7 女と謎
少しばかり、眠ったようだ。
闇帝の名を持つ男は静かに目を覚まし、己が女の部屋で短い時間とは言え、深い眠りに落ちたことに、いくらかの驚きを持って身を起こした。
すぐに足元に目がいく。
女がいた。
闇帝が横たわって後、一時間ばかりして女は近づいてきた。
未だ浅い眠りにあった男はそれに気がつき、女が少しでも不穏な動きを見せれば、腰にある短剣で突くことを迷わず、横たわり続けたのだが。
女は、すぐに闇帝が眠る、本来は己のものである寝台の脇に座りこんだ。
何をしてるのかと、起きあがって尋ねるべきかと考えているうちに、穏やかな寝息が聞こえてきて。
気がつけば、自身も眠りについていたらしい。
女は今も、床に座り、寝台の縁に寄り掛かるようにして、眠っている。
その姿は、己に対峙した女とは思えぬ……まるで年端もいかぬ幼い少女のようにも見えた。
この女の美しさは、不思議だ。
容貌は美しいとは言えようが、誰もを魅了するまでの美貌を湛えている訳ではない。
身体は女性らしいまろやかさと艶やかさを備えてはいたが、それも他を圧倒するほどではない。
こうして見ると、この女は何もない。
少しばかり端正な、しかし、凡庸な女だ。
だからこそ、気がついた。
己を見据える瞳の強かさ。
伸びた背筋に誇り。
そして、何かを求め、何かに挑む者の真摯さ。
それが、美しい、のだと。
まやかしの筈の甘い言葉に、時折、本気が混じることを、男は否定しない。
結んだ契約を思えば、手折るべきではないと分かっていながらも、ひどく欲しい時がある。
契約と言えば……この女の望むものもまた奇妙だった。
正妃の座が欲しいという。
それは、この後宮に召し上げらた女ならば、誰もが欲しいものだろう。
だが、寵は頑なに拒む。
国の命により、後宮に上がったのだろうが、ならば、最終的に望まれるのは、次の王たる者を産むことだろうに。
何が本当に欲しいものなのか。
知れない。
謎の多い、不思議な女。
そして、それがまた、美しさを際立てていることを、男は知っている。
闇帝の眺める先で、女の長いまつげが揺れて、瞼が上がる。
目覚めて、すぐにも覚醒した瞳が闇帝を見た。
この女は己と同様に、まどろむということを知らぬらしい。
「痛くはありませんか?」
まず、そう聞かれたのは意外だった。
「大丈夫だ」
答えると、無表情にも隠しきれぬ安堵を覗かせて頷いた。
闇帝の傷を、心から案じていたことが分かる様子に、また、一つ。
女の謎が増える。
傷の痛みを知る者。
血の滴りに眉を寄せても、怯えはしなかった。
手当の手際の良さは、おざなりに教えられたものではなく、幾度とそれを繰り返してきた者のそれ。
寝台の横で夜を明かしたのも、この傷を思ってだろう。
無数の傷に慣れた身には今更だが、熱にうなされることもあり得る深さの傷。
この女は、それも知っているのか。
何者か。
出自は簡単に知ることができる。
だが、知りたいことはそんなことではない。
ならば、己はこの女の何が知りたいのか。
女は闇帝から視線を外し、バルコニーを見遣った。
そこは明るく、朝の到来を告げている。
まもなく。
闇帝の昨夜の所業が明るみになる。
騒ぎが始まるだろう。
女が立ち上がりかけた。
しかし、動きが止まる。
男が少し前から感じ取っていた気配に気がついたのか。
そういえば、昨夜、闇帝に気がつくのも早かった。
意識して気配を消してはいなかったが、この身は無意識にも足音を殺すのに。
「……来い」
女の腕を取り、寝台に誘う。
聡い女は一瞬は怪訝に眉を寄せたが、すぐに闇帝の意図を察して身を寝台へと横たえた。
