16 正妃の誕生
彩華という名の女は、王の期待を全く裏切らなかった。
いや、もしかしたら、裏切られたのだろうか。
正妃の座を望んだ女。
それを手に入れた時、女はどう変わるのか。
契約を果たして後のその有様を静観する王の前。
正妃とした女は、その地位に惑わされることなく、美しい姿のままに在り続けていた。
政務を終えて自室に戻ると、そこには彩華がいる。
どうしてだろうか。彩華をこの部屋に受け入れたその日から、一度としてその事に違和感を感じた事はない。
まるでずっと前からそうであったように、極自然なこととして、王は彩華の出迎えを受ける。
彩華は、王の姿を認めると、三人の侍女を従えて、優雅な礼と言葉を一つ寄越す。
「おかえりなさいませ」
声に、嬉々とした響きはない。疎ましいという思いも感じられない。
常に淡々と王を迎え入れる彩華ではあるが、かと言って、己の如く感情がないという風ではない。
それは彩華の放つ香りにも似て、なんとも心地よいような、もどかしいような、不思議な感覚を王にもたらし続ける。
そんな言葉に頷きで答え、身につけている衣服を脱ぎ始めれば、元より王付きとして世話をしていた年嵩の侍女が手慣れた動作で手伝いを始めた。
脱いだ衣服は、もう一人の王付きの侍女である、まだあどけなさの残る少女に手渡され、晒された傷だらけの半身には部屋で寛ぐに相応しい衣がふわりと掛けられた。
ここを居城としてから、毎日のように繰り返されてきた一連の作業は、彩華がこの部屋のもう一人の主となってからも何も変わらない。
彩華は手を出すことも、一言の後に何の会話を続けることもなく、ただ、静かに王を見ている。
その様は、あの一件の残照を一片と見せることない、月の室にいた女そのままだった。
後宮から連れ出して数日。
初日こそ隠しようのない動揺をそこかしこに垣間見せた彩華だったが、すぐにも落ち着きを取り戻した……ように見えた。
しかし、彩華がそれほどに強かな女ではない事を、王は既に承知している。
その身に起こった事が、全て計画の範疇であり、覚悟の上であったとしても。
まだ年若く、まして、その経験のない娘にしてみれば、どれほどに痛みを伴うものであったのか。
身体にとっても、心にとっても。
これは想像に難くはない。
しかし、あの翌朝、王の腕の中で目覚めた彩華は、怯えも涙もすっかりと消し去り、正妃として恥じ入る所などどこにもない女として、ひれ伏す臣下達の前に姿を現して見せた。
背を伸ばし、俯くことなく。
王の寵妃に相応しく。
そこには僅かばかりの揺らぎもなかった。
動揺の余韻は、その傍らに立つ王の方にこそあったのかもしれない。
あの日。
そこで起きている事を承知した上で、月の室に踏み込んだ。
わざと重要な政務を放り出して、後宮へと足を踏み入れた。
月の室へと向かう前に、光の室を訪れ、輝かんばかりに美しい、しかし、王に決して心を開かぬ妃を訪ねた。
彩華に特段の思い入れがあるらしい光の方は、王が月の室へと誘えば、珍しくも嬉しげに笑みさえ見せて、供の一人も連れずに付いて来た。
後宮の回廊を歩きながら、時を計る。
己を追って珪心が月の室を訪れたであろう事は確信があった。
理由を付けて侍女を引き離した筈の月の室の主が、上手く事を運べているであろう事も。
そして、己がそこに辿り着いて結末を迎えるまでには、あといかほどの時が必要か。
全ては計画の内だったのだ。
しかし、その場に直面したその時。
事切れたかのようにうつ伏せる彩華を見て、少なからずの動揺を覚えた。
乱れて広がる茶の髪。引き裂かれたドレス。合間から垣間見える肌には、何が起きたのかを知らしめる無残な痕跡。
そして、何よりも、無垢な花が散らされた事を明かす僅かな血痕が、血塗れ陛下と呼ばれ、幾つもの屍を踏み越えてきた己の内に、訳の分からない波紋を描いた。
何気なくを装い目を逸らした先には、呆然とその場に座り込んだままの……乱れた衣服の珪心。
背後には、泣き叫ぶ光の方。
全てが思い描いた通り。これらには一瞬として、心乱すことなどなかったのに。
その二つと同じように予期していた筈の彩華の姿を見て、込み上げてくるものを抑え込むために少しばかりの努力を要した。
しかし、努力は功を奏したとは言い難く、結局は彩華に近付き己のローブで力のない身体を包み込んで、その哀れな姿を隠した。
抱き上げた瞬間、ビクリと腕の中で震えた身体に、彩華が生きていることを知り安堵の息を密かに零した事を、それにようやく乱れていた心がいくらも鎮まった事を、誰に知られておらぬようにと祈った。
彩華を手中に取り戻し、跪き俯く珪心を見下ろしながら。
全てがうまくいったのだ。
それに間違いはない。
そう思い至り、自室に彩華を運び入れた。
その場にいた王付きの侍女を下がらせ、月の室にいた侍女を敢えて呼び付けて彩華を預けた。
計画の通りに事を運びながら、唯一の計画外である己の動揺の大きさを力づくで治めると、月の室にいる珪心の元へと戻ったのだった。
珪心は一切の言い訳をしなかった。許しを請うこともなかった。
ただ、ひれ伏し、王の言葉を待っている。
自決せよ、と?
