遠野月の祭り
「だれかいねぇか? 妖狐を連れてこい! 外に出る」
「待ってください、朱鷺様!」
睡蓮が朱鷺の腕にしがみつく。
「暇は与えると言っただろう。好きにすりゃいい。他に俺に何の用がある?」
冷たく言い放つ。
「どうしてそんなに怒ってらっしゃるのですか?」
「うるせぇな」
「睡蓮だって朱鷺様のおそばを離れたくないのにぃ」
「ああ?」
思わず足を止め聞き返す。
睡蓮は泣きそうな顔で朱鷺を見上げ、
「睡蓮だって、ずーっと朱鷺様のおそばにいたいです。でもどうしても帰らなくちゃいけなくて」
「……どういうことだ」
「んん? 文をお読みくださってはいないのですか?」
「文ィ?」
「はい、父さま…いえ、水神から送られてきた文をお渡ししたでしょう」
「………」
覚えは……ある。
睡蓮が数日前に届けた、蓮の文様の入った文。
いくら、人や物に心を残さぬよう、時が立てば王として不必要な記憶は消えてゆくのだとしても、たかが一週間前のことくらいは覚えている。
妹を溺愛するいけ好かない小舅の筆だったので、目を通す気にもならず文机に放り出しただけだ。
長い艶やかな青髪と青緑の吸い込まれそうな瞳。恐ろしいほど端正な翠玉の美貌を思い出して、朱鷺は眉をしかめた。
だいたいあの小舅は、祝いだ見舞いだとなにかにつけて妹にかまいすぎなのだ。ついでに朱鷺への皮肉や嫌がらせも忘れない。しきたりを破って睡蓮を嫁にとったのを未だに恨んでいるらしい。
「あ――。あったな、なんか、そういや」
「お読みいただかなかったのですか?」
「読んだような、読まなかったような…」
「もぉ、朱鷺様ってば! どうりでさっきから変だと思ったのです」
睡蓮が口をとがらせる。
「いいから話せよ」
「はい。今年は遠野月(十の月)に鎮魂の儀式を執り行う巡りなのは、朱鷺様もご存じでしょう?」
「ああ」
刻守の王の役目のひとつだ。あらゆる儀式や行事は、頭に叩き込まれている。
国作りの神の荒魂を鎮める祭りは、120の巡りに一度。いずれかの四季神の城で壮麗な祭りが執り行われ、安寧と豊穣を願う。
確か前回の祭りは、地神の城で行われた。
すると、今回は……。
「今回の祭りは水神が取り仕切ります。それで、奉納の儀式の巫女役が水蘭姉さまひとりでは間に合わないので手伝ってほしいと翠玉兄さまから頼まれました。花嫁はお城から出ることは禁じられているでしょう? だから無理だと断ったのですけど…。儀式のためにどうしても必要だから、と…王にも正式な手順を踏んで願い出るつもりだって言いだして…」
それが朱鷺が読むのを放棄した件の文なのだろう。
「困ってしまって乳母やに相談したんです。そしたら、朱鷺様のお許しさえいただければ、短い間なら城を離れても大丈夫だと。それに、神を鎮めて世界を安定させることは、時や季節を渡す朱鷺様のお役目に良い効果をもたらすって教えてもらいました…」
睡蓮は朱鷺を見上げていつもの満面の笑顔を浮かべた。
「睡蓮、朱鷺様のお役に立ちたいんです! いつもおそばにいるだけでなにもできないから……朱鷺様のためにできることがあるのがうれしいんです。だから、祭りの間だけ、水理宮に帰らせていただきたいのです」
「……」
そんなものはどうでもいいから、ただここに…そばにいろ、とは、言えなくなるような、きらきらと輝く若草色の瞳。
「だったら、最初からそういやいいだろーが。なんだよ、さっきのお暇をいただきたいってのは」
不機嫌な声で唸るように朱鷺。
びっくりさせんな、という言葉だけは、かろうじて呑みこむ。
「えっと。乳母やから、朱鷺様に城を離れる許しを頂くにはお作法があると教わったのですけど…睡蓮、間違えちゃいましたか?」
「いや…」
(あんの、クソババァ)
ギリリと奥歯を噛む。
あきれ顔の忠告をはいはいと受け流した意趣返しとして、あの乳母ならやりそうなことだ。
「で、あの…。水理宮には…」
「…勝手にしろ」
「はい」
同じ言葉に違う響きを聞きつけたのか、睡蓮は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、朱鷺様」
「祭りまではあと…」頭の中で儀式の予定を数える。本祭まではあと四日。「一週間…。いや、十日だ。それ以上は許さねぇからな」
十日あれば、離れた家族と過ごす時間もとれるだろう。
朱鷺には家族に対する情などわからないが、それが大事なものだということは知っている。
「いやです!」
睡蓮がぷぅっと頬を膨らませた。
「んだと?」
こっちが譲歩してやりゃあ、と声に出す前に、睡蓮が朱鷺に抱きついた。
「そんなに長く朱鷺様と離れているのは、さみしいから嫌です!」
「……」
「祭りが終わったらすぐに帰ってきますから。朱鷺様が邪魔だから水理宮でおとなしくしてろって言っても帰ってきますから!」
「……本当にうぜぇやつだな、お前は」
「えへへ。またそんなこといって! お祭りで巫女舞を舞う睡蓮を見て惚れ直しても知りませんよ?」
「絶対ありえねぇ。そもそもお前に舞なんかできるのか? 衣の裾踏んで転ぶのが落ちだろ」
「朱鷺様たら!」
「ま…、転んで笑われてもそれはそれでいい酒の肴だ」睡蓮の華奢な身体を両手で抱きしめる。「儀式なんざどうでもいいから、無理はすんな」
細い方に顎を乗せて春霞のようにやわらかな髪に顔をうずめ、耳元で低く囁く。
「…はいっ!」
睡蓮は嬉しそうに頷き、朱鷺に抱きついた手にぎゅっと力を込めた。