21 執心の証
湯に浸かるという行為はとても贅沢な事だと思う。けれど、名無しの国の正妃ともなればそれは当然であるというように、侍女達は日々欠かす事なく湯浴みの準備をする。
部屋の隅に設えられた湯舟を溢れんばかりに満たす湯を見て、それを準備する者達の苦労を思えば畏まらずにはいられない彩華に、思ったほどの手間ではないのだと聞かせてくれたのは、やはり夕月だった。
話によれば、湯は誰かが必死に井戸から汲み上げた水を、これまた誰かが汗まみれになりながら、炎で焚きあげているという訳ではないらしい。
城の近くに人が身を委ねるには少々熱すぎる湯を湧かせている泉があって、それを城内に引き込んでいるのだという。
正妃である彩華が近づく事はないだろうが、城の地下には大きな湯場があって、城仕えの者たちも仕事さえ終われば、気軽に入る事ができるのだとも教えてくれた。
実は城外の街中にも、民衆が自由に出入りできる浴場なるものがあるのだと聞かされた時は、寒い季節には身を寄せ合って凌ぐしかない雹の国を思い、この国の豊かさに改めて驚かされた。
夕月は彩華の気遣いこそがむしろ恐れ多いと言いながら。
城内の湯場に溢れる湯を、少しばかりこの部屋に運び込んでいるだけ。
だから、気になさる事は何もないのですよ。
そう微笑んで言う。
とは言われても、やはり湯を運び込む労力や後始末を考えれば心苦しさを完全に拭う事はできないが、しかし、幾分気が楽になったのも事実で。
何よりも疲れた身を湯の中で寛がせる時間は決して嫌いではなかった。
だが、この数日の間、柔らかな絹を脱いで身を晒すこの時が、彩華にとっては苦痛を伴うものになっている。
湯船から上がって、用意されていた生地に身体を包みながら、彩華は鏡に映る己を見遣った。
かつて彩華が触れたどんな布地よりも柔らかな織物は、濡れた身体を優しく包み込みながら、滴る雫を吸い取ってくれるのだが、今はその大きさで彩華を隠してくれる事にこそに意味を見出す。
そっと。
隠れるように頭からすっぽりと被っていた生地を、恐る恐ると落して、首と肩を晒す。
目に飛び込んでくるのは、鏡に映し出された白い肌……と、そこに点々と浮かぶ紅。
『執心の証』
そう王が言って、彩華の肌に刻みつけた幾つもの印。
もちろん、それが女が男に愛でられているという事を、皆に知らしめるための一つであるのは承知している。
首筋、鎖骨、肩。
王の唇が辿った順を無意識に追いながら、敢えて人目に晒すような場所に散らされたそれを指先でなぞった。
数日前、王がこれを刻んだその時は狂気じみたものを感じる程に色濃かった印も、今は幾分色を潜めて、あともう何日か過ぎれば消えてなくなるであろう事を予感させる。
だが。
身体を包む生地を震える指先でもう少し降ろして、ふくよかな丸みを僅かに覗かせれば、そこにも幾つも紅が散っていて。
それらは、肩や鎖骨のものよりも、まだ色を濃く残している。
これ以上は生地の下にあるものを確かめるのが怖い。
彩華は鏡から目を逸らし、そして自らの身体からも目を背けながら、覚悟を決めて生地を足元に落した。
どうして。
答えのない問いを、声なく唱える。
目に付く場所にあるそれは、王の意図通りなのだろう。
どのようなドレスを着ても、全てを隠す事は到底困難な刻印は、鈴風がショールやスカーフを駆使して、なんとか人目に触れないようにしてはくれた。
しかし、真っ白な肌に点在するそれらは、色鮮やか過ぎて。
気が緩めば、簡単に現れて、まさしく王の『執心』を、人々に知らしめた。
それは彩華に堪え難い羞恥を抱かせはしたけれど、必要な事だと諦めることも難しくはなかった。
しかし、これは。
彩華は羞恥を超えた……恐怖にも近い感情を覚えて身を震わせた。
そして、どうして、と。
