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23 正妃としての日々

 元は王の私室であった、今は正妃の間と呼ばれている部屋の一角に黒い塊が運び込まれたのは、残酷に照りつけるばかりだった日差しが幾分和らぎ、熱を運び続けた風にほんの僅かではあるが涼しさを感じるようになったある日の事だった。

 そっと柔らかく背を押されるようにして夕月に促され、彩華は目の前に並べられたそれに近付いた。

 運び込まれた時には、黒の一塊に見えたそれら。

 だが、よくよく見てみれば、紺、藍、紫……いずれも一瞬黒かと見紛うばかりの深く濃い色彩ではあるものの、それぞれが各々に様々な光沢と色彩を放っている。

 彩華はそっと手を触れて、その形をなぞった。

 柔らかくしっとりと手に馴染むもの。ずっしりとした重みを感じさせるもの。

 色が一つ一つと違うように、触れてみればそれぞれ感触をも違う事に気がつく。

 そして、更にしっかりと見てみれば、控えめながら施されている装飾もまた、気品に溢れて美しいものばかりでありながら、どれ一つとして同じものはない。

 見事だ。

 何の意図もないただただ感嘆のみを込めたため息が零れた。

「いかがでしょう?」

 背後に控えていた夕月がそう尋ねてくる。

 彩華は触れていた衣から、視線と指先を離して振り返った。

「素晴らしいわ」

 正妃らしい称賛の贈り方など分からない。

 だから、率直でしかない、それでも心からの讃辞を言葉にすれば、夕月の傍らに立つ壮年の男性がほっとしたように緊張を解いた。

 先ほど紹介された宋燕そうえんという仕立職人は、彩華に向かって頭を一度頭を下げてから

「よろしければ、もう少しご覧下さい」

 その年齢の男性に相応しい落ち着いた響きに誘われて、彩華は再び衣に手を触れる。

 これらは、すぐにも訪れるという、この地の厳しい寒さに備えて用意された闇帝の衣だった。

 正妃となって間もなく、これも正妃の役目の一つだと夕月に諭されて、戸惑いながらも、無数にあるかと思われた生地の海から、彩華が選んだ数々。

 それらが、仕立て上がったため、確認して欲しいというのも、また夕月の願いであった。

 だが、確認など不要だろう。王の身体を知り尽くした者が、精魂込めて作り上げたこれらに、どんな難があるというのか。

 そうは思いながらもついついと魅せられて、見事な衣へと仕立てられているそれらを一着一着と丁寧に眺める。

 気がつけば、全ての衣に目を通していて、最後の一着となった事に気がついた彩華は少々慌てて、背後の二人を見遣った。

 彩華よりもよほど年上の二人は、焦れた風も苛立った風もなく、むしろ僅かに目元を緩めるようにして夫なる王の衣装を丹念に見遣る正妃を見ていた。

 彩華は、納得の意を伝える意味で大きく頷いて見せて、衣装から一歩退いた。

「ご満足頂けたようで安心致しました。では、これらは衣装部屋の方に納めて参ります」

 宋燕が言って、軽く手を打つ。2度の小気味良い音にすぐに扉が反応し、二人の女性が現れて、衣装を運び出していった。

 それに続いて、彩華に一礼して出て行こうというその背に

「……あ」

 彩華は呼びとめる言葉を知らないながら小さな声を上げていた。

 それに気がついたらしい足が止まる。

 振り返った彼に彩華は素直に述べた。

「私はこのような事には疎いものですから……馴染まぬものもあったのではないでしょうか」

 言えば、職人は恐縮したように、しかし年相応の落ち着いた物腰で首を振るう。

「いいえ。畏れながら申し上げますが、彩り、性質共に、陛下をよくご存じのお方様が選んだ生地であると感心しながら仕立てさせていただきました」

