17 正妃と兄王
この国は、名無し。
王が名付けぬから。
世界は長きに亘り平和だった。
小さな諍いはあったのだろうが、多くの国々は近隣との友好を保とうと努力し、そこに生きる人々は敢えて今の世界は平和なのだと意識することがないほどに、毎日を穏やかに過ごしていた。
その世界が最初に崩れたのは、とある大国の王の乱心がきっかけだったという。
古より神に仕える神聖なる国として他国からも崇められていた『煌』の、かつては歴代の王の中でも、最も敬虔であり、聖帝とまで謳われた王。その王が老いて、一人の美しい女に溺れ、女が請い、願うままの富を得んと他国への侵略を開始した。
それが始まり。
聞けば、なんとくだらぬ理由か。
だが、理由など問題ではない。
それを機に、保たれていた国々の均衡は一気に崩れ、戦乱へと陥ったのだから。
ずっとずっと平和であった筈なのに。
人は、どうして争い方を忘れることはないのだろうか。
そして、どうしてそれが愚かである言う事だけを、忘れてしまうのか。
どれだけの血が流れたのかなんて数える事がどんなに無駄であるか。どの国が存在し、どの国が消滅したのかさえ、混沌と分からない程の戦火の中。
その男が現れたのだ。
名の無い一人の傭兵。
どれほどに大地が血に穢れようとも。
いずれ浄化の光をもたらす太陽のように輝く黄金の髪。
どれだけの屍が流れ込もうとも。
悠然と波打つ海のように碧い瞳。
世界の美しさをその姿に映しながら、内に底の知れぬ闇を持つ男。
その男に惹かれ、多くの者が……この世界を憂う優秀な若者ほどが……自らの国を捨て、この男に膝まづき、忠誠を誓った。
名無しの国は、ここから始まったのだ。
たった一人の男。そこに集った烏合の衆。
彼らが権力のない武力によって並みいる国を制していき、そうして自ずと成り立った国。
それが名無しの国。
無から始まったこの国の法は、王となったその男が何かを定める都度、王の元に集った聡明な文人達が新たな法律として成り立たせてきたものだ。
そして、当然ながら、この国に古くからのしきたりというものはない。これもまた、王の言動により、新たに生まれつつあるものだった。
だから、ある晩に、王が後宮と呼ばれている場所から一人の女人を連れ出し、外朝でもなく後宮でもない自身の部屋へと招き入れ、これが我が正妃であると一言告げた時点で、それは国の歴史の一つとなった。
異を唱える者などない。
全ての者がそれを、王が今作り上げた一つであるとして認めた。
月の方と呼ばれていたその女人を、後宮に住まう数多の室の方々とは別格であると認め、恭しく頭を垂れて迎え入れたのだ。
その瞬間から、この女人は王の唯一の存在として、後宮に住まう者達の頂点に立つ者として……そして、名無しの国の初代王正妃として、世界からかしずかれ、畏れられる存在となった。
彩華はじっと見つめていた。
目の前の鏡に映る、着飾られた女を、ではない。
言うならば、ここに至るまでの己の所業と、これを守るためにこれから積み重ねていくのであろう己の罪を。
己自身は何も変わっていないと思い込むことにさえ失敗し、実際は何もかも変ってしまっているのだと突き付けてくるばかりの現実と、どう足掻いたところで光の差す筈のない闇に沈んだ未来を。
じっと見つめている。
「正妃様」
彩華の呼び名は、『月の方』というそれから、『正妃』または『妃殿下』へと変わった。
しかし、呼ぶ声は変わっていない。元は月の室付の侍女であった鈴風は、そのまま正妃付の侍女となり、今も彩華の最も近くに侍っている。
己の為に涙を流したこの侍女を見るたびに彩華は犯した罪を思い起こす。
それは、彩華の心にずっしりと重いもの伸し掛からせながらも、ここに在る意味を思い出させ、顔を上げさせた。
「正妃様……何か、お気に召さない事がございましょうか?」
返事をしない彩華に、もう一度声がかかる。
彩華は鏡から……否、先の見えない闇から目を逸らして、今を見た。
鈴風が傍らに膝を付き、心配げに彩華を見上げていた。その少し後ろに、2人の侍女がやはり跪いて、控えている。
王付きの侍女だというその者達は、片や40歳ぐらいの女性。この宮廷に勤める侍女の中では年長者であり、侍女達を束ねる立場にあるという者だ。
それに相応しい威厳を湛え、それでいて女性らしい優しさを兼ね備えている彼女は、彩華の教育係という立場も兼ねているようで、正妃としてすべき様々な事を日々教えてくれる。名は夕月という。
