5 庭の片隅で
華やかさに埋め尽くされたように見えた後宮の片隅に、薬草ばかりが植えられている花壇がひっそりとあることに気がついたのは、ここへ上がって数日が経った頃だ。
平穏だった日々がもろくも崩れ去り、たった一つの望みを叶えるためだけに、己の行方を探り、その末に辿りついたのがこの『名無しの国』の後宮だった。
戸惑いと不安と焦燥と重圧。
希望など一欠片もなく、そんなものだけを抱えてここへと上がったものの、成すべきことの糸口さえ見つけることができずに途方に暮れるばかりだった。
美しいと称えられた容貌は、ここでは凡庸だ。
手元にある幾つかの薬は、使う機会さえ手に入れることができそうにない。
明るい兆しなど、何もなかった。
己の不甲斐なさに、憤りと嘆きだけが募っていく日々。
こうしているうちにも彩雪は。
あの男は、きちんと約束を守ってくれるだろうか。
ああ、そのためには私こそが、約束を果たさねばならない。
そう、思うといても立ってもいられなかった。
そんな時に、そこを見つけた。
なんとか気を鎮め、活路を見出そうと……だが、どんな活路ももはや見つけることはできないだろうという予感を抱え、夜の後宮の庭を夢遊病者のようにフラフラと歩いていた。
彩華が生まれ育った地方にはない夜の熱気に眩暈を覚えて立ち止ったその時だ。
覚えのある香りが漂ってきた。
少し、鼻をつくような、目にしみるような。
普通ならば、敬遠しがちな独特なもの。
だが、彩華にとっては懐かしさこそを感じさせるそれに誘われるままに歩いた先にあったのが、誰も目を止めぬような後宮の裏庭の片隅にある小さな花壇だった。
いや、花壇と呼んで良いのか。
小さな石ころで囲ってはあるものの、誰かが世話をしている訳ではないようだ。
しかし、様々な草に埋もれそうになりながらも、確かに見覚えのある幾つもの薬草が生えていた。
その中の一つが、花開き、強い匂いを放っているのだ。
彩華は、空を見上げた。
やはり、満月。
この花は、満月の晩にだけ花を開く。
手を伸ばし、花を手折った。
途端に鼻を覆いたくなるようなきつい香りが消える。
そして、辺りに満ちるのは、心を穏やかにしてくれる優しい淡い香り。
この花は、咲いた時に手折ってこそ意味のある花なのに。
後宮の片隅で、その存在さえも知られずに、ただひっそりと咲いていたのだ。
手折られるその瞬間を、どれほど待ち続けていたのだろうか。
彩華は花を持って、部屋へと戻った。
鎮静効果があると教えられた香りに誘われるように、その夜は後宮に召し上げられて以来、初めて深い眠りにつくことができたのだった。
それから、何度かそこを訪れた。
後宮の片隅の、懐かしい草花が待つ花壇。
それは、彩華にとってほんの小さな、だが、確かな救いだったのに。
だから、そこに人影を見つけた時は、ここも静かな場所ではなかったと、抑えきれない落胆にため息を零しながらも。
寄り添うようにして立っている二人。
男女だと知れるそれが、この場所に何を求めているかは明らか。
この場は譲り、早々に離れようとした。
「誰だ!?」
だが、気がついたらしい男に詰問の声をかけられた。
逃げることはない。
彩華には何も後ろ暗いところはない。
だから、足を止めて、振り返った。
「……月の方様」
彩華の通り名を口にしたのは、詰問と同じ声だった。
彩華は、声の主を見た。
若い男だった。
どこかで見た気もする
しかし、名はおろか、どこで見たのかすらも思い出せなかった。
「月の方?」
通り名を傍らにいた女性が繰り返す。
頭から腰までをすっぽりとヴェールで覆い隠し、姿形は分からない。
僅かに零れ落ちる髪が、見事なプラチナブロンドであることだけが見て取れた。
