22 香りの行方
月待草はその名の通り、満月を待ち続け、その一夜のみに咲く花だ。
日が落ち始め月が空に浮かぶ頃に蕾が綻び始め、満月が夜空の中心を彩る頃には小さな花をめいいっぱいに開ききる。そして、月の光が朝日に取って代わられるのに合わせるように花は萎れて、やがて地に落ちるのだ。
それは野に自ら花開こうと、人の手により大事に丁寧に咲かされようと変わることはない。
もっとも、可憐と言えば聞こえが良いが、貧相という言葉こそがお似合いの小さく不格好な花だ。
まして、花開くその瞬間には人に眉を潜ませるような饐えた匂いを放つともなれば、好んで庭に植える者などいないだろう。
だが、この花には秘密がある。
その秘密故に、薬師の庭にはこの花が必ず植えられている。
月待草は、不思議な事に、花開いた茎を手折った途端に香りを変えるのだ
それは、まるで、秘密を共有する者のみに与えられるご褒美のように。
なんとも心地良い甘い香りを放ち始める。
そして何よりもその花を薬師が愛でるのは、手折った後の香りが鎮静や鎮痛の効果を持つからだ。
それが決定的な治療ではなく、一時の誤魔化しだとしても、高価な治療を受ける事や薬を手に入れる事のできない者達にとっては、何にも代えがたい救いとなる。
しかも、一月に一度しか咲かないとはいえ、花弁を茶色く枯らした後も、香りだけは瑞々しいままに漂わせ続ける事も、この花の秘密を知り、頼りにする者にはありがたいことだ。
逆にどのような処置を施しても、この花自身の意志であるかのように、その香りは一月経てば不思議と消えてしまう。
一晩しか咲かない儚さと、香りを長く留まらせる強かさ。
そして、どれほどの者が足掻いて乞おうとも、時が至れば潔く香りを断ち切る誇り高さ。
みすぼらしい花であるにも関わらず、花を扱う者達の間では『慈悲深き月神の娘』と呼ばれているのは、それが所以だ。
王が届けさせたという花束の中にあった月待草もまた例外ではなく、翌朝にはすっかりと萎れてしまった。
月待草の性質を知らなかったらしい朝月が、オロオロするのを『これはそういう花なの』と宥めて、彩華は水を満たした小さな器を幾つか用意させた。
まだ辛うじて茎についていた花弁を一枚ずつ丁寧に剥がして水に浮かべれば、茶色い花が元の姿を取り戻すことはなかったが、フワリと瑞々しい香りが立ち上る。
それを部屋の何か所かに置くと、程良い香りが空間を満たした。
嬉しそうな顔で見上げる朝月に、笑みは返せないが頷いてみせて、月待草を尻目に咲き誇り続ける花々を整えて花器へと戻した。
手振り身振りで朝月が彩華に伝えたところによると、王は自らこの月待草をどこからか手折ってきたらしい。
それを朝月に手渡し、夜の内に必ず彩華に届けるようにと命じたそうだ。
香りの良さにすぐ朝月は気がついたが、幾本かをまとめてみても見た目があまりに寂しいから。
夕月と二人で夜中の庭に出て、月明かりの元で花を摘んで束を作ったのだ言う。
あの王が、自ら花を手折ってきた、というそれに彩華はつい目を瞠ってニコニコと微笑む朝月を見つめてしまった。
心優しい侍女達が花を摘む姿は容易に想像できるが、男が月夜の元で花を手折る姿など思い描ける筈もない。
ユラユラと水の上をたゆたう花弁。
どうして?
優雅な花弁の揺らぎとは反対に、彩華の心は激しく荒々しく波打つ。
どうして、そんな。
この心が、月待草を必要としていると?
乱れて。
痛んで。
寂しい小さな子のように、寝台の上で身体を丸めて眠れぬ夜を過ごしている事を知っていたとでも?
だから?
