12 静かな夜に
王が月の室で過ごす時間が増えれば、当然のことながら閨以外で過ごす時間も増える。
初めて、目の前で食事を摂る闇帝を見た時、彩華はこの方でもやはり食べ物を口にしなくては生きていけぬのかと思い、そんな思いを抱いてしまうほどにこの王に人らしい命を感じておらぬのだと、何故か妙な後ろめたさを覚えた。
流れる血をも見た筈なのに。
不本意ながらも幾度と抱かれ、その温もりも知っている。
それでも、彩華はどこかでこの王を人に非らずと見ているのだろうか。
寛いだ姿の王が、手にした盃をくっと飲み干す。
彩華は空となった盃に新たに酒を注いだ。
幾度目かの晩に酒を所望した男は、以来、毎晩とは言わぬが頻繁にそれを口にする。
彩華は、酒を飲むことを否定しない。
量が過ぎれば毒にもなろうが、基本的に酒は人を潤すものだと思うから。
酒を飲んで陽気になる人もあれば、涙を流す人もいる。
中には、それに溺れ、朽ちていく者もあるかもしれない。
だが、多くの場合、酒はその者が内に燻らせ、積もらせていくものを多少なりとも解き放ち、明日へと生きて行こうという思いを抱かせる。
そういうものだと、彩華は考えている。
だから、酒を嗜むことは悪いことではないと思う。
しかし、この王はどれだけを飲み干しながらも、少しも酔い乱れたところを見せたことはない。
彩華は酒を受け付けない体質だから相伴することなく、ただ空になった王の盃を満たすためだけに傍らに在るのだが、気が付けば手にした酒器が空になっていることが少なくはない。
飲める酒量が人それぞれなのは承知しているが、この王に関しては限界というものを未だに感じたことがなかった。
もしや薬が効かないというそれと同じく酒にも酔わぬのか。
ここまで変わらないのならば、飲む必要もなかろうに。
そんな風に思うほど闇帝の様子に変化はない。
今晩も静かな夜だ。
昼間はあれほど騒がしいのに、闇帝がここを訪れ留まれば、ピタリとざわめきが止み静けさが後宮を包み込む。
妙な話だが、闇帝がこの室にいる事が後々の喧騒に繋がるとは分かっていても、この一時が彩華にほっと息をつかせるのも確かだった。
気の利いた会話の一つとできる筈なく、黙々と彩華が酒を注ぎ、王が飲み干す。
再び空となった盃へと、器を近付け傾けた。
「彩華」
不意に聞こえた低い声で綴られる己の名に、奇妙に穏やかな心地だった彩華は、心臓を掴まれたような衝撃を受けた。
ビクリと身体が揺れ、持っていた器がぶれて盃に当たる。
カチンと耳触りな音が立てられたが、彩華も闇帝もそれには反応しない。
彩華は強張ったまま、そろそろと顔を上げて、闇帝を見上げた。
やはり、僅かに酔った風もない、冴え冴えとした碧い瞳が、じっと彩華を見つめている。
「……何故、光の方に名を教えた?」
相も変わらず、感情の見えない問い掛けだ。
彩華は止まっていた呼吸を吐くことから再開し、酒器へと視線を戻した。
差し出されたままの王の盃に酒を満たし、そして、王へと向き直る。
無の表情。
無の声。
彩華も、また無でありたいと願いながら
「教えて差し上げては……いけなかったのでしょうか?」
尋ねた。
彩華の願いとは裏腹に、王に名を呼ばれた動揺の余韻が少し残っているようで、喉が張り付いて声が上ずっていた。
「咎めているのではない。理由を聞いているだけだ」
王は盃に口を付ける。
そして、またも一息でそれを飲み干すと、空になったそれを彩華に向ける。
いくら強いとはいえ、少々飲み過ぎではないだろうか。
思いつつ彩華は王の杯に酒を満たし、そして、最後の一滴までを器に注いだ。
今夜はこれで止めて頂こう。
