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サーカス小屋の山月記

作者: やぎっち

 ある男が、暗闇の中に立ち尽くしたまま震えていた。

 彼の目の前には一匹の猛獣。

 ガルルル、と警戒鳴きをしながらゆっくりと彼に近づいていた。


 男は死ぬつもりでここに来たはずだった。

 何もかもに絶望して、家を飛び出して彷徨い、疲れ切って町外れの広い空き地にやってきた。辺りには深夜の冷たい風が吹いていた。

 敷地の真ん中には巨大な建物。最近この町にやってきた外国の大サーカス団のテントだった。サーカス公演は何日か行われ、それが終わるとテントを片付けて次の町へ移動することになっている。テントのそばには運搬用のトラックが何台も連なり、夜勤の警備員が何人かいた。

 無造作に置かれた建築資材やコンテナや、空き地に茂る草などで隠れる場所はいくらでもあったので、男は警備員に気付かれずに、やすやすとそれらのガラクタ群の中へ入ることができた。


 彼は、サーカス団が連れている猛獣に噛み殺されるつもりでいた。どうせ死ぬのなら変わった死に方をしたい、と思ったからだった。肉食獣なら急所を突いて楽に死ねるかもしれない、という淡い期待もあった。

 その期待はあまりにも的外れだった。


 こうしていざ本物の獣を目の前にすると、男の意に反して震えが止まらない。

 前に進もうにも、後ろに下がろうにも、脚が硬直して言うことをきかない。理性で何を考えていても、本能は彼に過剰なほどの緊張と興奮を強いていた。

 猛獣は、暗闇の中でさらにゆっくりと近づいてくる。

 コンテナ同士の隙間から明かりが漏れて、それが一瞬だけそれの横面をはっきりと映し出した。

 虎だった。


 低く鳴いている姿の向こう側に、開け放たれた金属製の檻が見えている。

「何をしている。ゆっくり後ずさって、逃げろ」

 声が聞こえた。

 男は、震える全身で辺りを見回した。しかし声の主はどこにも見あたらない。

「早く、逃げろ」

 もはや虎は目の前にいる。うっすらと照らされた月明かりの中で、大きな肉体の輪郭をはっきりと認めることができる。


 その虎の、口が動いていた。


「おれに殺されたくなかったら、目を合わせたままゆっくり後ろに下がれ。そのまま背中を見せずに物陰に隠れてから、一目散に逃げろ」

 男はそれを聞くと、震える足を無理やり動かした。

 一歩前に進む。

 虎との間合いが詰まった。

「殺してくれ。俺はそのために来たんだ」

 泣きそうな声だった。このようにして、虎と人間との会話は成立した。

 虎はなぜ死にたいのかと尋ねた。男は、生きていく自信がなくなったからだ、と答えた。

「小説家になろうと思ったんだが、書くものがどれも認められない。30歳を過ぎてから物書きを志して、10年勤めた会社を辞めた。でもその後は収入もなく、妻とは離婚し、ついには何一つ物を書けなくなってしまった。俺に残されたものはもう何も無い。こんな俺が、どうしてこれからも生きていられようか」

「おまえ、面白いな」虎の柔らかい声が聞こえた。

「おれも、ちょうど人を噛み殺してやりたいところだったんだ。ここ1年くらいサーカスをやってきたがもう飽き飽きでな、もう自分が生きているのか死んでいるのか分からないくらいに退屈なんだ。

 ここで一つ事故でも起こしてやれば、危険な猛獣ということでおれが殺される理由ができる。おれにだって良心はあるから、望んで死のうとしているおまえを噛み殺していいんなら、一思いにやれる。

 さあ、目をつむれ。苦しくないように、首をひと噛みしてやろう」

 男はその場に腰を下ろし、正座をして目をつむった。虎からは、白く伸びた男の首がよく見えた。


「待ってくれ」

 虎がそこから近づこうとした時、男はそれを止めた。


「よく考えれば、こんな場所で人の言葉を理解する虎と会うことなんて、滅多にない。ひとつ短い物語をひらめいたので、死ぬ前に書かせてくれ」

 男は目を閉じたまま、震え声で言った。

「好きにするがいいさ」

 虎は男の願いを受け入れて、待つことにした。男は背負っていた鞄から何枚かの紙を取り出した。手は震えていたが、所作に迷いはなかった。

「おまえ、そこで書いても見づらいだろう。こっちのほうが明るいぞ」

 虎に促された男は、扉の開いた檻のそばに行き、そこにあった木箱を机にして物を書き始めた。

 男はずっとペンを動かし、何枚かの紙を文字で埋め尽くした。


「できた」

 2時間ほど経った頃、男がペンを置いた。虎は少し離れたところで丸くなって寝ていた。

「ご苦労さん。もう物は書けないんじゃなかったのかい」

「不思議だ。君を前にして全身が興奮すると、なぜだか書けるようになった」

「おまえの死ぬ理由が一つ消えたな」

 虎はそう言って、大きく伸びをした。

「それで、まだおまえは死にたいと思っているのか」

「何とも言えない気分なんだ。死を前にして、これが最後だと思って書きたい物を好きなように書いたら、とても落ち着いて澄み切った気分になった。まるで、少年時代にはじめて物語を書いて完成させたときのような充実感だ。なんだか、命が惜しくなった」

