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18 それぞれの想い

 目の前に、彩雪の姿が見える。

 彩華の記憶にあるより、幾分とふっくらしたようだ。

 ほっそりとしていた頬は滑らかな線を描き、細々としていた髪は豊かに煌めく。

「……彩雪」

 彩華は彩雪に触れようと手を伸ばす。

 彩雪も同じように手を伸ばしてきて。

 手のひらが重なったと思った瞬間の、その冷たさに彩華は身を竦めた。


 彩雪の幻は、バルコニーへと続くガラス扉に映った彩華自身だった。


 それが分かってもなお、彩華はそこに彩雪を見ていた。

 これが、今の彩雪の姿であるならば。

 彩華の内が、どれほどに醜かろうとも。

 華やかに結われていた髪は、ほどいて緩やかな三つ編みにして背に垂らした。

 華美なドレスは脱ぐ事を許されて、柔らかく身体を覆う寝着を身に付けている。

 そこに映る姿は、穢れを知らぬ少女にも見えて。

 彩雪を彷彿とさせた。


 扉を叩く音がした気がする。

「正妃様」

 誰かの声がした気がする。

 彩華は、彩雪の姿を追う事を止めなかった。止められなかった。


 彩雪。


 人の気配があるから、声には出せない。


 彩雪。

 私のたった一つの大事なもの。

 何にも代えがたい宝物。


 ガラス扉に映る姿に、愛しい者の姿を求め、ただひたすらに想いを馳せる。

 なのに。

「彩華」

 不意に名を呼ばれる。

 一瞬にして、彩雪の姿が消え去った。

 絶望を感じる間もなく、彩華は反射的に背後を見返った。

 闇帝が、侍女達を従えて立っている。


 今日も、この王はここで過ごすのか。


 どうしてだろう。

 彩華は欲しいものを手に入れた。

 正妃の座。

 それによって得られるであろう、彩雪の幸せ。


 だが、王は動かない。

 欲しいものは、まだ、手に入ってはいないのだろうに。

 なのに、なぜ、動かないのだろうか。留まるのだろうか。

 欲しいものを手に入れるために、僅かな迷いもなく進んでいたのに。

 どうして、闇帝は先に進まないのだろう。

 それとも、ここで留まるのも、また、王の謀の一つなのだろうか。

 王が望むものを手にするための。


 闇帝が、本当に欲しいもの。


 ふと気が付く。

 彩華は、この王が手に入れんとしているものが、何のかはっきりと知らないのだ。


 王が望むもの。


 考えるのを止めた。

 己には何の関係もないことだ。

 私は、私の望むものを手に入れた。

 それで良い。


 侍女達が退室し二人になった空間で、彩華はラグで寛ぎ盃を傾ける王の傍らに侍る気もなく、先ほど失った彩雪を求めて、再びガラス扉を見遣った。

 侍女達によってカーテンが引かれてしまったそこを少し捲り覗きこめば、向こうからも誰かが覗く。

 だが、それは、紛れもない彩華であり、彩雪ではなかった。

「あれがお前の兄か……似てないな」

 声がかけられる。

 彩華は、王へと振り返り、何でもない事のように答える。

「母が違いますので」

 実際に、これは事実であり、どうということもない事だ。

 それ以上言う事もなく、再び、今度はカーテンを大胆に開いてガラス扉をまっすぐに見遣る。

 完全に陽の落ちた闇は、先ほどよりもはっきりと世界を写しとる。

 やはり、もう彩雪はいない。

 そこには、褪めた瞳で見つめ返してくる彩華と……闇を制するが如くの帝王がいた。

「お前は母親似なのか」

 応えず、心で彩雪の名を唱える。

 彩華の記憶を探れば、どこにでもいる筈の娘の姿を、今は必死に探すのに。

「彩華」

