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25 絶望と希望

 これは悪夢の筈なのに。

 やはり、瞑目する程に、その方は美しかった。


 淡いブルーのドレスは乱れて広がりながらも、なお光沢を失わず。

 華麗に結われていたのだろう銀の髪が、綻び崩れながら、ドレスの色を反射するように仄かに蒼く輝いている。

 そして、その方を取り囲むように、可憐なピンクが散っていた。


 うつ伏せに横たわった光の方は身動き一つしない。

 

「正妃様……光の方様は……」


 彩華を呼びにきた侍女の弱々しい声が聞こえる。

「……静かに」

 命じれば、すぐにも声が途切れた。

 光の室周りは、シンと静まりかえっている。

 事態にうろたえる侍女達にも、これを騒ぎにしてはならぬとは考えが及んだらしい。

 彩華を呼びに来るにも、秘密裡に動くぐらいには理性が残っていたのだろう。

 既に去って久しい後宮は、以前と変わらぬ空気を保っていた。

 この室以外は。

 彩華はスルリと部屋へと滑り込む。

「扉を閉めて下さい」

 静かな声で彩華が命じれば、彩華をここへと誘った侍女が内へと入り、黙って追従してきた鈴風が続いて内へと入り、扉を閉めた。

 小さな音がやけに響く。

 この室が外と遮断された事を確認して、彩華は光の方へと近付いた。


 足を進める途中で、足元に花が散っている事に気がつく。

 何本も何本も。

 ピンクの正体は、可憐な花だった。

 見覚えのあるその花を一輪拾い上げ、彩華は眉間に皺を刻んだ。


 そして、光の方の傍らに辿りつく。

 遠目には、淡いピンクとブルーの中でまどろむ天使にも見えたのに。


 どれほどに苦しみもがいたかを知らしめるように、あちらこちらに吐しゃ物が飛び散り、美しい面には深い深い苦悶が浮かんでいる。

床に突き立てられた指先の不自然な強張りが、その責苦の激しさを語っていた。

 あの娘とこの方は、まったく似ていない。

 そう思うのに。

 それに間違いはないのに。

 先ほど読み上げたふみが、頭を過ぎる。

 銀の髪が、色褪せた茶色に染まる幻を見る。


 あの娘もこんな風に苦しみながら。

 こんな風に、何かに縋るように。

 もがくように。

 指先で床を掻きむしりながら。


 そんな感傷に、絶望感が過ぎった。

 だが、それも一瞬。

 彩華の目の前で、光の方の指先がピクリと動いたのだ。


 彩華は絶望を打ち払い、目の前に希望に縋る。

 そっと手のひらを口元に当てれば、弱々しいながらも呼吸が感じられた。

「……水を用意して……それから、私の薬箱を」

 背後に願えば。

「……貴女方はお水を」

 鈴風が立ち尽くす二人の侍女に言葉をかけてから。

「すぐに」

 彩華には、そう返事をして部屋を出て行った。

「光の方様」

 彩華は、初めて自らその人に触れた。

 うつ伏せに倒れ込む身を仰向けにして抱き起こし、吐しゃ物に塗れた口元の香りを嗅ぐ。

 そして、ほっと息をついた。

「光の方様」

 もう一度呼び掛けながら、彩華とさほど大きさの変わらぬ身体を抱き寄せる。

 再び、僅かながら光の方の身体が身じろいだ。


 ああ。

 トクントクンと鼓動が響く。

 これは彩華のものなのか、光の方のものなのか。

 ただ、この方は生きている。

 それは確かだ。

 少し乱れてはいても、繰り返される呼吸。

 触れる肌は、温かさを保っている。


 間に合ったのだ。

 あの娘のようには、させずに済んだのだ。


 その事にほっと息をつきながら。

 込み上げてくるものを抑え込んで。

 力のない身をぎゅっと抱き寄せた。



 ゆっくりと上下する胸元が、その人の苦しみが去った事を告げていた。

 苦しげに寄せられていた眉も、今は解けて穏やかな線を描いている。

 もう、大丈夫だろう。

 彩華は寝台に眠る光の方の様子に、安堵の判断を得て立ち上がった。

 部屋は静まり返っている。

 隅には真っ蒼な顔で呆然と立つばかりの、光の方のお付きの侍女が二人。

