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この地に渡る風  作者: 成田チカ
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13章 「覚醒」

 これは、夢だろうか。

 目を覚ましたつもりなのに、何も見えない。ただ、暗闇だけが広がっている。奈落、と言う言葉を思い出して、綾は軽く身震いした。

 風が渡る音が微かに聞こえるような気がした。だが、それだけではこれが夢なのか現実なのか、綾にはわからない。

 綾はぼんやりとしながら辺りを見回そうとして、自分が何かの上に横たわっていることに気が付いた。

(痛!)

 身体を起こそうとして、両手首が身体の後ろできつく縛られ、両足首も縄で縛られていることに気付いた。

(何、これ…)

 声を出そうとして、今度は自分の口の上に布が巻かれていることに気付く。

(な、何…? これって…。すごくベタだけど、誘拐された人質状態…?)

 あまりのことに、パニックになりそうな頭を一生懸命に抑えて状況を思い出してみる。あの時、あのテラスで、一体何が起こった?

(テラスに出たら、すぐにリンが来て…。そうだ! リンが何かに気が付いて、剣を抜いた。えっと、それから…)

 テラスの、建物の影になっている部分に誰かが立っていた。その人物は、全身に黒装束を纏い、その姿を確認したと思った瞬間に綾に襲い掛かってきた。綾を守ろうとしたリンがあっという間に血まみれになって倒れ、自分も殺されると思っていたら、誰かに背後から甘い臭いのする布を顔に押し付けられた。布を押し付けられる前に、以前嗅いだことのある香りがしたような気がしたが、あれは一体誰だったのか。

(あの黒装束の人も、顔を隠していたから誰だかわからないけど…。でも、何となく会ったことがあるような気がする…)

 綾は必死に自分の頭の中の人物リストを検証し始めるが、全く検討がつかなかった。

(私の、バカ…。あんなに皆に気をつけろって言われてたのに…。考え無しに、勢いだけで独りでテラスになんて出なければ良かった…)

 綾は一瞬、泣きそうになったが、それは本末転倒だと自分に言い聞かせて何とか収めた。泣いてもどうしようもない。後悔しても仕方がない。今はここからこの先をどうすればいいのかを考えることが大切だ。

(ここ、どこなんだろう…?)

 綾は必死に目を凝らして辺りを見てみようとするが、辺りには光源になるものが何も無く、ただどんよりとした暗闇が広がるだけだ。

(そうだ、紋章…)

 スオウとゴウヤの紋章と繋いだ自分の紋章があれば、自分の位置が彼らにわかるはずだ。綾はそう思って紋章があるであろう腰周りに神経を集中させたが、それらしい金属の感触がどこにも無い。

(えっ。どうして…?)

 綾は上半身を捻りながら、後ろで縛られた両手で自分の腰帯の辺りを探ってみた。

(あ、これ…)

 腰帯から出ている少し太めの飾り紐に触り、それを少し手繰り寄せてみたが、異様に軽い。

(まさか…)

 紐の先に紋章は無かった。紐は断ち切られたかのような鋭い断面で終わっている。

(これじゃあ、スオウとゴウヤは私の場所がわからないよ…。どうしよう…)

 ふう、と溜息を一つ突く。窓の無い部屋は少し空気が籠っていて、息苦しく感じた。綾の額にうっすらと汗が滲み始める。

(皆、心配して探してるだろうなぁ…。リンは大丈夫かな…)

 紫影の一員であるリンを、あんなにあっさりと倒す相手。ある意味、地龍の祠で戦った魔物よりも恐ろしい存在だ。

(リン…。どうか、死なないで…!)

 綾は目を閉じ、静かにリンの無事を祈り始めた。


「スオウ! アヤは?」

 スオウが城に戻るとすぐに、天龍がスオウの帰りを待ち構えていた。スオウは天龍に光を失った綾の紋章を見せながら言った。

「アヤ様の紋章が庭に落ちていて、それ以上の手がかりは見つからなかった。お前は何か、感じることができるか?」

 いつもはスオウと嫌味の応酬しかしない天龍だが、今日ばかりは状況が違う。

「アヤの気配が物凄い速さで北西に抜けたんだ。追いつけはしないかもしれないが、近付けばアヤのいる場所を探り当てることはできるだろう」

 二人はお互いの目を見て、無言で頷くと、城の正面口に足早に向かう。

「上様! アヤ様が!」

 途中、澪、陸、東風の三龍も彼らに合流した。皆、綾の気配が城から遠ざかったことを感じていた。

「お前達も来い。アヤを取り戻す!」

「はい!」

「僕も行きます!」

 旅装のゴウヤが一団に向かって走り寄って来た。その姿を見たスオウが、驚いてゴウヤに尋ねた。

「お前、いやに準備がいいな、その格好…」

「ババ様が儀式の途中で異変に気付かれて、僕にあなたに合流してすぐに追うように指示されたんです。北西の森があった場所を抜けると、今は廃村になった集落の跡地があり、アヤ様は今はそこにいらっしゃるはずだと、ババ様が」