 低い声に名を呼ばれれば、ようやく見つけ出しかけた面影は、あっさりとかき消された。

 もう、無駄だろう。

 彩華はそっとカーテンを戻した。

「彩華、ここへ」

 また、名を呼ばれる。

 ここで彩華から名を奪ったのは、この王なのに。

 当たり前のように名を呼ぶのか。

 彩華、と。華、と。

 呼んで欲しいと望むのは声は、この声ではない。

 そう思うのに、呼んで欲しいと切実に願う声が思い出せない。

「聞こえぬのか? こちらへ来い」

 低く響き渡る声。

 もはやどう足掻いたところで、彩雪の欠片さえ見つけられない。

 王の存在のみが、彩華を埋め尽くしていくようで。

 身を慄かせる。

 いつだって、彩華を占めるのは彩雪の筈なのに。

 この王の存在感がそれを覆そうとする。

「申し訳ありません」

 彩華は、一歩と踏み出せず、その場で王に許しを乞うた。

 せめて、と思う。

 彩雪、という名を兄王から聞き、その娘が確かに存在し、生きている事を確かめることができた。

 その一夜ぐらいは。

「……どうか、今夜は……」

 一人で過ごしたい。彩雪だけを想いたい。

 それは、切実な願いだった。

 だが。

「彩華」

 絶対的な命令が下る。

 彩華の世界は、手を差し伸べてくる王に征服される。どんな大国もひれ伏す王に、彩華如きが抗う術があろう筈がない。

 諦めて王へと歩み寄る。

 届くまでに近付いた途端に、王は彩華の手首を掴むと、強引に傍らに座らせた。

 向けられる盃に酒を注ぐ事なく、王に視線を向ける事なく。

 小さな抵抗は、しかし、呆気なく押さえ込まれる。

「……っ……」

 顎を掴まれて、視線を向ける事を強要された。

「何を考えている?」

 交わる視線は探るように。

 何を考えようと、この方に咎められる謂れはない。

 だから、彩華は一瞬と怯むことなく、それを見返した。

「……貴方様こそ、何をお考えなのですか?」

 王の瞳が眇められる。

 王の問いに問いで返した彩華に更に問い返すような、それでいて、これを楽しむ色をそこに含む。

 ふと、腹立たしさが湧きあがる。

「何故、ここに留まるのですか?」

 感情に任せて、そう告げていた。

 既に王の指先は彩華を解放している。しかし、距離を取る事なく、顔を背けることなく。

「留まる?」

「光の方様の元へいらっしゃらないのですか?」

 はっきりと。

 かつて、聞く事のなかった疑問を投げる。

「泣く女は嫌いでな」

 王は無表情で答えた。

「切り捨てたくなる」

 そうとも続ける。

 嘘とも言えぬ、嘘。

 この方は、泣く彩華を抱きしめたのに。

 宥める術を知っている……ああ、違うのか。

 光の方様だから。

 珪心様を想って流れる涙だからこそ。

 この方は、光の方を抱きしめて、慰める事ができぬのだ。

 切り捨てたくなるのだ。

 彩華は、何故か零れかけたため息を、なんとか押し殺した。

「放っておけば、いずれ珪心の事は忘れるだろう」

 それまで、こうして、彩華の元に居座るのか。

 光の方が珪心を忘れるまで。

 その方を想いながら。

「何故?」

 彩華から、また、問い掛けが零れる。

 しかし、感情に任せて続けた会話を、一瞬冷静な思考が過ぎる。

 こんな事、言わなくて良い事だ。

 言って、どうなる事でもないだろう。

「何故、光の方様の想いが消えると思われるのですか?」

 なのに、止まらない。

 だって、ずるいではないか。

 この方は、私が追い求める姿を、その一声であっさりと消し去るのに。

 自身の内には、揺るぎなくその姿を抱き続けるなんて。

「その想いは……囚われの姫君が夢見る……まやかしの恋だとお思いですか」

