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13 寵妃の香り

 いったい、王はどうしてしまったというのか。

 珪心は苛立ちを隠しもせずに、荒々しい足音を響かせながら後宮の長い廊下を歩いていた。

 まだ、日は落ちきってはいないというのに。

 執務室には国内国外の重鎮達が王への謁見を願い、列を成している。にも関わらず、名無しの国の暗黒王は、それを知らぬとばかりに早々に後宮に籠ってしまったというではないか。

 元より、気紛れな所のある御方ではある。

 老獪な年寄り達の相手に辟易して、どこぞに雲隠れしてしまうことも幾度とありはした。

 しかし、その行先が後宮であったことなど、かつてはなかった。

 かの王は、色を好まぬ聖人君子であろう筈もなかったが、だが、決して色香に惑い溺れるような方でもなかったのだ。

 なのに、最近の王の様子は何なのだ。


 後宮の外れにある目的の室に辿り着くなり、珪心は握った拳で激しく二度扉を叩いた。

 苛立ちに任せて、内からの返事を待つことなくそれを開け放つ。

「陛下!」

 そこにいる筈の方に、非難を隠さず呼び掛けた。

 しかし、返ってきたのは静かな女人の声。

「陛下はいらっしゃいません」

 僅かな動揺もない。そして、明らかに不作法である珪心を咎める響きもない。

 ただ、淡々と事実を述べる答えに、珪心は一瞬にして頭が冷えた。

 冷静になったところで、ぐるりと部屋を見渡せば、そこには闇帝どころか侍女さえもおらず、部屋の主である東方の容姿を持つ妃が鮮やかな花を生けた花器を手に一人立っているだけだ。

「申し訳ございません!」

 慌てて、膝をつき、頭を下げて礼を尽くす。

「いいえ。どうぞお立ち下さい」

 月の方と呼ばれる、今や押しも押されぬ後宮一の寵妃は、凛としながらも、けっして荒ぶることのない声で珪心をあっさりと許す。

 珪心はそれに応えて立ち上がり、改めて一礼をしてから月の方を見遣った。

「ご覧の通り、陛下はこちらにはいらっしゃいません」

 月の方はもう一度そう言いながら、手にしていた花器を窓辺の小さな書机へと置いた。

 花が美しく見える角度を確認するように何度か動かし、最後に淡い紫の花を一本抜いて、珪心へと目を向ける。

 グレーの瞳が、まっすぐに珪心を見つめた。

 怯むでもない、そして、挑むでもない。

 ただただ静かな視線だ。

 感情が高ぶるままに部屋に押し入った己が何とも情けなく恥ずかしく思えて、珪心は叱られた少年のような心持で月の方から視線を逸らした。

 月の方は、そんな珪心に何を言うでもなく前を通り抜ける。

 フワリと鼻孔をくすぐったのは、甘い香り。

 強張る珪心の身体を包み込んだそれは、しかし、一瞬後には気のせいだったのかというほどに、見事に消えてなくなる。

 なんという香りだろうか。

 こちらを虜にする程に艶やかに存在を誇示しておきながら、まとわりつくでもなく、すり抜けていった。

「陛下は、こちらにいらっしゃるのですか?」

 月の方の問い掛けに、珪心は自身が甘い香りを追い掛けていた事に気が付き、はっとする。

「そのように聞いております」

 答える声が喉に絡む。

 小さな咳払いでそれを排除し、どうしても怯みがちな精神を奮い立たせて月の方を見遣る。

 月の方は珪心を見てはいなかった。

 テーブルに準備されている茶器を引き寄せ、先ほど花束から抜いた紫の花を茎から外すと、白い器の一つに入れる。

 取り立てて媚びるところはない。しかし、つい目で追ってしまう。単調でありながらも、優雅な仕草は、この後宮にあまたといる女人達とは一線を引いているようにも見え、この方が王の寵妃であることをいくらも納得させるもののように思えた。