まさか。
でも。
部屋を満たす月待草の香りが、その効用と裏腹にますますと彩華を落ち着かなくさせる。
だから、その考えを無理矢理に断ち切って、朝月が夕月と共に摘んだという花束に手を伸ばした。
淡く優しい彩りの、そして、あまり香りの強くない花々が選ばれている。
夜中に少女がこれを摘んだのだ。
それは間違いなく彩華のために。
こんな紛いものの、醜いばかりの正妃のために。
何度も指先で花を撫でると、朝月が嬉しそうに笑う。
その心遣いが、朝月の邪気のない笑みが、彩華の取り乱す心を切ない程に暖かくしてくれるから。
「ありがとう」
彩華は心から素直に礼を述べていた。
花が与える筈の穏やかさを少女から与えられて、上辺だけは静かな日々が続いてしばらく。
届けられた花々が見苦しくなってきたからと夕月が部屋から持ち出したその夜に、王は彩華の前に姿を見せた。
いつものように前触れもなく突然と部屋に現れた王は、身に付けた衣服を荒々しい仕草で寛げながら、ラグの上に座る彩華へと近付いて来る。
既に眠りにつく準備が整っていた彩華は、寝着の上にショールを羽織っただけの心もとない姿だ。
腰紐一本が解かれれば、すっかりと跡の消えた肌を晒す事になるだろう。
そんな事を思えば。
そして、先だっての闇帝の執拗な行為を思い出せば。
今すぐにこの部屋から逃げだしたいような思いに駆られる。
だが、彩華がここから走り去れる筈もなく、だから、強張る身体に言い聞かせる。
先日のあれは、王の気紛れ。
望めば、どれほどの美姫をも手にできる方だ。
そして、真に求めるのはあの女神のような姫君。
易々と私のような凡庸な女に手を伸ばす筈もない。
しかしながら、いくらそれが納得のいくものだったとしても、上衣を床に脱ぎ捨てた王が、薄い下衣のみの身軽さで彩華の傍らに腰を下ろせば、強張った身体がビクリと震えた。
「華」
王が呼ぶ。
その名で呼ばないで下さい。
呼ばれるたびに、そう乞うのに。
その苛立ちを糧に、彩華は怯む心を奮い立たせて顔を上げた。
だが、間近に見る、久しぶりというには少し日が足りないようにも思える男の面には、いくばくかの疲労感。
そして、常に纏う他者を飲み込まんばかりの圧倒的な暗黒の空気の中、曇りなく鮮やかな光を放つ双眸が、妙に穏やかに彩華を見つめている。
会いたくないと思っていた。
王に会わないこの数日間は、まやかしであろうとも穏やかな日々で、彩華はそれが続く事を願っていた筈だ。
「……おかえりなさいませ」
なのに、王の視線を受け止めた途端。
逃げたいと思った事が嘘のように。
名を呼ぶ事を咎めるために顔を上げたのに。
そんな事は全て消え失せて、彩華は王の帰還を受け入れていた。
と、その一言が何かの合図であったかのように、王の腕がいきなり伸びて彩華の腰を抱く。
僅かに力を抜いていた身体は一瞬で再び硬直するが、それが男の動きを阻む事はないようだ。
力任せに抱かれた腰を引き寄せられると同時に王が身を伏せ、輝く金の髪が己の崩れた膝の上に乗せられるのを、半ば呆然と受け入れた。
呆気にとられる彩華をちらりとも見ず、膝を枕に横たわった王は早々に瞼を閉じてその瞳を隠す。
青空の光が失われる。
だが、輝く髪が、覆い尽くすような闇に一筋の光を差して、彩華にそれを見せる。
暗黒の中央に君臨する帝王は、隠しきれない疲労感を浮かべる一人の男に戻って、そこに在った。
彩華は、その存在に、もう困惑しなかった。
強張っていた身体をそっと息を吐く事で緩め、二つの扉を見遣る。
王が戻ったというのに、どちらの扉も開かれる気配はない。常ならば王の帰還に合わせて姿を見せる筈の侍女達が現れないのは、そう命じてあるからなのだろう。
食事も酒も、侍女達が用意しなければ、今ここにはない。
だが、それは王の望みに違いない。
