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20 激情の名

 大人しくなった彩華を腕に抱いたまま、城内を歩いていく。

 身じろぎもせずに抱かれている彩華を見下ろせば、俯き加減な視線を捕えることはできなかったが、表情は先ほども見た無表情だった。

 身体の重さが苦痛になる間もなく、正妃の間と呼ばれる部屋の前に辿り着く。

 両手で抱えていた身体を無造作に片腕に持ち替えて、空いた手で、乱暴に扉を開け放てば、響いた音に彩華がピクリと身を揺らし、部屋の内では寝台を整えていた鈴風が、弾かれたように身を起こして振り返った。

 主の帰還を認めると、やはり他の者達と同じように目を見開いて膝を付きつつも、次にちらりと彩華を見遣る視線には、他の者にはない心配げなものが過ぎる。

 王が彩華を抱くこの状況がいつぞを彷彿とさせるのか。

 抱いた彩華が、どんな表情をしているのか分からなかった。そして、侍女を目の前にしたそれが、どんな変化を遂げたのかも。

 ただ、彩華の表情を確認した鈴風は、明らかにほっとしたような様子を見せた。

 この侍女にも、彩華は微笑んで見せたのだろうか。

 一端は落ち着いたかに見えた心が、またざわめく。

 鈴風の視線は、女主から逸らされることはない。伺いを立てるように、跪いたまま控えている。

 月の室に居た頃には、闇帝に対する彩華の態度を窘める事さえあった鈴風だが、今や完全にその忠義は女主へと向いているようだ。

 それには、何ら心は乱れない。

 だから、何の動揺もなく、静かに王は命じた。

「……下がれ」

 と。

 鈴風はもちろん王の意に背く素振りもなく、素直に立ち上がると、深々と礼をして王の部屋へと続く扉を潜っていった。

 パタン、と静かに扉が締められるやいなや一言が聞こえる。

「お離し下さい」

 少し上にある彩華の顔に目を向ければ、先ほど王に向けた、そして、王が盗み見た無表情と視線が絡む。

「……降ろして下さい」

 もう一度乞われて、王はあっさりとそれを叶えた。

 彩華の身を、腕から降ろす。ただし、その場所は彩華が望む筈のない……寝台。

 鈴風が整えたばかりの生地が、彩華の重みに合わせ窪む。そして、闇帝が膝を乗せれば、同じようにそこは窪んで影を成す。

「……陛下?」

 王は四足の獣のような動きで、彩華へと近付いた。

 戸惑う視線が揺れながら、彩華は寝台の上をじりじりと下がっていく。

 あっという間に、白い生地の上には幾筋もの流線が刻まれた。

 そこに、闇帝の大きな身が作りだす陰影が加わって、寝台には複雑な模様が描かれていく。

「陛下!?」

 王は手を伸ばした。

 逃げる場所などある筈もない彩華を捕え、深い皺の波に沈め込む。

「華」

 嫌がるのを承知で、耳元に愛称を囁けば。

「その名で呼ばないで下さ……っ!」

 やはり、拒絶の言葉を発する。

 だが、耳の後ろ辺りに唇を押しつけ、更に悪戯じみて耳朶に軽く歯を立てれば、言葉は途切れて息を呑む音へと変わった。

 組み敷いた身体が男の意図に気が付いて強張り、少しでも伸し掛かる身体を遠ざけようと言うように、肩を押しやるが、その力は、ほんの些細な足掻きでしかない。

 女の反抗を敢えて押さえることもなく、耳元に口づけを繰り返しながら、深く息を吸い込めば、望んだ香りが身体を満たした。

 そして、一気に身体を巡る。

 それは、渇望。

 もっと……と。

「離して下さい!」

 訴える言葉を聞き流し、華奢でありながらも、女らしい柔らかな肢体の輪郭を手のひらで辿る。

 こうして、明らかな欲望を伴って、この女に触れるのはあの晩以来だ。

 珪心の跡を見た途端に抑えようもなく、珍しくも感情の赴くままに、彩華を押さえつけ、背に散るそれを辿ったあの晩。

 細い手首までに残る跡をひどく苦々しく思った事を思い出しながら、ぐっとドレスの胸元を開けば、誰の跡もない白い肌が現れて、愚かにも安堵する。

「いや!」

 彩華は少しでも身を離そうと、身を捩った。

 その動きに、一角を崩したドレスが尚更に肌蹴て、彩華の願いとは裏腹に隠された肌を男の前へと晒した。

 そこにも、何一つの跡もない。

「男の扱いは、子供の扱い程に手慣れてはいないようだな」

 言葉が聞こえないように、闇雲に逃げようとする彩華の膝が僅かに緩んだのを見逃さず、そこに己の身体を捩じり込み、被さるようにして押さえつける。

 密着した身体に、彩華は大きく慄き、しかし、気丈にも男を見返してきた。

 だが、そんな視線もまた。

「お前の拒絶は……俺を煽るだけだ」

