15 花の名
彩華は闇に抱かれたまま、どこかに運び込まれた。
自らを嘲り、いっそこのまま闇に溶けてしまえば良いと願う彩華の心内をよそに、まるで壊れ物を扱うかのように、丁寧にそっと柔らかな場所に降ろされる。
彩華は俯いたまま微動だにせず、作り物の闇の中で更に目を伏せた。
事は成し終えたのだ。
上出来、という王の言が聞き間違いでなければ、全てはうまくいったのだろうか。
「月の方様」
ほどなく聞こえてきたのは、この後宮では一番聞き慣れた声だったが、しかし、今までにない緊張感に強張り、上ずっていた。
「……失礼致します」
その言葉の一瞬後に、闇が取り払われる。
もう日も暮れたというのに。
彩華のみすぼらしい姿を浮かび上がらせるのを戸惑うように、明かりは仄かに灯されているだけだ。
しかし、それでも、彩華には明るすぎるように感じられた。
「湯の準備が整いましたので……歩けますか?」
鈴風の問いに、彩華は頷いて立ち上がろうとした。
だが、どうしたのか、腕は身体を支えきれずに震え、一瞬浮いた腰は、カクンと抜けた膝と共に崩れる。
その場にうずくまる彩華に、鈴風が慌てて手を差し伸べてくる。
拒める筈もなく、支えられてようやく立ち上がった。
「……どこか痛くはありませんか? 陛下からは場合によっては医者を呼ぶようにと……月の方様!」
意識してだろう、なるべく感情を出さぬようにと穏やかに話している途中で、いきなり声音に悲痛さが混じる。
「お怪我を! 大丈夫でございますか?」
鈴風が心配げに手を取り、その手のひらを広げて見ている。
彩華は、そっとそれを握り、拳に傷を隠した。
既に血は止まっている。
少しばかり血の滴が必要だっただけなのに、動揺して、少々切りつけ過ぎてしまった。
それでも、己で意図して傷つけたのだ。
そんなに深い傷であろう筈がない。
「……大丈夫です」
鈴風はそれについては何も問わずに、彩華を部屋の隅に用意された湯桶へと導いた。
無残に引き裂かれた、今はもう、ただの端切れのようなドレスを脱ぎ、暖かな湯に半身を沈める。
いつもなら、一人で大丈夫だと鈴風の手伝いを拒むが、今は、それもできず、手桶で湯をかけてくれるのに、ありがたく身を任せた。
見下ろす胸元に、赤い痣。
手首には、男の指の跡がはっきりと描かれている。
どちらも、湯に濡れた指先で擦ってみたが、消し去れる筈もない。
それでも、いずれ、これらは消えるだろう。
だが、もう、決して消えることないのだ。
己が犯した罪は。
「髪を流します。よろしいでしょうか」
頷いて、少し俯き目を閉じる。
頭に湯がかけられる。嫌いではない香草の香りがして、髪を洗われているのだと気が付く。
髪。
男の手が、髪飾りを強引に奪った。解かれ背に流れた髪を、握り込んで引っ張られ……痛みに上がりかけた悲鳴を飲み込んだ瞬間が不意に脳裏に浮かぶ。
「月の方様?」
「なんでありません」
恐怖ではない。悔恨ではない。
それでも、一度竦んだ身は、なかなか緩まない。
鈴風は、黙々と彩華の身を清め終え、そして、身体を締め付けることのない柔らかな寝着を着せてくれた。
そして、湯場に導いた時と同じように手を添えて、彩華をベッドへと戻し
「……月の方様……申し訳ございません」
彩華の前に膝をつき、深々と頭を下げる。
彩華は、目を伏せた。
ここにも一人、彩華の罪に巻き込まれた者がいた。
「私がお側に控えておりましたら、このような事には」
声が上ずり、鼻をすする音が混じる。
肩が小刻みに震えていて、この侍女が涙を流していることに気が付く。
「貴女のせいではないわ」
彩華は囁いた。
もっと、しっかりと言わねば、と思う。
この者の主として、今回の事は鈴風のせいではないと、はっきりと言うべきだと分かっている。
だが、声は弱々しく、響く。
「……貴女のせいではないの」
鈴風が顔を上げる。
彩華は、それと入れ替わるように俯き、鈴風と目を合わせることを拒んだ。
「一人になりたい」
呟くように願えば、鈴風が戸惑っているのが伝わってくる。
彩華が行末を悲観し、凶行に及ぶような事を心配しているのだろう。
「……眠りたいの」
彩華は顔を上げた。