 男の声からは震えが消えていた。

「命が惜しいなら、そのまま帰れ。書き上げたものを置いてな」

「この紙をどうするんだ?」

「せっかくおまえが書いたんだ。読みたいんだよ」

 男は目を丸くした。

 この虎は人間の言葉を話すだけでなく、文字も読めるらしい。

「読んでくれるなら、ぜひ感想が聞きたい」

 男はそう言って木箱に腰掛けた。虎は「しょうがねえな」とつぶやいて、読みはじめた。


「おまえが鳴かず飛ばずの理由がよく分かったよ」


 読み終わった虎はそう言った。

「物書きを本業にして食っていこうと思ったわりには、技術がまったくなっていない。発想とセンスが良いのに、これでは読みにくくてかなわない」

「虎のくせに、文章の巧拙が分かるのか」

「これでも昔、文章で食っていたことがある。日本語じゃなくて中国語でだけどな」

 虎はそう言って、遠くを見つめた。

 男には何を言っているのか分からなかった。

「いい機会だ。昔話をしてやろう」

 虎は腰を下ろした。


「その昔、中国の映画界では知らない者のいないほど有名な脚本家がいた。

 彼は若くして才能を見いだされ、手がけた脚本は間違いなく人気作になるほどの存在だった。しかしその彼は脚本家であることに不満を持っていた。映画を作る上での様々な注文や制作上の都合。それに、興行収入に対しての自分の取り分の少なさ。そういうものが不満で、彼は小説家に転身することにした。小説家なら自分の好きなように書けるし、売り上げに連動して印税が入る。

 だがそれは甘かった。

 映画では様々な関係者の意見があり、能力のある人たちのサポートが当たり前だった。それに脚本が弱くてもそれを補う監督と役者がいて、彼のネームバリューに貢献していた。それに支えられていた彼が突然一人ですべてを見ることになった。たちまち彼の才能がそれでは十分ではないということが露わになったのだ。脚本家でなくなった彼の小説は、はじめこそ知名度だけで売れたが、だんだんと人気は下降していき、連動して彼は筆を進ませることができなくなってしまった。後足で砂を掛けるように出て行った映画界に戻ろうとしたり、日本語が話せることを活かして日本向けの小説を書こうとしたが、どれも失敗した。

 最終的に、彼は発狂した。

 生活に困っていた彼は山奥へと旅立ったまま失踪した。

 …

 そして、彼の人生のことをなぜか知っている虎が、ここに一匹居る」


 じっと話を聞いていた男は、本当の話か、と尋ねた。


「さあね。事実でも、おれの創作でもどっちでもいいだろう。もしおまえがこれからも物書きを続けるつもりなら、話のタネにしてもかまわん」

「君は、何者なんだ?」男は、再度尋ねた。


 虎は、少し間を置いて答えた。

「おれはただの哀れな虎さ」


「福建省の山奥で捕まえられた後、いろいろなところへ売られた。違法取引に関わって差し押さえられたこともある。そして辿り着いたところが、この、世界を旅するサーカス団だってわけさ。火の輪をくぐったり、綱渡りをしたり、つまらん仕事をやっているよ。

 おまえこそ何者なんだ。

 自殺志望者か。物書き志望者か。それとも何も関係のない通りすがりか」


「俺は」

 男は答えようとしたが、少しつっかえた。

「書くことをやめようと思っていたが、考え直してみようと思う」


「それがいいだろう」虎は安心したように言った。

「おまえは書くことの心地よさを知ってしまっている。自分が死ぬ時にさえ書きたい物が沸き出てくるのがその証拠だ。この快感を知る者は一生取り憑かれる。おまえが家族を失ってさえもやめられなかったことを、今更どうすることもできないだろう。

 それで食っていける可能性は少ないだろうが、万に一つに賭けるものがある限りは、賭け続ければいいさ」


「ありがとう」

 男は礼を言った。


「書くことを続けるおまえにあえて言うことではないだろうが、高慢になるなよ。

 技術を磨き、人に教えを請い、読者を理解するんだ。

 なりふりを構うな。どこまで言っても満足するな。高慢になってしまったらおしまいだ。

 もし、さっきおれが話した脚本家が本当に居たとして、もしその顛末がおまえにとって糧になったのなら、きっと浮かばれるだろうよ」

 男は頷いた。


 辺りは少しずつ明るくなり始めていた。

「もうすぐ夜が明けるな」

 座っていた虎は立ち上がり、檻の方へと歩いて行った。

「おれは檻の中に戻らねばならない。この檻が壊れていることは誰も知らないからな。おまえも早く去れ」

 男が見ている間に、虎は檻のトビラを中から器用に閉め、錠をガチャリとかけた。さっきまで外を自由に歩いていたのが嘘のように、檻の中に収まった虎の姿があった。


 虎は中からじっと男を見ていたが、男は名残惜しそうにして立ち去らない。

 しかしその猛獣は、もはや人語を解さないただの獣のように檻の中をぐるぐる回り、二、三、咆哮した。

 周りのすべてが飛び上がるくらいの大きな声を聞き、男はわれに返った。そして、猛獣から逃げる小動物のように足早に逃げていった。


「せっかくの機会だったのに、おれはまた死に損ねてしまったか」

 丸くなって眠りながら、虎はひとり呟いた。

中島敦の短編小説「山月記」を元にアレンジしました。

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