第32話 あなたが必要だから
降りしきる雨の中、正人は夢中になって美国を追いかけた。
「待って!美国!」
美国に向かって大声をだし引き止めた。
正人の声に美国の足がピタリと止まった。
「何? 正人……」
振り返った美国の顔はとても切なそうだった。
涙をためながらも、決してそれを流そうとはせず精一杯我慢しているのがわかった。
肩で息をしながら、正人は美国に本当の気持ちを伝えようと
今まで抑えていた感情全てを美国に話し始めた。
「俺さ……、自分の人生はクソだってずっと思ってた。
なんで生きてるんだろうって、何も持ってない自分がすごく嫌で、
いつも変化したい、変わりたいって思ってた。
誰かに期待されることもなく、ただただ無駄な日常を過ごすのが嫌だった」
「易者に言われたんだ。変化の最後の日は、自分が一番大切なものがわかる日だって……。
それが今日だったんだ。俺にとって一番大切なものは……お前だったんだ」
正人はなりふり構わず、美国に思いを伝え続けた。
「どうしてもっと早く気づかなかったんだろう……。なんでこんなんなっちまったんだろう。
なんで、失くして初めて大切なものに気づくんだよ……!なんで……」
正人は両膝をつき、初めて涙を流した。
「美国……。俺、消えたくない」
生まれて初めて心底思った。
消えたくない、消えたくないと心の中で連呼した。
こんな人生でもいい。何もなくてもいい。
ただ、美国がいれば……お前さえいてくれればよかったんだ。
何度も何度も想い、そして願った。
どうしようもない後悔。今まで感じてきた想いを、弱音を初めて吐き出した。
そして言葉にすればするほど、美国のことがどれだけ大切だったかわかる自分に悔しさだけが残る。
ひざまずく正人へ美国はゆっくりと近づいていった。
正人の目線に合わせるようにしゃがみこむと、
噛み締めた唇をゆっくりと開き、そしていつもと変わらない優しい声で
「ずるいよぉ……。反則だよ……正人。
あたしは正人に逢って、まだ一年だけどずっとずっと、正人のことが一番大切だったよ。
せっかく格好つけて、綺麗にお別れしようとしたのに……これじゃ、忘れられないよ」
正人を包み込むように、そっと手を背中に回して抱きつく。
美国の涙は、雨とは違い、とても暖かかった。
「やっと気づいてもらったのに……。やっと必要だと思ってもらえたのに……。
これが最後なんて、嫌だよ……」
美国も抑えていたものが一気に噴出した。涙が洪水のように、止まらず流れ落ちる。
「ごめんな……。美国……。もう俺が今の俺でいられる時間は少ないんだ」
美国の頬に手をあてると
やりきれない表情ながらも、優しく撫でた。
「やだよ……正人」
正人の手を握りながら、正人の存在を確認するかのように、
ぬくもりを感じながら、美国は離れるのを惜しんだ。
そして正人は、最後に易者に言われたことを伝えた。
「もしも……。もしも今の気持ちが、自分の心の底に残っていたら、戻れるかもしれないんだ」
正人は最後の望みを美国に伝えた。
変わってしまった自分、理想の自分よりも今の気持ちが凌駕したとき
今の自分に戻れるかもしれない最後の最後の小さな希望を。
「でも待っててなんて言えないよね……。いつになるかもわからないし。
だからお前を引き止めることもできない。都合よすぎだよな……」
そうなんだ。もし戻ってこれたとしても、その時美国がいなかったら意味がないんだ。
やっぱり大切なものは、失くす前に気付かないといけないんだ。
本当、俺ってバカだよな。目の前にこんなにいい女がいたことに気づかなかったなんてさ。
理想の人生じゃなかったけど、理想の女性はいたのにな。
もう諦めるしかない。そう思ったとき
美国は正人に優しく言った。
「あたし、待ってるから……。ずっとずっと……。
多分、もうこれから先、正人以外の人のことを好きになれそうもないよ。
あたしには、あなたが必要だから……」
『あなたが必要だから』
正人が一番聞きたかった言葉。一番大切な人に言われたかった言葉。
会社の人に言われるより、友達に言われるより、
たった一人、目の前にいる美国に言われたかった言葉。
この言葉の大切さが、最後の最後になって身に染みて感じた。
どんな顔をしたらいいかわからなくて、切なくて悲しいけど嬉しかった。
正人は美国を強く抱きしめた。
「美国……ありがとう」
気の利いた言葉なんて出てこない。
ただただ感謝の気持ちしか思い浮かばない。
「正人は正人でしょ。ずっと待ってる」
涙を流しながらも、精一杯の笑顔で正人に最後の言葉を伝えた。
降り注ぐ雨の中、二人は最後の口付けをかわした。
最後の最後で大切なものに気付いた正人。
ずっと大切なものに気付いていた美国。
離れたくない想いとは裏腹に、時間は……期限はきてしまった。
六月十日 二人が付き合い始めてから丁度一年 そして別れの日
この日を境に美国を愛した朝霧正人は眠りについた。
――絶対、戻ってくるから……。
待っててくれる人がいる。帰る場所がある。だから絶対に……。




