11 二人の寵妃
結局、闇帝は二晩、三晩と続けて月の室で過ごし、そして、女を腕にして朝を迎えた。
一晩ならば、闇帝の気紛れもあり得よう。
いや、むしろ、月の方に対しての執心は、東方の女が物珍しかっただけ。
一度その手に納めてしまえば、さほどのものでもなかったとお捨て置きになるやもしれぬ。
そんな考えからか、一夜が明けようとも、騒ぎ立てることなく静観していた幾らかの者達も、四日目の朝には、これは只事ではないと俄かに浮足立ち、ざわめき始めた。
その後も数日と置くことなく、闇帝が昼夜と問わず月の室を訪れ、人目を憚ることなく月の方と呼ばれる妃に惜しみない愛情を注いでいるともなれば、誰も彼もがその女人が闇帝の心を捉えたのだと認めざるを得なくなった。
かつて唯一の寵妃と言われた光の方にさえ、闇帝はこれほどの愛着を見せはしなかった、と。
暗黒王を魅了した東方の姫君。
血塗れ陛下の執心を、一身に受ける後宮一の寵妃。
それが今の月の方という存在だった。
これを機に彩華の後宮での生活は急激な変化を余儀なくされた。
少しばかり闇帝が興味をそそられた女と、あからさまな寵愛を受ける妃とでは、扱いが変わるのはもちろん当然のことだろう。
だが、ここまでとは。
今まで、誰一人として訪れることのなかった月の室は、今や女主を尋ねて来る者が日々絶えることはない。
闇帝の信頼を得んとする臣下が、恭しく頭を垂れる。
暗黒王への進言を求めて、貢物を送りつけてくる貴族が在る。
そして、寵を得た者がこの後宮で力を持つことを知らしめるかのように、昨日まですれ違っても一瞥をもくれることのなかった多くの妃や侍女が、彩華に向かって深々と膝を折る。
己は分かっていなかったのだと、彩華は誰に知れぬよう身を震わせる。
この後宮と場所を。
そこに在る寵妃という存在を。
恐ろしいことだ。
どこぞの国の外交官だという男が部屋を出て行ったのを見送って、彩華は床に敷かれたラグに座り込むと瞳を伏せた。
いくら未だかつてない様子を闇帝が見せようとも、たかが一妃がどれほどに影響力を持つというのか。
王を少しでも知っている者ならば、分かるだろうに。
あの方は、自らの意志によってのみ動く。
それは何事にも揺らぐことない。
なのに、まるで月の方という存在が、闇帝を動かすとでも言うように、様々な思惑を持った者が、様々な手管を講じて、彩華へと揺さぶりをかけてくる。
それは、酷く甘い様相で。
時に、恫喝めいていて。
若い娘ならば、呑まれて、溺れてもいくだろう。
だが、彩華はそのどれにも揺れなかった。
静かに聞くだけだ。
是とも、否とも。
何も応えることはない。
恐ろしい、と思いながら。
しかし、怯んではならないと。
煩わしい、と思いながら。
でも、逃げてはならないと。
望んだのは、たった一つだから。
それ以外は何も望まないから。
そのためになら、何もかも堪えてみせる。
ドクン、とまた頭痛がする。
既に慣れて久しいこめかみの痛みを押さえて揉みながら、外交官が持参した目障りな貢物を片付けてもらおうと、鈴風を呼び掛けるが、声を出すより先に扉をノックする音が聞こえた。
また、誰かしらの訪問を告げるのだろうか。
拒否を含んで音に背を向け、答えずにいると、そっと扉の開けられる気配がした。
「頭が痛いの?」
不意に掛けられた思いがけない声に、咄嗟にバルコニーを見遣るもそこに人の姿はない。
続いて、扉に目を向ける。
「こんにちは」
初めて扉から侍女を伴って現れた光の方は、彩華がどう足掻いたところで足元にも及ばぬ美しさを誇り、優雅な礼をしてみせた。
ああ、本当に。
何もかもが煩わしい。
思いながらも、彩華は立ち上がり、つい先ほどまで己がされていた如く、恭しく頭を垂れた。
「陛下の寵妃にご挨拶を、と思って」
彩華は頭を上げて、背筋を伸ばした。
らしくもない言葉を口にした方を、意図した無表情で見つめる。
ここに訪れる誰もが浮かべる上辺だけの微笑み。
初めて見る光の方のそれはやはり美しく、しかしながら正直な方の瞳には、己の発した言葉を悔やむ影と、彩華に救いを求める色があった。
この方が何を求めているのか察しながら、彩華は黙して、ただ立っている。
できれば、このまま立ち去って欲しいと望みながら。
「月の方様と、二人で話がしたいのです」
しかし、光の方はそう願った。
光の方の後ろに控えていた二人の侍女が、一言と発することなく一礼をして部屋を出ていくのに、彩華は諦めて鈴風に声をかけた。
「下がって下さい」
扉口で跪いて光の方の一行を迎え入れた鈴風は、一瞬何か言いたげな顔をしたものの、結局は何も言わず深々と頭を垂れて姿を消した。
