8 月夜の晩に
光の方に2度目に出会ったのは、やはりあの薬草の花壇でだった。
後宮で迎える幾度目かの満月の夜。
月待草を摘みに、彩華は花壇を訪れた。
そこに並んでいるのは、ほとんどが治癒に使われる薬草ではあったが、その中にも一つ二つと不穏な色を見つけ、この花壇の持ち主が何者であるかは分からぬものの、決して博愛のみでこれを育てていた訳ではないと知れた。
それなりの知識のある者が手を施せば、この後宮の者達など根こそぎ亡き者にしてしまえる毒花を注意深く避けて、彩華は白い花を何本か手折る。
鼻を付く香りに、ふわりと心に染み込むそれが混じった。
「こんばんは」
不意に、背後から声をかけられる。
足音には、少し前に気が付いていた。
だが、あちらが知らぬふりで立ち去るならば、その方が良いと背を向けたままでいたのに。
「……こんばんは」
思いもかけず、明るい声で挨拶されてしまい、仕方なく彩華も振り返り応じた。
目にも眩しい女神が、すぐ近くに立っていた。
この方は、陽の元にあれば太陽の美神のごとく、夜に現れれば月の精のように。
いつも光輝き存在するのだ。
「少しいいかしら」
己とはあまりに世界の違う美しい者に、跪きたいような、背を向けて逃げたいような思いを抱きながら、彩華はそれを表に出すことなく
「どうぞ」
静かな声で答えを返すことに、成功した。
光の方は僅かに迷う素振りもなく、彩華の隣にちょこんとしゃがみ込んだ。
小さな子供ような、あまりに無頓着な動作に少々面食らう。
後宮一の……否、後宮で唯一の闇帝の寵妃とは思えぬ、とても無邪気な行動だった。
「先日のこと、なのだけど」
しかし、そっと話す声は、秘密を語る大人の女性のもの。
彩華は、敢えて反応を示すことなく、もう1本の花を手折る。
「……誰にも言わないでくれてありがとう」
表には出さぬものの、内心驚いた。
何か、言い訳をするのかと思った。
まさか、礼を言われるとは。
彩華は立ち上がった。
光の方が一時として己の顔から目を逸らさない事を感じ取りながら、彩華自身は美しい方に目を向けることはなく、何時の間にやら雲に姿を隠してしまった月を探す。
見つからない月を諦めて、だが、空を見上げたままで、じっと彩華を見つめて言葉を待っているかのような方に答えた。
「私がこの場に参りましたのは、この後宮で一番静かな場所に思えたからです」
静寂を破らぬように。
囁きに、ほんの少しだけ色を付けたような声で返した。
「騒がしいのは嫌いです」
だから、誰かに何かを話したりしない。
自ら、騒ぎ立てるようなことは間違ってもしない。
それを伝えたいだけだった。
「貴女もここへは望んで上がられたのではないのね」
しかし、ポツリ、と光の方が呟くのが聞こえた。
貴女も、にか。
望んだのではない、にか。
どちらに心が揺れたのか。
小さな動揺を与えた方に視線を向けそうになるのを堪えて、見つからないながらも、空にある筈の月を見つめ続けていたのに。
「……私、ここを出たい」
不意に零れた言葉に、思わず、しゃがみ込む方を見下ろした。
先ほどまで逸らされることのなかった瞳は、彩華と一瞬視線を交わしたと思うと俯いてしまった。
光を放つプラチナブロンドが目に眩しい。
それは、まるで空の月がここに降りて来たかのようだった。
「こんな所、嫌」
この方が、本当に月ならば、空に戻ることもできよう。
だが、そんな訳もないから。
「そんな言葉を口になさってはなりません」
彩華は戒めた。
なんて、無防備な方なのだろうか。
そのようなことを、無暗に口にして良い筈がない。
ここで生きている以上、闇帝の寵愛を受ける以上。
「闇帝は嫌いよ。私は珪心が好き」
光の方が顔を上げる。
一欠片の迷いもなく、彩華の視線を捕える鮮やかな碧。
それが揺らぎ、ポロリと宝石から滴が落ちる。
彩華は、そっとため息を零し、光の方の傍らに腰を降ろした。
彩華の持つ花は鎮静効果がある筈なのに。
今、ここに在る二人には、何と無力なのだろう。
