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10 闇帝と寵妃

 抱き上げた身体からは、やはりあの香りがした。

 甘い香り。

 だが、他の女達が撒き散らすような、まとわりつく不快さはこの女にはない。

 もう少し留め置きたいと願うのに、そよ風が吹き抜けるように鼻先を掠めて去っていく。

 そんな、香りだ。

 それを手中に納めて、望むままに堪能しながら、王は抱き上げた女を寝台に運んだ。

 先ほど侍女が慌てて整えた皺のない絹の上に下ろし、間をおかずに伸し掛かかったところで、背後の扉が閉められる気配がした。

 侍女が出て行ったのだ。

 一部始終を見ていた侍女は、暗黒王がどれほど己の女主を耽溺しているかを高らかに語るだろう。

「これで、明日からお前は闇帝の寵妃として名を馳せることになる」

 かつて王が二晩と続けて通った女はいない。

 あの光の方、と呼ばれる女以外は。

 月の方は、王が執着する妃として、誰もが一目置くようになるだろう。

 身を重ねたまま、王は意図して寵妃に仕立て上げた女を見下ろした。

 相変わらず臆さぬ灰色の瞳が、見返してくる。

 華やかではないが、落ち着いた彩り。

 穏やかに佇むそれは、見る者に安堵と信頼を抱かせるに違いない。

 しかし、今、王はその瞳に、覚えのある高揚感を覚えた。

 簡単に押さえ込めることのできそうな小さな火種ではある。

 だが、燻り始めた昂りを敢えて殺すこともなく、重ねた身体の柔らかさによって確実に押し上げてられていくに任せる。

「そして……いずれは正妃だ」

 未だ、男の欲望の兆しに気がつかぬ女は、ただ、王の言葉のみに反応した。

 それは意外なものだった。

 王を見つめていた瞳は、物憂げに揺らぎ、やがて、ふと逸らされたのだ。

 伏せ目がちなまぶたの先、長いまつげが震えているのに気がついた。

「どうした?」

 いつも、凛と見据える女が見せるどこか不安げな様子に、つい、尋ねた。

「何も……」

 女は言って、王の胸元から抜け出そうと身を起こしかける。

 王は、何の算段も思惑もなく、己の欲望に従い、女の肩を掴んで寝台に戻した。

 驚いたように見上げてくる女の瞳に、先ほど過ぎった揺らぎはない。

 迷いなく、怯えなく、まっすぐにと見つめてくる。

 そう、これで良い。

 王は気が付く。

 どうやら、この瞳を己は格別に気に入っているようだ。

「二晩続けて通ったのだ……少しぐらいは楽しませてもらおう」

 言いながら、滑らかな頬に指を這わせば、女の眉が寄せれられた。

 見つめてくる灰色に色濃い非難が混じる。

 それさえも、男の欲望をただひたすらに煽るばかり。

「私など、陛下のお相手ができるような女ではありません。取るに足らぬつまらぬ者です。お離し下さい」

 己を卑下する、しかしながら、王を拒否する言葉を口にする女を見下ろしながら、

「つまらぬかどうかは俺の決めることだ」

 女の寝間着の腰紐を指に捕える。

 この者がどのように考えていようとも、後宮の女達が身につけるものは心もとない。

 寝着であれば、それは尚更。

 唯一の砦である腰紐は、引けば解け、解ければあっさりと緩んで、女の寝着の合わせが開いた。

 いつかの記憶より、なお艶やかな白磁が輝き零れる。

 未だ完全に名無しの国に頭を垂れることのない東方の国の者特有の肌だ。

 だが、その忌々しさと裏腹に、女のそれは魅惑的に王を誘った。

 いつぞやは剣で傷を付けた首筋が目に眩しい。

 今は、真っ白なばかりの肌に口づけて自らの証を刻み、小さな足掻きのように身を覆って隠していた生地を払う。

 組み敷いた女の身が強張り、これが王の戯れではないと気が付いたかのように、もがき始めた。

「陛下!」

 声にも、非難と拒否。