 彩華はじっと王を見つめた。

 王は、その視線を受けて、先を促す。

 彩華は気が付いた。

「……貴方様は……珪心様と光の方様が契ってはおらぬ事に気が付いていらしたのですね?」

 何故、こんな事を言っているのだろう。

 そんなこと、どうでも良い筈だ。

 なのに。

「それでも……お二人を引き離したいと思われたのですね」

 王は、彩華から目を逸らさぬままに、闇帝を恐れる者達ならば決して気がつかぬであろう、僅かな表情の変化を見逃さなかった。

 それは、怒り。

「……お前は、俺がつまらぬ情愛でこんな茶番を仕組んだと思うか?」

 王の問い掛け。

 他に理由があるのかもしれない。

 でも。

 考え始めて、彩華はそれを意識して止める。

 興味がない。

 以前ならば、正直な思いで自然と出た言葉。

 今は敢えてそう答えようとした矢先。

「いや……結局、茶番か」

 闇王が、怒りを自嘲に変えて、続けた。

 話を終える事に失敗した彩華は、ただ、闇帝が語るのを聞くしかない。

「いつか、お前に呪詛を信じるかと聞いたな」

 頷きはしなかった。

 だが、もちろん、覚えている。

 呪詛や予言を戯言と言い切ったのを、この王らしいと思ったものだ。

「予言や呪詛を嘲笑いながら、何よりそれに捉われているのは俺だ」

 だが、王は今そう告白する。

 彩華に酌を求めるのを諦めたのか、自らの手で盃を満たしながら。

「ある日、預言者が言った。俺は王になる、と」

 なみなみと注いだ酒をくっと飲み干し、間を置く事なく再び酒を注いだ。

 彩華はただ王を見つめながら、その言葉に耳を傾けていた。

「やせ細った餓鬼に一欠片の肉片を与えて預言者は言った。お前は血に塗れ、世界を恐怖で支配する……覇王となるだろう……と」 

 預言者は、この男の未来を見たのだろうか。

 黄金の髪を、血に塗れさせ。

 足元には、屍の山を築き。

 無数の無頼者を従える、名無しの国の、名の無き帝王を。

 そして、その先は。

「そして、こうも預言したな」

 再び酒を注ごうとし、それが空である事に気がついた王は、無造作に酒瓶を転がした。

 そして、盃を失った指先は、不意に彩華の腕を捕えた。

 ぐっと引き寄せられ、だが、抱き締められることはなく、真正面から見据えられる。

「俺は王となる。だが、俺の子は王にはならぬ……と。そして、俺が死んだ後に王となるのは……滅びた大国の姫巫女が産む男児」

 男は彩華の反応を見定めるように言葉を切った。彩華は、視線を受け止めて、言葉を受け止めた。

 男は王。

 王の子は、王とならない。

 それは何を意味するのか。

 再び、この世に戦乱が訪れるのか。

 それとも、違う未来がそこに在るのか。

「ならば、俺はその姫巫女に俺を子を孕ませようと思ったのだ……俺は王になるために戦ったのではない。ただ、生き延びるために、剣を振っただけだ。騒がしい戦を鎮めたかっただけだ。だが、気が付けば預言通り王となっていた。だから、今度はそれを覆してみるのも一興、と……そう思った」

 珍しくも饒舌に語った王は、だが、彩華の抱いた疑問には答えていなかった。

 ただ、それもとても王らしい考えだと、彩華は思った。

「それだけだ」

 そう括り、闇帝は彩華を離した。

「……それだけならば、そうなされば良かったのです」

 彩華は答えた。

 王に掴まれた腕の痛みが、彩華が抑えようとする感情を煽りたて、声を紡がせる。

「預言者の言葉故ならば、光の方様のお心がどこにあろうと、貴方様は思うことを成し遂げれば良かった……そうなさる事で、今ここにおられるでしょう?……ですが、そうなさらなかった。貴方様は光の方様に想う方がいらっしゃる事を厭うた」