「一月ほど前に、召し上げられた方です」
男が彩華の素姓を語る。
どうやら、彩華のことは相手に完全に知られているようだ。
彩華は男女の姿を敢えて見ないように目を逸らし、黙って立っていた。
相手がどのような身分の者かは知れない。
ただ、新参者の彩華にしてみれば、無用な波風を立てぬに越したことはない。
だが、二人の男女もまた、黙したまま彩華の対峙するだけ。
彩華は、それを立ち去ることを望まれているのだと判断した。
「失礼してもよろしいでしょうか」
尋ね、返事がないことを了承と受け取って歩き出そうとした瞬間。
風が吹いた。
彩華の背後から、二人に向かって。
そよ風ではない。
暑い夜に、なお熱を運ぶ、これもこの地特有の突風。
彩華の目の前で、女性のヴェールが風に舞う。
「……っあ!」
女性は慌てて、彩華から顔を背けた。
男が女性を背後に庇う。
しかし、不本意ながら……そう、不本意だ……彩華の視界には、はっきりと女性の貌が浮かびあがった。
知らぬ女性だ。
だが、零れ見えた通りの輝く白銀の髪。
瞳は、月の滴が零れ落ちたか如くの淡い金。
まるで磨き上げらた大理石のような肌は、夜の闇に光を放って、その姿は浮かんでさえ見えた。
一目で忘れられぬ存在となる得ることが、当たり前のような女神がそこにいた。
風が止む。
彩華。
男。
そして、女神。
誰もが口を閉ざす中、彩華は踵を返した。
この男が誰か。
この女が何者か。
興味がない。
知れたところで、彩華の望みが叶えられるとは思わなかったから。
「待って!」
だが、女性が彩華を止めた。
男の脇をすり抜けて、彩華へと駆け寄るとぎゅっと腕を握った。
「ここで見たことは、誰にも言わないで」
間近で見ればなおも美しい面に、切実な感情を滲ませて女性は縋った。
彩華は彼女を見つめ、そして、背後で黙ったまま彩華を見ている男を見遣った。
「……ご安心を」
彩華は女性の瞳を捉え、一瞬として逸らさずに、そう口にした。
「私には話す相手もございませんし」
女性の腕を外し、もう一度背後でじっと彩華を見つめている男に視線を置く。
思い出した。
名は知らない。
だが、彩華が後宮に入り、闇帝に謁見した折りに、その傍らに控えていた男だ。
しかし、それもまた彩華には興味のないことだった。
「話す気力もありません」
ここでは、彩華は独りだ。
たわいのない、とりとめのない話をする相手はない。
そして、何よりも、何かを語る気力など、今の彩華にはない。
「……失礼致します」
彩華は一礼を女性に捧げ、男性にも会釈をするとその場を後にした。
それだけ。
その夜はそれで終わる筈だったのに。
裏庭で見た美しい女性が、この後宮において最も王の寵愛を受けている「光の方」だと知ったのは、その2、3日後のことだ。
その女性が、男性と会っていた。
それも、王の腹心の一人と。
誰も近付かぬ裏庭の片隅で。
闇にほど近い新月の夜に。
人目を忍んでいるのは明らか。
それは後宮で競い合い落とし合う女性達の誰かに知れれば、瞬く間に広まり王の耳にも入るだろう。
だから、何だと言うのだ。
彩華にとって、それはどうでも良いことだった。
欲しいのは、無意味な諍いの種ではない。
彩華は口を閉ざし、ただただ、叶える術のない望みを胸に抱いていた。
そのままであれば良かったのに。
否、そのままでは、望みは叶えられなかった。
だが、こんな形で望みを叶えるのか。
こんな形でなければ、どう望みは叶えられるというのか。
どうすれば良かったのか。
どうすれば良いのか。
まだ、答えは分からない。
まだ、答えは出ていない。
もはや、どんな花の香りでさえ、彩華は眠れない。