もう一人は、朝月という名のまだ幼い少女で10歳を超えたばかりだと聞いている。夕月の補佐が仕事であり、自らも率先してこまめに動く姿が健気で愛らしい。
元よりこの部屋で王の世話をしていた者達は、突如正妃としてこの部屋に住まう事になった彩華を、あっさりと受け入れた。
『俺と同じように』と、王が命じたままに、恭しく頭を垂れて、甲斐甲斐しく彩華の世話をする。
そこに彩華に対する不審は一切ない。王が選んだ妃であるというそれだけで、彼女達は無条件に彩華にかしずき、そこには敬愛さえをも感じられるようだった。
「いいえ。ありがとう」
鈴風の問い掛けに答え、彩華は鏡の前から離れた。
朝月がすぐに立って歩き出し、彩華のために扉を開ける。
「……ありがとう」
これにも、礼を言う。
はにかんだような笑顔でペコリと頭を下げる少女の声を、彩華は聞いたことがない。夕月によれば、どこも悪いところはないのだが、どうしてか声が出せないのだという。
戦火に巻き込まれた子供達の中には、身体に傷を負った訳でもないのに、いろいろと不調を訴える者が少なくはない事を彩華は知っている。
子供は生きる事に貪欲で強かだ。そして、繊細で未熟な生き物だから。
朝月が、どういう経緯でここにいるのかは知る由もないが、声を失う程の精神的苦痛を被った者が、愛らしい笑顔を浮かべる事ができている。
その事が、彩華の闇ばかりの心に僅かな光を灯すようだった。
しかし、救いのその笑顔に、僅かな笑みを返す事もできず、彩華は部屋を出た。
そこには衛兵が二人と、旬陽が立っていた。
「お待たせ致しました」
珪心が見るからに武人であるのに対し、この旬陽という男は線が細く、学者のようにも見える。
実際、武の珪心に対し、文の旬陽と呼ばれ、闇帝の左右を固めていると聞いた。
旬陽は彩華の言葉に、にこりと微笑むと
「いえいえ……もっと、待たされるかと思っておりましたよ。女人の支度は時間がかかるものでしょう」
柔らかな口調でそう言い、衛兵の一人に目配せをした。
衛兵が歩き出し、その後に旬陽が続き、更に彩華はその少し後ろを歩く。
彩華の後ろにはもう一人の衛兵が付いた。
仰々しい扱いは、一人で歩いていたならば誰も目に止める事もなかろう凡庸な女を、正妃だと知らしめる。
すれ違う者達が、彩華の姿を目にとめれば、皆、足を止め膝を折って礼を尽くす。
通り過ぎるだけの者達の心内までは、側に控える侍女達のようには伝わってはこない。それでも、やはり、彩華に対する疑心や、まして侮蔑などを感じさせる視線はそこにはないように見えた。
「こちらに移られて早1ヶ月ばかりが経ちますが、不自由はございませんか?」
前方から、優しげな声が聞こえてくる。
「はい。何もございません」
答えると、旬陽は少し顔を彩華に向けて微笑むと「それは良かった」と答えた。
「何かございましたら、すぐにお申し付け下さい」
「ありがとうございます」
微笑み返す事のできない彩華は、しかし、言葉にはでき得る限り心を込めた。
まったくもって、この扱いは恐れ多いばかりだから。
王が彩華を正妃と位置付けた日に引き合わされた、旬陽を始めとするこの国の重鎮達もまた、驚くべき柔軟さでその女を正妃と認め、膝を付いた。
王に対する絶対の忠誠心がそこにあり、彼らから感じ取る事ができるのは、闇帝と呼ばれる男に対する揺るぎない尊敬と信頼に他ならない。
そして、そこに恐怖はない。
他国が畏れ慄く暗黒王。
血に穢れた世界を、血で洗い流した血塗れ陛下。
しかし、闇帝が築いた国は、恐怖によって治められてはいないのだ。
この国は名無し。この国の法は王が築く。この国の慣習は王自身。
それは、この国の者達の望みなのだ。
もはや、どの国も、名無しの国には勝てぬだろう。
名無しの国の中心に触れて、彩華の得た確信はそれだった。
それを知った上で、彩華をここへと送り込んだのならば、これから会おうとしている男は、ただの傲慢な臆病者という訳でもないのかもしれない。
「兄上にお会いになるのは久しぶりでしょう?」
再び旬陽が話しかけてくる。
「はい」
答えながら、彩華は向かっている場所を思って、気が重くなるのを止められない。
ため息をなんとか押し留め、彩華の歩調に合わせてくれているのであろう旬陽に付いて行く。
「妃殿下」
不意に旬陽が、足を止めて振り返った。
彩華もまた足を止めた。
闇帝よりはかなり背の低い、だが、それでも、僅かに見上げる事になる男は、彩華をじっと見下ろしていた。
柔らかな微笑みの中、探るような瞳が見つめてくるのを、意思を込めて見つめ返すことなく、静かに受け止める。
