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14 散る花

「これはどういうことだ?」

 王の声が、月の室に響いた。

 その王の背後で、光の方が真っ蒼な顔で珪心を見つめている。


 王の問うそれは、珪心自身が思っていることそのものだった。

 いったいどういうことなのか。これは、己が作りだした状況なのか。


 常と変わらぬ無表情で立つ王と、ただただ血の気のない顔で見つめてくる光の方から目を逸らし、珪心は恐る恐る周りを見渡した。

 最初に視界に飛び込んできたのは、床に転がった花器。その周りには、美しく活けられていた筈の花々が散らばり、踏み荒らされたように萎れて、常より濃い香りを放っている。

 それが、書机から落ちる瞬間を覚えていた。

 そうだ。

 突如と湧きあがった抑えがたい欲望に負けて、月の方を抱き寄せたのだ。

 『珪心様!?』と。

 己の名を呼ぶ、いつもの落ち着きを失った月の方の声に、尚更、欲望を煽られたこともはっきりと記憶にあった。

 引き寄せた身体を更に抱きこもうとすれば、月の方は身を捩ってそれを拒み、渾身の力で珪心を突き放そうと足掻いた。

 その勢いに一瞬怯み、身体を離すと、月の方の方こそがよろめき書机に手をついた。

 その拍子に手が花器に当たったのだ。


 鈍い音を立てて花器は床に落ち、砕けることは免れたものの、花は散らばり、水が零れ出た。


 それを踏みにじりながら、月の方に近付いた。

 そんな場面が脳裏にくっきりと浮かび上がる。

 逃げようとする月の方の腕を掴み、腰を抱き寄せ、床へと押し倒した。

 鮮明に覚えている。

 己自身に嫌悪を感じずにはいられないほどに、滾る欲望。

 月の方の強張る身体も、それにも関わず、柔らかな肌も。

 はっきりと覚えていた。


 花の香りに目を背け、しかし、再び王と光の方へと視線を向けることはできなかった。

 彷徨う視線が見つけたのは、己の傍らに在る……闇帝の寵妃。

 すっと背を伸ばして立つ姿が美しい女人は、今は力なく床に蹲っていた。

 美しく結われていた筈の髪は無残に解かれて、俯く月の方を覆い、その表情を全て隠している。

 しかし、己の衣服が乱れているのと同様に、いや、それ以上に月の方のドレスは乱れ、純白の肩や背を晒していた。

 見える肌のそこかしこに、何が起きたのかを突き付ける痕跡が散っている。

 弱々しく、それでも、身を隠そうとドレスを胸元に寄せる月の方の手首には、珪心が力でその方を征服した事を明かすように、くっきりと指の名残があった。

 そして……無法者に引き裂かれながらも、月の方の肌を健気に隠そうとするドレスには、独特の色でそれが何かを告げる紅の染みが点在している。

 王が未だ手折らず、時を待っていた証。

 それを己が散らしたという現実。

 一気に何が起きたのか、何を起こしたのかを理解し、指先までが一瞬にして凍りついていく。 

 月の方は、決して顔を上げなかった。

 王に自らに起きた不幸を訴えるでなく、珪心を罵る言葉を叫ぶことなく、まるで時が全てを無かったことにしてくれるとでもいうように静かにそこに留まっている。

 誰に、詫びるべきか。

 誰に、ひれ伏すべきか。

 分からぬままに、僅かに身じろいだ珪心を、底冷えする声が止める。

「動くな」

 それもまた、静かであった。

 しかし、長く仕える珪心には、そこにはっきりと王の怒りがあることを感じた。

 凍える身体を突き刺す剣のように。

 王の荒ぶることない怒りが、珪心の身体を切りつける。

 いっそ、本当に王の声が、刃であれば良い。

 そう思いながら、珪心は王の命令通りに動きを止め、目を伏せた。


 自ら作り上げた暗闇に浮かぶのは、捕えて組み敷いた月の方の姿。

 髪飾りを奪えば、結いあげられていた髪が解け、床へと広がる茶色の艶やかさも美しく、珪心の劣情を煽った。

 揺るがず珪心を見つめていた瞳は、やはり、その時も狼藉者と化した王の側近を見ていた。

 怯えたように、しかし、何かを訴えるように。

 その瞳から逃れたくて、月の方の身体をうつ伏せにして、乱暴にドレスを剥いだのだ。

 僅かにも王の名残のない肌が、脳裏に鮮やかに思い出される。

 しかし、そこまでだ。

 そこから先、ただの獣と化した己を、己自身が拒むのか。

 はっきりと思いだすことはできない。

 だが、否定するものは何もない。否定しようもない。

 己は確かにこの妃を美しいと思った。

 王が寵愛する理由を知った。

 欲しいと……欲望を覚えたことも、また、記憶にはっきりと刻まれている。

「珪心」

 震える声が、名を呼ぶ。

 それは王の声ではなかった。

 いつも己の名を呼ぶ時、その声は涼やかに甘く響くのに。

 今は、ただ、困惑のみに彩られている。

「……これは何?」

