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2 謀が始まる

 その国は『名無し』と呼ばれている。

 古来よりの強国や、台頭する新興国を、あまねく打ち砕きひざまずかせた姿なき大国。

 消え失せた国々さえも、名のみは歴史に遺すのに。

 この世界の大半を領土としながらも、未だ地図には『名無し』とある。

 その国の王たる男が、国に名を与えぬからだ。

『名が必要ならば好きに呼ぶがいい』

 男はひれ伏す者達を前に、そう告げた。

『俺のことを闇帝と呼ぶように』

 陰で囁かれるそれを、低く響き渡る声で明るみに晒す。

『暗黒王と呼ぶように……国もまた好きな名で呼ぶがいい。いずれ、相応しいものがその名になり得る』

 その言葉に、誰一人、何一つ、異議を唱えられる者はなかった。

 だから、この国に名はない。

 そして、王の名も誰も知らない。

 王がどこで産まれ、どのように育ち、今ここに至るのか。

 それらは全てが謎。

 いずれかから現れ、無法に闊歩する荒くれ者共を束ねたことが伝説の始まり。

 やがて、多くの国王達の首を自らの剣で刎ねることで、領土を広げその玉座を手に入れた。

 それらが、知り得る闇帝の全て。


 その謎多き王の後宮に、彩華あやはなが一室を与えられる身となって3カ月ばかりが経つ。

「月の方様」

 ここでは彩華はそう呼ばれていた。

 彩華の住まう場所として与えられた部屋が、『月のむろ』と呼ばれる場所だからだ。

 あの王は、国に名を与えぬだけでなく。

 己の名を明かさぬだけでなく。

 今在る名まで奪うのだと。

 初めて『月の方』と呼ばれた時には思ったものだ。

 己の名の、親しい者達の声で呼ばれる響きは好きなのに。

 そうも思った。

 だが、考えてみれば、ここには優しげな声で名を呼ぶ者などいないのだ。

 冷たいばかりの者達に『あやはな』と呼んでもらいたい訳もなく、『月の方』という呼び名も馴染めば、むしろ出身国や身分を知らしめるものではない分、気楽といえば気楽だ。

 3か月という時間は、新しい名を受け入れるにはちょうど良い時間だった。

 言い換えれば、この3か月間に彩華ができたことは、その呼び名に慣れることで精いっぱいだった。

 それと、もう一つ。

 その二つ以外は何一つとしてできず、ただ、ここに存在しているだけだった。

 それが、この数日で大きく変わろうとしている。

「陛下よりお届けものでございます」

 部屋を訪れた使者の言葉と、恭しく差し出された箱に、彩華は眉を寄せた。

 またか。

 さほど広くもない室の一角を占める箱達に、思わずため息が零れる。

 これも、暗黒王との謀の一つとは言え、毎日のように届く贈り物に正直なところ彩華は辟易していた。

「月の方様」

 彩華の世話をしてくれている鈴風すずかぜという女が、紐解かぬのかと尋ねてくる。

「その辺りに置いておいて下さい」

 彩華は答えた。

 最初に届いた一つは開けてみた。

 中には見たこともないような煌めきを湛える宝石があしらわれた首飾りが入っていた。

 それは、彩華の首を一瞬と飾ることなく箱へと戻され、2度目の光を受ける機会は今のところ訪れていない。

「ですが、これはドレスでございましょう。きちんと手入れしなければ形が崩れてしまいます」

 彩華より幾つか年上だろう娘は、大きな箱を持て余しながら、もっともなことを言う。

 声音には明らかな非難が混じっていた。

 年頃の娘にとっては、美しいドレスや宝石が日の目を見ることなく、箱の中に眠ったままになっていることが、なんとも口惜しいのだろう。

 ましてや、これらは恐れ多くも王からの贈り物だ。

 この侍女にしてみれば忠誠心も手伝って、彩華の態度に憤りさえ感じているのかもしれない。

「……興味ありません」

 だが、彩華はきっぱりと言い、積まれた贈り物から目を逸らした。

 鈴風が口を開きかけたのが視界の隅に見える。

 非難か、小言か。

 いずれにしても、聞きたいものではない。

 分かっているのだ。

 本来であれば箱を開き、その美しさに感嘆の声の一つも上げ、王に感謝の文でも送るべきなのだろう。

 しかし、彩華はそうしない。

 したくないし、しなくて良い。

 これらの贈り物は、王の小道具だ。

 しかし、聞きたくないながらも聞くしかなかろうと待っていた鈴風のどんな声も、聞こえてこなかった。

「そう言うな」

 代りに背後から聞こえてきたのは、最も聞きたくない男の声だった。

 慌てた仕草で、侍女が膝をつく。

 彩華はそっと深呼吸をしてから、振り返った。

「月の方のご機嫌はいかがなものか?」

 王が部屋の入口に立っていた。

 名のない国の、名のない王。

 闇帝、暗黒王……それから、血塗れ陛下だっただろうか。

 幾つとある通り名は、今や、揺るがぬ王座に君臨することに敬意を込めて。