 だが、多くの女が自ら望んでその身を差し出す中、この女の頑な拒絶はむしろ面白くさえあった。

 細い身体を難なく抑え込む。

 後宮では突出したものではないと評価した肢体ではあったが、胸も腰も十分に女としての柔らかさを備えている。

 手の平でそれらを確認しながら、これは十分に評価に値する……今まで触れたどの女よりも滑らかな肌を唇と舌で味わう。

「お離し下さい!」

 いつもの静かさを失った声。

 もがくたびに、女の本意とは裏腹に、衣は乱れて肌を晒していく。

 煽られる。

 己でも、不思議なほどに。 

「嫌です!」

 女の手が、肌を辿る王の手を止めようと足掻く。

 肩を叩く。

 胸を押す。

 非力な女の、些細な妨害だ。

 やがて、小さな手のひらは、女の脚を辿る王の腕にかかった。

 指先に、拒絶の力が込められたのは一瞬。

 女ははっとして、手を引いた。

 そして、それをきっかけに、あれほどに全身で拒んでいた女が、ピタリと動きを止めた。

 あまりにいきなりの反応に、思わず王の動きも止まる。

「申し訳、ございません……傷に……」

 言われた言葉は、意味を成さずに王を通り抜けた。

 だが、すぐに取り戻す。

 女の指が一瞬食い込んだ場所は、昨夜、王が傷を負った場所だった。

 そんなこと、この状況では王自身でさえ忘れていた。

 この女は、いったい何なのだ。

 王は、不覚にも毒気を抜かれた。

 もはや肌に僅かばかりの絹を絡ませただけの、なんとも煽情的な姿の女から退くという、かつてない状況に自らを置くと、袖をまくり腕を差し出した。

「珪心が医者を呼んだ。いらんというのに、薬を塗られて、仰々しいこの状態だ」

 女は寝着の前を合わせながらも、きちんと包帯が巻かれている腕を見て、明らかに安堵を浮かべた。

 まったく、この女は。

 自らの意志を無視して、力で組み敷こうとした男の傷を案じるとは。

「応急処置は完璧だと、医師が褒めていた」

 傷の手当てをしながら『本当にこれは一国の姫君がなされたのでしょうか?』と首をひねる程に的を得ていた女の処置。

 女の素姓に疑問を抱くものでもあったそこは隠して、上辺だけを告げれば、それには無表情で答えが返ってきた。

「恐れ入ります」

 と。

 女自身、昨夜の手当てについては、出過ぎたことをしたと思っているに違いない。

 だが、手負いの者を放ってはおけなかったのだろう。

 己の危機を招きかねないながらも、手当をせずはいられないような。

 己の絹を剥がされながら、それでも、傷を気遣わずにはいられないような。

 そんな女。

 一体、何者か。

 いつかも過ぎった問いが、その時よりも興味を深めて王に浮かぶ。

 王が動きを止めた隙に、女は乱れた寝着を整え終えて、寝台から脚を下ろした。

「どこへ行く?」

 女の腕を掴んで、それを止めた。

 昨晩と同じ問いかけだ。

「……寝台はお使い下さいませ」

 そして、昨夜と同じいらえ。

 王は、女の腕を掴んだまま、かといって先ほどのように強引に寝台に戻すこともなく尋ねた。

「どこででも眠れると言っていたが」

 女が昨晩口にした言葉を思い出しながら

「……どこでも眠れぬ……の間違いだろう」

 その顔色を見て思った通りを口にする。

 女の強かさと若さという瑞々しさにぼやかされてはいるものの、真正面から向き合ってみれば女が疲労感に満ちていることは明らかだった。

 ここまでに女を疲弊させるものがあるとは思えない。

 昨夜まで、この女は王が少しばかり興味を持っている者として視線を集めてはいたが、まだ、周りは静かだっただろう。

 今日は騒がしかったと言うが、それも一晩を過ごしただけであれば、例え朝までを過ごしたという事態が初めてであったとは言え、たかが知れている。

 ここまでに女が憔悴する程ではない筈だ。

