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19 微笑みと苛立ち

「……朝月?」

 彩華の声がした気がする。

 男は怠惰に横たわっていた身体を、のっそりと起こして、辺りを探った。

 一見無法に生い茂ったように見える裏庭の森。しかし、その片隅に立てられている東屋は人が一時を過ごすには十分な手が施されており、そこにしばし佇めば、この森自体もまた、ただ放置されているものではないと気が付くだろう。

 さすがに夜ともなれば木々が作る鬱蒼とした闇に本能的な恐怖心を覚える事もあるだろうが、昼はきちんと剪定された枝の合間から零れる日差しが穏やかな一時を訪れた者に与えてくれる。

 それでも、こんな裏庭を訪れる者はそうそうとはおらず、森の中に設えてある小道には雑草が生い茂っていることが常だった。

 闇帝と呼ばれる男は、時折、ここを訪れる。

 それは間違いなく一人になりたい時であり、静かに時を過ごしたい時であり、ここはそれにはうってつけの場所だった。

 今日も、朝から立て続けに望まれる謁見に、少々嫌気がさして抜けだしてきたのだが。

「朝月」

 また、聞こえる。

 今や闇帝の揺るぎない寵愛を受ける正妃として君臨する女の声に、男は耳を澄まして方向を探り、そちらへと歩き出す。

 他の者であれば、ただ立ち去るのを待つに違いないのに。

 この東屋から自らの意思で離れ、近くに来た者に歩み寄ろうとしている事が、未だかつてない事だと分かってはいたが、己が望む行動を起こす事に迷いはない。

「気分が悪いのですか?」

 物静かで慌てた風もない、それでいて、相手を気遣っている事が十分に伝わる柔らかな声。

 この声が、鋭さを帯びて男の心を暴いた事は、まだ記憶に生々しい。

 誰にも告げた事のない預言を口にし、誰に語った事のない心内を聞かせた男に、女は、不要な同調も、胡乱な説法を説く事もなく。

 男の内を暴き出し、自らの所業を糾弾した。

 怒りは湧かなかった。もちろん、悔恨や反省を促される事もない。

 ただ、あの時感じていたのは……どうしてか、この女を手離したくはない、というそれだけだった。

「……朝月」

 女の声音が少し変わった。

 そして、木々の合間にその姿を見つける。

 彩華は少し身を屈めるようにして、目の前に俯く幼い侍女に声をかけていた。

「どこか痛むの?」

 それは、正妃として皆の前で凛と響かせる声ではなかった。

 相手の痛みにそっと寄りそうに。

 あの時……男の胸元に当てられた手のひらのような。

「……う……」

 声を失った少女は、彩華の言葉にただ首を横に振る。

 ふるふると何度も繰り返されるその仕草は、しかしながら、その意味と裏腹に少女の不調を訴えるばかりだ。

 いつもの発作だ。

 どこぞの戦場で拾ったあの娘は、時折、あんな風になる。

 何がきっかけになるのか。

 どんなにその場所が静かであろうとも。

 どんなにそこに在る人々が穏やかであろうとも。

 突如と降り始めるにわか雨のように、あの少女の内に眠る戦火の記憶が甦り、ああやって恐慌状態に陥るのだ。

 時間が経てば納まるし、薬を与えれば眠る。

 だが、それではあの少女の救いにはならぬ事を、闇の王は知っている。

「夕月を……」

 近くにもう一人の侍女もいるのだろうか。

 そう言った彩華に対して、朝月がまた首を振う。

 だが、自らのその行為に眩暈を覚えたかのようにその場に崩れてうずくまる。垣間見える顔が血の気を失っていることが、この距離でも見て取れた。

 近付けば、額には冷や汗が浮かび、身体全体が小刻みに震えているのであろう事は安易に想像できる。

 とりあえず、城内に運ぶべきか。

 一歩進みかけた闇帝の前で、彩華がそっと膝をついた。

 美しいドレスが地面にフワリと広がるのを気にかける風もなく、しゃがみ込む朝月の肩に手を添えるようにして。

「夕月を呼ぶのはだめなの?」

 小さな子に話し掛けるように。

 ただただ、優しいばかりの声が、森を吹き抜ける風に乗って聞こえてくる。

「……う……あ……」

 嵐が吹き荒れているのであろう朝月の心に、彩華の声は確かに届いたようだ。

 驚いたように、朝月が顔を上げて、彩華を見つめる。

 その朝月の頬を、彩華の手のひらが包み込んだ。

「大丈夫よ」

 そう言うと彩華は……微笑んだ。

 王の前では決して見せた事のない、慈愛に満ちて溢れる、柔らかで優しげな笑み。

「……ゆっくり息をするの……周りを見て」

 静かな、穏やかな声。

「……あ……ぁ……」

 朝月は声に導かれるようにして、辺りを窺った。

「……ここは……どこ?」

 朝月に言葉はない。