女の横に自らも横たわり、己とは明らかに造りの違う身体を抱き込む。
女という生き物の柔らかさは、もちろん知らぬものではない。
寵愛はいらぬ、という女のものであってもそれはやはりたおやかに、闇帝の腕にしっとりと馴染んだ。
昨晩、男を眠りに誘った香りが、なお色濃く肌から漂う。
今女から立ち上り、鼻孔をくすぐるそれは、眠りとは真逆に位置しようかという、男の欲望を煽った。
女は少し身を強張らせながらも、闇帝の腕に大人しく抱かれている。
情事を仄めかすように女の寝着を幾らか乱し……現れた肌がどれほどに滑らかなものであったのかを思い出して、つい唇を寄せた。
女の身体が腕の中で震える。
しかし、抗うでもなく大人しくしている。
首筋に触れた唇を浮き立つ鎖骨、そして、肩へと滑らせて。
知らず、女の身体を己の下へと引き込み、伸し掛かり。
女の腕が動き、闇帝の行為に不審を抱いたかのように、小さな手のひらが肩を押した。
微かな反意は、気に止まる程のものでなく、闇帝は手のひらをも女の肌に触れ。
「陛下?」
小さな声が、困惑を含んで発せられたその時。
扉を叩く音が二度響いた。
「月の方様、おはようございます」
返事を待たずして、開けられたそこから侍女が現れる。
「……っあ」
侍女は、己の主に重なる闇帝の姿に気がつくなり、さあっと青ざめた。
「申し訳ございません!」
慌ててひざまずき深く頭を下げる姿を見やり、すぐに抱く女に目を戻せば、常より仄かに色付いたように見える頬を強張らせながら、じっと闇帝を見つめている。
闇帝に従うも、譲らぬものを湛えた瞳に見入りながら。
「月の方は……まだ、寝足りぬようだが」
控える侍女に告げる。
そして、それはまた闇帝自身のことであるとも言いたげに、寝台の上で身体を伸ばす。
女の瞳に、問い掛けが過ぎったが、それも僅かな間だった。
本当に、この女は察しが良い。
「あ、はい。では、今少し……」
そう言って身じろいだ侍女の背後、閉じられた扉の向こうで忙しい足音がし、おざなりのノックさえもなく扉が開け放たれた。
「陛下!」
現れた腹心は、明らかな焦燥を浮かべながら、部屋へと踏み込んでくる。
「珪心……また、お前か」
肘をついて、その手のひらに顎を乗せた闇帝は、のんびりと無礼者を迎え入れる。
「私が参りました理由はお分かりでしょう!?」
珪心は、苛立ちを隠さぬ口調で闇帝に訴えながら、ずかずかと寝台へと近付いて行く。
「騒ぐな……月が起きる」
闇帝は言い、これ見よがしに女の髪の一房を手に取り、口づける。
珪心の歩みがピタリと止まる。
女は、闇帝の行動をじっと見つめていたが。
「陛下!」
珪心の声に、静かに答えた。
「もう……起きております」
女は猫のしなやかさで闇帝の胸元からすり抜けると、ほんの僅かに身を起こして、闖入者へと視線を向けた。
闇帝の乱した寝着が肩から滑り落ち、艶やかな肌が露わになる。
生真面目な珪心が顔を赤らめ目を逸らしたのは、その肌に淫らな痕跡を見つけたからか。
「月の方様……その、あの……御無礼を……」
己の不作法に今更気がついたというように、珪心が膝をつく。
「……謝罪はいりません。早く陛下をここからお連れ下さいませ」
その言葉に顔を上げた珪心ではあったが、女が乱れた寝着をざっと直して、寝台から降りようとすれば、眩暈を覚えたかのように慌てて顔を伏せる。
軍を統括する地位にある者らしい引き締まった身体が、強張り縮む。
面白い反応だ。
どうやら珪心は、この女に委縮しているらしい。
それは、この女に弱みを握られている、と考えているからか。