 いや、それは違うのか。

 女は体力的にというより……様々な煩わしさに、おそらく精神的に追いつめられているのか。

 しかし、皮肉なことに、その様子は。

「酷い顔色だ……それでは、俺がどれほどにお前を啼かせているのかと、つまらぬ憶測を呼ぶばかりだ」

 軽口ではなかった。

 女の疲れた様子は、先ほど王が故意に付けた首筋に浮かぶ情事の名残が色を添えて、事実を知らぬ者が見ればそこはかとない色香を撒き散らしているようにも見えるだろう。

「そんな憶測も……良いのではありませんか?」

 女が僅かな笑みを見せるでもなく言うとおりだった。

 確かに、王の尋常ならぬ寵愛ぶりを、誇張するには良いかもしれない。

 だが、どうしてか、王はその一言に少々苛立ちを覚える。

「いっそ」

 掴んだままだった女の腕をぐっと引く。

 女は少しだけ身体を揺らしたが、倒れ込んでくる程に力は入れていない。

「本当に啼かせてやろうか? 気を失うまでに」

 これは本気か戯言か。

 正直なところ、王にもどちらとも言えなかった。

「そうすれば眠れる」

 女は王の迷いを読むように、じっと見つめてきた。

 雨が降る直前の空の色が、静かに王の本意を問うように。

 王にその真偽を見極める時間を与えるかのように。

 静かな時が流れていく。

 目の前の女は、手駒だ。

 欲しいものを手に入れるために、契約を結んだ者。

 女としてそこに在る以上、男として本能的に欲望を覚えることはあろうが、契約に則って扱うべき者だ。

 ならば、答えは。

「……戯言だ」

 今はそれが本意であると、王はそう答えを出した。

「ここへ」

 言いながら、女の腕を少しの力で引く。

 女は、まだ少し迷うような様子であったが、力強く拒否することはない。

「どちらにしろ、朝は寵妃を抱いて目覚めねばならぬのだから」

 この一言に、女は諦めたように、寝台へと上がった。

 己の傍らに横たわるのを見届け、王は足元に整えられていた上掛を引きあげて、女の身を包んだ。

 王の行為に、少し驚いたように見上げてくる女を、自分でもらしくない事をしたと分かっているから、意識して無表情で見下ろす。

「眠れ。明日は……また、騒がしくなる」

 女は頷き、寒いように上掛けを引きあげて身を丸めた。

 まぶたが伏せられて瞳が隠れるも、今度はそれを上げさせる気にはなれなかった。

 王は自らも横たわり、目を閉じた。

「……明日はもっと騒がしくなるのですね」

 女は、突如、小さな消え入りそうな声で呟いた。

 王はまぶたを上げて、女を見遣った。

 傍らの小さな存在は、身体を丸め、目は伏せたままだ。

 今朝と同じく、少女のような印象を抱かせる。

 己を見据える者とは思えぬ儚さが、そこにあった。

「そうだ」

 答えれば、女は更に身を丸めた。

 顔を絹に埋めるようにして。

「ここでは、人が亡くなったことより……陛下がこの室にいらっしゃることの方が騒ぎになる」

 その通りだ。

 この後宮で、何よりも重要なことは、王がどの女に興味を持ち、手を付けるのかという、それのみだ。

 己が昨夜この室で、夜を明かさなければ、さすがに血生臭い話題で持ち切りにもなっただろう。

 だが、ここで闇帝が女を抱いて目覚めたことにより、それはあまりにあっけなく一転するのだ。

 残虐に殺された女より……しかも殺したのは王だと証さえ立てられていたのに……それよりも、新たに王が召した女の方が、人々の興味をそそる。

 ここに住まう者達にとって、それは当たり前だ。

「満足か?」

 事は契約通りに進んでいる。

 このまま、順当に進めば、王も女も望むものを手に入れる。

 だが、問い掛けに女は、驚いたように伏せていたまぶたを上げて、見上げてきた。

 そして、その女の反応を意外に思わない己に、少し驚いた。

「……いいえ」