兄という関係の、東方の王に会うに当たり、何か忠告でもあろうかと彩華は旬陽を待った。
東方と名無しの国の危うい関係を思えば、むしろ、それはあってしかるべきだろう。
「……旬陽様、何か?」
何も言わない旬陽を、彩華は静かな声でと、不安が滲まぬようにと心しながら問い掛けた。
はっとしたように旬陽はほんの僅かに身を揺らし、自らを諭すように一度ゆっくりと瞬く。開いた瞼の下から現れたそれに、既に先ほどのような意味を含ませたものはなく、正妃に忠誠を示す者達と同じ色だけがあった。
「いいえ、何でもございません。こちらのお部屋でお待ちですよ」
手が指し示す扉を、彩華はちらりと見遣り、頷いた。
「誰も参らぬようにと命じてございます。どうぞ、ごゆっくりとお話下さい」
皮肉にも聞こえそうなそれを善意の言葉と言い聞かせ、彩華は旬陽がノックしてから開いた扉を潜った。
パタン、と扉の閉まる音を背後に聞きながら。
「……久しいな」
謁見の間の中央に立つ男を、彩華は無言で見つめた。
白い肌、茶色の髪、灰色の瞳……彩華との共通点は、東方の民族の特徴以外はどこにもないこの男は、血を辿れば兄なのだという。
そうだと思った事など一度としてないけれど。
ほんの少し前まで、彩華の毎日は穏やかだった。
小さな村の薬師として。
彩華の元を訪れては、たわいのない世間話をして、決まった薬を持って帰るお年寄り達。
どこぞで転んでけがをしたと言っては、駆け込んでくる子供達。
そして、彩華のたった一人の肉親である妹……彩雪。
そんな人達に囲まれて過ごす日々は平穏そのもの。
もちろん、世界のそこかしこで戦が繰り広げられている事は聞こえてきたし、闇帝と呼ばれる恐ろしい存在の事も、少しずつ耳に届いてはいた。
でも、それは東方の小さな国の、そのまた小さな村に住む彩華にとっては遠くのことで。
むしろ、どこかの遠くの国で凄惨な日々が過ぎているのだと思えばこそ、むしろ、この平穏な日々を彩華は心から慈しんだ。
なのに。
この男がある日突然に現れたのだ。
たった一人の供をつれて、夜に紛れるようにして現れた男は、己を『雹』の国の王であると名乗った。
そして、彩華を『我が妹』と呼んだのだ。
雹の国王?
何を言っているの?
誤魔化すつもりなく、彩華は首を傾げた。
雹とは、彩華の暮らす村を擁する国。
その国の王が、彩華を妹と呼んだ。
その意味に気が付いた瞬間、今の今まで続くと疑うことのなかった毎日が崩れていく予感を抱いて、身体を震わせた。
母から聞かされていたそれは、小さな村の薬師として細々と暮らす身には、あまりに非現実だった。
かつて、祖母は国一番の魔女として、王宮に召し上げられていたという。その祖母に付いて王宮に上がった母が国王に見初められて彩華と彩雪を生んだ。
そして、祖母の死をきっかけに、王の元を辞してきたのだという。
王の元を辞した理由は詳しくは聞いていない。
ただ、母は決して王宮に戻りたいとは言わなかった。一度、彩華にそれを語った後は、二度と同じ事は言わなかった。
多分、それが母の想いだ。
だから、彩華も忘れた。
記憶の奥深くへと沈めて。
平穏な日々を過ごす身には、それは何の意味もない事だったから、簡単だった。
父であると聞かされた国王の崩御を聞いた時でさえ……彩華はそれを村長の世間話の一つとして知ったのだが……彩華をこの世に送り出す一端を担った者が亡くなったのだとは、到底思えず、涙の一つも零れなかった。
ただ、漠然と思ったことは。
父だと言う王が亡くなった。祖母も母も、とうに亡くなっている。これで、彩華達が王の落し胤という真実は、どこに漏れることなく葬られるだろう。
彩華は、この小さな村の薬師として、暮らしていくのだ。
毎日を穏やかに。
そう思い、それを望んだ。
さほど遠くない未来に、受け止められるかどうか未だ定かではない悲嘆が待ち受けている事に気が付きながら。
その瞬間までは、明るく生きていこう。
そう思っていたのに。
それだけを望んでいたのに。
この男が現れた。
父王の崩御により、新王となった、彩華の腹違いの兄が。
そして、彩華の望みは、あっけなく崩れた。
「本当に正妃に納まるとはな」
男は言いながら、品定めをする視線で彩華を下から上へと眺めた。
「どんな手を使ったかは聞かぬ。……が、久しく会わぬ内に美しくなったな」
感嘆と、そして、侮蔑を含んだ言葉。
彩華はそれを受けて流し、更に返すように血が幾らかは繋がっているというだけの男を見つめ返す。
