霞む夕日
ある男がいた。
歯に痛みを感じたその男は、近くの歯医者へ行った。
その歯医者は、とても親切で痛くない事で評判だ。
待合室で待っていると、名が呼ばれ、治療台の椅子に座る。
椅子が倒れ、男は口を開ける。
医師による歯の診断が始まった。
ひと通り見終わると、手鏡を渡され自分の口の中をその鏡に映すように医師は言う。
医師が一つ一つの状態、今後の治療方法を丁寧に男に説明を始めた。
その時、男は手鏡に映る自分の顔を見て気付く。
―― 鼻毛が飛び出てる。
医師の説明はまだ続く。
しかし、もはや男の耳には入らない。
男はそれどころではなかった。
男は、なんとか処理しなければと思ったが、無情にもそのまま治療が開始された。
医師の向かい側には、きれいな助手の歯科衛生士がサポートしている。
その二人は私の鼻毛の付近を凝視していた。無論、見ているのは口の中だということはわかっているが、鼻毛を見られているのではないかと思うと、男は恥ずかしさのあまり顔を覆いたくなった。
歯科衛生士と男の目が合うと、歯科衛生士はやさしく微笑むが、その微笑みが男の胸に刺さる。
「なんの笑いだ?」
もはや男の疑心暗鬼は止まらない。
鼻毛をなんとかすべく男の抵抗が始まった。
強く鼻で息を吸い込み、鼻の中に隠そうと試みる。
「あ、危ないですから動かないで下さい」
どうしても強く吸うと口のあたりが動いてしまい、うまくいかない。
その時、男は医師から思わぬ提案を受ける。
「痛かったら左手を上げて下さいね」
男は思う。--これだ!! 一度治療を中断してもらいその隙に処理を!!
男はそっと左手を上げる。医師がそれに気付くと、手を止め男に語りかける。
「あ、痛いですか」
男は答える。
「え、あ、す、少し」
痛みはまったく無かったため、後ろめたさがあったのか、男の声は少しどもっていた。
「麻酔をしますか?」
「え、あ、いや、そこまででは」
医師の親切な対応に男は苦悩する。
「もう少しで、削り終わりますので、もう少しだけがまんして頂けますか?」
「……はい」
治療が再開された。
その後、治療が終わるまで、処理するタイミングはついに来なかった。
治療後、男は歯医者を後にすると遠くの空に夕日が見えた。
見慣れた夕日だったが、潤んだ目で見たその日の夕日は、少し霞んで見えた。