 そして、彩華の指示に的確に応えて速やかに動き続けていた鈴風も、今は落ち着いた様子で侍女達から少し離れた所に控えていた。

「……なぜ……光の方様は……」

 侍女の心もとない呟きには答えることなく、彩華は拾い集めて花器に活けられたピンクの花の一輪を手に取った。

 可愛らしい花だ。

 小さいながらも幾つもの花弁が重なり、よくよく見てみれば華やかな様相である。

 この花に、光の方は救いを求めたのだ。

 この可憐な花が、絶望の淵に立った姫君の心を慰めるものではなく。

 希望を抱けない未来を断ち切るためのものだと知らされても、どれだけの者が信じられるだろう。

 咄嗟にその花を蹴散らした衝動に駆られる。

 だが、花に罪はない。

 罪なのは、私。

 罰せられるべきは……私に他ならない。


 花を花器に戻そうとしたその時、彩華の耳に小さなうめき声が届いた。

 弾かれるように反応して顔を上げたのは、侍女達。

 それでも、彩華を窺うようにして、その場所を動かない。

 彩華は視線で侍女を押し止め、光の方に近付いた。

 ベッドに横たわるのは、お伽話の主人公の如くに麗しい姫。

 目覚めの口づけはないままに、青白い瞼が震えながら開かれた。

 彩華は動かず、その覚醒を見守る。

 数度、億劫そうに瞬きが繰り返されて。

 見開いた瞳の光が、その方が正気を保っていると彩華に教えた。

「彩華?」

 掠れた声に、彩華はただ頷いた。

 彩華から目を逸らした光の方は、視線だけをあちらこちらに泳がせた。

「……私、死ねなかったの?」

 そして、その結論に辿り着いたようだ。

 その言葉に、彩華のこめかみがズキンと痛む。

 少しの間忘れていた鈍痛が、ズキズキと彩華を苛む。

 やはり。

 この方の行為は死を覚悟しての……死を望んでの事だった。

 彩華は、湧きあがる感情を持て余す。

 哀、なのか。

 怒、なのか。

 光の方に対するものなのか。

 己へのものか。

 分からぬままに、押し殺して。

「……二人にして下さい」

 控えていた侍女に告げる。

 鈴風に促されるよにして、消沈した侍女達が出て行くのを見届けてから。

「人の命は……時が至らねば、易々と尽きるものではありません」

 そうと告げた。

 冷たくも聞こえるだろう言葉。

 彩華は続ける。

 心の中で。

 そして、来るべきが来れば。

 どのように足掻いたところで、その命は儚く消えるのだ。

 彩華は花器に戻すタイミングを失い、手にしたままだった花を、光の方に差し出した。

「これの根をお飲みになったのですね」

 いつか、光の方が部屋に飾りたいと言った可憐なピンクの花。

 これの根が毒だと教えたのは彩華だ。

「毒、なのでしょう?」

 毒、に違いはない。

 だが、これは光の方が求めたものではない。

 だから、彩華は、首を横に振った。

「……これは……堕胎の薬です。多量に服用すれば、吐き気やめまいを起こしますが……死には至りません」

 あの時、そう教えなかったのは、何か意図があった訳ではない。

 多くをこの方と語らう事を拒否していた。

 だから、口にしなかった。

 それだけだ。

 光の方は、少しだけ目を見開いた。

「……そう」

 何かを思ったのか。

 幾らかの間を開けて、呟くように答えると、目を伏せた。

 また、少しの沈黙。

 そして、再び瞼が上がり、だが、その視線は虚空を見つめたままで、彩華を映しはしない。

「……馬鹿な女だと思うでしょう?」

 やがて、聞こえてくる言葉と共に、その可憐な唇に似つかわしくない自嘲の笑みが浮かぶ。

「死ぬ術も分からず……流されるままに生きていくしかないの」

 彩華に言葉はない。

 死さえ選べない。

 死のみが、そこにある。

 どちらも流されるままに命がある限りは、生きていくしかないのだろう。

「光の方様」

「そんなの、私の名ではないわ!」

 彩華の呼び掛けに、半身を起こすようにしながら、声を荒げる。