 そして、もう一度頭を下げてから向けられた背中を、彩華は今度は黙って見送った。

 職人の恐縮した様子からすれば、今の言葉は出過ぎたものだったのかもしれない。

 思いながらそっと隣を伺うと、夕月が穏やかに微笑んでいて、それほどの失態ではないらしいと彩華は察した。

「……本日の予定はこれで終わりです」

 どうやら、今日も大きな過ちを犯す事なく終える事ができたようだ。

 彩華は夕月の言葉に頷いて、密かに胸を撫で下ろした。


 今更ではあるが、彩華は地位としては自ら望んで手に入れたものの、真に正妃でありたいと願った訳ではない。

 己の全てを、投げ打って。

 例えば罪悪感とか、良心とか……彩華の根底にある、きっとそう呼ばれるべきもの。

 それらを押し殺して、たった一つを守るために、正妃という座に固執し、そして、手に入れた。

 本意ではない。そんな地位、本当はいらない。

 それは嘘偽りのない事実だ。

 だが、彩華の思惑など、他の者達にしてみれば、預かり知らぬ事だ。

 宮廷内に勤める勤勉な使用人達。

 国内で日々を生きる健気な国民。

 彼らにしてみれば、彩華の思いはどのようであれ、そこにいるのは闇帝の選んだ妃であり、唯一無二の存在に違いない。

 正直に言えば、闇帝と契約を交わしたその時には、そこまで思い至ってはいなかった。

 手に入れる事に必死だったから。

 そして、正妃と呼ばれるようになってからもしばらくは、ただただ部屋に閉じこもり存在を隠すかのようだった。実際、有名無実の妃であれ、と彩華は願っていた。

 だが、時が経つにつれ、それが許されなくなっていくのは、必然だったのだろう。

 公にその権威や権力が定められて。

 宮廷内にその存在が浸透していけば。

 突如として現れた正妃の扱いを計りかねていたような周りの者達も、正妃は正妃として扱わざるを得なくなる。

 また、彩華自身も、落ち着いてくれば周りを見遣る余裕も出てくる。

 その地位は、決して彩華が望んだものではない。

 そうは思いながらも。

 それでも、己は正妃という玉座に今まさに座している身なのだ、という自覚を促される。

 そうなれば。

 玉座に留まる事を望む以上、それが義務であると課せられれば、すべき事はすべきだ。

 そう心が決まるのに、さしたる時間はいらなかった。

 とは言え、然るべき教育を受けた訳でも、飛び抜けた才がある訳でない、一人の無力な娘だ。

 大きな事を、多くの事を、望まれていよう筈もないから。

 宮廷内の陳情に耳を向ける。

 可能な限り、それに応えて報いる努力をした。

 旬陽や夕月に乞われて、宮廷の外にも足を向けた。

 そこでも何を望まれた訳ではない。

 焼け野原を耕す民に目を向けて。

 戦により傷ついた子の手を握る。

 それだけの事を。

 できるだけの事を。

 ただ、懸命に成して。

 気がつけば、ほんの数カ月の間に、彩華は宮廷内や城下において、正妃として確固たる地位を築き上げる事に成功したようだった。

 ただ、これは、己の思い描いていた状況なのかは分からない。


 彩華はラグに座って息をついた。

 すぐに鈴風がお茶を差し出してくれるのに礼を述べて、良い香りのするそれを口に含む。

 優しい温かさが身体を満たしてくれるのに、更に深く息を吐いて。

「少し約束の時間より早いけれど……朝月の仕事は終わっているのかしら?」

 一心地ついて、傍らに控える鈴風に尋ねると、穏やかな笑みを浮かべた侍女は淀みなく答える。

「はい。今日は正妃様とお約束があるからと、朝から張り切って仕事をこなしておりましたから」

 小さな少女が一生懸命に与えられた仕事に打ち込む様を思い描き、彩華は僅かに唇を緩めた。

「私の方はいつでも構いませんから、手が空いたらこちらへ呼んで下さい」