彩華には見えない背中は、まるで嵐に煽られ散った花弁の如く。
そして、冷静な今となっては、王の唇や指が触れたなどとは到底信じられないような場所……胸の頂近くや、腿の内まで、そこかしこが色付いていた。
それは、常に優しげな微笑を浮かべる夕月が、思わず眉を潜める程。
痛々しさにか。
淫らさにか。
どちらにしても。
いくら身の回りの世話をするのがお役目とはいえ、もの知らぬ少女に見せるのは憚れる有様だと、朝月の退出の許しを請われ、彩華はむしろこちらからそう願いたいところと……本音を言えば訳知りの侍女達にも下がって欲しいと思いつつ……着替えの間、朝月が隣室で控えるのを許した。
どうして。
一瞬、鏡に映った己の裸体から必死に目を逸らし、急いで寝着を身につける。足元までが、フワリとした着心地の良い寝着に包まれる。
侍女達の手を借りる事なく……誰に肌を晒す事なく、湯浴みと着替えを終えてようやくほっと息をついた。
手間のかかるドレスは仕方がないとして、簡単な寝着にならば一人で着替える事が出来る。
普段ならば、何かと理由を付けて彩華を一人にしたがらない忠義に厚い侍女達も、この数日は彩華のいたたまれない思いを汲み取って、肌を晒す際には退出してくれる。
言ってみれば、王の刻んだものが侍女達にそんな行動を取らせる程だということだ。
どうして。
もう何度目になるか知れない問いを心内で繰り返した。
どうして。
これは、王に対する問いではない。
他の者の目に触れることない……必要のない寵愛の印。
これが刻まれたあの夜。
囁く声は掠れて、吐息は熱く。
触れる手のひらの力は、戯れでは済まないものがあった。
あの日、もしかしたら王は本気で彩華を欲したのかもしれない。
だが、そんな事は、大した問題ではないのだ。
彩華を正妃としてから、いや、謀が動き出してから、あの王は後宮のどの女人の元にも訪れてはいないのだろうから。
たまたま、側にいた彩華にその欲望が向けられることもあり得るだろう。
だから、それはどうしてと問うべきものではないない。
どうして、というそれは自問。
どうして……あの時、王を拒めなかったのか。
力では到底敵う筈のない事は、もちろん分かっている。
だが、例え全ての抗いを押さえ込まれ、この身を蹂躙されようとも。
心は最後まで抗い続けて、然るべきであったろうに。
『華』と。
何度と呼ばれて。
『拒むな』と、誰をも従える声で……なのに、願うように囁かれて。
身体が震えた。
そして、心も……震えたのだ。
王の指が、唇が触れる度に。
震えは大きくなって。
惰性のように『いや』とは繰り返しながら、王の端正な面が近付いてくるのを、己は本気で拒んでいたのか。
いいや、それどころか。
王が離れていく、あの瞬間。
感じたのは、何だったのか。
『起きられるか』と問われて、あの王を見上げた己は、一体何を願っていたのか。
自らの内を探る事が、恐ろしくて彩華は目を背ける。
程良く温まった身体と、凍るような心で、彩華は部屋の奥へと進み、敷かれたラグへと座り込んだ。
濡れてしまった長い髪を、身体を拭った生地と同じ素材の、もう少しこぶりな布に包んで水分を拭っていく。
潤んで艶を増した茶色の髪。
しっとりと白く輝く肌。
彩雪と同じ色。
雹にいた頃は、湯船に身を沈めることなどできなかったけれど、毎晩のように濡れた布で身を清めた。お互いに背を、髪を拭い合った。
ふと、そんな事を思い出して。
こんな風に、ゆっくりと彩雪の事を思い出すのは、一体どれほど振りだろうか。
ここに来た頃は、一時と忘れることなどなかったのに。
いつだって、それは彩華の全てだったのに。
愕然とする。
いいや、忘れてなどいない。
私は、私の宝を護るためにここに来た。
そのためだけに。
言い聞かせながら。
