26 寵妃の願い
その部屋は、かつては王たる男の私室であった。
出入りを許されているのは二人の侍女のみ。彼女達以外はどれほどに信頼する者であろうとも一歩と踏み込む事を許されぬ空間。
そうであるとあえて告げられる事はなくとも、その部屋は王が王である事から解放される、唯一の場所である事は周知の事実だった。
だからこそ、彩華がその部屋へと迎え入れられた事は、それだけでこの存在が特別である事を人々に容易に知らしめた。
一方で突然の正妃の出現に多少なりの混乱を強いられた臣下達が落ち着いた頃には、他の部屋を正妃の間として宛がう事は当然のように話としてのぼった。
しかし、どれほどの時を経たところで、王はその必要性を僅かにも感じなかった。
彩華は、王の唯一の場所を、何一つ侵す事なく、極々自然に己の存在をその部屋へと刻みつけたから。
彩華は、自身の存在を、その空間に刻みつけてもなお、王が一人の男に戻る時間に何の変化ももたらさなかったから。
だから、王は彩華をその部屋に置き続ける事に何の憂いもないままに、いつしかそこは正妃の間として宮殿内に定着していた。
正妃の間となった今でも、王がその部屋に立ち入る事を阻む者などいる筈はない。
己の来訪を前触れする事もなく。
扉をノックする事さえなく。
そこに彩華がいなかった頃と変わることなく、王はその部屋へと踏み込む。
それは誰に咎められる事でもない。
にも関わらず、王は執務室からその部屋へと辿り着き、一瞬……傍から見れば分からない程の躊躇を示すかのような一瞬の静止を経て、その扉を開いた。
扉近くに控えている侍女達は、いつもの通りの突然の王の帰還を驚くでもなく受け入れて、いつもの通り深く頭を垂れる。
王はいつものようにそれには何の反応も示さなかった。
だが、もちろん、この違和感は拭えよう筈もない。
しかし、それを表に出すことなく、常と変わらない無表情のままそれを探した。
そしてすぐに見つける。
この部屋の今の主にして、名無しの国の正妃。
そして、名のない王の唯一無二の寵妃。
かつては、いつの訪れにも優雅に礼で迎えた女は。
「彩華」
その名を呼ぶが、ピクリとも動かない。
彩華の瞳は、開け放ったバルコニーの向こう側を眺めていた。
もっとも、顔をそちらに向けているだけで、灰色の瞳がそれを映し出しているだけで。
実際は何一つ、彩華は見てはいないのだろう。
一時期に比べれば涼しくなったとはいえ、まだ日中は暑いこの季節。少しでも涼を取らせようと侍女がその場所に用意したのであろうラグの上に、大人しく従って座っているに過ぎない。
「彩華」
こう呼べば。
以前ならば、すぐさま拒否するように冴え冴えとした視線を寄越したものだが。
二度目の呼び掛けにも、彩華は反応しなかった。
「……華」
もう一度。
彩華が一番呼ばれたくない筈の名で呼べば、ようやくゆるゆると男に視線が向けられる。
生きる気力の感じられない瞳は、王の姿を認めても何も変わらない。
それでも、彩華が自身を認めた事に僅かな満足を得て、近付いて行く。
途中目に入ったのは、侍女が用意したのであろう昼食。
テーブルに置かれた、まったくの手付かずのそれを手にして、彩華の前に跪く。
「食べろ」
彩華は反応しない。
男は指先に小さな果実を摘まむと、彩華の口元に運んだ。
「……華、食べるんだ」
もう一度声をかけ、根気強く待てば、彩華は諦めたように男の指先から果実を受け取って口に含んだ。
その喉元がコクリと動くのを確認して、もう一つを手渡す。
彩華は素直にそれも口にした。
拒む気力もない。
それが、今の彩華だ。
「……華」
呼びながら、頬に触れる。
見た目にもふくよかさが確実に失われているそれは、指先で触れれば温かく、それだけが救いだ。
「俺は清夢を愛しいと思っている」
告げた言葉は、己の心を吐露する響きを持っていた。
彩華に言われた事を繰り返しているのではない。
それを認め、自身の言葉で告げる。
「俺は珪心を誰よりも信頼している」
彩華の突き付けた事実を受け入れてみれば、それは揺るぎようもなく己に根付いていた。
「この二人を俺は何にも代えがたいと思っている」
紛れもない。
何に惑わされる事なく、認めてみれば。
「清夢は珪心の元に降嫁させる」
その結論はあまりにもあっけなく導かれた。
己の情。
清夢の想い。
珪心の心。
それらを見据えれば、つまらぬ予言など取るに足らないものでしかなかった。
清夢への愛しさは、その幸せを望むものへ。
珪心の信頼は、愛しい存在を受け渡す事へ。
そう決めてみても、己の情は嘆いたり、憤る事はない。
「清夢の体調が戻り次第、珪心の元へやる」
彩華は何も言わなかった。
やつれていようとも、生きる気力を失おうとも、畏れる事ない灰色の瞳が静かに男を見つめる。
そこには疑問も不審もない。
だが、先ほどのように虚ろでもなかった。
男は彩華の正気を宿した瞳を覗く。
清夢の、珪心の願いを叶える事は、決して難しくはない。
「お前はどうしたい?」
気がつけば、そう尋ねていた。
己のこの女に対する想いの名を、男は知らない。