 闇帝は、彩華が言葉を返したことが意外だったのか。ほんの少しだが、それでも、驚きを視線に乗せた。

 彩華はそれを受け止めて。

 そして、そっと手のひらを王の胸元へと当てた。

「それが貴方様の想い」

 心は見えないもの。

 でも、きっとここに在る。

 だって、痛むのは、温かくなるのは、常にここだから。

「想い?」

 王は、何かに捕われたかのように、微動だにしない。

「そう……想いです」

 彩華は手を当てたまま言葉を続ける。

「そして、貴方様は……光の方様の想い人が珪心様であると知った貴方様は……光の方様が……珪心様が心変わりされることをお望みになった」

 首筋に剣を当てられて、光の方の想い人の名を尋ねられたあの時。

 彩華は、珪心という男が、王の中でどれほどの重さであるのかを計りかねていた。

「貴方様ならば……その想い人を光の方様から遠ざけることも……斬ることさえも難しくはないでしょう」

 だから、彩華は誰も殺めるなと乞うた。あれは、己の言葉一つで珪心という男がこの世から消え失せる事を恐れての願いだった。

「私の二つ目の願いは、珪心様であればこそ必要なく、珪心様でなければ無駄なものだった」

 そして、珪心の名を告げた時の、王のほんの僅かな動揺。

 彩華は、それを見逃さなかった。

 なんて、あざとい……そう思いながら。

「私が貴方様に持ちかけた契約は、珪心様であればこそ意味があり、珪心様でなければ不要だった」

 彩華はそう言って、王の胸元から手を離した。

「貴方様はお相手が珪心様であるからこそ……私の条件に応えられた」

 王はやはり動かない。

 彩華を見つめるばかり。

「珪心様の変わらぬ忠心」

 きっと、闇帝が王である前より、共にあった戦友として。

 誰よりも近しい腹心として。

「光の方様の想い」

 預言故に手に入れた姫君だとしても。

 この方は、あの方に……。

「それを貴方様は望まれた」

 そして、私は。

「貴方様は、光の方様を珪心様に奪われたくないと同時に」

 それに気がついて。

「……珪心様を光の方様に奪われたくはなかったのです」

 それを察して。

「そうか」

 王は静かに答えた。

「お前がそう言うのならば……そうなのだろうな」

 そう言った王はようやくのように身体を動かした。

 ラグに積み上げられた枕に背を預け、ゆったりと身体を緩める。

 そして、手が彩華に向かって伸びる。

「ご存知ですか?」

 触れそうになる指先を拒否するように、彩華は言葉を続けた。

 彩華の意図をくみ取るように、王の指は彩華の頬に触れる寸前で止まる。

「そんな想いを……人は情愛と呼ぶのです」

 闇帝と呼ばれる、血塗れ陛下と恐れられる方の、もっとも人間らしい想いを。

「私は……貴方様の情愛に付け込んだのです」

 王の指先が再び動き、彩華の頬に触れる。

「貴方様の想いを利用したのです」

 そっと指の背で頬を撫でてくるのを、顔を背けて拒む意思を現す。

「最も蔑まれるべきは私でしょう」

 だが言葉は、視線を王に向けて、はっきりと告げた。

「闇帝とも、暗黒王とも呼ばれる貴方様のお心につけ込んだ私は……よほど醜く浅ましい」

「彩華」

 また、その名を呼ぶのか。

 それは、ここにいる者の名ではないと思いたいのに。

「……その名で呼ばないで下さい、と申し上げました」

「お前の名は彩華だろう」

 彩華の小さな願いをも聞き入れてくれず。

 愛しい者の姿を奪うのに。

「私は……名無しの国の名無しの正妃です」

 彩華は立ち上がろうと、膝をついた。

 しかし、王は彩華の腕を捕えた。

 再び、腕を引かれて、彩華は力なくそこに座る。

 ここから立ち去る気はない。立ち去る事は許さない。

 そういうように王は、彩華を抱き寄せた。

 そして、彩華の膝を枕に横たわった。

「煌を滅ぼす前に、一度だけ姫巫女の舞を見た事がある」

 独白のようなそれ。

 彩華でさえ名は知る聖なる大国『煌』。今はなき古の国。

 神を讃える祭典では王の美しい姫君達が舞い踊るのだと、お伽話のように聞いたことがあった。

 そして、闇帝が煌を滅ぼした瞬間に、それを実際にお伽話のような存在になってしまったのだろう。

「美しい舞だった」

 何故、今、そんな話を……と思い、すぐに気が付く。

 聖なる国の姫巫女……今もなお、それに相応しい名を頂く……光の方。

 あの方が舞い踊ったというならば。

 それは、さぞかし。

 想像に難くない、いや、想像だにできない。

 光の姫巫女の舞は、この世のものとは思えぬ美しさであったろう。

 あの輝く白銀は、どれほどの光を放ち、世界を救ったのだろうか。

「国は腐り切っていたが……あの舞は失うのが惜しいと思った。手に入れたいと……」

 王が、彩華を見上げる。

 彩華は、王を見つめた。

「だが、手には入らなかったな……あれは二度と舞う事はないだろう」

 王の手のひらが浮き、それは彩華に触れることなく、王の顔を覆った。

 大きな手のひらで覆われた表情は窺い知れない。

 だが、王が隠したいと思う隠しきれないものが、そこにあるのだろう。

「歓喜の舞、など」

 もう一度、光の方の元へと促す事はできなかった。

 彩華は静かに目を伏せた。

 先ほど、闇帝の胸へと当てた手のひらを拳に変えて、己の胸元へと寄せる。


 胸が痛い。

 やはり、心はここに在る。

 だが、痛む理由からは目を逸らす。

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