 花を入れた茶器にお茶を注ぎ終えた月の方は、顔を上げて、珪心へと視線を流して寄越す。

 それだけで、珪心は妙に緊張して、喉が渇いた。

「ここで、陛下をお待ちになりますか?」

 何故、これほどに委縮しているのか。

 不思議に思う。

 まかりなりにも珪心は、武人として功績を上げ、陛下の側近としても名高い、それなりの地位にある身だ。

 身分で言えば、この寵妃に劣るものではない。

 月の方自身も、陛下の寵愛をかさに、威圧的な態度を見せるでもない。

 光の方との逢瀬を見られたことは確かに珪心にとっての弱みになり得るだろう。だが、この方は、それをたてに珪心に何かを求める様子は全くない。

 いや、珪心には分かっている。

 この方は、光の方との逢瀬について、決して口外せぬだろうと。妙な確信があった。

 なのに、何故だか、この女人を前にすると身が強張るのだ。

「お許し頂けるならば」

 本心を言えば、闇帝がここにおらぬというならば、すぐにでも立ち去りたかった。

 しかしながら、どこに行ったか知れぬ王を探すよりは、ここで待つことが良策と考え、珪心は平常心を取り戻すことに、かなりの努力を要しながらそう答えた。

 月の方は是とも否とも答えることなく、もう一つ茶器を用意してお茶を注いだ。

「どうぞ」

 そして、それを珪心に差し出す。

 歩み寄り、茶を受け取る瞬間、また、あの香りが身をすり抜けていく。

 今度は意識してそれを追わず、しかし、目の前の方を見ることもできず、伏し目がちに暖かなお茶に口を付けた。

 程良い暖かさと、慣れ親しんだ香りに、ほっと息をつく。

 視界に入れれば怯んで、目を逸らさずにはいられないのに、ついと月の方を見てしまう。

 王の寵妃は椅子に座り、両手で茶器を包み、お茶に浮いて揺れる紫の花を見つめていた。

 穏やかな灰色が己を見ていないことに勇気を得て、しみじみとその姿を視界に納めた。

 年のころは、光の方より幾つか上、というところだろうか。

 名を名乗らぬこの後宮にあっても、出身が東方の民族であることは一目で知れる。まるで、白磁のような、象牙のような……間近で見れば見る程に白く艶やかな肌は、男であれば欲望を伴って、女であれば羨望混じりに、ため息で称賛を贈るものだ。