「私が何者かも知れぬのに……そんなに簡単に心内を見せてはなりません」
静かに話しかけた。
袂から絹を取りだし濡れた頬を拭ってやると、なお、ポロポロと涙が溢れる。
この方は初めて見た時、その美しさに目を見張った。
艶めかしく、華やかに。
暗黒王が愛でるに相応しい女人に思えた。
だが、こうして見ると、この方は思ったよりもずっと幼い。
彩華より幾つか年下だろう。
多分……あの子と同じくらい。
彩華のたった一つの宝。
だが、なんという違いだろう。
権力者の寵を受け。
他の男に想いを寄せ。
胸を痛め、涙する。
あの子は、そのどれ一つ、成すことはない。
できようもない。
それは、彩華に複雑な感情を抱かせた。
羨望。
嫉妬。
それから、憐憫。
彩華はふと気がついて、光の方を宥める手を止めた。
本人が例え望んでいないとしても、幾らも手を差し伸べられるであろう方に、彩華がそれをする必要などない筈だ。
だが、光の方の指先が、離れかけた彩華の手を追って捕えた。
「私、貴女を信じたの」
そんな言葉と共に、両手で彩華の手を握る。
久しぶりの、人の手の感触だった。
柔らかく、温かい若い娘の優しい手のひら。
あの日……最後に、触れた手は、哀れなほどに痩せて、筋の浮いた手だった。
この方と同じ年頃の娘のものとは到底思えぬような。
「また、ここに来る?」
この方は、指先までが光輝くように流麗だ。
彩華は、そっとその手を外した。
「もう、来ません」
答える。
「貴女に会いたいの」
再び触れようと伸びてくる手を避けて、立ち上がった。
「私はお会いしたくありません」
会いたくない。
あまりに、あの娘とは違い過ぎるこの方には、もう会いたくない。
あの娘の哀れさばかりを思い出させる貴女には。
「私、貴女が好きだわ」
そう言って、じっと瞳が見上げてくる。
鮮やかな碧の中には、僅かにも灰色なんて見当たらないのに。
この方に、あのやせ細った娘の面影などが、あろう筈がないのに。
なのに、出立する彩華を見送った娘に、一瞬重なる。
「……貴女のことは嫌いではありませんが」
でも、会いたくない。
「貴女の周りは騒がしい」
光の方が立ち上がる。
すっと揺らぐことない動きに、重なった幻影が消え失せて、彩華は内心ほっとした。
「会いに行くわ。会いたいから」
彩華は背を向けた。
「迷惑です」
一言。
そして、歩き出せば背中に声がかけられた。
「清夢!」
彩華は足を止めた。
「清夢よ……それが私の名」
名無しの後宮で名を名乗る意味を、彩華は知らない。
「貴女の名は?」
尋ねられて、彩華は振り返った。
月を背に佇む女神を、まっすぐに見据えて答えた。
「名などありません」
冷たい答えで、拒絶のみを告げた。
だが、彩華が振り返ったことに満足したように、光の方は微笑んだ。
「絶対会いに行くから……騒がしくならないように、こっそりと」
そう言う。
彩華は何も答えず、今度こそ光の方を置いてその場を後にした。
気が付けば、逃げるように走って部屋に戻っていた。
摘み取った花を寝台へと散らし、その上に身を投げ出す。
頭に残るのは、最後に見た光の方の笑み。
なんて。
美しいだけでなく、愛らしいのか。
笑みを向けられて、それを返さぬというそれだけが、あの方が相手であるとなんて難しいのか。
いや、あの闇帝でさえを、魅了したというのならば。
一体、誰があの方を拒むことができるだろう。
しかし、彩華はそれを認めたくなかった。
光の方に握られた手で、ぎゅっと拳を作る。
名残を振り払い、前に触れた者の感触を探し求める。
美しく、健康な娘を愛しいと思うことは、彩華を待つひ弱な存在への裏切りに違いない。
「……っ彩雪!」
名を呼ぶ。
この香りに包まれた寝台で弱々しく、それでも彩華に笑いかける娘を想う。
「彩雪」
思い出した姿を、重なり消し去ろうとする光の精。
頭を振るえば、それが消えて、また、みすぼらしい娘が浮かぶ。
「……彩雪……彩雪」
教えられた名を忘れようと。
彩華は、ただただその名を呼び続けた。