空になった酒器にほっとして盆へと戻しながら、一方で多少の緊張を以て王の尋ねに答える。
「呪詛を唱える時に必要かと」
包み隠すことなく、正直なところを口にすれば、珍しくも王が眉を寄せて怪訝な表情をしてみせた。
「呪詛? お前は……呪詛やら予言やらの戯言を信じるのか?」
嘲りを含んだ言葉は、この王にいたく相応しい。
確かに、己自身が血に塗れながら未知を切り開いてきた男にしてみれば、前に立ちはだかる予言も、背に呟かれる呪詛も、何もかもが愚者の戯言なのだろう。
だが、彩華は知っているのだ。
「……呪詛や予言は、それ自体が人に血を流させることも、水を与えることもありませんが……」
人が口にするそれらは、儚く無力だ。
声にしても届かないことも少なくなく、届いたところで、ただすり抜けていくものがほとんどに違いない。
しかし。
「思いを言葉にすることは、時に人を傷付け、貶め……そして、救うこともあるとは思いませんか?」
心からの想いを、声にした時。
それがその者の心に届けば、言葉は思いも寄らぬ力を得ることがあるのだ。
その言葉が慈しみであろうと、憎しみであろうと。
「あの美しい方は禍々しい呪詛などご存じないかもしれませんが」
光輝く美貌を思い出さぬようにと無駄に足掻きながら、彩華は答えを続けた。
「憎しみや呪いを込めて何かしらを呟くならば、その相手の名はやはり必要でございましょうから」
古より呪い師が唱え続けてきた呪詛などでなくとも、言霊というものが存在するならば。
かの方が、心から彩華を蔑み、憎悪し、死でも願おうと言うならば。
彩華はそれを甘んじて受けるだろう。
だから、名を教えた。
光の方の呪いが、迷うことなく己に届くように、と。
「……ならば俺も名乗るべきか」
闇帝が空になった盃を盆に転がした。
「俺を蔑み、憎み、呪う、全ての者達に」
闇帝がそんなことを言うとは思ってもみなかった。
少なからずの驚きを胸に押しとどめ、何と答えることなく、彩華は闇帝を見つめ続けた。
闇帝の端正な面に、自嘲はなく。
そして、他者への侮蔑も見当たらない。
やはり無。
「彩華」
またも、名を呼ぶ。
今度は、彩華の心には僅かな波紋が起きただけ。
「はい」
答える声も穏やかに。
盃を手離した王の指先が、彩華に伸びる。
この王が剣を扱い慣れた者であることが知れる硬い皮膚が、彩華の頬を撫で顎を捕える。
「……お前も……俺の名が必要か?」
静かに見据える瞳と、僅かにも揺れることのない声。
しかし、彩華に触れる指先から、何かが流れ込む。
何か。
それは分からなかった。
「いいえ」
だが、闇帝の問いかけには、一瞬と考えることなく答えていた。
「私には必要ありません」
答えたそれは、偽りのない本心だった。
王の名を呼ぶことなどない。
彩華には、この王に対する遺恨は、一切ない。
全て己で選び、進んできた。
だから、彩華にあるとすれば、それは己への蔑みと、己への嫌悪のみ。
「……そうか」
僅かに王の唇が歪んだ気がした。
笑みか。
苦みか。
それも分からない微かな動きだが、彩華はもう一度はっきり答えた。
「はい……私には貴方様の名を掲げて、呪詛を唱える理由がございませんから」
答えれば、王の指先が顎を離す。
ゆっくりと降りて行った手のひらは、彩華の腰をそっと抱いた。
時折、戯れに触れるような欲望を感じさせるものではない手のひらは、闇雲に拒否するのを戸惑わせる。
「……陛下?」
僅かに力の籠った腕に引き寄せられ、だが、抱きしめられることはなく、王は彩華の肩に額を乗せた。
まるで、祈る者のように。
悔い改める者のように。
俯いた王は、そんな風に見えた。