 ましてや、彩華が動くたびに。

 香りは強さを増して、そのくせ、やはり纏わりつくことなくすり抜けていく。

「……っお約束が……」

 再び、指を、唇を、滑らかな純白に這わせ始める。

 震えを帯びた声が、闇帝と彩華の間にある筈のものを呈して、戒めようとする。

 しかし、王は手を止めなかった。

「約束など……俺が守るとでも?」

 この女は忘れたのか。

 己は、残虐非道な闇帝だ。

 目の前に立つ者達を打ち払い、なぎ倒し、血に塗れて。

 この女が言ったとおり。

 己の思うがままにすることで、全てを手にしてきたのだ。

 今この時に。

 欲しいと思う女との約束を反故にしたところで、心が痛む筈もない。

 今更だろう。

「陛下!」

 奥へ、内へと這わせる手のひらに。

「お許し下さい! 陛下、お願いです」

 彩華が懇願する。

 男が本気になれば、力では叶わない事を知っているのだろう。

 身を以て。

 それが、またも男の心を荒ぶらせ、止めどない欲望を駆り立てる。

 彩華の拒否を、指を進める事で聞き流せば。

「……っいや!」

 取り繕う事を忘れて迸る拒否の言葉の後に、唇はきつく噛み締められた。

 眦には涙が滲んでいて。

 身体は一瞬と緩む事なく、強張っていた。

 そこにあるのは、全身での拒否に他ならない。

「華」

 そんなに、嫌か。

 触れられるのが。

 抱かれるのが。

 何故か口にして尋ねられない問いに、彩華は応えるように首を横に振った。

「その名は」

 綻んだ唇から零れるのは、やはり拒否だろう。

「お前は俺に何もかも禁ずるのだな」

 最後まで言わせずに返す。

 名を呼ぶな、と。

 触れるな、と。

 拒む。

 動きが止まった事に、少し落ち着いたのか、彩華はゆるゆると瞼を上げて、王を見上げた。

「お約束を守って頂きたいだけです……どうぞ、後宮に……」

「最愛の寵妃を正妃として迎え入れて、すぐに後宮に渡れと?」

 最愛の寵妃というそれが誰であるのかを分からせるように、彩華の頬に触れる。

 暴れたために乱れてしまった髪が、幾筋と零れているのを指先で払いながら。

「……どの女の所へ言っても面倒な事になりそうではないか?」

 彩華はゆっくりと瞬いた。

 そして。

 何か言いたげに瞳が揺れた。

 闇帝を暴いたあの夜のように。

 また、言うのだろうか。

 珪心を想って、嘆き悲しむ女の元へ行けと。

 王が、今この時に欲しいと手を伸ばすのを拒みながら。

 手に入れんと、謀を張り巡らせたならば、それを遂げれば良いと。

 それが、闇帝という者であろうと、言い放つのか。

「……私はお相手できません」

 だが、彩華はそうと言うだけだった。

「お前も面倒な女だ」

 まったくもって、本当に。

 この女は面倒だ。

 王の心を読み、王の心に寄り添うが如くに、優しさを見せて。

 なのに、決して受け入れようとはしないのか。

 だが、それでも。

「だが、お前が側にいる事は苦痛ではないな」

 彩華の瞳が物問いた気に王を見上げて揺れる。

 厚い雲が覆う空。

 ああ、雨が降るな。

 そんな風に思わせる瞳の彩り。

 戦場で見上げるこんな空は、時により吉とも凶とも見えた。

 奪うのか、奪われるのか。

 それを、占うかのように。

 だが、この瞳には、吉も凶もない。

 ただ、静かにそこに在って、一人の男を見つめる。

「お前は一体何なのだ?」

 再び、身を重ねた。

 目元に口づけ、滴の名残を舐め取れば。

 組み敷く身体から、今までとは少し違うわななきが生じる。

「……い、や……」

 拒む言葉も弱々しく。

「……華……拒むな」

 今度こそは、止められない。

 そんな確信。

「……っや……いやで、す……陛下……」

 香りに惑わされ、肌の白さに飲み込まれる。

 欲しいとは思った。

 それは否定しない。

 だが、こんな欲望は。

 甘美だ。それでいて、凶暴な。

 この女を抱き上げた時には、自ら制御できない程に、昂ってはいなかったなのに。

「……華……俺を拒むな」

 そこには、切実な願いが籠る。

 彩華がビクリと身を竦めた。驚いたように男を見つめ、やがて、弱々しく首を振る。

 唇が何かを……間違いなく拒否であろう言葉を紡ごうと開かれるから、それを口づけで封じようとした瞬間。

「陛下!」

 不意に耳に飛び込んできたのは、扉を慌ただしく叩く音と、彩華のものではない声。

 はっとしてそちらに意識を向ければ、閉じられた扉の向こう側に気配があった。

「陛下、旬陽にございます」

 遠慮がちな声は、確かに旬陽のものだ。

