4 醜い女
夏の晴天を思わせる鮮やかな色彩の絹。
いつか、王から贈られたドレスを、彩華はその日初めて身につけた。
着終えて鏡の前に立つ。
着替えを手伝っていた鈴風が、背後で何らかの吐息を吐いたことに苛立ちを覚えながら、無言で鏡の中の己を蔑視にも似た……いや、蔑視そのものの眼差しで眺める。
作り上げられた貴婦人がそこにいた。
今だかつて、彩華が身に付けたことのない、優美な流線を描くドレス。
しかし、後宮で身につけるに相応しい淫靡さも兼ね備えているような。
彩華が身につけたのは、この季節ならではのノースリーブのドレスだった。
寒さが勝る地方で暮らしてきた彩華には慣れない形だ。
しかも、腕だけでなく、胸元、肩、背中を大胆に晒す薄手の生地には、どうしようもない羞恥を覚えずにはいられない。
腰の細さから丸みまでを見せつけるかのように身体を辿る空色は、やがて足元に向かってドレープを描いて水面の如くに揺れる。
布地を押し上げつつ、谷間を覗かせんばかりに開かれた胸元に、彩華は自らの胸のふくよかさを初めて知らされた。
陽を浴びることの知らなかった肌は病的なまでに真っ白で、故郷の冬山を覆う雪のようだ。
戸惑いをなんとか押し殺し、黙して立つ彩華を、鈴風はその場に座らせると髪を結い始めた。
座れば毛先が床に広がる程の茶色を高い位置で結い、ドレスと同系の紗を巻いて一本の長いうねりを背中に垂らす。
更にどこか嬉々とした様子の鈴風は、彩華の細い首から浮き立つ鎖骨にかかるように、きらびやかな細工の施された金の首飾りを巻いた。
最後に何やら大きな箱を開き思案気に眺めていたが、結局その中からはあまり派手派手しくない紅を取り出して、彩華の唇に乗せただけだった。
「……おきれいです」
自らの作品に満足するように、鈴風が讃辞を口にする。
だが、どんなに着飾ったところで、鏡の中のこの女がどんなに薄汚い者であるのか、彩華自身が誰よりも知っている。
手をかけてくれた者に言うべきことではないと承知しつつも、笑みの一つ返すことなく、彩華は小さく頷くことしかできなかった。
できるなら、今すぐ全てを脱ぎ去って、ここから逃げたかった。
今なら、間に合うかもしれない、と。
きらびやかな世界とは無縁であろうとも、堂々と胸を張って生きていけるのかもしれないと。
だが、それを許さぬとばかりに、背後から声がかかった。
「これはこれは……想像以上だな」
普通は前触れがあってから、王は後宮を訪れるものらしい。
後宮のしきたりなど知ったことではないが、鈴風がそう言っていた。
だが、この月の室には王はいつも突如として現れる。
多忙な執務の合間に足繁く。
僅かな時間でさえを、惜しむように。
それを人々は、暗黒王のただならぬ想い故と、取るらしい。
「滑稽なだけです」
彩華は鏡越しの王にそう答えた。
王は座ったままの彩華の背後に片膝をついた。
そして、おもむろにまとめてある髪を手に取る。
ビクリと身じろぐことは止められない。
それでも、声を出すことは押しとどめた。
「お前は……お前の美しさを知らぬのか?」
王が、紗に纏まりながら、背に流れていた髪を口元に運ぶ。
指先で弄びながら、口づけるのが鏡に映った。
いとも簡単に王の指に絡まり、好きなように扱われる。
それが、必死に虚勢を張っている彩華の、本当の姿なのかもしれない。
「……美しい……私が?」
東方の辺境にあって、彩華の容姿は確かに美しい部類に入った。
故にここにいる。
だが、この後宮に一歩足を踏み入れた瞬間に、己の容姿がいかほどでもないことに、彩華はすぐさま気がついた。
まして、あの方に比べれば。
いいえ、比べることさえおこがましい。
「そうだ。お前がその気になれば……国の一つや二つ、血を見ることなく容易く手に入ろうな」
王は言う。
これは、本当だろうか。
そんな筈はない。
これも嘘。これも演技。
だって、そこには鈴風がいる。
