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6 真夜中の来訪

 それは小さな、本当に小さな物音だった。

 以前の彩華ならば、気にも留めなかっただろう。

 誰かが共に暮らしていれば当たり前に聞こえてくる程のものでもあり、風が窓を揺らせば奏でられる音にも似たような些細なもの。

 そして、それが真夜中であれば、眠りの中に消えて、存在にさえ気がつかなかったであろう音だ。

 しかし、ここで過ごす彩華は、どんな物音にも過敏に反応する。

 ここは、名無しの後宮。

 彩華にとって、安らぐ一瞬とない場所だから。


 彩華は寝台の上で身を起こし、音のした方へと目を向けた。

 バルコニーに続く扉がそっと開かれるのを見て取って、眉を寄せつつ床に足を降ろす。

 既に、時は夜半を過ぎているだろう。

 鈴風は彩華が寝台に入ると共に去ったし、まさか光の方がこんな夜中に訪れるとも思えない。

 扉は人が一人ようやく通れるかという程度に開かれて、動きを止めた。

「どなたか、いらっしゃるのですか?」

 彩華の呼び掛けに、扉が今少しと開かれた。

 そして、大きな影がスルリと内へ入り込んでくる。

「……陛下」

 予想外の人物ではあった。

 しかし、ここを訪れる可能性のある数少ない者として名を上げることは難しくはない。

 だから、彩華はあまり驚きはしなかった。

 寝台を降りて恭しく一礼をして顔を上げる。

 王は、開いた扉を閉めることなく立ったまま、動かない。

「何か御用がございましたか?」

 王へと歩み寄りながら、夜に相応しい静かな声で尋ねれば、帝王は闇夜を支配する声音で答える。

「少し寄っただけだ」

 妙なことを言うものだ、と思った。

 闇帝が、彩華の元に通うならば、人目がなければ意味がなかろうに。

 だが、王の考えが、彩華に読める筈もない。

 少し寄っただけだと言うならば、何かを王が望むまで放っておけば良いのだろう。

 そう結論を出し、闇帝に背を向けかけた彩華の鼻先を、開いたままの扉から入り込む風と共に、不穏な匂いが漂った。

 ほんの少し前までは嗅ぎ慣れた、しかし、ここしばらくは縁遠かったそれ。

 彩華は足を止め、王をもう一度視界に納めた。

 いつもと変わらぬ、闇を纏う美しい男がそこに立つ。

「……血?」

 闇帝は無表情のまま、彩華の呟きが聞こえなかったかのように、部屋の奥へと足を進めた。

 荒々しい動作で、先ほどまで彩華が横たわっていた寝台に腰掛ける。

 彩華は、開けられたままだった扉を閉めて、一呼吸してから王へと振り返った。

 注意深く王を見つめる。

 今が夜中であることを少しも感じさせない、隙のない鋭い雰囲気は常と何も変わらない。

 この王は、光のない漆黒の世界こそが棲家であるように。

 だが、太陽のもとでも堂々とその身を晒す。

 この方は、眠ることがあるのだろうか。

 彩華はそんな風に思い、人である以上それは必要不可欠なことであるのだと、馬鹿げた問いを振り払い王に近付いた。

 闇帝が身につけているのは、寝着ではなかった。

 王たる者が身につけるに相応しいのであろう極上の生地で仕立てられている、しかしながら、派手な装飾は一切省かれて、今すぐにも一兵士として戦地へ赴くことができそうな衣だった。