彩華が育った雹は、この名無しの国から見ると、東に位置する。
しかし、ここを世界の中央として暮らす者達は、雹という国名など知らぬに違いない。
小さな国々が、豊かではない土地にひしめきあっている地域の総称として、そこは常に『東方』と呼ばれているから。
東方の特徴は厳しい気候と、乏しい資源。
それを時に分かち合い、時に奪い合いながら、中央にしてみれば、名を呼ぶにも足らぬ国々が存在している。
だからこそ、中央から広がった戦乱は、ここまでは辿り着かぬだろうという慢心が、各国の王達にはあったのだ、と現れた王は言った。
だが、闇帝の力はそこにも及んだ。
小さな、ほんの微かな火種も根こそぎ消し去らんという意思を露わに、東方の国を治める王達に名無しの国への隷属を求めてきたのだという。
東方の王達は集い、抗戦か隷属かを幾度と話しあった。
雹は、東方にあっても、決して力を持つ強国ではない。
しかも、王は即位して間もない何ら実績を積んでおらぬ者だと侮られた、と。
しかし、若いが故に気が付いているのだ、と。
名無しの国に隷属する事は免れぬ。ならば、でき得る限り有益な条件を闇帝から引き出すのが得策。
そう、同盟国に訴えた。
が、他の老いた王達にそれは伝わらない。ただただ、屈せぬと我を張るばかり。
若き王は、国の行方を憂い、悩み、やがて思い出したのだ。
他国にも名を轟かせた優秀な魔女を祖母に、己の父王を魅了した美しい女を母に持つ妹達の存在を。
語り終えた王は、彩華に命じた。
かの後宮に上がり、王の寵愛の一つも……よしんば、正妃の座を手に入れよ。
国のため。
どんな小国であろうと、ここは雹という名を持つ国。
名の無き大国に飲み込まれることなど、受け入れる事はできぬ。
彩華は拒んだ。
できよう筈がない。
後宮に上がることは不可能ではないだろうのだろう。しかし、そこで男を寵愛を勝ち得る術など、彩華にはない。
そう訴えた彩華に、兄は冷酷に言い放ったのだ。
祖母から受け継いだ術があろう。母から得た身があろう。
そして。
それらで手に入るものと引き換えに、それらでは手に入らぬものを与えてやろう。
彩華を頷かせたのは、最後のそれだった。
国を守るためなどではない。
たった一つの宝物を守るため。
そのためだけに。
彩華は、兄だという男を見つめた。
たじろいだように男は身を揺らし、蔑みを含んだ視線を逸らす。
あの時も、この男はやはり彩華から目を逸らしたのだ。
自ら取引を持ち掛けながら。
それを恥じ、己の無力さを歯噛みするように。
この男は王なのだ。
到底、闇帝には及ばぬ凡庸な男である事を、事実として受け止めながら。
それでも、一国の王として、国を守らんとする姿に、僅かな畏敬と多大な憐憫を覚えながら。
彩華もまた王から視線を外し、見事な大理石の床を見つめながら、たった一つを尋ねる。
「……彩雪は?」
この男に尋ねるべき事はそれだけだ。
「心配はいらぬ。元気にしておる」
彩華はほっと息をついた。
ならば良い。
ならば、私がここに在る意味がある。
「陛下の寵愛は並々ならぬと聞こえてきてはおるが、それもいつまで続くかは知れん」
男は、そう言って、更なる契約を持ちかけるように、彩華に告げた。
「早々に皇子の1人ももうけることだ」
彩華は黙して、それを聞き流した。
心内で、その契約は成される事はないとの、いらえを返しながら。
男は彩華が知らぬと思っているのか。
例え、小さな村とは言え、彩華は薬師を生業として生きて来たのだ。
高名な医師のような難しげな治療を施す事はもちろんできようもないが、様々な病人やけが人を診て、それに見合った薬を調合する。
それを続ければ、ある程度、その者の状態は分かるようになってくるものだ。
彩雪。
彩華のたった一つの宝物。
何があっても守ろうと。
どんな事があっても、二人で生きようと。
手を繋いで、笑顔で、約束した。
だが、あの娘は……。
だから、5年と言ったのだ。
正妃の座を5年、と。
いや、本当は5年もいらない。
それは彩華の希望だった。
1年か。3年を望むのは無理だろうか。
だが、5年。
いいや、どれだけも良い。
一日でも長く。
願ったのは、それだけだ。
一日でも長く。
そして、願わくば、その一日が、憂う事ない幸せな日でありますように。
その一つのために。
この男の命を受けた。
闇帝と契約を交わした。
この先も。
彩華は幾つもの契約を交わしていくのか。
そして、幾つの罪を犯していくのだろうか。