 ゴウヤの言葉に、皆が一斉に目を大きく見開いた。

「さすがは、トキだね…」

 天龍がニヤッと笑って、陸に微笑むと、陸が照れたように頭を掻いた。その様子を不思議に思いながらも、取り急ぎ厩舎に向うために外へ出ようとして、スオウとゴウヤは天龍に呼び止められた。

「何だ、天龍?」

「お前の馬よりも、僕らの方が速い」

「は?」

 焦る気持ちを抑えながらスオウが尋ねると、天龍が他の龍達に向き直った。

「僕は飛べる。お前達はどうだ?」

 三龍のうち、陸と澪は飛べるといい、東風は少し「気」が足りないと言った。

「よし。僕はスオウを乗せる。陸はゴウヤを。澪は東風を乗せろ」

「わたくしも参ります!」

 ケイが皆のところへ走り寄って来た。

「ケイ。リンは?」

「ババ様がイヨさんと看てくださっています」

「そうか」

 スオウは短くそう言うと、両手の拳をギュッと強く握った。スオウは今でも、やせ細った身体をした小さなリンが、初めて紫影の鍛錬所に連れて来られた日のことを覚えていた。

(リン…)

 誰かがスオウの肩をポン、と優しく叩いた。手の主は天龍だった。

「行くぞ、スオウ。リンのためにも、アヤは必ず連れ戻す」

「ああ」

 二人は頷くと、天龍がケイにスオウと一緒に自分に乗るように指示を出し、天龍、澪、陸の三龍は外の少し広くなっている場所に足を運び、眼を閉じると何かを呟いた。

 やがて、三龍の身体は淡い光に包まれ、それぞれが巨大な龍の姿へと変化した。

「早く乗れ。行くぞ」

 天龍の声に促され、スオウたちは各々、龍の背中に乗り始めた。

「お前達、しばし待て」

 城の方から声がしてスオウが振り向くと、そこには従者を連れた隣国の王子が立っていた。

「シンガ様…。我々は現在、火急の用にて失礼仕ります」

 軽く一礼してその場を去ろうとしたスオウに、シンガが近付きながら単刀直入に尋ねた。

「アヤを助けに行くのであろ?」

「…」

 図星を指され、その場にいる全員が黙った。その様子を気にも留めず、シンガは従者に手で合図した。

「ラライ、許す。お前も行って加勢せよ」

「はっ」

 ラライと呼ばれた体格のいい従者が、天龍の背に乗ったスオウに向かって歩いてくる。

「おい、ちょっと…」

「私はどの龍に乗ればよろしいか?」

 狼狽するスオウには気も留めず、ラライは穏やかな調子で天龍に尋ねた。

「いいのかい? 生きて帰れる保障は出来ないよ?」

 体格の大きい自分よりもさらに巨大な天龍を見上げながら、ラライは顔色一つ変えずに頷いた。

「それは承知しております。主命ゆえ、この場を引くは主を欺くこと。ならば、戦いで死ぬ方がましだ」

 天龍はラライの答えに満足そうに頷くと、陸に合図を送った。

「私にお乗りなさい」

 陸がラライにそう言うと、ラライは黙って頷き、陸に駆け寄るとその姿からは想像の付かない軽い身のこなしで陸の背に飛び乗り、ゴウヤの後ろにその身を落ち着けた。

 天龍は皆の準備が出来たことを確認すると、「しっかり捕まっていろ。全速力で行くからな」と言うなりフワリと宙に浮かび始めた。澪と陸がそれに続き、三龍は風のような速度で北西に向かって飛び始めた。

 その様子は、遠くからはまるで、三つの光の玉が飛び交っているように見えた。


 どのくらいの時間が経ったのか、綾には検討がつかなかった。まだ三十分程しか経っていないような気もするし、四、五時間経ったのかもしれない。相変わらず辺りには風の音が微かに聴こえてくる程度で、他には何の音もしない。暗闇と静寂の中で、まるで自分は次元の狭間に落とされてしまったかのような気分だ。

 ぼんやりしていると、色んなことを思い出す。そう言えば、以前、何故かスオウが綾に誘拐された時の心得何てものを伝授してくれたことがあったことを思い出し、綾は少し笑った。

(あの時は、まさか本当にこんなことが起こるなんて、これっぽっちも思ってなかったなぁ、私…)

 綾はふと、子供の頃に天龍と二人で歌っていた歌を思い出した。二人で遊んでいた時に、ふと天龍が歌いだし、綾に教えてくれた歌。今の今まで忘れていたのに、こんな時に思い出すのは不思議だ。