 言えば、鈴風は短い返事をし、すぐさま部屋を出て行った。

 ようやくのように一人になった彩華は、先ほどお茶に満たされて零した穏やかな吐息とは違う、重さを含んだ息を吐いた。


 正妃と呼ばれるようになって。

 穏やかな日々が過ぎて行く。

 もちろん、それは上辺だけの事だ。

 西方より戻ったと聞いている珪心とは、未だ顔を合わせてはいない。

 あれ以来一度として顔を見ていない光の方は……泣き喚く事こそ最近は少なくなったが、まるで生気のない人形のように、日々を過ごしていると耳に届いている。

 どちらも、忘れてはいない。忘れられる筈もない。

 常に胸に重く伸し掛かり、時には、罰を与えられるように頭痛に苛まれる。

 しかし、身勝手なもので彩華の身辺は、確実に平穏さを取り戻している。

 宮廷内は彩華の存在に慣れ、受け入れ、そして、心苦しくも尊重までされている。

 王が自身の公務に彩華を伴う事はなく、夜に部屋へ戻って朝までを過ごす。

 王の出掛けた後は、いくらかの公務をこなせば、彩華にはかなりの自由な時間が残される事となった。

 それを自らのために使うなどとは、考えられなかった。

 罪悪感とか、焦燥感とか。

 そんなものに押し潰されそうになりながら。

 立つ事に必死だったから。

 しかし、彩華の心中をどのように考えたのか、侍女達はその時間こそを心穏やかに過ごすようにと願うのだ。

 そうなれば、彩華にとっては侍女達に気を遣わせないために、正妃が何憂う事なく過ごしているのだという何かしらの建前が必要になった。

 これが、なかなかに難題だったのだ。

 宮廷内は自由に出歩く事は許されていたが、正妃が一歩と部屋を出れば侍女や衛兵が付き添ってくる。

 それだけではない。

 正妃の姿を認めれば、忠実な宮廷内の使用人達は手を止めて跪かんばかりに頭を下げるのだ。

 居た堪れない。

 それが正直なところだった。


 彩華は、軽く頭を振った。

 何を振り払ってでもないが、何かをふっ切って、ラグの隅に片付けてあった箱を引き寄せる。

 蓋を開ければ、まず、視界には黒い生地。

 取り出して広げれば、それは先ほどと並んだものと、同じような漆黒の衣装となる。

 少し違うのは、生地が真冬の寒さを凌ぐ程には重厚ではない事だ。

 それを膝に広げて、彩華は続けて箱から、銀の糸を通した針を手に取った。


 結局、与えられた自由な時間を使うために、彩華が思いついて始めたのは刺繍だった。

 精巧な刺繍を施した織物は、貧しい国である雹の数少ない特産品として知られている。

 一年の内の決して少なくはない日々を雪に覆われる国。

 外に出る事が憚れるような寒い日には、雹の女達は針と糸を持って、火の周りに集まる。暖かなお茶を飲み、おしゃべりをしながら鮮やかな模様を大事に織り上げた生地に描いていくのだ。

 かの国で暮らしていた頃の彩華も例外ではなかった。

 凍える日には、たった一人の家族と一枚の膝掛けを分け合って暖を取りながら、大きなタペストリーなどを作り上げたものだ。

 それを思い出しながら。

 傍らにいた、だが、今は彩華の胸の内にのみ存在する娘に思いを馳せながら、一刺し一刺し進めて行く。

 それは、部屋で大人しく過ごす良い言い訳になったし、何よりも彩華が何のためにここに在るのかを思い出すための貴重な時間ともなった。

 そうして始めた刺繍は、当初は孤児院にいる子供達に贈られる質素な衣服を飾る程度のものだったのだが、それを見た夕月が王の衣に装飾を施して欲しいと申し出てきた。

 そのような技巧は持ち合わせていないと固辞した彩華だったが、是非と押し切られる形で少し触れただけでも最高級の織物で仕立てられれていると分かる衣を手渡されてしまった。