彩華は、侍女達が出て行ったのを確認するやいなや、微笑みを浮かべ続ける方に尋ねた。
「何をお考えですか?」
感情を消し去る努力はしたが、そこに非難が込められたことは否めない。
ただでさえ、ここ最近の彩華の周りは激しい喧騒に塗れているのだ。
そこに、この方が、このような現れ方をしては、一体、どれほどまでにかしましい噂やつまらぬ憶測が飛び交うことか。
想像するだけで、痛む頭に更なる軋みが走る。
「だって、私がこっそり来なくても、ここは騒がしいでしょう?」
光の方は彩華の思いを分かっている言葉を返した。
上辺の笑みを、小さな子が叱られた時に見せる、泣きたいのを堪えて無理やり浮かべる健気な笑みに変えながら。
愛らしく、そして、哀れな様子にきゅっと胸が痛んだが、それを抑えて冷たく返した。
「こんな風にいらっしゃれば、尚更騒がしくなりましょう」
「そうね」
光の方は唇を噛んだ。
薄紅の引いた形の良いそれが引き攣れるのが痛々しい。
「ごめんなさい」
やがて、唇が解けて零れたのは謝罪。
そして、美しい手が伸び、彩華の指に触れる。
彩華に拒まれるのを恐れるようにそっと、指が絡められる。
「会いたかったの」
彩華を見つめ、潤んだ瞳で訴える。
まるで、恋の告白を受けているようだ。
過ぎったつまらぬ考えを消し去り、あの王のように何も表情を浮かべぬことができていれば良いと願いながら、金の瞳を見返す。
光の方は、彩華の視線を戸惑いなく受け止めた。
「でも、全然こっそり会いになんて来れないから……」
縋るように、願うように見つめられて、結局視線を逸らしたのは、彩華だった。
捕えられた指先を引こうとすると、思いがけない強い力で留められる。
「どうしても会いたかったんだもの!」
どうして、こうも彩華に執着を見せるのか。
この方に心からの情愛を以て接する者など、いくらでも在るだろうに。
この方の心を僅かでも得たいと願う者など、無数にいるだろうに。
「……ごめんなさい」
絆されそうになる。
微笑み、大丈夫だと頷きそうになる。
だめだ。
必死に押しとどめ、だが、完全なる黙殺もできず。
「いつか……花壇に新しい花が咲いたとおっしゃっていましたね」
苦し紛れに思い過ぎったことを口にすれば、光の方がぱっと表情を輝かせた。
それにほっとする己に気が付き、やはり、私は非情になどなれない弱く情けない女だと思い知る。
「小さな淡いピンクの花が連なるもののことでしょうか?」
光の方は、彩華が会話する意志を見せたことを喜ぶ笑みで大きく頷く。
演技だと思えれば良いのに。
そうとは到底思えない素直な笑顔から意識を逸らし、まだ、これほどに騒がしくはなかった頃に確認した花を思い出す。
細い茎に可憐な花を幾つも付けるそれを見つけた時、妙に納得しながらも、どれほどの者が何を思ってこの花を摘んだのだろうと考えた。
「そう、それよ」
無邪気に頷くこの方も?
あの花を求めたことがあるだろうか。
「……あの花は」
なんとも、後宮に相応しい。
美しく、そしておぞましい花。
「部屋に飾るのはお止めになった方が良いでしょう」
光の方は、眉を寄せた。
「毒花なの? あんなにきれいなのに」
何と答えるべきか一瞬躊躇したが、何であるかを詳しく語ることは止めた。
「毒があるのは花ではなく根ですが、分かる者が見れば不要な詮索をされましょう」
それだけの答えに、光の方は素直に頷いた。
「分かったわ」
短い会話ではあったが、光の方からここを訪れた時の焦燥感のようなものは消えていた。
そろそろお戻り頂くべきだろうと促しかけた時、光の方の面が険しく歪む。
「あのね、気をつけてね」
そして、笑みの失われた可憐な唇が言葉を紡いだ。
まだ、囚われたままの指先が、労わるように手のひらに包まれる。
振り払いたいような。
握り返したいような。
「何をでしょう?」
どちらもできず、静かに問う。
「陛下のご寵愛が一時の気紛れではないと知れたら、貴女は後宮の人達からの妬みを一身に受けることになるわ」
そんな言葉が、この方から出てくるのが意外だった。
しかし、この方も、後宮で生きていきた方だ。
世俗とは無縁に見えても、ここで生きる術は身に付けている。
それは当り前だろう。
「何をされるか」
後宮で唯一の寵妃は、過去にどれほど辛い目にあったというのか。
「貴方様も?」
つい尋ねてしまったそれに、取り消すより早く光の方は首を振った。
「陛下は私の血筋に興味があるだけだから……だから、皆は何もしないし言わないわ」
光の方の返事は、彩華にとっては思いもよらぬものだった。
血筋に興味があるだけ?