 黒を基調したそれに血らしきものは見当たらない。

 だが、歩み寄れば、その匂いは生々しく更に深まる。

「どこか……お怪我を?」

 尋ねれば、王は表情のないままに、淡々と答えた。

「俺はかすり傷だ。明日になれば、霧の室の骸に騒がしくなるだろうがな」

 その言葉だけでは、何があったのかは分からない。

 ただ、彩華は王が傷を負っていることは確かであると知り、踵を返すと調度品の一つに近付いた。

「騒がしいのは嫌いだったな」

 背後で尋ねてくる王に、頷いてそれを認めながら、引出しの中から箱を取りだした。

 蓋を開けると、幾つもの包みが整然と治まっている。

 その内のひと際小さな一つが目に止まる。


 今ならば、これが使えるかもしれない。

 だが、もはや、これを使う相手はこの方ではない。


 彩華は、それから目を逸らし、違う包みを手にして王を振り返った。

 王は、じっと彩華を見ている。

 彩華はそれを見返しながら、王に近付いた。

 あれを使っていたならば、この王はどんな瞳で彩華を見ただろうか。

 そして、彩華はそれをどんな思いで見つめ返したか。

 いや、その時、彩華は王の瞳を、見つめ返すことができただろうか。


「霧の室はここから遠い。ここで大人しくしていろ」

 笑いを含んでいるようにも聞こえる王の言葉には頷かず、彩華は男の前に膝をついた。

「お怪我はどちらですか?」

 包みを開きながら、尋ねる。

 中からは薬草を乾燥させ粉末したものが出てくる。

 色合いと香りに問題がないことを確認して、見上げると王がまたじっと彩華を見ていた。

 何故、こんな風に見るのだろう。

 何か、己には不審なところでもあるのだろうか。

「薬草か?」

 王は彩華の手元に視線を移した。

 表情からは何も読み取れない。

「はい」

 答えて、気がつく。

「……毒と、お疑いですか?」

 そういうことだろう。

 確かに、王たる身では、差し出される全てのものを疑ってしかるべきなのだろう。

 しかも、この方は闇帝。

 そして、彩華をこの国に送り込んだのは、未だに帝国への完全なる隷属を拒む東方の小国だ。

「いや、薬でも毒でも構わん」

 だが、王はそう言って、奇妙な笑みを浮かべた。

「この身にはきかぬ」

 彩華は、答える王を見上げた。

 王は笑みを消して、彩華を見下ろす。

「薬も毒もきかぬ……それは、俺にとってただの草だ。そういう身体なのだ」

 その言葉の意味を理解して、彩華は包みを元に戻した。

 ごく稀に、そういう人達がいることを、彩華は経験で知っている。

 痛み止めが効かずに、もがきながら助けを求められたことを思い出す。

 闇王もそんな状況に陥ったことがあるだろうか。

 ふと、思ったが尋ねる筈もない。 

「承知致しました。ですが、すぐに立ち去って下さらぬおつもりならば、血を拭って下さいませ」

 部屋に立ちこめるすえた匂い。

 慣れてはいても、好きな筈がない。

 この匂いは、誰かが傷ついている証。

 誰かの命が少しずつ失われているという証に他ならない。

「血の匂いも嫌いです」

 闇帝は黙って腕を差し出した。

 それは闇帝がここに留まるつもりであることを示していたが、彩華は言及はしなかった。

 差し出された腕のその袖を捲り、思わず眉を寄せた。

 かすり傷、とは言いながら、そこは今だ生々しく血潮を溢れさせている。

「これを……貴方様はかすり傷とおっしゃるのですね」

 立ち上がり薬箱を片付けて、真新しい布地を持ち出す。

 闇帝の元に戻り、流れる血を拭き取る。

 腕の上の方をギュッと縛って止血の処置を施し、傷を覆うように布地を逞しい二の腕に巻きつけた。

「手慣れたものだな」

 彩華の心臓が一瞬小さく跳ねた。

 この後宮に集うような姫君達は、こんな傷を負った者など見たこともないのだろうか。

 王宮の奥深くで大事に大事に育てられ、かしずかれる者は、その国を護るために、どれほどの者が血を流し、命を落とすかを、言葉で知ることはあっても、その目に映すことはないのか。