それとも、王の剣が無言で断罪するのを?
しかし、王はどちらもしなかった。
「静へ立つのは明後日だったか」
何事もなかったように、ここが月の室でなく闇帝の執務室であるかのように言えば、珪心が驚いた顔を上げた。
王は己がいつもの無表情を浮かべているであろう確信を持って、珪心を見下ろす。
「てこずるようならば、早々に戦に持ち込んで構わん。東方はしばらくはおとなしくしているだろう」
静は西方にある比較的大きな国だ。激しく抵抗した前国王を闇帝が討ち、その息子が名無しの国への隷属を受け入れたため、それを王として国を残した。
しかし、昨今、東方の小国が同盟を組み、名無しの国に従う事を拒んでいるのを機と見たのか。
反旗を翻さんとしているとの情報を得ていた。
東方と西方の両方を敵に回すのは得策ではないとの決議により、珪心が静へ赴き調停を進める事が定められたのは、少し前の事になる。
しかし、状況は変わった。
あの女は王との契約を果たした。ならば、今度は王の番だ。
王の言葉に、珪心の喉仏がゴクリ、と大きく上下する。
「……陛下、それは?……」
珪心らしからぬ弱々しい問いに、王は殊更静かに答えた。
「あれを正妃に迎える」
珪心の目が見開かれる。
それを見据えながら、言葉を続けた。
「あれは東方の女だ。それを正妃とすれば東方も少しは大人しくなるだろう」
だから、その間に西方の静を大人しくさせろ。
それが王から珪心への命令だ。
見下ろす珪心の、ただでさえ青ざめていた面が、骸のように血の気を失い、やがてがくりと項垂れた。
「珪心」
少しして、名を呼ぶ。
珪心は、僅かに肩を揺らしただけだ。
「全てはなかった」
珪心の反応はない。
王はもう一度言う。
「何も起こらなかった。お前は静に向かい、月の方は俺の寵妃として正妃となる……それで良い」
珪心が顔を上げた。
その瞳は血ばしりながら、驚きを湛えている。
「……っ……しかし、私はあの方を……」
王が正妃にと望む女人。
闇帝が、過去、後宮に上がった女人を政治的道具として利用した事がないという事実を承知している珪心にしてみれば、告げられたそれは闇帝の執心の証以外でしかあり得ないと察するだろう。
それを凌辱した。
自決したところで許される事では到底ない、と。
王に忠義を誓う男は再び項垂れた。
「確かにあれは俺の寵妃だが」
王は、珪心の頭頂を見据えたままに続けた。
「お前は俺の腹心だ。代わる者などない……女一人のために失うのは惜しい」
これは、真実。
何が本当で、何が嘘で。
何が現実で、何が虚構か。
時折、見失いそうにもなる中、王の珪心に対する思いは虚言ではない。
「一時の気の迷いだった。それで良い」
珪心は、小さく首を振った。
信じられない、とでも言うように。
「何もなかった。これからも何もない。お前と俺は何も変わらない……あの日、三人で一つ目の国を滅ぼした時と、何も、だ」
珪心はゆるゆると顔を上げた。
王はほんの僅かに表情を浮かべる。
うまく笑う事など忘れてしまったが、それでも、僅かな者になら稀に見せる微かな表情の変化に珪心の顔が歪む。
「それとも、お前は俺に剣を向けてもあの女が欲しいか?」
「そんな事はっ」
慌てて、首を振う男に王は頷いた。
「ならば……今までと変わらず俺の忠臣であれば良い。俺には、お前が必要だ」
珪心の瞳から堪え切れないように滴が溢れる。
やがて。
「御意」
小さくもはっきりと、そう聞こえた。