 闇の王が纏う、闇色の衣装。

 時には紅を飲み込む事もあるであろうこれに、華美な紋様は似合わないだろう。

 そう思いながら、図案を描いて、それを銀糸で表現していく作業は、彩華に時間を忘れさせ、既に両袖口を縫い終えて、裾へと場所を変えている。

「……ああ、朝月。きちんと仕事は終えてきた?」

 控えめなノックの後に顔を出した侍女に、先ほど鈴風に確認した事を念のため本人にも尋ねる。

 朝月はコクリと頷きながら、裁縫道具の入った箱と、淡い黄色の生地を持って部屋へと入ってきた。

「こちらへいらっしゃい」

 朝月は彩華の誘うままに傍らに腰掛けた。

「どこまで、できたの? 見せてみて」

 促せば、持っていた布地を広げて見せる。

 何の飾り気もない極々シンプルな型の衣だ。その裾には、ピンクの糸で、華やかな模様が途中まで描かれている。

 彩華は先日確認した場所から進められている一目一目を指で追って、出来栄えを確認していく。

 刺繍を始めてまもなく、彩華の手元を朝月が興味深げに見つめている事に気がついた。

 そして、それから時を置かずして、夕月と涼風の二人から、朝月に刺繍を教えてやって欲しいと願われた。

 二人の年長者が揃って願い出た事が、彩華が何を憂うことなく朝月に手ほどきをして良いのだと告げて、二つの条件を出して快く引き受けた。

 仕事を優先させる事。

 これは仕事ではないのだから無理をしない事。

 朝月はそれを良く守りながらも、着実に腕を上げていた。

 最初は、布の端切れに比較的単調な模様を描く事から始め、今では、こうして自身の普段着に少し凝った色を乗せる事ができるまでに。

「きれいにできているわ。ここから先は少し複雑になるのだけれど」

 言いながら、二人で相談しながら描き上げた模様図を示せば、生真面目な顔で図面を見つめて、彩華の言葉に耳を傾ける。

 その様子が。

 一途さとか。

 生真面目さとか。

 見目は少しも似ていないのに、彩華の記憶にある姿とピタリと重なる。

 あの娘も、今頃はこんな風に針を動かしているだろうか。

 それができるほどに。

 そうであれば。

 ここにいる彩華の意味があるのだ。



 朝月の手元を見遣りつつ、自身も膝に広げた織物に色を乗せて行く。

 無心に続けていたそこに、鈴風の声が響いた。

「正妃様」

 はっとして彩華が顔を上げれば、鈴風とそしてその傍らには王が立っている。

 彩華は慌てて王を迎える体勢を整えようと立ち上がりかけたが、すぐに低い声に止められた。

「……そのままで構わん。それよりも、これを」

 王に促されて鈴風が手にしていたそれを彩華に差し出す。

 彩華の視線が自然とそちらに向かう。

 見覚えのあるような布地が、鈴風の手元に恭しく掲げられている。

 きれいに折りたたまれており、何なのかは分からないのに。

 彩華の心臓がトクンと鼓動を刻んだ。

「雹の国より届いたものだ」

 では、これは貢物。

 あの王が贈ってきたものだというのに、頭がすっと冷える。

「……朝月が刺していた模様に似ていると思ったのだが」

 王がそう言うのに応えるようにして、鈴風が手元でそれを広げた。

 ああ、確かに。

 冷えたように思えた身体に、すぐさま、熱が戻る。

 鈴風の手元にあるそれは、ほんの少し前まで彩華の周りに溢れていた織物だった。

 雹の山間にのみ生息するアルルの毛を丁寧に刈り取り、そして、何人もの職人により様々な工程を経て、それは一本の糸となり、やがては一枚の布地となる。

 これに、女達が刺繍を施したものが、雹の国を代表する特産品となるのだ。

「……今はまだ暑うございますが、この地はすぐにも寒さがやってまいります。その際にお使いになられてはいかがかと」

 鈴風の申し出に、彩華は少し迷った。