「そんなものいりません」
ならば、彩華も演じるだけだ。
僅かな本音をそこに乗せながら。
「……そうだったな」
彩華は髪を王から取り戻すように身を離した。
王は髪をあっさりと手離す。
「何もいらぬのだったな」
王から離れ、立ち上がろうとした彩華の腕は、武骨な手のひらに掴まれて動きを阻まれる。
「だが、俺はお前が欲しい」
まるでそれが本当の思いのような強い力で腕を引かれ、王の胸元に乱暴に招き入れられる。
背後から腰に腕が回り、闇の帝王に彩華はいとも簡単に捕らわれた。
目の前には、鏡。
着飾った女が、強靭な男に抱きとられる様が映るのを、彩華は他人事のように見ていた。
「出ていけ」
王の低い声が、身体に響いて震えるほど間近で聞こえる。
それは、部屋の隅に控えていた鈴風に向けられた言葉だった。
鏡の中に、頭を垂れ膝をつく鈴風の姿がある。
彼女は深々と頭を下げてから立ち上がると、どこか誇らしげにも見える様子で部屋を出ていった。
鈴風が出て行ったのを見届け、彩華は王の腕から抜け出ようと身じろいだ。
しかし、王は彩華を抱く力を緩めようとはしない。
「陛下?」
観客のない茶番は必要ない筈だ。
彩華は戸惑いながらも幾らかもがいて、王に抗議する。
「何か、香でも燻らせているのか?」
問いの意味が分からず首を傾げる。
「甘い香りがする」
そんな言葉と共に、耳の後ろあたりに鼻先を押し付けられた。
吸い込む呼吸が耳に直接触れて、彩華は身を竦める。
「悪くない香りだ」
何の香りだろうか。
彩華は、何も付けていない。
鈴風が、ドレスに香でも焚きしめたのだろうか。
項に何かが押し付けられる。
それが王の唇だと鏡に映る姿で知った。
王が何の表情も浮かべぬままに、誰にも触れさせたことのない、目にした者でさえ数える程の首筋、肩へと唇を滑らせていく。
「……お離し下さい」
声が震えていないことに安堵する。
だが、王は彩華を抱いたまま、更に唇を這わせていく。
やがて、それはあの場所に辿り着いた。
あの日、王が契約の印の如く、刻んだ剣の軌跡。
もう既に跡かたもなく消えているそれが、まるでそこにあるかのように。
そこに舌を這わせる王の姿に、再度、契約の内容を突き付けられた。
「何を?」
腕を掴んでいた手のひらが離れたと思うと、それは胸の膨らみを布地の上からぐっと握った。
大きく開いた襟ぐりは、ほんの少し王の指先が望めば、直接肌を差し出すだろう。
「美しい女を前に、男がすることはさほど多くない」
王は言いながら、腰を抱く腕に力を込めて、彩華の身を更に引き付ける。
王の真意を掴みきれないながら、彩華はもがくのを止めた。
「美しくなど……ありません」
大人しくなった彩華の晒された肩に、王は再度口づけた。
「私は醜い。欲しいものを手に入れるために、なお醜くなるばかりです」
王が肩に唇を押し付けたままで、視線を上げる。
鏡越しに目があう。
「……醜さと美しさは紙一重だ」
そうだろうか。
そうかもしれない。
なぜならば。
「恐怖と畏敬が紙一重のように?」
この王はその表裏で存在しているから。
一瞬ではあったが王の唇が面白気に歪んだ。
触れる感覚でそうと感じただけだから、気のせいかもしれない。
胸元に置かれた手のひらが、彩華の知らぬ動きで柔らかなそれの形を崩す。
痛みはない。
何か不穏な気配が身体のそこかしこで蠢き始めた気がしたが、それをすぐさま否定する。
何もない。ある筈がない。
王に触れられても、何も起こり得ない、と言い聞かせる。
「お離し下さい」
不埒な片手が、腰を撫で、脚を辿る。
際限のないように思われる戯れに、彩華は王の手首に指を触れて、終わりを請うた。
「そう言うな」
闇帝が囁きながら、唇で彩華の背を辿る。
「……東方の女の肌の滑らかさは、素晴らしいな」
それは、王の心からの言葉に思えた。
ゾクリ、と背筋に悪寒が走る。
それとも?