それとも、他に理由があるのか。
「つれないことを言う」
闇帝は寝台の上で身を起こしながら、女に手を伸ばし。
しかし、女はその手をすげなくかわして、珪心の脇を歩いて侍女へと近付いた。
唖然と成り行きを見ていた侍女が慌てて立ち上がり、女の身をショールで包み込む。
そのまま、侍女を連れて隣の部屋に向かうかと思われた女の足が止まる。
「……陛下……傷はきちんとお医者様に診て頂いて下さいませね」
僅かに振り返って告げられたそれに、勢い良く顔を上げたのは珪心だ。
「陛下! お怪我を!?」
女の心中は良く分からない。
ただ、闇帝に向けた視線には、気遣うものが見えた気がした。
闇帝は軽く肩を竦めた。
「医者は嫌いだと言ったのを、聞いていたか?」
女は、小さく唇を綻ばした。
昨夜も一瞬だけ見せた……ぎこちないような笑み。
そして、また、すぐにそれも消えて。
「……失礼致します」
今度こそ、侍女を連れて部屋を出て行った。
衣服の乱れを整えながら歩く闇帝の後をついて歩きながら、珪心がお小言をくれる。
「陛下……ご寵愛が過ぎるのも考え物かと」
闇帝は少しの間を開けて、それを告げた。
「まだ、手に入れていない」
珪心が目を剥いた。
よほどに意外だったのだろう。
闇帝は笑みを浮かべる。
「血の匂いは嫌いだそうだ」
多分、自嘲に見えるそれ。
「だとすれば、あの女は永遠に手に入らんな」
珪心はそれには何も言わなかった。
話題を変えるように、彼にとっての本題を口にする。
「……霧の室の件は」
昨晩、訪れた女の室。
大人しげな、物静かな女で何度か訪れたことのある女だった。
「情事の最中ならば、俺が殺せると思ったようだな」
閨で女に触れている最中に、刺客が踏み込んできた。
もちろん、室の主である女の手引きだろう。
「それほどの女でもあるまい」
剣は常に手を伸ばせば届く場所に置いてある。
それを手にして、現れた3人の男達を斬った。
寝台が真っ赤に染まり、先ほどまで闇帝に組み敷かれて嬌声を上げていた女が、違う声を上げた。
耳障りなそれを消すように。
問答無用で女を突き刺した。
築かれた骸が、誰の所業であるかを示すために、女に突き刺した剣はそのままにして部屋を立ち去った。
「……霧の方様のお国は深ですが……」
珪心の言う国の名に興味はない。
「女の骸は、刺客と一緒に返してやれ……剣を立てたままでな」
骸を運ぶ馬車が深に到達するまでには、1週間程もかかるだろう。
その間に、王女であった者の身は腐り、虫が湧く。
そして、墓標のように立つ、闇帝の剣。
それを見て、かの国がどう動くか。
攻めてくるのか。
大人しく、頭を垂れるのか。
どちらでも良い。
いずれ、その国は闇帝にひざまずく。
「陛下」
珪心の声は、何かを気遣うかのように聞こえた。
「……俺は闇帝だ。恐怖で、世界を統べる」
闇帝は告げる。
「時が至れば、違う王が必要にもなるだろう。だが、今はまだ、必要なのは、血塗れの王だ」
まだ、だ。
世界は無秩序に溢れ。
人が従うのは法ではない。
人は恐怖にひれ伏すことで。
世界はまやかしの平穏を保っているに過ぎない。
「違うか?」
やがて、時が来れば。
その時に、必要な王が現れれば。
誰が画策することもなく、闇帝は消え失せるだろうから。
その時までは、闇帝は血に塗れ、暗黒を支配する。
「いいえ」
恭しく頭を垂れる者は、それを分かっている。
男が闇帝となる以前から、忠義を誓い傍らに在る者だ。
この者は己を裏切ることはない。
それを疑ってはいない。
だが。
罠を張る。
己の望むもの。
それを一つと取り零すことなく、手中に納めるために。