この王に限って、そんなことがある筈もないのに。
「彩華」
酷く近くで響く己の名。
この地で呼ばれることなどないと思っていた名が、この国の比類なき二人に呼ばれるとは。
「お前は……名までが美しいのか」
その讃辞が王の本意かは知らない。
ただ、喜びなどある筈もなく、黙して動かず、王の先を待った。
やがて、王は彩華の肩から顔を上げた。
間近で見る貌は、本当に絵本から抜け出た王子のようだ。
何故か、昼間に見た光景を思い出す。
絵物語のような二人の姿。
しかし、この方は暗黒王。
そして、寵妃はただただ怯える。
読み聞かせた夢物語とはあまりに違う。
ふと、寂しくなった。
どうしてだろう。
闇帝も。
光の方も。
王の腹心も。
そして、彩華のたった一つの宝も。
何もかもが寂しく、哀しく思えた。
「……膝を貸せ」
不意に、王が呟き、端正な面が再び伏せられた。
「え?」
問う間なく、王はその場に横たわり、コトンと彩華の膝元に頭を乗せた。
そして、早々に瞼を伏せる。
正直、彩華はうろたえた。
奇妙に胸がざわめき、落ち着かない。
幾度と共に寝台に横たわったことはあっても、こんな風に王が一方的に休む態勢になったことなどなかった。
彩華の腿に頭を預け、身体を緩ませた王は、傍らに剣が置かれているとはいえ、あまりに無防備に思えた。
もしや、そうは見えなくとも、相当酔っているのだろうか。
「お休みならば寝台へ……」
寒い季節ではないとは言え、このまま眠りにつくことが身体に良いとは思えない。
なんとか、声をかけてみる彩華だったが
「黙れ」
しかし、不機嫌そうな王に一喝され黙る。
いや、王の言葉がなくとも、彩華は次の言葉が紡げなかっただろう。
自身の声はあまりに動揺が明らかで、もう何も言えそうにない。
「……ここで良い」
王は、先の言葉より、少しばかり声から不機嫌さを取り払って言うと、後は何も聞かぬ言わぬとばかりに全てを閉ざした。
やがて、眠りに就いたことを知らせる呼吸が耳に届く。
本当に、眠ってしまったのか。
ここで?
ぐるりと辺りを見回す。
すぐそこに天蓋に覆われた寝台があるが、もちろん、彩華が大きな男を運べる筈もない。
飲み干された酒器。
今は鞘に封じられている王の剣。
どれも、王の眠りの助けになるようなものはない。
ふと、気が付き彩華は、己の身に羽織っていたショールをそっと肩から落とした。
動けば、気配に聡い王が目覚めるかという懸念はあったが、そのままにはしておけない。
夜半を超えれば、やはり多少は空気が冷えるだろう。
ショールを手に取り、なるべく身体を動かさないようにと気をつけながら、王にフワリとそれをかける。
彩華の身ならば包み込むことのできる生地は、王の体躯には心細いがないよりはましだろう。
幸いなことに王は目覚めなかった。
「……おやすみなさいませ」
そっと囁けば、ほんの微か、何か言いたげに闇帝の唇が動いた気がした。
彩華はざわめく心を誤魔化すように、観察する視線で王を見下ろした。
心なしか蒼い面。
閉じられた瞼は幾分落ちくぼみ、削ぎ落としたようにこけた頬には影が落ちる。
ここに在るのは、血に塗れた残虐非道な闇の王。
名無しの国の、名もなき王。
その筈。
だが、今、彩華の膝を枕に眠るのは、少し疲れたようにも見える一人の男に見えた。
この男の名ならば呼んでみたい。
それに続くのは、呪いや憎しみの言葉ではなく……。
はっとする。
今、何を考えていた?
背筋が慄く。
忘れてはならない。
何故、私がここにいるのか。
何をすべきなのか。
私がすべきは……たった一つの宝を護り抜くこと。
それだけだ。