 信頼すべき側近のものとは言え、近くにある他者の気配に気が付かなかった事に少しばかりの驚きを覚えながら。

 それでも、欲望も動揺も消した抑揚のない声で尋ねる。

「なんだ?」

 彩華に向かって囁いた訳でもないのに、隙なく重なった身体は声に反応して震えた。

 それが伝わり、王もまた、欲望を煽られる。

「急ぎご相談申し上げたい事がございます」

 この状況を予想できたであろう侍女達が、旬陽を通したという事は、それなりにこの側近に切羽詰まったものがあるのだろう。

「分かった」

 答えれば、己の身の下で彩華が僅かに身体の力を抜いた。

 しかし、王の欲望はそれには連ならない。

 分かったとは答えたものの易々と彩華を離す気にはなれず、再び首筋へと唇を押し付けた。

「……っ陛下?……」

 潤んだ瞳が、疑問と怯えを浮かべる。

 見つめ返して、宥めるように頬を撫でながら。

「跡を付けるだけだ」

 それは自分自身への言い訳と戒めにも聞こえた。

 嫌だと言うように、彩華が首を振る。

「俺の執心の証、をな」

 言うなり、もはや完全に王の前に晒されている膨らみを、きつく吸い上げる。

 鮮やかに、紅が散る。

「華」

 禁じられた名を呼び、跡が付く筈もない耳朶に歯を立てた。

 彩華が思いがけない衝撃を受けたように、背を逸らして。

「……陛下!……おやめ……っん……」

 どこまで続ける気なのか。

 己でも分からないまま、ただ、離せない。

「……っも……離し……」

 言葉での拒否でさえか細く。

 彩華の腕が震え、押し退けようとする力が失われていく。

 足掻きのように王の黒装束に深い皺を刻む指先が、哀れなまでに真っ白だ。

「……っい……やぁ……ぁ……」

 零れた声には、気のせいでなく、甘い喘ぎが紛れている。

 溺れる。

 何もかも忘れて。

 それを自覚した一瞬。

 渾身の理性をもって、王は彩華を離した。

 見下ろせば、蹂躙したと言うに相応しく、ドレスは乱れて崩れ、もはや彩華の肌を隠す事を放棄している。

 肩、背中、胸、脚。

 あの夜よりも、生々しく残酷な程に。

 言葉の通り、そして、多分言葉の上だけではない『執心の証』がそこかしこに散らばっていた。

「……彩華」

 名を呼べば、彩華は寝台の上で何かに堪えるように丸くなる。

 自らを抱きしめる腕は弱々しく、身体は小刻みに震え続け。

 王が無理やりに与えた不本意な快楽に必死に抗っているように見えて、なんとか押し留める男の劣情を無遠慮に煽りたてた。 

「起きられるか?」

 尋ねれば、彩華は潤んだ瞳で王を見上げ、唇をわななかせながら、今にも泣き出すのではないかというように眉を寄せた。

 そして、顔を隠すように伏せて、なお身体を丸めると、小さく首を横に振る。

 愛らしいとも言える仕草。だが、乱れた様が淫靡さを醸し出す。

 やはり、男の扱いを知らぬ女だ。

 これでは、続ける事を乞われているようではないか?

 再び、この身を組み敷き、今度こそ全てを手に入れようかと欲望が湧きあがる。

 しかし、扉向こうで待ち構えているのであろう者の気配を探して捕える事で、その誘惑を断ち切った。

 ドレスを着直させる事は諦めて、男の無体で無残な皺を描くシーツで彩華を包む。見えなくなった正妃の姿に、ほっとするも、それでも近付けば漂う甘い香りに瞑目する。

「陛下……どうしても、ご相談申し上げたい事がございます」

 聞こえたのは旬陽の声。

 王は寝台を降り、乱れた衣服を簡単に整えると、正妃の間を出た。


 隣室の己の部屋で控えていた侍女達に彩華を託して、申し訳なげな旬陽と執務室へと向かう。

「……申し訳ありません」

 旬陽が詫びる。

「いいや」

 むしろ、救われたのだ。

 旬陽が現れなければ、己は間違いなく彩華を手中に納めていただろう。

 止まらぬ欲望に追い立てられ。

 理性など到底太刀打ちできず。

 制御できない。

 こんな己を、男は知らない。

 これは、王にとっては不本意だ。


 いつかも思った。

 あの女は手駒。欲しいものを手に入れるための。

 抱いてはならぬとも思った。

 今は、あの時以上にそう思う。

 だが、あの時以上に女が欲しいと希う。

 これは、何だ?

 こんな相反する感情を持て余した事など、かつてない。


 珪心への、光の方への、その想いを情愛と呼ぶと教えたのは彩華。

 ならば、これは何なのか。


 問えば、彩華は答えるだろうか。

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