27 月に想う
私はここで何をしているのだろう。
もう、ここにいる必要などないのに。
彩華にも、闇帝にも、正妃という女は不要な筈なのに。
侍女に導かれるままに寝台に横たわっていた彩華は、ぼんやりと部屋を眺めていた。
眠っているのか、目覚めているのか。
自身でも分からないままに、ただ漫然とここに在る。
いつまで、こうしているつもりなのだろう。
もはや、ここにいる意味など、何一つない。
何度も繰り返す、その事実。
彩華も。
闇帝も。
なぜ、この状況に身を置き続けるのか。
何度も何度も、問いかけるそれの答えはいったい何なのか。
きっと、その答えを彩華は知っている。
彩華は気だるいばかりの身をうっそりと起こした。
ほんのりの照らされた、既に見慣れて久しい部屋の片隅に視線を送る。
あそこに、ある、のだ。
この後宮に入る際に、彩華が唯一己のものとして持ち込んだ薬箱。
刃物の類はきつく持ち込みを禁じられたが、それを手元に置くことは随分とあっさり許されて不思議に思ったものだ。
今となっては、それが闇帝に毒の類が一切効かぬ故のずさんさだと分かる。
なんにせよ、彩華にとっては多分幸運なことだろう。
一見何の変哲もない軟膏や、包帯などを収めた、その奥底にあるもの。
いざという時のために持ち込んだあれを使えば、と彩華は見えない中身を探る。
彩華は清夢とは違う。
確実に事を成す術を知っている。
そうだ、あれを使えばいい。
もう、ここにいる理由などない。
いや、生きながらえる意味さえもないのだ。
ならば絶やせば良い。
一瞬だ。
刹那の苦しみで、この永劫とも思える辛さから解放される。
なのに、どうして。
どうして?
その問いの答えもまた、彩華は知っていた。
知っていて、ただひたらすらに全てから目を反らし続けている。
結局、毎夜と変わらず出口を閉ざし、再び寝台に横になろうと身じろいだその時、僅かなカーテンの隙間が目に入った。
そこから見えたのは、微かな光を放つ細い月。
漆黒の夜空には心細いばかりの存在。
まるで己のようではないか。
明日にも消えゆく存在。
何かに足掻くように、縋るように。
細々と弱々しく在り続ける。
彩華は仄かな光に誘われるように寝台を降りた。
ふらふらと足を進め、バルコニーを開け放つと、生ぬるい風が肌を撫でるように吹き込む。
その風に誘われるままに、彩華はそっと部屋を抜け出した。
力ない足取りで闇夜を歩む。
自らを亡霊のようだと自覚しながら。
亡霊にもなり切れぬ身を、冷酷に嘲りながら。
正妃となってからは、訪れることのなかったあの花壇へと、やがて辿り着く。
誰もいる筈もないと確信を持って訪れたそこには、しかしながら先客があった。
花壇の傍らに佇み、何かを探すように夜空を見上げている大きな影。
「珪心様」
つい名を呼んでしまえば、それが囁きであったにも拘わらず、はっと振り返った珪心が彩華を認めるなり慌ててその場に膝をついた。
あの時以来の再会だった。
珪心は、一言と発することもなく、ただ、頭を下げ続けている。
呼び止める意図などなかった。
だから、かける言葉も見つからずにただ見つめことしかできない彩華をどう思ったのか。
珪心は、俯いたままゆっくりと立ち上がった。
そして、深々と腰を折って、この場から去ろうと足を動かす。
「お待ちください」
ここはその背を見送るべきであることを彩華は承知していた。
しかし、この帝国の剛を統べる男が、俯き去ろうとする様は彩華の心を激しく揺るがした。
己の犯した罪の爪痕が、この男の背にざっくりと刻まれているのが見えたから。
珪心は足を止めたものの振り返らない。
大きな背中が、彩華の言葉に従い、そして、次を待っている。
何を言えば良いのか。
迷ったのは一瞬。
「……清夢様のご降嫁が決まったとお聞きしました」
闇帝から聞かされていたその言葉は、あっさりと声になった。
あとは、心にあるものが、流れ出て珪心に向かう。
「どうか、お幸せに。陛下の想いを無になさらぬよう……私もお二人のお幸せを心より願っております」
これは本心だった。
だから、淀みなく綴られる。
珪心はずっと俯いていたが、彩華の言葉を聞き終えて、意を決したかのように一つ息を吸って顔を上げて振り返った。
闇帝のように無表情ではない男は、その屈強さに似つかわしくない、今にも泣きそうな子供のような表情をしていた。
「正妃様……貴女はどこまで寛容でおられるのか」
もちろん、寛容などではない。
だが、彩華はそれには答えなかった。
「私の事を忌々しくは思われないのですか?」
忌々しいのは己。
彩華はそんな思いも飲み込んで、
「……全て終わったことなのです」
それは自身にも向けた言葉だったかもしれない。
全て終わったのだ。
何もかも。
そうでなければいけない。
「どうぞ、全てを忘れて、お幸せに」
そう、貴方は忘れていいのだ。
忘れてはならないのは、彩華だけだ。
珪心は少しの間何かに耐えるように俯き、やがて、彩華の目の前に再び膝を付き、頭を垂れた。
「俺は陛下に忠誠を誓う身。ですが」
珪心の顔が上がる。
そこには、先ほどの少年のような頼りなさは微塵もない。
闇帝の片腕である男が、彩華に跪き
「貴女様にも陛下と変わらぬ忠誠を誓いましょう」
そう口にする。
「何かあればこの身がどうなろうとも貴女様のために」
「いいえ」
彩華はそれを遮った。
そんな誓いなど、受け入れられる筈もない。
己の罪を洗いざらい吐き出して、この男にこそ許しを請いたい思いに駆られる。
だが、それをも抑え込んだ。
「その誓いは清夢様に」
そして、代わりに願いを一つ。
「……どうか、幸せにしてさしあげて下さい。私が貴方様に願うのはそれだけです」
彩華の身勝手な願いのために辛い思いをさせてしまったあの白銀の姫君。
もはや、彩華が望むことを許されるのはそれだけだろう。
「御意」
珪心は深く深く頭を下げた。
そして、立ち上がる。
「部屋に戻られますか?」
尋ねられて、彩華は首を振った。
そして、空を見上げる。
そこには、やはりか細い月があった。
「もう少しここにおります」
珪心は少し逡巡した後、それでももう一度深く頭を下げて彩華に背を向けた。
珪心が去った後、彩華はその場に立ち尽くしていた。
全て終わったのだ。
珪心に語った通り、それは事実に違いない。
なのに、彩華はここを立ち去れないまま。
どうして。
そんなの分かっている。
認めたくなくとも。
あの男だ。
人々が闇の王と畏れ、慄くあの男。
あの男が、彩華をここに留める。
闇へと身を落とすことばかりを願う筈の彩華を、闇を統べるあの王が留まらせる。
男への想いが一筋の光の鎖となって彩華をここへと留まらせる。
彩華はその場に崩れた。
もう、来ないでと。
忘れて欲しい、と。
口にしながら、あの男が再び訪れることを彩華は待っている。
あまりにもあの男に相応しくない『償い』という単語にすがり、彩華の持つ真実を隠して、ここに留まり続けている。
もはや、目の逸らしようのない想いが溢れて彩華は立ち上がることができない。