「……応急処置ですから。きちんとした御方に、早々に看て頂いて下さい」

 彩華は、何も答えず、そうとだけ告げた。

 闇帝もそれ以上、何かを尋ねる風でもない。

「医者か。嫌いな連中だな」

 珍しくも苦々しさ隠さない闇帝の言葉は、小さな子供のダダにも聞こえた。

 彩華は、つい、小さな笑みを唇に浮かべた。

 またも、じっと闇帝に見られていることに気がつき、慌てて表情を消す。

 別に、笑うことを禁じられている訳でもないのに。

 何故か、見られたくなかった。

「今夜はここで休む」

 言うなり、闇帝はごろりと彩華の寝台に横たわった。

 この後宮に入った折りに受けた説明によれば、女達は王の寝所に召されてお相手をするものらしい。

 だが、後に鈴風が話したことによれば、王が自身の寝所に召す女性はかの光の方のみ。

 それ以外の女性を召したことはないのだという。

 ただ、時折、後宮のどこぞの室で、夜を過ごすことはあるらしい。

 しかし、朝になって室を出る王を見た者は誰もいない。夜のうちに現れて、夜のうちに去るのだ。

 あまりに後宮事情に興味を持たぬ彩華に、鈴風が諭すように教えてくれたそれらが頭を過ぎった。

「どうぞ」

 ならば、今夜も王はここで少しばかり休み、夜が明けぬうちに去るのだろう。

 それとも、朝まで過ごし……月の方への執着ぶりを他に見せつけるのか。

 どちらでも構わない。

 闇帝の思惑どおりに進めれば良い。

 彩華は、立ち上がった。

「どこへ行く?」

 寝台を離れる彩華の背に、意外にも王の声がかかる。

 足を止めて振り返れば、王は肘をつき、その手に頬を乗せて、彩華を見ていた。

 本当に、どうして、こうも見るのだろう。

「寝台はお使い下さいませ……私はどこででも眠れます」

 いや、どうせ眠れないのだから。

 どこにいても同じだ。

「お前は何も聞かぬのだな」

 聞かぬのは、怪我の理由。

 それから、霧の室の骸。

 そのどちらも。

「……興味ございません」

 彩華は答えた。

 本心だ。

 興味はない。

 知る必要などない。

「そうか」

 王は何故か、唇に笑みを浮かべた。

 そして、肘を崩し、寝台に顔を埋める。

「この寝台はお前の香りがする」

 その言葉に何故か、頬が熱くなる。

 当たり前のことだ。

 そこは彩華の寝台であり、先ほどまでそこで横たわっていたのだから。

「……甘い……香りだ」

 目を伏せて息を吸い込む王から目を逸らし

「それは……月待草の香りでしょう」

 事務的にそう答えた。

「月待草?」

「はい。鎮静効果があります。強くはありませんが鎮痛の効果も」

 羞恥を誤魔化すように香りの効用を説明しながら、この王にはそれも効かぬのだと、思い出した。

 無意味な説明をしてしまったと、羞恥に少しばかりばつの悪い思いを加える彩華の前で、しかし、意外にも王は頷き更に息を吸い込む。

「薬は効かぬ筈なのだがな」

 闇帝が瞳を伏せた。

「……よく、眠れそうだ」

 それが本音であるように、王の表情に僅かであっても穏やかさが浮かぶ。

 彩華は王の前から立ち去ろうと、一歩を踏み出しかけて。

 迷う。

 こんな時に言う言葉。

「……お休みなさいませ」

 結局、久しぶりにそれを口にする。

 以前ならば……同じ言葉を返してくる存在の額に唇を触れたものだが、もちろんこの王相手にそんなことをする筈もない。

「ああ」

 彩華の言葉に王は特別な反応もなく、そう答えただけだった。

 伏せられた瞼が開くこともなく。

 彩華は王に背を向けた。


 一時間程後に、彩華はそっと王の眠る寝台に近付いた。

 静かな表情に苦しげなものはなく、胸は穏やかに上下している。

 彩華の寝台で無防備に眠りに就く男を、不思議に思いながら、寝台の脇に座った。

 かすり傷と王は言うが、彩華が知る限りにおいて、それは発熱してもおかしくない深さの刀傷だ。

 そんな時、例え、薬が効かぬ身であっても、身体を冷やせば幾らかの救いにはなるだろうから。

 そう思って、王の側に控える。

 闇帝の言う甘い香りが、彩華の周りにも流れてくる。

 初めて見つけたあの夜から、満月には必ずそれを摘み取りに行く。

 だが、今となっては、その香りで眠ることはできなくなっていたのに。

 目を伏せる。

 甘い香りの中に、彩華のものではない男の香りと……血の香りが混じる。

 嫌いな筈なのに。

 なのに、ふわりと意識が遠のく。

 彩華は、そのまま眠りに落ちた。

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