ふるりと震える身体に、闇帝の小さな笑いが聞こえた。
「寝台に行け」
経験はなくとも、命令の意味が分からぬほどには無垢ではない。
「なぜでしょう?」
だから、この疑問は何故そのようなことをしなくてはいけないのかというものだ。
寵はいらぬと、形だけの正妃で良いと。
契約はそうではなかったか。
「愚問だな」
言うなり、王はその場に彩華を押し倒した。
圧し掛かってくる男を身体で拒むでもなく、彩華は言葉のみでそれを拒否する。
「伽のお相手をお求めならば……他の方をお召し下さい」
この身は惜しくない。
欲しいものを手に入れる道具に過ぎない。
だが、道具ならば道具らしく扱わねばならないのだ。
彩華はぎりぎりのところで、己に言い聞かせている。
どんな綻びも許されないほどに、張りつめて。
「他へ行けという女は、お前で二人目だ」
一人目が誰かを問いはしない。
ただ、彩華は王に組敷かれたままで、もう一度言う。
「お離し下さい」
王が彩華から退くことはなかった。
だが、先に進む気配もない。
「一人目の女は、他に想う男があったのだったな」
見下ろしてくる王のそれは問いかけではない。
彩華は黙って、王を見つめ返した。
彩華の身につけているドレスより、よほど美しい碧眼には、何の感情も読み取れない。
「お前はなぜ俺を拒む?」
「必要ないことだからです」
この身は道具。
欲しいものを手に入れるための。
王に抱かれることが、欲しいものを手に入れる手段であったならば、いくらでも応えただろう。
後宮に上がったからには、それはもっとも正当な手段だった筈だった。
しかし、美しい者が居並ぶ中、それは不可能だと判断した。
だから、王の謀に乗ったのだ。
であれば、これは必要ない。
必要のないことはしてはいけない。
それがどんな綻びになり、どんな亀裂を生むか分からないから。
「私は形ばかりの正妃の座が欲しい。貴方様はあの方を手に入れたい……私と貴方様の間に、このような行為が必要でしょうか」
闇帝の表情は、やはり変わらない。
ただ、彩華を見下ろしている。
彩華は、そっと王の胸を押した。
行為の拒否。
王は、彩華の手に僅かに揺らぐこともなく、伸し掛かったまま。
「お前は俺が女一人への執着心でこの茶番を始めたと思っているのか?」
やがて、そう尋ねてきた。
「さあ……存じません」
それは、彩華には関係ない。
王のこの謀が、あの方への執着心から始まったことであろうと、他に何らかの思惑があろうと。
「興味もございません」
彩華には、どうでもよい。
どうでもよいことでなければならない。
「私は、私の欲しいものが手に入れば良い」
王は彩華を離さない。
ただ、その無表情で見下ろしてくる。
彩華は、それを見返す。
光の方から目を逸らしても、この王からは逸らさない。
この王から、視線を逸らす理由はない。
王はやがて静かに身を起こした。
軽くなった身体を起こそうとした、その時、閉じられた扉の向こう側から声がした。
「陛下、失礼致します」
男の声。
知っている声だ。
「珪心様、少しお待ち下さいませ」
鈴風が男を押し留めているようだ。
珪心。
王の腹心。
そして、契約に名を上げられている男。
「後にしろ」
王は彩華の腕を引いて、身を起こさせた。
だが、それは決して親切心などではない。
「申し訳ございません、陛下」
再び、珪心という男の声がする。
「火急の御相談です」