この方は、そして、周りの方々は本当にそう思っているのか。
「でも、貴女は違う」
じっと彩華を見つめるそこに、迷いはない。
「陛下は貴女自身に惹かれているから」
そして、確信的な口調のそれ。
どこに根拠があるのか、詰問してみたい思いに駆られる。
だいたいが、皆、どうして、彩華が闇帝の心を捉えたなどと簡単に信じてしまえるのか。
むせる程の美しさが溢れるこの場所で、さして、際立ったところのない彩華など。
「このようなご寵愛は一時の戯れでしょう」
それが妥当ではないのか。
それとも、皆、それを分かっていながらも、闇帝の動向に右往左往せずにはおれぬのか。
「貴女は、気がついてないの?」
光の方は、彩華から一瞬と目を逸らさない。
その美貌に、ついと見入る。
この方は、本当に美しい。
「貴女はきれいだもの」
誰より、何より、美しい方に言われて、彩華は心で自嘲しながら、自らを見返る。
「こんなまがい物……」
湧き出るように与えられる一流のドレスや装飾を、鈴風が手間暇を惜しまずに彩華に施す。
ここに在るのは、仕上げた貴婦人。
目がくらんで、彩華如きでも美しく見えようか。
「違う。そうではないの」
言いかけた言葉は、遮られる。
「貴女は……強くて、優しくて……それが美しいの」
どこが強い?
どこが優しい?
私は、身勝手で、貧相な……みすぼらしい女に過ぎない。
「買い被りです」
彩華は答えた。
私は美しくなどない。
「そろそろ……お帰りください」
今度こそ、機会を逃すことなく、彩華が言った時。
それを見計らったように、扉がノックされて開かれた。
「陛下がいらっしゃいました」
鈴風が恭しく膝をつき頭を垂れて、招き入れたのは寛いだ姿の闇帝だった。
彩華の手が不意に痛い程に握られる。
それは、闇帝が近付くに従って強くなり、二人の妃の目前に王が辿り着くに至って、爪が食い込むほどとなった。
「あの私……申し訳……」
震える声で、光の方がまず口にしたのは、理由の分からぬ謝罪だった。
王の手がつと上がり、指が光の方の頬に触れる。
光の方はビクリと大きく肩を揺らしたが、王は気にした風もなく指先で艶やかな頬を撫でた。
「お前が月の方に懐いているのは承知している……咎めるつもりはない」
闇帝は鷹揚にそう言った。
光の方を見下ろす鮮やかな碧眼。
気が付けば、彩華はそこに何かの感情を捜していた。
見つかりはしない。
だが、何もないとは思えない。
「ありがとうございます」
巧みに感情を隠す王の視線の元、明らかな怯えを見せて、光の方は頭を垂れた。
離されない彩華の手には、微かな振動が伝わる。
一度として王を見ない妃。
これが、王の寵愛を受ける妃の反応なのか。
他の女人は、誰も彼も皆、こんな風に王を畏れ、王に怯えるのか。
だとすれば、確かに彩華は異端なのだろう。
「そうは言っても今日のところは、俺に返して欲しいが」
それぞれの心中を慮ることなく、二人で寄り添って立つ姿を眺めれば、それは、幾度とせがまれ、読んで聞かせたお伽話の王子と姫のようだった。
現実味のない遠い光景のように二人を見つめていた彩華に、ふと闇帝の視線が向けられる。
逸らさず、震えず。
見返す先で、王の指先が光の方から離れ、彩華の頬に触れる。
現実に戻る。
この肌は光の方程に滑らかではあるまいに。
浮かんだそんな考えを振り払い、彩華は黙して手のひらを受け入れた。
「光の方様」
退出を促した王の言葉に反応することなく、闇帝と彩華を見つめていた光の方は、その呼び掛けにはっとしたように扉口を見遣った。
光の方が伴ってきた二人の侍女が、感情のない仮面のように表情のない面で、主を待っている。
彩華の手を握ったままの光の方は、やはり王に一瞬と顔を向けることなく
「……また、来ても良い?」
どうにか聞き取れる程度の小さな声で尋ねてきた。
彩華は答えなかった。
乞うように、手のひらをギュッと握られる。
王の大きな手が促すように、彩華の頬を撫でる。
それでも、彩華は答えず。
「構わぬ」
代りに王が答えた。
ようやく僅かに顔を上げた光の方は、怯えた瞳にいくばくかの安堵を浮かばせ、しかし、やはり王を一瞬と見ることはなかった。
「……では、失礼致します」
一言と発しない彩華に諦めたように視線を向け、やがて身を翻して扉に向かった。
白銀の髪が揺れる。
光の粉が舞って、線を描く。
その背に、彩華は声をかけた。
「彩華です」
ぱっと勢いよく振り返った美しい面には驚きがあった。
傍らで王が、見下ろしているのを感じながら、ただ、光の方を見つめた。
「彩華?」
2度目を名乗ることは何故かできず、ただ頷く。
「彩華、また、来るから」
思いの外、その方が紡ぐ名は、優しく響く。
嬉しそうに笑い、光が去る。
来ないで。
彩華は心中で思う。
名を教えたのは、優しく呼んでもらうためではない。
いずれ、貴女は私を憎む。
私を蔑み、呪詛を口にする。
その時に、名が必要だと、そう思ったからだ。