目の前で、涙の止まらない鈴風が彩華を心から心配する様子で、見つめている。
「大丈夫よ……貴女の心配するような事は何もないと約束します。本当に眠りたいだけ」
彩華は言って、微笑んだ。
過去、何度となく弱々しくベッドに横たわる娘にしたように。嘘を嘘だと思わずに、それこそが本当なのだと言い聞かせて、微笑む。
彼女の前でならできたそれが、今、鈴風に向かってできているのかは分からない。
鈴風は驚いたように目を見開いた。それが、彩華が鈴風に初めて微笑んで見せたからだと知ったのは、ずっと後になってからだ。
鈴風は、再び泣きそうな顔をしてから、それを隠すように、頭を下げて
「ごゆっくり、お休み下さい」
顔を上げることのないまま、そんな言葉を残して、部屋を出て行った。
鈴風に言った事は本当だった。
何も考えずに眠りたかった。身体も、心も疲れ切って、ただただ休みたいと、そう願った筈だった。
しかし、状況は整ったのに、彩華に眠りが訪れることはなかった。
寝返りを打つ気力もなく、手足を縮めて身体を丸める。
意識が遠のく事を望んで、瞼を降ろすのに。
むしろ、何かが脳裏に浮かびそうになる。静まりかえった部屋に何かが聞こえる気がして耳を塞ぐ。
己は起きているのか。
それとも、これは悪夢なのか。
もはや、眠りをも、彩華に一瞬の安寧ももたらしてはくれないのだろうか。
絶望という名であっても意識が遠ざれば良いのに。
願いと裏腹に頭は冴えわたる。
突如、物音がして、彩華はビクリと身を竦ませて、そっと顔を上げた。
大きな音ではなかったが、塞いだ耳へと聞こえてきた音の方角に目を向ける。
鈴風が出て行ったのとは違う扉が、壁の一角にある事に初めて気が付く。それが、静かに開かれた。
鈴風が消さずに残していった小さな明かりが、男の姿を浮かび上がらせる。
「医者は呼ばなかったそうだな」
王は静かな声で尋ねてきた。
彩華は答えず、近付いてくる王を見つめていた。
これは悪夢の続きだろうか。なのに、不思議と湧き上がるのは、否定したい安堵。
王は彩華の横たわる寝台の脇に辿り着くと、寛いだ寝着を身につけているにも関わらず手に持っていた剣を無造作に枕もとに立て掛けた。
そして、躊躇することなく寝台へと上がり、横たわる。
王が遠い。
横たわる己と王の距離に、この寝台が月の室のものよりよほど大きい事に気が付いた。
距離を置いたまま、彩華は上げていた頭を再び枕の上に戻し、王へと背を向けて目を伏せた。
眠れない。
だが、背後の王の気配により疎ましい記憶は遠ざかり、聞こえてくるのが王の穏やかな呼吸だけともなれば、先ほどのような混乱は徐々に納まっていく。
あともう少しすれば、眠れるかもしれない。
そう思った瞬間、寝台が揺れる。
振り返る間もなく、腰に王の腕が回り、背中から王の胸元に引き込まれた。
有無を言わせぬ力強さが、消すことに成功したかに思えた、つい先ほど身に起きた事を彷彿とさせて、悲鳴が上がりそうになる。
「……っ!」
それを、王の大きな手のひらが彩華の口元を覆って塞いだ。
「静かにしろ……ここは後宮ではない。不用意に騒げば、衛兵が飛んでくるぞ」
聞こえてくる声が、珪心のものではない事に、そして、いつもと何ら変わらず無感情なことに、いくらかは救われながら、彩華は小さく頷いて分かったと意思を伝える。
王の手が口元から離れていく。
しかし、身体の強張りをほんの少しではありながらも解いた彩華が身じろぐと、腰を抱いていた王の腕には力がこもり、離れることは許さぬと無言で命じた。
不本意ながらも王に抱かれながら、しかし、確実に落ち着きを取り戻した彩華は、ようやくのように視界に映るものたちを認識し始める。
寝台の角に四本の支柱、そして繋がる頭上に天蓋。形式は月の室にあるものと変わらないが、やはり、相当に広く、薄暗い中に浮かぶ装飾もかなり手の込んだものであることが分かる。
部屋自体も後宮の室とは比べ物にならないほど広く、置かれている調度品も格の違いが一目で知れた。
扉が二つあったことも思い出す。
鈴風が出て行った扉と、王が入ってきた扉。
「……ここは……どこなのですか?」
聞きたくない気がした。しかし、聞かなければいけなかった。
「扉続きに俺の私室がある」