 あの王からの贈り物だと思えば、受け取りたくはない。

 だが、そう突っぱねてしまうには、それはあまりにも懐かしい。

 思わず鈴風から受け取ってしまうと、朝月が手を貸してくれるに任せて大きく広げて全貌を明らかにする。

 ふわり、とラグに重ねるように広がるそれは。

「美しいものだな」

 王の呟き。

「はい」

 彩華は頷きながらも、王とは違う感情に揺り動かされた。

 そっと指先を触れてみる。

 その感触は、名無しの国に献上されるのに相応しい最高品質のものだと分かる。

 遠目には懐かしさを感じたものの、しかし、これは雹の国にいた頃の彩華が、易々と手に入れられるものではない。

 ただ、描かれている図柄は、やはり郷愁を誘う。

 これが雹の国のものである事を謳うように伝統的な、国特有のもの。

 彩華は模様の一つ一つを指で辿り。

 それがとある一つで止まる。

 色鮮やかな模様に埋もれるように。

 だが、どの模様よりも切実に、彩華に存在を訴えてくる。

 彩華はねだられているかのように、愛しさを抑えられない指先で重なる糸を何度もなぞる。

 それは王が似ていると言った通り、いや、それどころか、今まさに朝月に教えていた模様だった。

「正妃様?」

 鈴風に呼び掛けれて、彩華ははっとした。

 思いがけないものを発見し、周りを忘れる程にそれに見入ってしまったらしい。

 鈴風と朝月が、いささか心配げに。

 王はいつもの通りの静かさの奥に、いぶかしむ色を僅かに乗せて。

 彩華を見ていた。

「……ここが今、あなたが刺しているところ」

 彩華は再び織物に視線を戻し、何事もなかったかのようにそう言って、覗き込む朝月に教える。

 今さっき、彩華が何度も指でなぞった一つの模様だ。

 朝月は真剣な顔で、模様を目で追って、そして、自分の刺していた糸目を確認している。

 彩華はその言葉を最後に再び口を閉じ、ただ、広げた織物を見つめた。

 誰かが。

 意図的に、これを刺し、彩華に届けたのだ。

 でなければ、この模様がこんな風に目の前に現れる筈がない。

 これが名無しの国に届けられる事を知って。

 正妃である彩華の元に届けられる事を願って。

 誰か……もし、その誰か、があの娘ならば。

 それは、なんて。

「気に入ったようだな」

 不意に王の声が聞こえてくる。

 声の方向をとっさに振り仰げば、王が彩華の傍らに膝をついたところだった。

「お前がそのように興味を持つのは初めて見る」

 そう言って触れてくる手のひらを大人しく頬に受け入れて。

「持参した甲斐があった」

 王の視線と言葉の柔らかさに、素直な言葉が出ていた。

「ありがとうございます」

 王の顔が近付いてくる。

 何をされるかは、もう分かっているから。

 目を伏せれば、軽く唇が目元に触れて。

 すぐに離れて行くかと思われたそれは、肌の上を頬へと滑り落ちて行く。

 だが、これさえも、既に慣れたように思える触れ合いだ。

 彩華は大人しく受け入れる。

「今夜は戻れん」

 やがて、王は囁いた。

「……はい」

 何の感情も乗せぬように気をつけながら答えれば、王の唇は最初に口づけた場所に再度押し付けられて。

 頬に添えられていた手のひらが、そこを幾度と柔らかく撫でてて……やがて、何かを告げるように親指が唇をなぞって離れた。

「……いってらっしゃいませ」

 立ち上がった王に声をかけ、それに頷いて歩き出した背が扉の向こうへと消えるまで見送る。

 今晩は、一人の夜だ。

 どこかが、微かな痛みを訴えている事は、最後の足掻きのように気がつかない振りをし続ける。

 手元に残されたのは漆黒の衣装と、鮮やかな色合いの織物。

 どちらも手離せぬまま。

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