言い聞かせるというその行為自体が、既に己の心を偽っているようで彩華は両手で顔を覆った。
どれほど、そうしていただろう。
控えめなノックの音が聞こえてきて、彩華は顔から手を降ろした。
拒絶を込めて応えずにいると、少しの間をおいてから扉が開けられる。
そっと内を窺うように覗きこんだのは、朝月だった。
彩華が既に眠りについているとでも思ったのだろうか。彩華と視線が合うと少しだけ驚いたように目を見開き、それから、伺いを立てるように首を傾げる。
「お入りなさい」
いたいけな少女を無下にもできずにそう言えば、おずおずと部屋へと身を滑らせてくる。
すると、目に飛び込んできたのは、比較的淡く優しい彩りを集めた花束だった。
腕一杯の花の塊を抱えた朝月は彩華に近付くと、おずおずとそれを彩華に差し出した。
途端に彩華の鼻先を掠めるのは月待草の香り。
見れば、大輪や小ぶりながらも飾られるに相応しい花々が競う中、ひっそりと白い花が添えられていた。
香りを放つのはこれだ。
月待草をこんな風に花束にするのは珍しい。
小さな白い花は、花束にするにはあまりにも貧相で、花束自体をみすぼらしくしかねないから。
「これは? 貴女が摘んで来てくれたの?」
尋ねると、朝月がコクリと頷く。
そして、その花を指差した。
「月待草ね」
言いながら、朝月に目を向ければ、声のない唇がそれでも動く。
「へ、い、か?」
動きを読んで声に出せば、朝月が頷いた。
「陛下、が……これを私に?」
その唇が答えた事を、朝月は満面の笑みを浮かべてこくこくと頷いて肯定する。
「……そう……」
鎮静効果がある花だと以前王に言った事があるのを思い出す。
鎮痛効果も。
それを彩華に届けるのは。
彩華のどこかが痛むと。
その痛みに唇を噛み締めて堪えていると。
そう思うからなのか。
「良い香りね」
言えば、嬉しそうに朝月が頷きながら、再度彩華に向かって差し出すから思わず受け取る。
「……あ……」
小さな呻きのような声に再び朝月に目を向ける。
『へいか、おいそがしい、いらっしゃらない』
彩華の視線が自分を見た事を確認してから、朝月の唇がゆっくりと動いてそう伝える。
彩華はそれを小声で繰り返して、その意味がきちんと分かっている事を朝月に教える。
『だから、せいひさまに』
朝月は二コリと笑う。
『へいか、が、せいひさまに』
彩華は頷き、そっと花束を抱き寄せた。
「……陛下が、私に……」
あの日の夜以来、王は彩華の元には訪れていない。
それは、彩華を心底からほっとさせた。
もう少し時間が欲しい。
少なくとも、この身から全ての跡が消え失せるまで。
でなければ。
もう一度、あんな風に触れられたら。
願うように囁かれたら。
拒みきれるのか、分からない。
欲しいのは、そんなものではない筈だから。
手に入れるべきもの以外に目を向けてはいけない。
惑わされて。
迷って。
きっと大事なものを見失う。
私は……それほどに強い者ではない。
どんなに大事なものを想ってはいても。
決して、何物にも惑わされないと断言できるほどに。
強くはない。
そう思うから。
だから。
朝月が退出して一人になった彩華は花束を抱いたまま、窓へと近寄った。
空にはもちろん、満月。
月待草を花開かせる明るい光。
その光で眠りを妨げられる人々を慰めるように。
闇に隠せない、痛みに歪む貌を慈しむように。
月待草は眠りへと誘う香りを、痛みを取り除き安穏へと導く香りを、放つ。
なのに。
彩華は花束を投げ捨てたい衝動にかられながら、身体は動かず、ただ、立ち尽くす。
腕の中の香りは、彩華を落ち着かなくさせるばかりで。
痛みは引かない。
眠りも訪れない。
むしろその香りは彩華に、鈍く、だが途切れる事のない苦しみを与えるようだ。
その苦しみが、どこか甘美な事を。
彩華は気がつかない振りをした。