それが、王が入ってきた扉の事だろう。
とすれば、鈴風が出て行った扉が、この部屋の出入り口なのだろうか。
「……ここは俺の寝室だったが……今、この時から正妃の間となった」
聞こえてきたそれに、彩華は吐き気を覚えた。
咄嗟に口元を押さえて、背を丸める。
僅かに胸元から離れた背中を追うように、王が身を寄せて耳元に尋ねてくる。
「お前の望んだ場所だろう?」
王の声には、揶揄はない。ただ、静かに、それを確認するだけのように。
「そう、です」
答える。王のようには、できなかった。
幾らか震えて、簡単な返事にも関わらず、途中でつまずく。
その答えに王は彩華の背から身を離し、半身を起こした。
無情にも、彩華の肩を掴んで仰向けると、真上から見つめて答えを促す。
静かなばかりの、しかし、力強く光を放つ鮮やかな碧い瞳に見下ろされて、彩華は自らを奮い立たせ、王を見据えた。
この王が欲しいものと引き換えに、私はここを手に入れた。
それに間違いはない。
「おっしゃる通り、ここが私の望んだ場所です」
今度の声は震えていなかった。つかえることもなく、はっきりと答える。
私は手に入れたのだ。
望んだものを。
これで、私の願いは叶う筈だ。
そう言い聞かせる。
「彩華」
王が、また名を呼ぶ。
それだけで、一度は立てなおした心が、脆くも揺るいだ。
王の指が、彩華の頬を滑っていく。
「……彩……」
近しい者が幼子を呼ぶように、短くなった名が低い声で綴られる。
しかしながら、幼い頃より、彩華はそう呼ばれた事はない。
彩、ではどちらを呼んだか分からないから。
頬を伝い、顎に添えられる指にも、反応を返さない事に、今度は成功していた。
なのに。
「華」
彩華の心を読むように。
王がそれを口にする。
彩華の身が、最初に名を呼ばれた時の比ではなく大きく慄いた。
「華、は気に入らぬか」
驚いた風もなく彩華を見下ろす男が、そう問いながら、手のひらで頬を包む。
そんなこと、何故聞く?
名など。
「華……この呼び名が嫌いか?」
そして、彩華の反応を確かめるように、再びそう呼んだ。
呼ばないで。
声にはならない。でも、願う。
呼ばないで、と。
その名で、私を呼ぶのは、この世に今やたった一人。
だが、その者はここにいない。
『華……ねえ、華……どうしても行かなければいけないの?』
闇帝の呼んだその名が、心に埋もれていた、意識して深い場所にしまった声を呼び起こす。
「華、か……彩華も美しいが……短くすると随分と愛らしくなるものだな」
記憶ではない、現実の声が呟く。
『華、どこにも行かないで。ここにいて。お願い、華』
か細く乞う声を、弱々しく縋る手を、思い出すのを罰するかのように、大きく力強い手のひらが、首をなぞり胸元へと滑り落ちて行きながら現実を突き付ける。
『華! 頑張るから。華が帰ってくるのを待ってるから!』
そして、最後には涙を浮かべて、それでも笑顔で手を振った……彩雪。
「華……何を考えている?」
目の前には、闇帝。
儚き存在とは、対極にある鮮やかな闇の王。
「華」
呼ばないで。
「……ここは……名無しの国なのでしょう?」
叫びたいのを堪える。
ここにいる私を、その名で呼ばないで。
今の私は、その名で呼ばれるに相応しくはない。
その名で呼ばれるべき者は、ここにいない。
「貴方様は名の無き王」
彩華は必死に平静を保とうと息を整え、それでも、僅かに震える声でどうにか告げる。
「ならば、私の名も不要でございましょう? 私を呪うあの方以外に、名を呼ばれる謂れはございません」
そう言いながら、ようやくのように己に伸し掛かる王を退けようと、その胸に手のひらを当てて押す。
王は拒絶を示す腕を押さえるでもなく、易々と彩華に身を寄せた。
「……彩華、という名は嫌いか?」
耳元で囁いた王の唇がふと離れ、いつのまにか少しばかり乱されていた寝着の合間から覗く胸元へと触れる。
「……っ痛……」
不意にきつく吸い上げられて、そこに何があったのかを思い出す。
珪心が触れた場所。彩華を組み敷き、抑え込み、押し当てられた唇が吸いあげた場所だ。
己の罪の証に、王が口づける。
罪の上に、何かを上塗りして、消そうとでも?