王は欲望の一片も感じさせない動作で彩華を引き寄せると、無造作に背中に並ぶドレスのボタンを幾つか外した。
頼りない生地は、すぐにも彩華の肌を男の目の前に露わにする。
「陛下!」
どうやら、珪心は本当に急いているようだ。
声に切羽詰まったものが混じる。
だが、応えぬ王は彩華の現れた肌に、鷹揚に唇を寄せた。
王の意図を彩華は多分間違いなく読み取った。
初めて自ら手を伸ばし、王の首に腕を絡める。
謀が進んでいく。
後戻りはできないのだ。
「珪心様!」
うろたえ、叫ぶ鈴風の声がする。
彩華は目を閉じて、ただ、王の背を抱く腕に力を込める。
身体が逃げてしまわないように。
「陛下! 失礼致します!」
彩華の背後で、扉が開けられる音がした。
「珪心。無粋なことをするな」
彩華を抱き、晒されているのであろう背を撫で、胸元に顔を埋めたままで王が呟く。
その声は相変わらず何の感情も見えない。
「申し訳ありません。ですが……」
彩華は王の背に回していた腕から力を抜いた。
王から少しばかり身を離して、ちらりと珪心と呼ばれる男を見やれば、会うのが2度目の男は驚いたように見開いた瞳で彩華を見つめ、はっすると慌ててその場に膝をつき頭を垂れた。
「月の方様にも、申し訳ございません」
彩華は何も応えず、王に視線を向ける。
王は彩華の視線を受けて、まるで抑えきれぬとでも言うように、もう一度首筋に唇を触れた。
「陛下!」
珪心が動揺を隠しもせずに、声を上げる。
王は、肩を竦めた。
「本当に火急の用なのだろうな?」
そう口にしながら、いつの間にか腰まで滑り落ちていた彩華のドレスを引きあげて肩にかけた。
そうして、ようやく彩華を離して立ち上がる。
彩華は力なくそこに座り込んだまま、王を見上げた。
「また、手に入れ損ねたな」
頬を手のひらが撫で、そして、離れていく。
「貴方様の気まぐれが少々長く続くだけのことでございましょう」
彩華の答えに僅かに唇の端を上げ、王は珪心を伴って部屋を出て行った。
王と入れ替わりに、鈴風が戻ってくる。
「月の方様!」
驚いた様子で駆け寄ってくる顔は、笑みこそ浮かんでいないものの、紅潮しその高揚を伝えてくる。
仕える主が、王の寵を受けるか否かは、侍女の処遇にも大きく関わる。
それ故、この女性は彩華に手をかけて着飾らせるのだろう。
「月の方様?」
彩華は身動きできなかった。
ドレスが乱れて、肌を晒していることも。
髪は崩れて、無残になっていることも。
分かっていながら、何もできずに座り込んだまま。
「大丈夫ですか?」
鈴風の声音が変わる。
彩華を覗き込んでくるそこに、先ほどまでの浮き足立ったものはない。
心なしか青ざめ、声にも真摯な響きがあった。
己はそんなに哀れな様子なのだろうか。
彩華は鏡に目を向けようとして、しかし、それを止めた。
どんな姿をしていたとしても。
先ほどの着飾った姿より、よほどそれは彩華に相応しい筈だ。
ただ、この侍女が手をかけたものが、暴君によって砕かれたことだけは分かり、彼女がそれを喜んでいるばかりではないだろうと知れるから。
「せっかくきれいにしてくれたのに、ごめんなさい」
つい、そう口にした。
鈴風は驚いたように目を見張り、そして、首を振るう。
「すぐに……直しますから、お気になさいませんよう」
直してくれなくて良い。
本当は、これこそが彩華の姿。
みすぼらしく、弱々しく。
だが、鈴風が手を伸ばしてくるのを拒む気力は、もう彩華には残っていなかった。