 少し間を置いて、答えが返る。

「いいえ」

 もう一度。

 そして、何かを堪えるように、女はまぶたを下ろした。

 先ほどと同じように、まつ毛が震えた。

「お前は、まともだな」

 そういうことか。

 この女はまともなのだ。

「陛下?」

 王は女の身を引き寄せ、己の胸元へと乗せた。

 驚く女の顎を捕え、まっすぐに瞳を覗きこむ。

「恐ろしいのか」

 この女は、後宮の異常さに気がつき、それを恐いと感じる。

 それは、この世界に紛れこんだ者が、そこに狂わされることなく、正気を保ち続けている証に違いない。

「だが、お前が望んでいるのは、そんな場所の頂点だ」

 そして、これもまた事実。

 この女が望んでいるのは、この後宮の頂点たる正妃の座。

 狂った世界に怯えながら。

 そこを支配する玉座を望むのか。

「承知しております」

 女は、王を見つめたまま、頷いた。

 そこに迷いはない。

 望むものを手に入れんと、手を伸ばす姿は消えることなくここに在る。

 この強かさを美しいと思ったのだ。

 それに間違いはない。

「……承知しております」

 女は王から顔を背け、今度は力なく呟いた。

 そこにいるのは、弱々しい……だが、まともな人間。

 狂った世界の中、震えながらも、正気を保とうとする姿も、また、哀れで美しい。

 そう思った。

 やはり、この女が欲しい。

 ふと、再燃した欲望を、王は契約に従い押し殺す。

 宥めるように髪を撫でる。

 肌と同じく、それは指に一瞬として引っかかりを与えず滑らかだ。

「……陛下……お離し下さい」

 いくらも経たぬうちに、女は言って、身じろいだ。

 これ以上は好きにできぬ身体は、しかしながら、離し難く。

「大人しくしていろ」

 言って、腰を抱く腕に力を込める。

 女の視線に非難と、そして、もう一つが過ぎる。

「このままでは陛下が眠れません」

 また、気遣われた。

 他の女も、もちろん王である己に気を使い、気を引こうとあらゆる言葉を操る。

 だが、この女は、男を遠ざけようとあしらいながら、ついと内から優しさが零れ出る。

「……このままで良い」

 王は再びまぶたを伏せた。

「お前の香りは……良く眠れる」

 女の髪に顔をうずめ、その香りを胸まで吸い込む。

 欲望を煽る香り。

 眠りに誘う香り。

 女と同じように、様々な貌を持つそれが、身体を包む。

 女はしばらく強張っていたが、王の腕が離れる意志を欠片も持たないことを察したのだろう体の力を抜いた。

 胸に寄せられる重みが心地良い。

「……おやすみなさいませ」

 声が掛けられる。これも昨夜と同じ。

 臣下に告げられることはあっても、女にこの言葉を掛けられたことはない。

 闇帝は、通った女達の元で眠りに就くことはないから。

「ああ。おやすみ」

 答えると、腕の中の身体が一瞬、ほんの僅かに強張った。

 己の挨拶が意外だったか。

 そうだろうとも。

 王自身も、つい返してしまったことに驚きを禁じ得ないのだから。


 やがて、抱いたままの身体の重みが増し、胸元で規則正しい呼吸が聞こえてきた。

 眠りに就いた身体の体温が少し上がったのに伴って、昨夜と同じ香りが……いや、己の血の香りが混じらぬ分、ひと際色濃い女の香りが王を包み込む。

 心から手離すのが惜しい香りだった。


 この女は手駒。

 そう思いながら、思いがけなく湧きあがった執着心に王は戸惑った。

 眠りに就く寸前に思ったのは……この女は抱いてはならない。

 抱くべきではない。

 抱けば、手に入れんとしているものを取り零す。

 そんな事だった。

 そして、女が頑なに己を拒む理由もまた……少し理解した気がした。

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