後宮から出て、そのまま一礼をして去ろうとする珪心に、王はふと思いつき問い掛けた。
「お前は……あれの何に惑わされたのか?」
珪心は足を止めた。
振り返った表情には、王の問いが意外だったのだろう驚きと、内容を把握しかねているような困惑が見て取れた。
その表情に王は、自嘲する。
何故こんなことを、尋ねたのだろう。
「何もなかったと言ったのは俺だったな」
珪心には彩華を欲した理由など分かる筈がない。
闇帝が張った罠と。女が操る薬。
珪心があの女に触れた理由はそれに違いないのだ。
しかし、理由は何であれ、珪心は彩華に惑わされ……手折った。
訳の分からない波紋が、また、僅かに広がり始める。
全て謀。あの女は手駒。
遺恨などない。嫉妬など、ある筈もない。
ならば、これは純粋な好奇心か。
「香り……瞳……そして、あの方の存在自体に」
少しの間を置いて、珪心は全てを己の内に落ち着かせたように、穏やかに答えた。
「狂った世界に身を置く者として、あの方の揺るぎない正気を欲し……愚かにも更なる狂気に身を堕としました」
その答えは、王を納得させ、そして満足させた。
「……そうか」
そうだ。あの女は、まっすぐだ。
どんなに世界がいびつに歪もうと、それに曲げられることなく。
周りがどれほどの狂気に満ち満ちようと、脅かされることなく。
微動だにする事なく、立つ。
手に入れたくなるのだ。
狂った世界を棲家とする者達は、あの、僅かな歪みもない存在が欲しくなる。
この男は、己と同じだ。
己と同じ世界に身を置く。
そして、あの女に、己と同じものを見て、欲した。
ならば。
「やはり……お前は俺の腹心だな」
波紋はすっかりとは消えない。
だが、王は確かに珪心を許し、そう呟いた。
そして、珪心は出立した。
城内は、何事もなかったのような日々が続いている。
あの場にいたのは月の室の侍女と光の方と己。
侍女は己の主に起こった不幸を決して口外しないだろう。
光の方は弱い女だ。誰にそれを語ることなどできよう筈もない。
彩華を正妃としたも、何も変わらぬ。
戦に赴くに、何ら憂う事ない。
これが王の望んだことだった。
「旬陽から話は聞いたな?」
着替えを終えて、彩華に近付きながら、宰相の一人の名を上げて尋ねれば、彩華は「はい」と短く答える。
「煩わしいか?」
騒がしいのは嫌いだと。
何もいらぬのだと。
言い続けてきた女は、手に入れた正妃という座に付随してくる様々なものを予期していただろうか。
「……いいえ」
彩華は、これもまた短く答えた。
「何も欲しがらぬだろう、とは言ったんだがな……これが後の正妃の礎になるそうだ」
王が彩華を正妃と定めた事に対して、異議を唱える者は誰一人いなかった。
そもそも東方の国との調停の行方を模索していた時ではあるのだ。東方は一つ一つの国は小さい。過去には諍いが絶えない地域でもあった。だが、名無しの国を共通の敵と定め、同盟により一つの敵となれば、それはなかなかに強大であり厄介な相手であった。
闇帝が気に入らぬ事であろう故に、誰もが考えながらも口にはしなかったが、東方の女人を正妃に置くというのは、双方にとって悪くない駆け引きの条件に違いない。
しかしながら、それはあまりに唐突であったようだ。
どこか慌てながらも、常に国の未来を思う優秀で熱意溢れる家臣達は、正妃という存在についてすぐさま定義と法を考え始めた。
正妃というその地位とは?
与え得る権力は。権威は。富は。
そして、その祖国には、どれほどの恩恵を?