王の心を読んだ女に、それを尋ねた事はないから。
尋ねれば、答えが返るだろうかと思いつつ、それはできないままに。
「……華、お前はこれからどうしたい?」
違う事を問う。
その問いに、彩華は驚いたように僅かに目を見開いた。
王から逸らされない瞳は、迷うように揺れる。
やがて。
「…………ここを出たい」
ぽつりと。
幼子のように、心もとないばかりの声で。
それでも、女が答えた事に、少しばかり驚いた。
だが、答えたそれには、驚きはない。
彩華が望むのは、それしかないだろうと、どこかで分かっていたのだろうか。
「それはできん」
分かっていたとしても。
それに対する答えは用意していなかった。
だが、思わず、そう答えていた。
そして、理由を後から考える。
この女は、既にこの国の正妃として存在している。
王の一存で正妃にするも、もはや王の一存で存在は消し去れようもないほどに。
「お前は正妃だ」
彩華は首を振った。
「もう、いらないのです」
「……それでも、だ」
彩華の答えは、分かっていたのだ。
彩華が答えなかったとしても、王はその答えをきっと知っていた。
だが、問い掛けた。
答えを知りながら、いったい、己は彩華がどんな答えをする事を期待していたのか。
どうして、分かっていた筈の答えが、その声で綴られた事に、これほど動揺しているのか。
「お前が正妃である以上、ここからは出せん」
己の愚かさから目を逸らすように、強くそう告げる。
彩華は苦痛を耐えるように眉を寄せ、唇を噛んだ。
やがて。
「では……私に別の部屋を与えて下さい」
力なく、それでもはっきりと告げられた言葉に、男はつい眉間に皺を刻んだ。
「そして、私のことなど……お捨て置き下さい。そうすれば、いずれ皆が私のことなど忘れる」
「彩華」
彩華は王から目を逸らした。
その視線は窓の外のはるか遠くを捉えているようだ。
「消えてしまいたいのです」
窓から風がそよと吹き込む。
少しだけほつれている茶色の髪がフワフワと揺れて。
それだけの筈なのに、彩華自身が風に吹かれて揺れる幻影を見て、王は咄嗟にその腕を掴んだ。
彩華の視線が再び王に戻る。
「望みを叶えて下さると言うならば、私を消して下さい」
まっすぐに。
久しぶりに見えた強い意思を湛えた瞳だった。
「それも無理な願いだ」
彩華は頷いた。
「分かっております」
視線が逸らされ、再び外を見遣る。
「分かっていても、願わずにはいられないのです」
彩華の視線は王には戻らない。
だが、声が届く。
「先ほどのご決断を貴方様が下されたのならば……もはや私の存在は何の意味もないはず」
「彩華」
女の言うとおりだった。
珪心を惑わすために。
清夢の儚いと思われた恋心を砕くために。
それだけのためにこの女と契約したのだ。
その必要がなくなった今。
そして……彩華が正妃の座が必要ないという今。
契約は無効となってしかるべきだ。
この女は己にとって不要なものだ。
だが、このまま女を手離す訳にいかない。
どうしてか、そう思うのだ。
どうしてか。
「……俺は、お前に償いたいのだ」
そんな言葉が出ていた。
「償い?」
彩華は不思議そうに首を傾げた。
そうだろう。
口にした男自身も、なんとも己に似つかわしくない言葉だと認めながら。
「そうだ……俺はお前を駒とし、己の望むように事を進めながら、それを自ら放棄する」
不思議と続けられたそこに違和感はないように思えた。
「珪心を誘惑させ、その身を貶めた……今となっては、それだけが残る」
彩華の瞳が珍しくも戸惑いを隠さずに揺れる。
そして、小さく首を振った。
「……あれは契約だったのです。あの時は、私は正妃の座が欲しかった。今となっては何もかもが無駄であったとしても、あの時は必要で……契約をしたのは私の意志です。陛下がそのように……」
「お前にさせた事を悔いている……と言えば、お前は俺にそれを償う機会を与えるか?」
彩華の言葉を遮り、真ではないような、かといって上っ面の戯言でもないように言葉を続ける。
彩華は首を振った。
「彩華」
「償い」
小さな呟き。
その意味を考えるかのような間。
「償い、など……」
いらない。
そう続くのだろう口元を、思わず掌で覆った。
今までほとんど表情の変わらなかった彩華も、さすがに驚いたようだ。
「ここからは出さない」
それだけは、譲らない。
自身で驚くほどに、強く声が迸った。
「お前が正妃であり、俺の寵妃である事は揺らぐ事のない事実だ。お前がここを出る事は許さん」
不思議そうに。
戸惑うように。
灰色の瞳が、王を見つめる。
王は、それを見つめ返した。
弱々しくも澄んだ瞳。
己で掴みきれない、己の真意を探られているような。
闇帝と呼ばれる身が、女の瞳に怯えている。
それを感じながら、しかし、視線は逸らさなかった。
やがて、彩華は諦めたように瞼を伏せた。
口元を塞いだ手を降ろしても、淡い紅を引いた唇は動かない。
やがて開いた瞳は、再び無力を湛えていた。
「また、来る」
彩華はもう何も言わなかった。
諦めたように……願うように。
虚ろな瞳が空を眺めるだけだった。