 敢えて視界から排除し続けてきたその方を、やはり見ることなく、珪心は更に頭を垂れた。

 先ほど、一瞬見た青ざめた表情が思い出される。

 あんな表情を見たのは、光の方の父である某国王を、その目の前で闇帝が斬り捨てた時だけかもしれない。

 それほどに、光の方を哀しませている。傷付けている。

 それに、もう微動だにできないと思っていた冷え切った体が、小さく震えた。

 しかし、どこかで珪心はほっとしていた。

 これで、光の方の想いは、己から離れるだろう。

 それに、言いようのない安堵を覚えた。

 そして、思い知るのだ。

 月の方の言うとおりだ、と。

 珪心は今まで、王を、己を、そして、光の方を裏切ってきた。

 だが、これで、少なくとも光の方の想いを裏切り続けることからは逃れられる。

 そう思った。

「申し開きは致しません」

 珪心は頭を垂れたまま、目を伏せた。

「嘘!」

 光の方が叫んだ。

 声の激しさに、思わず、珪心は顔を上げた。

「嘘でしょう!? 珪心!」

 ポロポロと、金の瞳から涙が溢れる。

 己が犯した咎故に、流れる光の滴に胸が締め付けられる。今しがた犯した大罪に、新たな罪を重ねていくようだった。

「珪心!」

 珪心の方に身を乗り出すのを、今まで存在などまったく目に入っていなかった、この室付きの侍女が抑える。

 その侍女の顔もまた、光の方と同じように青ざめながら、ただ、その瞳は侮蔑を含んで珪心を見据えていた。

「連れていけ」

 王が命じる。

「珪心!」

 もがく光の方を、侍女が力づくで部屋から連れ出していくのを、珪心は目を逸らしたい思いを抑えて見送った。

 多分、これが光の方を見る最後になるだろうから。

「珪心!」

 耳を閉ざすことなく、呼ばれる名を心に刻む。

 例え、悲痛なばかりの呼びかけだったとしても、これが、最後の声になるだろうから。

「珪心」

 光の方の姿が消え、声が聞こえなくなり、やがて、聞こえてくるのは珪心が忠義を誓う王の声。

 珪心は、光の方の残像を振り払い、ようやくのように身を動かし、王に膝まづいた。

 歩き始める王に覚悟を決める。

 その腰にある剣が、己に振り落とされる瞬間がすぐそこに来ているのだろうと。

「お前のことは後だ」

 王の剣が鞘から抜かれることはなかった。

 珪心の脇をとおり、月の方に近づいていく。僅かな音で王が月の方の傍らに跪いた事を、月の方の微かな息遣いで、王がその方を抱き寄せたことを感じ取る。

 二人の間に言葉はない。

 少しの間を置いてから、衣擦れの音がした。

 王の足音が珪心へと近付き、前に立つ。

「顔を上げろ」

 促されて見上げれば、王が常と変わらぬように見える無表情で見下ろしていた。

 その腕には王のローブに包み込まれた小さな存在。黒い生地にすっぽりと覆われていて、ほんの少し姿を垣間見ることさえできない。

 己が傷つけた方を見ずに済んだことに救われながら、この方はこんなに小さな女人であったのだと、対峙した時には感じなかった弱々しさに罪の重さを思い知らされる。

 王は、己を斬らぬのか。

 ならば、いっそ。 

「逃げるな」

 しかし、珪心の心を読むように、王が禁じる言葉を発する。

 それは、もちろん逃亡を指し、同時に自決をも許さぬということだろう。

 自ら死を選ぶことも禁じられ、いくらも絶望を抱きながら。

「……御意」

 珪心は何とかそれだけを言うと、もう一度深々と頭を下げた。




 闇帝の香りがする漆黒が全ての世界となって、彩華はほっと息をついた。

 王に抱き上げられている。どこに連れて行かれるかも分からない。

 それでも、あの場から抜け出たことに、ささくれ立った神経が、疲れ切った身体が、強張りを僅かでも解き、ままならなかった呼吸を再開させる。

「上出来だ」

 酷く近い場所で、王の声がする。

 感情の見えぬ声に満足や喜びを見出すことはできない。

 だが、彩華は、成し遂げたのか。

 そっと目を伏せた。

 『嘘でしょう!? 珪心!』

 光の方の悲痛な声に、頭を鈍痛が駆け抜ける。

 うつ伏せていてその姿を見ることはできなかったが、あの輝くばかりの方は、取り乱し、嘆き哀しんでいても、やはり美しかったのだろう。

 珪心は、その姿を見ただろうか。

 闇帝は?

 『珪心!』

 ドン、と重い物が頭の中に打ち付けられるような痛み。

 眩暈。吐き気。

 彩華が身を丸めると、思いがけず、胸元に引き付けるように、闇帝の腕が抱いた身体を強く抱き寄せる。

 救われるのか、尚更に、苛まれるのか。

 分からないまま、彩華は王の肩に寄りかかり身体を力を抜いた。

 今はただ眠りたかった。

 一瞬で良い。

 何も考えない事を許して欲しかった。

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