 そして、眩暈を覚えたのか、すぐに寝台に沈み込み、力ない手のひらが顔を覆った。

「……清夢様」

 名を呼ぶ。

 初めて。

 静かに、ただ、女神の心をこれ以上荒ぶらせまいとだけ願い、それを繰り返す。

「清夢様」

「……貴女のようになりたかったの」

 表情を隠したままの、くぐもった声での言葉は、しかし、確かに彩華に届いた。

「こんな場所にいるのに……背を伸ばして、まっすぐに何かを見ている貴女のようになりたかった!」

 いいえ、清夢様。

 背を伸ばさねば立っていられなかっただけ。

 まっすぐに、それだけを見ていなければ、崩れてしまっただけ。

「私など……」

 それだけ……だ。

 そして、それを失った私は。

「だけど、珪心だって、彩華を選んだわ!」

 清夢は顔を上げた。

 涙に濡れた頬は、先ほどの青白さを払拭し、昂る感情に紅潮している。

 こんな状況であるのに。

 生きている証のその涙の輝き、頬の美しさ。

 この方には未来があるのだと。

 あの娘にはない、それがこの方にはある。

 ならば。

「それが貴女のせいではないと分かっているの……だけど!」

 彩華は、ふと指を伸ばした。

 ハタハタと零れ落ちる涙を指先で救いながら。

 もう、良い。

 そう思う。

「……貴女様をお呼びになりました」

 もう、良いのだ。

 私が守るべきものは、もう、何もない。

 だから。

「え?」

「珪心様は……貴女様を呼んだのです」

 彩華は告げた。

 背筋を伸ばす必要などない。

 私など、崩れて落ちてしまえば良いのだから。

「……あの御方は、私などに心を揺るがしてはおられません。全て、私が仕組んだ事です」

 まっすぐに何かを見る事などできない。

 だって、『何か』はどこにもない。

 もう良い。

 私は……もう良い。

 だから、せめて。

 この姫君に、僅かな救いを。

「彩華?」

 彩華は、あの日の事を思い出す。

 月待草の香る部屋に、ほんの僅かに燻らせたのは、意識を朦朧とさせる麻薬の一種。

 彩華自身は、茶に浄化作用のある花を浮かべて、それから逃れていた。

 だが、現れた珪心は、気がつかぬうちに少しずつ意識を混濁させた筈だ。

 そこに、微弱な幻覚作用のある薬を混ぜた茶を飲ませた。

 あの時、珪心に何が起きていたのか。

 混乱する意識の中、目の前に現れたのは何だったのか。

 彩華は知らない。

 ただ、珪心の様子を探り……仕上げに、媚薬効果のある花を撒き散らしたのだ。

「貴女様が薬で命を絶とうとなさったように……私は薬で珪心様を操ったのです」

 魔女と呼ばれた祖母から譲り受けた知識を駆使して。

 母から受け継いだ、多少なりとは美しいと言われる姿を利用して。

「意識を奪い……身体の自由を奪い……珪心様を操りました」

 彩華の告白に、光の方はゆっくりと身体を起こした。

 重々しい動きのそれに、彩華は手を差し伸べる事はできなかった。

 この方に触れる事は許されない。

 そんな思いが、彩華の身動きを奪った。

「……そんなことが……できるの?」

 光の方の問いに頷く。

 薬を使い慣れたものが、悪意を持ってそれを使えば。

 できるのだ。

 意識を奪う事も。

 思うままに操る事も。

 そして、時には命を奪うことさえ。

 これを人は呪詛と呼ぶのかもしれない。

「……どう、して? どうして、そんな……」

 彩華は答えた。

 今更、何を隠す事もなかった。

「己の欲のため……私は私の欲しいものを手に入れるために」

 それだけのために。

 貴女と、貴女の想い人を傷つけたのだ。

 どんな罵倒も受け入れよう。

 いつか思ったように。

 名を呼び、呪詛を唱えるならば、それを待とう。

 もはや、彩華にできる事はそれだけだから。

「欲しいもの?」

 だが、光の方からはそんな問い掛けが発せられた。 

「正妃の座です。私はそれが欲しかった。だから、それを手に入れるために、王と取引をしたのです。貴女様のお心が珪心様から離れるように……策を講じ、それを成したと引き換えに今の地位を手に……」