王は、今、何もいらないのだ。
ただ、静かに疲れた身を癒したいだけ。
もしかしたら。
いいえ、きっと。
本当は、彩華もここに在ってはいけない存在だ。
元より、ここは王の私室だった場所。
本来であれば、王が唯一王でなくなる空間。
ここに入り込んだ彩華は、今は望まれぬ異分子に違いない。
だからせめて、と大人しく望まれるまま王の枕に徹した。
「香るな」
どれぐらいの時間が過ぎたのか。
不意に呟きが聞こえた。
その穏やかに上下する胸元と、幾分疲労感を潜めた面を見るともなく眺めて、すっかり王が寝ているものと思っていた彩華は驚いて、己の膝に在る端正な顔を凝視する。
「この花の香りかと思ったのだが」
王の瞼は閉じたまま。
また、呟かれる。
この部屋を満たすのは、もちろん、月待草の香りだ。
独り言のようなそれに彩華が何も応えずにいると、王の瞳が現れる。
繋がる視線は途切れることのないまま、いつものように重厚でありながらも隙のない動きで、王は肘をついて膝枕から頭を上げた。
そして、彩華の胸元に鼻先を寄せる。
思いがけない王の行動に反射的に身を引くと、背中に腕が回り、抱かれるように動きを止められた。
「違うのか」
三度呟く王は、彩華の胸元で、大きく息を吸う。
何を探られているのか。
何も後ろ暗いところはない。
ここで香りを放つのは、月待草以外に何もない。
少し前の彩華ならば、大人しく闇帝の詮索を受け入れたかもしれない。
しかし、王が彩華に植え付けた過去が、それを拒ませた。
探られている不安より、よほど大きい羞恥と恐怖に身じろげば、彩華の身をやんわりと包みこんでいた紗がするりと落ちて、強張る肩は絹一枚を纏うのみとなる。
「いや……違わないのか?」
王は完全に半身を起こし、彩華の背と膝に腕を添えた。
軽々と彩華の身は浮き上がる。
「……っ何を……」
王の動きに僅かに引っかかっていた紗は、彩華を包む事を完全に放棄してラグへと落ちた。
胡坐をかいて座る男の脚の間へと子供ように座らされて、その広い胸元へと抱き寄せられる。
王の身を包むのも、また、薄手の下衣のみ。
2枚の布に隔たれているとは思えない程に、重なる体温が熱い。
あの時の感覚が一気に甦るようで。
認めたくなくても、確実に与えられる快楽を拒めなかった己を思い出して、まだ動く身体は闇雲に王の胸元から抜け出そうと足掻く。
「暴れるな」
いつもと変わらない鋭い命令。
だが、端に柔らかさを含んで聞こえるのは気のせいか。
更に抱きこむ腕の力は到底振りほどけるものではないのに、微塵の乱暴さも感じられない。
「香りが濃くなる」
この部屋に香るのは、王自身が手折ったという月待草に他ならない。
仄かに香りながら、人を落ち着かせる。
例え……私の心は乱されようとも。
「……この香りは催淫効果でもあるのか?」
それは、彩華の耳元で囁かれた。
吐息が耳朶に触れれば、まるで、王の言葉が真実であるかのように、彩華の身体は震えて一気に熱に蝕まれる。
だが、囁かれた言葉の意味は、彩華の思考の一部を何とか冷静なままに押しとどめた。
それは、王が彩華にこのような行動を取るのは不本意だと告げる言葉ではなかろうか。
この香りには何かしら王を誑かす手管があるのではないかと。
この王はそう言っているのだろう。
それは、彩華が薬を操ると知っていれば。
王が本来彩華に欲望を向ける事などないのだと思えばこそ。
当然の言葉なのだろう。
彩華自身、何度も思った事だ。
王が私を求める筈がない、と。
それでも、羞恥、怒り……それから、哀しみのような。
複雑な形の感情に堪え切れず、再び、身を捩れば。
「……動くなと言っている」
そう言って、王は腕の力を強めた。
痛みを覚えそうな強い抱擁に変わった事に、彩華はその力のせいばかりでなく動けなくなる。