「全て……思し召しのとおりに、と」
彩華の答えに、王は頷く。
旬陽からもまた、正妃は何一つ拒むことなく、また、求めることなく首肯したと聞いている。
王がまだ王と呼ばれる前からの部下……というよりは、珪心同様に戦友である旬陽は、その時の彩華の様子を『まるで興味がないといったご様子で』と語り、『しかし、お立場は十分にご理解していらっしゃるようでした』と告げた。
そして、珪心に比べると、色事にもよほど物慣れた旬陽が言った言葉を、彩華を目の前にして思い出す。
『白磁の肌とはよくぞ言ったものだと』
「……白磁、か」
誰に聞かせる訳でなく呟き、華奢な腰に腕を回して抱き寄せる。
彩華は少し身を固くはしたが、拒みはしない。
そこに、侍女がいるからだろう。
王付きの2人と、それから、正妃付きとなった元月の室付きの侍女。
人目がある時にこそ、彩華は寵妃として王に身を委ねる。
王もまた、こうして時折戯れては見せるも、あの晩に彩華の肌の至る場所……珪心の痕跡の残る場所全てに唇と指を触れて以来、閨では彩華には触れていない。
契約は、未だ守られ続けていた。
「この肌は何で覆えば隠せるのか」
まだ、寝着に着替えていない彩華の装いは、深い緑のドレスだった。いつぞに着飾らせるために無理矢理着せたドレスに比べれば、よほどに露出は少なく、白く映えるのは首筋程度。
しかし、抜けるような白い肌は、目を刺す程の眩しさを放っている。
誘われるままに、そこに唇を触れる。
今は誰の痕跡もない純白を、吸い上げて穢れを一つ。
「陛下」
彩華の手が、王の胸元を押した。
些細な反抗だ。
「旬陽が言うには……深い緑に白が映えて、なんとも艶めかしいと」
己で刻んだ所有の証を、舌でなぞる。
『東方の女性の美しさは存じておりましたが』
言葉に長けた男が珍しくも口ごもりながら、王に幾分遠慮するように告げた。
『まっすぐに見つめられて、思わず言葉を詰まらせました』
王はそれに僅かに唇を上げて、旬陽を許した。
この男も、また、己や珪心と同じ世界に生きる者だ。ならば、彩華に惹かれるのは道理なのかもしれない。
「それもまた戯言でございましょう」
彩華は僅かに表情を変えることなく、そう答えて、諦めたように王の腕の中で大人しくなった。
静かに抱かれる女をじっと見下ろす。
以前と何も変わらぬ、というのは訂正すべきかもしれない。
後宮から連れ出され、この部屋で3人の侍女に手間を惜しむことなく手をかけられる女は、この数日でなおも美しさを増した。
透けるような白い肌。柔らかに波打つ髪。
そして、何より。
在る場所がどこになろうとも。
『……あの方は、陛下の事もあのように見つめられるでしょうね』
まっすぐにと、見つめてくるこの瞳だ。
どれほどの贅を与えようとも。
どれほどの力を持とうとも。
変わらぬ瞳。
むしろ、そんなにものに塗れれば塗れる程に、女の美しさは際立つばかりだ。
「……戯言、な」
この女は、旬陽のこともこうやって見つめたのか。
そして、珪心をも?
「後宮には、私など足元にも及ばぬ美姫が溢れておりますでしょう」
己の美しさを知らぬのは、罪だと王は考える。
実際に、そうなるべく舞台を整え、手管を講じたとはいえ、彩華は一人の男を手玉に取ったではないか。
あの珪心を。
囚われの姫君に惹かれながら、忠義を誓う王の妃だとそれを押し殺していた男。
あの堅物の男を、彩華は堕とした。
「相変わらず、お前はお前の美しさを分からぬのだな」
身を屈め、彩華の首筋に顔を埋めて、その香りを吸い込んだ。
この香りも、変わらない。
甘い香りが、王の身体を包み込みながら、しかし、もどかしさを感じる柔らかさで揺れる。
「陛下、皆が困っております。お離し下さい」
彩華の手が、再び王の胸に添えられて、咎めるようにそっと押す。
名残惜しい思いは誤魔化しようもなく、しかし、それを面に出す事などもちろんないままに、彩華の声に顔を上げて侍女達を見遣れば、各々に次にすべき仕事の準備を手に待ち構えている。
「湯浴みか?」
真新しい生地を手に立つ侍女に、王は尋ねた。
「はい」
ほっとしたように、鈴風が頷く。
王は彩華を離し、そっと背を押してそれを促した。
彩華は素直に従い、鈴風へと歩いて行きかけて、ふと足を止めて、王を見返る。
「今宵もこちらで休まれるのですか?」
暗に、余所へ……後宮に渡らぬのか、とも聞こえる言葉に、反応したのは傍らの侍女だった。
ぎょっとしたように目を剥く侍女など気にも留めず、彩華は王の返事を待っている。
「……どこに行けと言うのだ?」
答えれば、彩華の瞳に珍しく戸惑いが見えた。
彩華の言いたい事は分かった気がしたが、それに従う気はない。
「早く戻って……酌をしろ」
言えば彩華はもう何も言わず、すぐに王に背を向けて部屋を出ていった。
続いて王の言葉から酒の準備が必要と判断した年嵩の侍女が、部屋を出ようとする。若い侍女は火照ったように赤い顔で少しばかり呆けていたが、王の一言ではっとすると、何事もなかったかのように、王の命に応えるべく、扉口で待つ侍女と共に部屋を出て行った。
静かになった部屋の奥に進み、敷かれたラグの上に無造作に座り込む。
いずれ、酒が準備され、彩華が戻る。
今晩も静かな夜が過ぎて行くだろう。