「嘘」

 思いがけず、強い言葉で彩華の言葉は遮られた。

 光の方は、涙の止まった瞳で彩華を見つめる。

「貴女は嘘をついているでしょう?」

 彩華は、首を振った。

「……いいえ、嘘など何も……」

「欲しいものとは何?」

 問われる。

 私が欲しいもの。

 それは。

「正妃の座が欲しいなんて……そんな嘘でしょう?」

 そうだ。

 そんなもの欲しくなかった。

「貴女が欲しかったのは、何?」

 私が欲しかったのは。

「それは……手に入ったの?」

 手に入ったの?

 入れたと思った。

 そう思わなければ、ここにいられなかった。

 己のした事に耐えられなかった。

 なのに。

「その答えは、俺も聞きたいものだな」

 突如、背後から聞こえた声に、彩華は振り返った。

 バルコニーから、闇の王が現れる。

 闇帝は足音もなく近付き、目の前に立って彩華に尋ねる。

「……お前は何が欲しかったのだ?」

「私は」

 彩華は、王を見る事ができなかった。

 光の方も。

 周りをちらりと見る事さえ。

 ただ、俯き、弱々しく懺悔する。

「私は……何もいらなかったのです」

 ずっと、言い続けてきたそれだけが本当。

 いらなかった。

 いや、違う。

 欲しかったものは、あの雹の国の小さな村で暮らす日々。

 裕福ではなくても、豊かだった。

 凍えるような寒さの中でも、温もりがそこに在った。

 願ったのは、それが少しでも長く続くこと。

 それだけだったのに。 

「彩華?」

 ふらりと自らの身体が揺らぐのを、肩を支えられる。

 いらない支えだ。

 もう、立っている必要などないのだから。

「……ただ、静かに暮らしたかった。たった一人の……それだけだったのに」

 彩雪。

 たった、一つの私の宝物。

 願ったのはあの娘の幸せのみ。

 呪いめいた治療では治らぬ病も、然るべき医者がしかるべき治療を施せば助かるだろう、と。

 その言葉を信じて、託したのに。

 きれいなドレスを身につけて、嬉しそうに笑う姿を思い出す。

 小さな村では手に入らぬような食べ物は、食欲の落ちた娘を僅かなりでも立ち直らせたと聞いた。

 だが。

 そこまでだったのだ。

 それ以上は、もはや無理だったのだ。

「彩雪」

 大事な大事な名前を囁く。

 ごめんね、と。

 私は愚かだった。

 大事なものを見過ごしたのだ。

「彩華」

 腰を抱かれ、頬に触れた手が強引に顔を上げさせる。

 彩華は己の身体がふらつき倒れ、それを王が支えたのだと気がつかなかった。

「……彩華」

 名を呼ぶこの人は誰?

 私はどうしてこんな所にいるの?

「……華?」

 それは、今となっては彩雪しか呼ばない名。

 あの子はいないのに。

 だから、もう誰もその名を呼ばない。

 なのに、この人は、どうしてその名を呼ぶの?

「……もういい」

 何がだろう。

 何が、もういいのだろう。

 だが、この声がそう言うのならば。

 もう良い。

「少し、休め。話はそれからだ」

 話?

 何も話す事などない。

 だが、答える事はできなかった。

 目の前の闇が近づいて。

 深い深い暗黒。

 これが絶望であれば良い。

 もう、彩華には何もない。

 闇の中で、永遠の眠りが訪れてくれれば。

「華」

 周りが暗闇に包まれる寸前に、聞こえた声。

 拒みたいのに、その強さに引きずられて一瞬瞼を上げる。

 彩華の目に映ったのは、いつもと変わらず表情のない闇の王。

「華」

 もう一度呼ばれる。

 彩華は弱々しく首を振って、瞼を閉じた。

 そして、闇は彩華を包みこんだ。

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