 だが、その瞳が物言いたげに、彩華を見遣る。

「ここは……怖い場所?」

 朝月がフルフルと首を振るう。

 彩華は笑みを深め、そして、朝月の頭を自身の胸元へと引き寄せた。

「……そうよ。ここは大丈夫」

 小さな子供は、あっけなく彩華に落ちた。

 朝月の怯えた顔が彩華の胸元に縋るように埋められる。小さな手が彩華の細い背中に回り、ギュッとしがみつく。

 彩華はそれに応えて、朝月を抱き寄せ、小さな背を撫で、頭にキスを落す。

 その間も、何かを囁いているのが聞こえたが、その意味は聞き取れなかった。

 しばらく動かず、朝月が落ち着いたのを見計らって、王は二人へと一歩を踏み出す。

 敢えて、足音を消さず、草木を踏み分ける音を立てて。

 朝月から顔を上げた彩華は、王の姿を認めて、少し驚いたように目を見開いた。

「眠ったのか?」

 尋ねると、コクリと頷く。

「運ぼう」

 近付き、彩華の胸元から朝月を抱き上げる。

 戦場で拾い上げた時よりは幾らも重くなってはいるが、やはり軽い。

 歩き始めると、彩華は黙って、後ろをついて来た。

「……陛下!?」

 少し歩くと薬草らしきものが入った籠を手にした夕月と出くわした。

 どうやら、散歩がてらに薬草摘みを行っていた途中だったようだ。

 それは、どこにも不安のない穏やかな時間であっただろうに。

 やはり、この少女の発作のきっかけは分からない。

 朝月を実の娘のように可愛がっている夕月は何があったのかをすぐに察しようだ。

「お手を煩わせ、申し訳ございません」

 慌てて朝月を受け取ろうと手を伸ばしてくるのを視線で制して、そのまま城へと運び込むと、そこでようやく、夕月に意識のない少女の身を渡した。

「随分と重くなったな」

 思ったままの事を告げると、夕月は嬉しそうに微笑む。

「はい。とても、大きくなりました。恐れ多いことですが、陛下にお運び頂かねば……私には少々辛くなってしまいました」

 夕月の腕の中、朝月は規則正しい寝息を立てている。

 発作の後に浮かびがちな苦悶はそこになく、穏やかな表情だ。年若い少女らしい、色鮮やかな頬と唇。どこにも、憂いのない眠りを導いたのは。

「……眠らせたのは……彩華だ」

 王は、ずっと黙ったまま後ろを歩いていた彩華に目を向けた。

 夕月を、朝月を、そして王を見ていたらしい彩華は、はっとしたように微かに身体を揺らし、軽く会釈をしてその場を去ろうとする。

 しかし。

「正妃様、ありがとうございます」

 夕月の謝礼には足を止め、頷いて応えはしたが、そこに先ほど朝月に見せた表情はない。

 あの笑みを見た者は、いったいどれほどいるのだろう。

 己には、向けられた事はない微笑。

 これからも向けられる事はないだろう。

 僅かに胸に過ぎるこれは何か。

 苛立ちのような。

 怒りのような。

 夕月が朝月を連れて去っていくのを見送って、歩き出す彩華の腕を掴んだ。

 見上げるそれは、きっと女が必死に作り上げている無表情。

 己に向けられるのは、常にこんな表情だ。

「手慣れたものだな」

 疼く心中を隠したつもりはないが、それでも、己の声に感情は見当たらたない。

 だから、何が言いたいのか分からなかったのか。

 彩華は僅かに眉を寄せた。

「……何がでしょう」

 そう言って掴んだ腕を離せというように揺らすのを許さず、逆に強く掴み動きを抑える。

「病人の扱いも、子供の扱いも」

 きつく掴んだ腕を引き寄せ、己の胸元へと女をぶつける強さで抱き込むと、拒む隙を与えず両腕で作り上げた囲いの中へと閉じ込めた。

「陛下!」

 予想通りもがく身体を力で抑え込み、半ば屈みこみようにして華奢な女の首筋へと鼻を寄せる。

 後宮の女にはあり得ない木々の瑞々しさと土の埃の香り。

 そして、そこに紛れて消える事ない、彩華の香りが立ち上る。

「離して下さい!」

 彩華がもがけばもがくほどに、なお、香りは強さを増すようだ。

 あの表情は手に入らぬも。

 この香りならば、存分に手に入れられようか。

 王は衝動的に、彩華の身体を抱き上げた。

 朝月に比べれば、もちろん重い身体だが苦になるほどではない。むしろ、その重さ故に腕に感じる肢体の質感が、確かな思惑もなく抱き上げた身体に、望む事を鮮明にした。

「陛下!?」

 そのまま、奥に向かって回廊を歩き始めれば、すれ違う者達が、一様にぎょっとしたように目を見張り、そして、慌てて膝をつき礼を尽くす。

 その城の者達の様子に、自身の立場を思い出したのか、彩華は王の腕の中で大人しくなった。

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