軍幕僚長――政治家に嫌われてすぐに更迭された――が高級軍人と政治家が過剰に接触する傾向を嫌って一計を案じた。
東亜戦争での功績によって金鵄勲章を受けた――つまり受章第一号組ということで記念として今上陛下から親しく勲章を賜った一人である――二曹を処分して軍の体面を傷つけるのを避けた。
なあなあになりつつある弛緩した綱紀を粛正するための企みだった。
二曹が何か上層部や政治家の弱味を握っていた。
上海での苛酷な体験によって二曹に刻み込まれたPTSDが噴出した。
たとえばこういった生臭い憶測の数々が飛び交ったが、私はこれら全てについてノーコメントを貫きたい。
(添付されたメモ)
ネタとして危険すぎると編集部により却下された。いずれ別の形で発表したい。