「月待草の香りというのは、本当に効くようだな。あれの元へと届けさせた花は……確かにあれを眠りに導いたらしい」
あれというのが誰か。
尋ねるまでもないだろう。
王の心に在る女神。
恋を無残に奪われ、嘆き悲しむ哀れな姫君。
王が手折った花が、かの女君を一時の安穏に導いたのか。
それこそが王が花を手折る意味だ。
あの花を真に届けたかったのは、私ではない。
この方が月待草を手折る瞬間に思い描いたのは、私ではない。
その事に、彩華は心の底からほっとした。
この方のお心は、光の方様に向いている。契約を交わしたあの時と、闇帝の求めるものに変わりない。
揺れる心は不意に静まり、身体は安堵に無駄に力む事を止めたのに。
チクリ、と針に刺されるように、痛んだ気がした。
何が痛みを産んだのかも。
どこが痛んだのかも。
気がつかない振りをして、何も考えないようにする。
「だが、お前は」
香りの元を探るように。
彩華の髪に顔を埋める王の深い呼吸を感じる。
王の心が欲しているものを知れば、これは契約に過ぎない。
だから、彩華は肌の上を滑りながら啄ばむ王の唇を大人しく受け入れた。
首筋で止まったそれが、跡を残すための痛みを予感し、どうかそこに甘さがないようにと祈りながら待った。
「確かに、花の香りもするが……他に何か燻らせているのか?」
しかし、痛みは訪れず、なおも何を探すかのように王は彩華の身を抱き寄せるばかりだ。
まだ、疑われているのか。
それほどに王にとって、己の存在は不審を抱かせるものなのか。
「……何も……何もしておりません」
答えた声は、自分自身でも戸惑う程に、弱々しいものだった。
そして、どうしては喉の奥が痛く、目頭が熱い。
それが何の前兆か。
これも、また気がつかない振りをする。
だが、彩華が気がつかない振りをしたところで、男は気がつき、そして残酷に暴く。
王は少し腕を緩めて、俯く彩華の頤を掴むと顔を上げさせた。
「……そんな顔をするな」
王は僅かに眉を寄せて、彩華の頬を指が撫でた。
どんな顔をしているのかは分からない。
ただ、もはや無表情を作り上げようと努力する事さえ諦めた。
彩華は目を伏せて、僅かな顔を背けて王の指先が頬に触れる事を拒否した。
「お前が何かを企むと疑っている訳ではない」
王は再び彩華の胸元へと鼻先を埋める。
「……だが、この香りが……」
王の低い声音には苦々しいような、そこはかとない熱を孕むような。
「陛下?」
彩華を捕えて抱き寄せていた腕が、今度は彩華をラグの上に横たわらせた。
重なる事なく見下ろしてくる瞳は、変わらぬ冷たさを湛えた碧。
しかし、注がれる視線には、やはり熱。
「……違うのか」
今までのやり取りで湯浴みの後に鈴風が丁寧に水分を拭い、緩やかに三つ編みに編み込んだ髪はすっかりと乱れてあちらこちらとほつれて零れている。
その一筋を、王の指先が捕える。
何かを確認するように。
それに口づけられて。
そこは彩華の一部ではあっても感覚がある筈もないのに。
肌に直接触れられたように、身体がビクンと揺らぐ。
「……華……」
その名で呼ばれるのは嫌。
その声で呼ばれるのは、尚更に。
呼ばないで。
声に出せず、彩華は首を振った。
声に出したところで叶えられる事のない願いは、声に出さなくとも届きはしただろうに。
「華」
名を呼びながら、当然であるとばかりに王の大きな身体が重ねられる。
首筋に触れた唇は、今度こそ彩華の覚悟したものを与える。
チリっと感じる痛み。
そして、認めたくない甘さもやはり。
嫌。
なのに、拒めない。
どんな一言さえ口にできず、彩華はただ身を強張らせて、これが必要な事であるのだと言い聞かせる。
『証』だ。
それだけ。
そう思えばこそ耐えるのに。
王の手のひらが彩華の身体の線を確認するように蠢き始める。
これは必要な事?
