黒猫
横山が暮らすマンションのほど近くに、公園がある。砂場と、木陰に据えられたベンチがひとつだけしかない小さな公園。日中は、子どもたちが遊ぶ楽しそうな声が響いているが、夜になると人影は絶え、闇に沈むように静まり返る。
横山はいつも、仕事帰りにその公園の脇を通る。その夜は残業で、自宅の最寄りの駅を出た時には日付が変わっていた。そんな時間だから当然、公園には誰もいないはずだった。だが、砂場のあたりで何かが動くのが視界を掠めた。気になり砂場を見る。
最初は野良猫だろうと思っていた。だが、はっきりとは見えないが、それは猫にしてはあまりに大きいように思えた。不審に思った横山が砂場の方へそっと近づいてみる。近づいて見ても、それはやはり猫だった。しかし、常軌を逸したその巨体に、横山は思わず息を呑んだ。
猫は前足を揃えて地面に伏せていた。その姿勢でも、体長はゆうに1メートルを超えている。長く伸びた尻尾は、まるで別の生き物のように地面に横たわり、その毛並みは夜の闇に溶け込むような漆黒だった。だが、闇の中でただひときわ怪しく光る二つの目だけが、じっと横山を射抜いていた。
異様な気配に、横山の全身が総毛立つ。直感的に「ここにいてはいけない」と感じ、足早にその場を離れた。角を曲がって視界から公園が消えたところで、横山は振り返ってみた。猫は起き上がり、座った姿勢でこちらを見つめ続けていた。その視線のあまりの鋭さに横山は背筋を凍らせ、一目散に駆け出した。
その日以降も、横山は毎日その公園の脇を通ったが、あの猫を再び目にすることはなかった。あの夜の出来事も、次第に記憶の片隅に追いやられていった。
ある休日の夜、横山は友人と遅くまで酒を飲み、タクシーで帰宅した。深夜2時過ぎ、マンションのエントランスに繋がる階段を登ろうとしたとき、ふと視線を感じて立ち止まる。マンション向かいの一軒家、その家には道路との境に築かれたブロック塀がある。その上に、何かが座っているのが見える――黒く、巨大な猫。
記憶が鮮烈に蘇る。あの夜、公園で見た猫だ。闇の中でも、その異様な大きさと存在感は際立っていた。猫の鋭い眼光が、まるで横山の恐怖を見透かしているようだった。横山は身の毛がよだち、振り返ることもせず一目散にエントランスへと駆け上がり、自室に飛び込むとドアを堅く閉めた。
息を整えながら、窓から先ほど猫のいた場所を見下ろす。だが、そこにはもう、何もいなかった。
――あの猫はいったい、何なんだ。
翌日、横山は友人の島田に電話をかけ、自分が見た異様な猫の話をした。島田は昔から怪談や怪異に詳しく、こうした不思議な話にも理解がある人物だった。
横山が猫の特徴を詳しく話すと、島田は真剣な声で言った。
「……もしかすると、お前、その猫に気に入られたのかもな」
「どういう意味だ」
「もしその猫が霊だった場合、動物の霊は波長の合う人間に憑りつくことがあるんだ。以前に見た場所とは違う場所でまた姿を現したっていうなら、お前に憑いたと考える方が自然だ」
「憑いた……?」
その言葉に、横山は急激な恐怖に襲われた。どうすればいいのか、とすがるように尋ねる横山に、島田は急に口調を和らげ、笑いながら言った。
「いや、あくまで“霊だったら”って話だよ。聞いた限りじゃ、霊だと断定はできない。ただの野良猫の可能性もある」
「でも、あんなに大きな猫が普通にいるか」
「全身真っ黒の猫だったんだろ。夜の闇の中なら、体の輪郭なんて曖昧になる。実際よりも大きく見えたのかもしれないし、逆に本当に大きかったとしても、ただの変わった猫かもしれないだろ」
島田の言葉に、横山は少しずつ不安が和らいでいくのを感じた。
「あまり気にしない方がいいよ」
島田のその言葉に、横山はようやく心を落ち着けたのだった。
数日後の夜、横山は再び帰宅の途中にいた。信号のない交差点に差しかかったとき、ふと視線の先に異様な影を見た。道路の真ん中に、あの猫が座っていたのだ。
島田の言葉で、あれはたたの猫だと安心していたはずなのに、実際に目にすると理屈では処理できない恐怖が再び全身を包んだ。横山は立ち止まり、身動きが取れなくなる。
そのとき、一台の車が猛スピードで交差点を横切った。横山は咄嗟のことに反応できず、ただ車が走り去るのを呆然と見送った。
気がつくと、全身から冷や汗が噴き出していた。もし、あの猫を見て立ち止まっていなければ、自分はもしかしたら今の車に轢かれていたかもしれない――
横山は恐る恐る猫に近づいていった。猫との距離は1メートルほどになった。近くで見るとやはりその猫の姿は大きいと感じる。だが、今は恐怖よりも、別の感情が湧いてくる。
「……もしかして、助けてくれたのか」
横山がそう話しかけると、猫は見た目に反して、子猫のように小さく「ニャー」と鳴いた。横山は安心したように一歩踏み出しさらに近づいた。すると猫はすっと向きを変え、横山のいる方向とは反対の方にゆっくりと歩き出す。そして闇に溶けるように、ふっと消えてしまった。
横山はしばらくその場に立ち尽くしていたが、ずっとこうしていても仕方がないと思い、やがて歩き始め、家路へとついた。
数日後、居酒屋で島田と酒を酌み交わしながら、横山はその夜の出来事を語っていた。猫に命を救われたのだ、と。
だが、島田はどこか浮かない顔をしていた。
「なあ、その猫、お前にはまったく心当たりがないんだよな」
「うん。猫を飼ったこともないし、野良猫に餌をあげたこともない」
「それなのに、なんでそんな猫が、お前を助けるんだろうな」
「さあな。でも、あの時は本当に助けられたって思ったんだ。もしかしたら、守護霊とかなのか」
島田は曖昧に頷いたものの、どこか納得できない様子だった。
しばらく酒を飲み、二人は店を出て駅に向かった。駅へと繋がる道の途中にある交差点の手前に差しかかったとき、横山が突然叫ぶ。
「あれだ、あの猫だ」
島田は横山が指差す方を見るが、何も見えない。
「え、 どこにもいないぞ」
「あそこにいるって。見えないのか」
横山は小走りで道路に進み出した。島田が信号が赤であることに気づき、叫ぶ。
「危ないっ」
その瞬間、横山は猛スピードで突っ込んできた車に跳ねられてしまった。
道に倒れた横山に駆け寄る島田。横山は薄れゆく意識の中で、ぽつりと呟いた。
「なんで……」
そのとき、島田の耳元で、かすかな声が囁いた。
「今度はうまくいった」
驚いて振り返ると、道の端にあの黒い猫がいた。じっと島田を見つめている。猫の顔が奇妙に歪んだ。
それはまるで――人間のような、他人を嘲るような、不気味な笑い顔だった。
横山はその後病院へと運ばれたが、診察の結果、足と手を複雑骨折していたが、幸い命に別状はなかった。
だが島田はいまだに、あの夜に聞いた声と、猫のあの笑顔を、横山に話すべきかどうかを悩んでいる。
――あれは本当に、守護霊だったのか。
それとも――何か、別の恐ろしい存在だったのか。