 男がそこに就くために、この世界に屍の山と、血の海を築いて来た、その生き様に畏怖を抱いて。

 祈るが如くに、そっと囁かれる。

 しかし、容貌だけ見てみれば、男のそれは闇ではなくむしろ光だ。

 銀とも金とも見える光を受けて弾く髪も、青空を思わせる鮮やかな瞳も。

 輝かんばかりなのに。

「今しがた悪くなったところです」

 答えながら、鈴風が持ったまま置き場に困っている、先ほど届いた箱を見遣る。

「今しがた、な」

 呟きつつ、王が彩華へと近付いてくる。

 光輝く王……だが、この男の纏う空気は、通り名の通り闇に満ちている。

「開けろ」

 王は、鈴風に命じた。

 鈴風は恭しく礼をした後、手元にあった箱を開ける。

 中から出てきたのは、明るい空色の絹。

 鈴風がそれを取り出し、立ち上がって広げて見せる。

 ドレスだ。

 極上の生地に、金糸や銀糸で細かな刺繍の施された、一目で名のある者の逸品と知れる見事なものだった。

 だが、彩華の心は僅かにも踊らなかった。

 演技ではなく、事実として。

「陛下」

 ドレスから目を離し、目の前の男に呼び掛ける。

 男はドレスを見てはいなかった。

 彩華を見ている。

 剣を突き付けた時と同じ、何の感情も見えぬ瞳で。

「これは、何でしょう?」

 尋ねれば、王は眉を上げた。

「気に入らぬか?」

 気に入らぬも何も。

「……何もいらぬと、何度も申し上げております」

 この嘘で塗り固められたやり取りの中、彩華が幾度と口にするこの言葉だけは常に本当だった。

「物でしか……お前の気を引けぬ俺の心中をもう少し慮って欲しいものだな」

 王は嘘で答えながら、彩華に手を伸ばす。

 彩華はそれを避けて王から離れながら、もう一度言う。

「何もいらぬのです」

 ものなど。

 何かが手に入ったところで、私の願いは叶えられない。

「何も?」

 王の手が、遠ざかろうとする彩華の腕を掴む。

 彩華は王に向き直り、いつかのようにまっすぐに見つめた。

「……ドレスも宝石も」

 いらない。

「陛下の御心も」

 私が本当に欲しいものは、王に告げたそれでさえない。

 それは、欲しいものを手に入れるための、手段に過ぎない。

 私が欲しいものは、王の貴方でも与えてはくれない。

 だから。

「何もいりません」

「月の方様!」

 彩華の無礼な態度を見かねた鈴風の、きつい呼び声が聞こえる。

 微動だにせずに、それを聞き流しながら、やはり王を見つめ続ける。

「黙っていろ」

 王が侍女を抑え込む。

 視線は、彩華に注がれたままだ。

 これが恋焦がれる者の瞳だなんて。

 見つめられる彩華には違うと分かるのに。

 世間では、既に噂になり始めている。

 ……闇王が一人の妃にご執心だ、と。


「陛下、そろそろお戻り下さい」

 部屋の外から、声がかけられる。

「もう少し待て」

 王は返事を返しながら、これ見よがしに彩華の腕を引き抱き寄せた。

 彩華はそれには刃向うことなく、大人しく胸元に納まる。

「……物では気が引けぬなら……どうしたものか」

 ぐっと抱き寄せられ、囁かれる。

 演技とは分かっていながら、闇王と呼ばれる男の懐の深さと温かさに身が震えた。

「このようなつまらぬ身がお望みならば、一言お命じになればいい……貴方にはそうする力がおありになる。私には拒むことができようもない……力が」

 彩華は囁き、王の胸を押した。

 いつもならば、それですぐに離れるのに。

 王はそれをも包み込むように、彩華を更に抱き寄せる。

 そして。

「……着飾れ」

 囁く。

 誰にも聞こえぬように。

「俺の寵妃に相応しく」

 耳朶に唇を触れて王が囁く。

「俺を誑かす程に」

 それは、契約の条項を読み上げるかのように、淡々と。


 王は彩華を離した。

「……また、来る」

 そして、名残惜しいとでも言うように、ゴツゴツとした手のひらで頬を撫でてから、背を向ける。

 その背を見送り、彩華は目を伏せた。

 本当は、この場にへたり込んでしまいたい。

 私は、あの王と渡り合えるような、強い女ではない。

 だが、やり遂げねばならない。

 そのために、ここ在るのだ。

 ズキン、とこめかみ辺りに疼痛が走る。

 あの日から。

 王と罪深き契約を交わしたあの日から苛む頭痛。

 これが罰ならば、いくらでも受け入れいよう。

 だから、どうか。



 私の持ち得るものは、決して多くはない。

 母から受け継いだ、それなりに美しいのであろう容貌。

 優秀な魔女だったという祖母が遺した幾つかの秘薬。

 でも、そんなもの、どうでも良い。

 いつだって、捨ててしまえる。

 私が大事なのは。

 何にも代えがたいのは。

 たった一つだけ。

 それを守るためなら、私は何だってするだろう。

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