これはいらない事。
拒むべき事。
だが、声を上げれば、それはきっと彩華の望まぬ音色を響かせる。
だから、ぎゅっと唇を噛み締めることで声を殺し、ただ身を強張らせる事でそれを拒否し続ける。
「噛むな」
低い声が耳元で囁く。
身体が震えたが、その言葉の意味は分からない。
すると、王の指先が彩華の唇に触れる。
「傷がつく」
そんな風に気遣うなら、やめて下さい。
そう言いたいのに。
指先が唇の合わせをなぞり、命じられるまま僅かに震えながらも噛み締めていた力をほどく。
その指が頬をなぞり、首筋を辿り……その後を追うように、王は唇を這わせた。
それは、先日のような荒々しさのない、穏やかなもので。
そこに、王の欲望があるのか、ないのか。
彩華には分からなかった。
だから、もう考えるのを止めた。
これは『証』を付けるためのもの。
もう一度、そうとだけ。
言い聞かせて、でも、時折思いがけず身に知りたくない感覚が走り、肌が粟立つ。
救いは王の身が、いつの間にか重なってはおらず、あの時のようには密着していない事。
逞しい腕も大きな手のひらも、王の身を宙で支える事にのみ使われていて、彩華に触れる事がない事。
これは救い。
どこか寂しいと感じているなんて、絶対にない。
だから、彩華はただ大人しく耐えた。
ひたすらに目を閉じて。
行方を彷徨うような手のひらをギュッと握って押し留める。
彩華の身体をひとしきり辿り終え、王は満足したのか、彩華の上から傍らへと身を滑らせた。
上から男の気配が消えた事にほっと息をついて、どこかおぼつかないような身を起こせば、触れたのは王の唇だけであった筈なのに寝着のが思った以上に乱れて肌を零れさせている。
予想通りに王が残した跡が散っていて、慌ててそれを隠すように絹を整えた。
王はそれ以上は彩華に触れはしなかった。
正確に言えば、肌には触れなかった。
ただ、髪を一房に手に取るとそれを指先で弄び、時折口元に運ぶ。
それが肌に触れられるよりも、彩華の心をざわめかせて。
「……お止め下さい」
そう言って、髪を取り戻そうとするのに、王は素知らぬふりでまたも唇に髪を触れる。
そして。
「珪心が戻った」
不意にそう告げる。
彩華は己の傍らで寛ぐ王を見下ろした。
「お前に不用意に近付く事はないだろうが……正妃という立場に在る以上、顔を合わさぬ訳にはいかん」
王は髪を指先で遊びながら、彩華に目を向けた。
そこには、意外にも彩華を慮るような色がある。
彩華は王を見つめたままに。
「大丈夫です」
全て承知の上だ。
後悔はない。
罪悪は押し殺す。
何もないように、正妃の顔をして見せる。
王が何に気をかけているのかは分からないが、そう答えた。
「……ですから……陛下は何もお気になさらず……」
思うままに。
望むままに。
そうしなければ、彩華との契約は成り立たないのだから。
貴方様も、私も。
欲しいものを手に入れるために、契約を交わしたのだ。
「珪心を手離したくないのは俺だと、お前が言ったのだったな」
何故、急にそんな事を言うのか。
不思議に思いながら、言葉の先を待てば。
「……お前が言ったのだ……俺が、珪心を、光の方を、手離したくないのだと」
それは間違いなく彩華の言った言葉だった。
この王の想い。
本当に欲しいのであろうものを、彩華は暴いた。
「はい」
だから、頷く。
「……ならば、これは何だ?」
これ、というそれは何か。
分からずに、彩華は首を傾げた。
「いいや」
王は髪を離して身を起こした。
ようやくどこにも王が触れていない事にほっとしたのもつかの間、王は彩華を易々と抱き上げるとすっと立ち上がる。
力強い足元がぶれる事はなくとも、フワリと持ち上げられる身体の慣れない感覚に、咄嗟にそこにある衣を握ってしまえば、王は歩き出した。
拒む間もなく寝台へと運ばれて、そこへと降ろされる。
思わず身を固くして、寝台の脇に立って彩華を見下ろしている男を見上げた。
「……何もしない。寝ろ」
それだけ言って、王は寝台に上がるとすぐさま横たわる。
彩華に背を向けるようなそれにほっとして、彩華は王の傍らに身を横たえて、緊張を幾らか解いた。
王が、彩華に向き直る気配はない。
王の背中を見つめながら。
「おやすみなさいませ」
一言を囁く。
背中が一瞬揺らぎ、静かな声が返る。
「おやすみ」
返る言葉に、胸が何かに満たされるようで、それも、また気がつかない振りをする。
あとは沈黙と闇。
いつもの夜が戻ってきたのだと。
これが続けば……望みは叶うのだと。
この時は、本当にそう思っていた。