それとも、なお、罪の重さを思い知らせようと言うのか。
王の唇はそこを幾度も吸いあげ、やがて、滑り出す。時折、舌先が肌を濡らし、時折、柔らかく歯を立てたられる。
彩華の意志とは遠く離れた場所にあるように、身体がそれに反応してビクビクと震えた。
「……いや、です……」
王の肩を掴んで押しやれば、その手を取られた。
珪心の痕が残る手首を王が見遣り……一瞬、眉が潜められたように見えたのは気のせいか。
王は、何を思うのか。
そこにも唇を寄せ、きつく吸う。
「陛……っ!」
叫びかけた口元を、またも、手のひらで押さえられた。
「大きな声を出すな……もっとも……今ならば、衛兵が来たところで、情事が過ぎたと思われるだけか……」
言うなり、王は彩華の身体を無造作にひっくり返した。
反抗はあまりにも軽々しくあしらわれ、僅かな虚勢さえも失われる。
うつ伏せにされ、緩んでいた寝着が一気に剥がされて、背中が露わになったのを感じる。まるで、先ほど珪心にされたことをそのままなぞるように、肌に口づけを受け、彩華は目を伏せた。
王が何を考えているのかは知れない。
だが、確実に王は彩華を暴いていく。
男が本気になれば、彩華の拒絶などどれほどの力もない事は、先ほど思い知ったではないか。
「……陛下……お約束が違います……」
そう弱々しく告げるのが精一杯だ。
しかし、それも無下に聞き流され、王の手は我が物顔で彩華の脚を腰を撫で、執拗に背に口づける。
「彩華……華……」
耳元に戻った唇が、またも、そう呼ぶ。
不意に涙が溢れて零れる。
泣くことなど、決してしないと誓ってここに上がったのに。
何があっても、涙は流さずにここまで辿り着いたのに。
「……っいや……呼ばない、で!……」
取りつくろうことさえできない、子供のように感情そのものが飛び出た拒絶の言葉に、王の動きが止まる。
彩華は涙を見られたくないと、シーツへと顔をうずめた。
「……お前はこの名が嫌いなのか?」
一体、この王は、彩華に何を望むのか。
何故、彩華に触れて。名を呼んで。
そんな問いを投げるのか。
「嫌いか」
再び問われて、彩華は答えた。
「……嫌いではありません……」
布地に遮られ、くぐもった答えでは気に入らぬのか。
うつ伏せにした時と変わらぬ無造作な所作で、王は彩華を仰向けにした。
王を見ることができたのは一瞬。
こんなに乱れる彩華を見下ろす王は、やはりいつもと変わらず静かだった。
「嫌いではありません!」
堪え切れず、顔を両手で覆い、彩華は叫んだ。
「でも、ここにいる私をその名で呼ばないで!」
その名は、ここから遥か遠い国で、屈託なく暮らしていた娘のもの。
ただ、一つの大事なものと、寄り添うだけで幸せだと。
今だって、そうなのに。
何故、こんな事に。
何故、こんな場所に。
「……ここにいる私はっ……」
この王に、何を言うつもりなのか。
彩華は、はっとして口を閉じた。両手で顔を隠したまま、手遅れであろうとも涙を必死に押しとどめ、唇を噛み締める。
今しがたの己の思いを、吐息と共に吐き出して。
彩華は手を降ろした。目の前の王を見る。
王は、時が止まっていたかのように、先ほどから何も変わらぬ様子で、彩華を見下ろしたままだ。
「……お離し下さい……私が望んだのは正妃という地位のみ。貴方様の寵はいりません」
王を見据え、そう告げる。
思い出す。
全て、己が選んだ事だ。
ここにいるのも。
こんな事になったのも。
全部。
「……眠れ」
やがて王は呟いた。
その手が暴いた彩華の肌を、今は寝着を重ねて覆い隠す。
「もう何もしない。眠れ」
そう言って、彩華の傍らに横たわる。
何もしないと言いながら、再び伸びてくる腕は思いがけない柔らかさで彩華を抱き寄せた。
「……彩華……」
呼ぶ声は、明らかに男のものなのに。
どこか、記憶にある声に似たものを含んでいるように思えた。
先ほどに束縛する力のない腕が身を抱く。
しかし、それさえを拒む力は、今の彩華には残っていない。
彩華は目を閉じた。
『華』
沈んでいく意識の中、聞こえたのは誰の声だっただろうか。