 しかし、この女人の美しいところを挙げるならば、それだけだろう。

 いや、美しくないとは言わない。美しい女人であると言って、誰も否定はせぬだろう。

 華やかではないが、きれいな弧を描く輪郭に、端正な目鼻が納まっている。

 柔らかそうな茶色の髪は、品よく結い上げられて、長さを多少持て余すように背中に流れている。

 気負うでもなく、自然にすっと伸びた背筋が、凛々しい。

 だが、それまでだ。

 こうして、余すところなく見てみても、取り立てて美貌を謳われる程の方ではない。

 しかし、王はこの女人に心を奪われているのだ。

 それこそ、手に入れあぐねるほどに。

「……陛下は……貴女を手に入れられたのか」

 それは無意識だった。

 耳に聞こえてきて、初めて己がそれを口にしたのだと気が付く。

 月の方が顔を上げて、珪心を見る。

 その視線は相変わらず静かで、珪心のあまりに無遠慮極まりない問い掛けが聞こえなかったのかと思う程だ。

 だが、そうではないのだと、すぐに分かった。

 その静かな視線こそが、答えだった。

 陛下は、未だこの女人を手に入れてはおらぬ、と。

「貴女は、何ゆえに陛下を拒まれるのか?」

 この問いは、無意識ではない。

 明らかな答えを求めて、珪心はこれを口にした。

「拒む?」

 月の方は、茶器をテーブルに戻しながら、尋ね返してきた。

 そして、珪心に向き直る。

「私、陛下を拒んでおりますか?」

 何故、これほどに目を逸らさぬのか。

 王に対しても、この方はこうなのだろうか。

 不躾な質問を口にしたことはもちろん承知しているが、何も悪いことをしている訳ではない。

 だが、何かしらの罪の意識に似た後ろめたさを覚えながら、それでも珪心は月の方を見つめながら近付き、茶を飲み干した器をテーブルにそっと置いた。

「……拒んではおらぬ、と?」

 今の己は、どのような感情でこの方を見据えるのか。

 それも定かではない中、もはや意地のように視線を合わせる。

「どうなのでしょうか」

 的を得ぬ答えに、不明な感情が渦巻いていた珪心の内に、明らかな苛立ちが噴出する。

「はぐらかすおつもりか」

「いいえ」

 一瞬の間もない即答だった。

「私、何もいらないのです」

 続くそれも、僅かばかりの迷いもない。

「何も?」

 そんな事がある筈がない。

 例え、望まぬ後宮入りだったとしても、そこには何らかの目的があったろう。

「何も……陛下の寵愛も、望んでおりません」

 月の方はすっと立ち上がり、珪心の脇をすり抜けて、窓辺へと歩み寄った。

 また、あの甘い香り。

 まるで、それに誘われるかのように、月の方の後を追いかけ、気が付いて足を止める。

「このような場所に召し上げられながら、何も望まぬなどと……」

 情けなくも、また月の方を見ることができなくなる。

 目を逸らした先に、月の方が置いた茶器。可憐な紫の花がユラユラと揺れている。

「光の方様は何かをお望みでしょうか?」

 突如と出たその名に、紫の花が弾けて、光輝く天女が浮かぶ。

 珪心は思わず声を荒げ、月の方を見据えた。

「月の方様!」

 沈みかける太陽が足掻きのようにまぶしく差し込む窓の前に月の方は立ち、ただ、珪心を見ていた。

 相変わらず、その視線は穏やかなばかり。

 今しがた、珪心に鋭い刃を向けたようにも思えたのに。

 いったい、どういう女人なのか。

 分からない。

 掴みどころのない方。

 ただ、言わねばならぬことがあった。

「……信じて下さらぬかもしれませんが、私と光の方様の間には何もございません」

 あの天女の如き美しい方は、珪心を慕っていると言う。

 珪心のどこが良いのかは分からない。

 己は、ただの荒くれ者の一人に過ぎない。

 名のない一人の男に惹かれ、その男に忠義を誓った。その男が王になったが故に、国の重鎮として迎え入れられる身になったとはいえ、いかほどの器かは重々に弁えている。

 王にとって変われる筈もなく、そうしたいなどとは露にも思わない。王は、珪心にとって絶対だ。

 そんな珪心にとって、光の方もまた王と同じ。

 眩しいばかりの天上人だ。別の世界の方だ。

 それ以上は何もない。

 何もないのだと、あってはならないと言い聞かせている。

「そのお言葉は信じましょう……ですが、それが陛下を裏切っておらぬとは思いません」

 月の方は、先ほど自身でそこに据えた花器に手を伸ばした。

 華やかな彩りの中から黄色の花を一本抜きとり、再び、珪心を見つめる。

「いえ、むしろ」

 何を言うのかと、珪心は身がまえた。

「貴方は、陛下を裏切り、光の方様を裏切り、そして、貴方自身をも裏切っていらっしゃる」

 まっすぐと見据えながら。

 珪心の心を抉る言葉を口にする。

 ああ、なるほど。

 突如として珪心は納得した。

 王がこの方を欲する理由を、理解した気がした。

 残酷なまでに、まっすぐだ。

 逸らさぬ視線で、怯まぬ声で。

 そこがどのように狂った場所であろうとも、そこがどこまでも穢れた場所であろうとも。

 違えることなく真実を見つめるのだ。

 美しい女だ。

 血に塗れ、時に狂気に敢えて身を置く。

 そんな者こそが、この女に惹かれる。

 例えば、王のような。

 そして、思った。

 己も、また。

 この女が欲しい、と。

 光の方を想うような、敬虔なものではない。

 ただ、無心に、この女が欲しいと思った。

 しかし、まだ、珪心には理性がある。

 この方もまた王の妃。

 手折って良い筈もない。

「私、嘘をつきました」

 不意に、月の方が言う。

 顔を上げて、その方を見遣るも、窓から差し込む夕日が急に眩しさを増したように目を刺す。

 赤い光に邪魔されて、月の方の表情は分からない。

「……欲しいものがあります」

 光の中から声がする。

 そして、僅かに見定めることができたのは、黄色の花を月の方の指先が茎から外し、側にあった香炉にくべたということ。

「一つだけ欲しいものがあります」

 言葉と共に、不思議な香りが漂う。

 目に染みるような、きつい香りだ。

 そこに混じるのは、先ほどから珪心を惑わす月の方の甘い香り。

「……それを手に入れるためならば、手段は選びません」

 眩暈がした。

「珪心様。許しは請いません」

 そう言う月の方の手が、花器から鮮やかな紅の花弁をむしりとるのを何とか見届ける。

 また、香る。

 限りなく甘い香り。

 だが、今度のそれは毒々しい程に、珪心にまとわりつき離れない。

「月……方様?」

 いつもははっきりと語る声が、聞き取りがたい何かを言った気がした。

 眩暈が激しくなり、立っていることが困難になっていく。

 ふらりと身体が揺れる。

 それを支えた女人の腕を捕えれば、毒々しい香りの中、救いのように先ほどから珪心を惹き付ける香りが鼻孔をくすぐった。

 これは王の妃だ。

 そう思ったのは一瞬。

 それを上回る激しい欲望に飲み込まれ、珪心はそこにある芳しいばかりの身体を抱き寄せた。

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