1 闇帝と女
美しい女だ。
手の平で掴むことのできそうなほどに華奢な首元に剣を突き付けながら、王は眼下に膝まづく女を見下ろした。
女は怯むことなく、まっすぐに見上げてくる。
床に届くほどに長い髪は濃い茶色。瞳は雨の予兆を覚えるであろう灰色の空。
派手派手しい彩りは、そこにない。
あらゆる国から集められた美姫がひしめくこの後宮にあっては、その容貌は突出したものではないかもしれない。
しかし、剣に怯えた様子もなく、闇帝と呼ばれる己を見つめる女は息を飲む美しさだった。
「……剣には屈せぬか」
誰もが、感情が見えぬ、という己の声。
女が己の意に背くことへの怒りも、女の美しさへの感嘆も、もちろんそこに含まれることはない。
全ての感情を取り払ったそれは、事実を確かめるためだけの呟きとなって、女に届くだろう。
「命は惜しくはございません。故に……剣は恐ろしくございません」
女は答えた。
その声もまた感情の見えぬものだった。
僅かにも震えず、凛と響く。
「……ほお?」
王は瞳を眇めた。
触れるか触れぬかだった剣を、ぐっと首筋に押し当てる。
女は身じろぎ一つしなかった。
その言葉が真実であるというように。
王は、剣を僅かに引いた。
真っ白な首筋にスッと紅の線が描かれる。
だが、女は微動だにせず、王を見つめていた。
しばしの沈黙。
滴ることのない紅の線が、女の美しさを引き立てる。
「命は惜しくはございませんが……それでも、望みというものが2つございます」
やがて、女が口を開いた。
耳に届いた声に、己が女に見入っていたことに気がついた。
女の様子に変わりはない。
王が女の美しさに、一瞬とはいえ我を忘れる程魅入られたことに気がつかぬようだった。
物慣れた女ならば、そこにつけ込む術もあろうに。
「望み、とは?」
しかし、女は取引を持ちかけた。
王の望みを叶えたくば。
その望みを叶えよ、と。
「正妃の座を」
女は言った。
後宮に住まう女の多くが望むであろうそれ。
この国の女としては最高位だ。
正直に言えば、少々落胆した。
この女も、他の女と変わりない。
「そんなものが欲しいか」
嘲りを隠さず言えば、女は恥じ入る風もなく。
「そんなものが私には必要なのです」
そんなもの……と答える。
そして、相変わらず、目は逸らされない。
「一生とは申しません」
淀みのない、迷いのない瞳。
こんな風に見つめられることは、ほとんどない。
忠誠を誓う臣下も。
閨で愛を囁く女達も。
王の視線を受け止めきれずに、逸らして俯く。
揺れることなく注がれる視線。
むしろ、今この時に、逸らしたいと思っているのは己の方かもしれない。
王は思った。
だが、逸らさない。
「5年」
女のいう年月が何なのか、一瞬意味を捉え損ねる。
しかし、すぐに気が付く。
「5年の間、私に正妃の座をお与えくださいませ」
そう、期限を付けたのだ。
期限付きの正妃の座。
そんなもの、聞いたことがない。
そして。
「貴方様の寵は望みません」
そうもはっきりと告げられる。
「欲しいのは、地位のみ」
闇帝は剣を降ろし、鞘に納める。
女は、動かない。
ひざまずいたままだ。
「もう一つはの願いとは何だ?」
2つ、と女は言った。
それに興味があった。
期限付きの身分を望む女は、あと、何が欲しいのか。
「どうか、この度の件で人を殺めて下さいますな」
だが、王の耳に届いたのは、女が欲しいものではなかった。
「何?」
聞き間違いか。
「誰にも、命を落として欲しくはないのです」
確かに女はそう言うのだ。
もう一度、剣を構えようかと思った。
己は闇帝。
人によっては、暗黒王とも血塗れ陛下とも。
そう呼ばれる軌跡を描きながら生きてきた。
そして、今の地位を手に入れたのだ。
その王に、人を殺めるなと望むのか。
「……それが私の2つ目の望みです」
女はやはり王に怯むことなく……そして、その美しい瞳は切実な彩りを加えて訴える。
これは、この女の本意だ。
そう感じた。
正妃の座が欲しいという。
そんなもの、と言いながら。
人を殺めるな、という。
女が手に入れようとする正妃の座は、後宮の女達が誰を殺めても手に入れたいと望むものだろうに。
「そんな甘いことでは、正妃の座などに就いたところで1年と持たず殺されるぞ」
女に抱いた不思議な感傷と疑問を胸にしまい、王はそうとだけ告げた。
「……もしそうなりましたら……どうか、残りの4年は影武者でもお立て下さいまし。欲しいのは、正妃の座に在る私の名のみ」
その答えが気に入った。
女が何を考えているのかは知らぬ。
だが。
「……面白い女だ」
そう面白い。
闇帝はひざまずく女の腕を取り、立ち上がらせた。
どれだけの意思で闇王と向き合っていたのか。
強張り易々と立ち上がれぬ身体に、初めてそれが決して強かなばかりの女ではないことに気が付く。
がくりと女の膝が崩れかけるのを、力づくで持ち上げた。
「いいだろう」
女は王を見つめた。
王は女を見つめる。
この容貌は、多分東方の女。
あの地方は、未だ王への謀反を企む者達が少なくない。
その一端を担う女か。
それならば、それで良い。
女が命が惜しくないというように。
王も、また、死を恐れない。
「お前の望み二つ……いや、お前が殺された後の影武者の件を合わせて3つ。確かに聞き届けよう」
言いながら、引き寄せられるように目についたそこに顔を寄せる。
女の白く細い首筋。
己の剣が描いた小さな傷に這わせれば。
「……っ……」
ビクリと女は身体を揺らした。
渡り合った女の小娘のような反応に、湧き上がった笑いを喉で殺し、王は女の腕を離した。
一瞬揺らいだ身体は、しかし、しっかりと立ち、王の前に美しい立像を見せつける。
「……さあ、言え」
促す声に、女は大きく呼吸をし、王の望む言葉を口にした。