(”地に渡る、風と、共に…”)

 綾は目を閉じながら、自分が生まれ育った家や周りの畑を思い浮かべた。

(”水、歌い、炎は囁く…”)

 天龍と遊んだ家の裏庭。二人で走ったあぜ道がどこまでも続いていた。

(”光は、影と、踊り…”)

 父と母が畑の中から綾に手を振っていた。

(”我が地を包み、永久(とわ)に、守る…”)

 いつの間にか、綾の顔は涙で濡れていた。瞼の裏の故郷の景色は薄れ、いつの間にかそれらはヤマトの景色になっていた。乾いた大地と、干からびた畑。それでも、諦めない人々がそこにはいる。

(私、ここで終わったらダメだ…。まだ、何もできてないのに…!)

 綾の脳裏に、仲間達の顔が次々に浮かんだ。

(絶対に、帰るんだから…!)

 その瞬間、綾の身体が淡い光に包まれた。白っぽい、しかし暖かな色の光は、綾の身体の周りから部屋の中をうっすらと照らしている。

 目を開けた綾は、辺りの様子に息を呑んだ。

(光…? どこから…?)

 真っ暗だった時にはわからなかったが、綾が横たわっているのは小さな部屋らしい。窓も無ければ、家具も無い。物置か何かのようだ。入り口にはボロボロの布が下げられているだけで、戸は無い。その布も、今は綾の身体から発せられている光を受けて薄い光を通していた。

 綾がほのかに光る入り口の布を眺めていると、風も無いのにサっと入り口の布が軽く動き、次の瞬間、その横には黒装束の人物が一人、立っていた。

(この人、気配を感じない…?)

 人の気配に敏感な綾でさえも、この黒装束の人物の気配を感じることが難しい。よく観察してみると、体型から見て女性のようだ。空気のような雰囲気を持つ彼女だが、それでも綾には、この女がリンを斬った張本人であることを心のどこかで確信していた。

 女は右手を腰に当てながら自然な体制で立っていたが、その姿のどこにも隙が無い。顔には黒い薄布がかかっていて顔を見ることはできないが、彼女が口を少し動かしたのか、薄布が微かに動いた。

「…」

 女はしばらく無言で綾の様子を観察した後、来た時と同じようにサッと物音を立てずに部屋から去って行った。

(何なのよ、あの女…)

 綾がそのまま部屋の入り口を睨み付けていると、しばらくして人の気配が動くのを感じ、続いて部屋に近付いてくる足音が聞こえた。足音は部屋の前で止まり布がゆっくりと押し上げられ、男が一人、先程の黒装束の女を従えて入ってきた。

「ほお…。これは、これは…」

 口元に笑みを浮かべたまま綾を見下ろしながら、サガミが興味深そうに呟いた。

「光を発するとは…。あなたは本当に、面白い方だ、アヤ…」

(あんたに呼びつけにされたくないわよ!)

 綾はサガミを睨み付けながら頭の中でサガミに向かって怒鳴りつけた。口が塞がれていなかったら直接言ってやったのにと悔しがりながら。

 サガミはゆっくりと近付くと横たわったままの綾の側に膝を付き、綾を抱き起こした。綾の上体が起こされる時、頭が引っ張られるような感覚がして、糸のような何かが綾の腕に触れた。

(何…? 髪の毛?)

 それを確認しようとして自分の腕や肩の辺りを見て、綾は目を見開いた。肩よりも少し長い程度だったはずの綾の赤みのかかった髪の毛が、床の上に緩やかに広がっていた。

(何、これ…。いつの間に…? それとも私、夢でも見てるの…?)

 縛られている場所の痛みやサガミが掴んだ綾の肩の感触から、夢でないことは理解した。それでもこの髪の状況は、普通では絶対に「ありえない」。

「アヤ…。それともお前は、阿姫(アキ)か?」

(はあ?)

 綾にはサガミが一体何を言っているのか、意味がさっぱりわからなかった。

 サガミは自分を真っ直ぐに見つめたままの綾を見てフッと表情を和らげると、綾の髪を優しく梳き、指に絡めて遊び始めた。

「アヤでもアキでも、どちらでも構わん。なるほど。お前は僕が思っていたよりも価値があるようだな。ちょっと、作戦変更かな。ククッ…」

 サガミの長い指が綾の顔の輪郭をなぞると、綾の背中に激しい悪寒が走った。

(な、何なのよ? こいつ…)

 綾は全身を使ってサガミから離れようと試みた。だが、長く伸びた髪の毛が邪魔で、上手く足を動かすことが出来ない。

 その様子を見ながらサガミは優雅に微笑んで自分の髪をかき上げると、綾を見下ろしながらジリジリとにじり寄って来た。サガミは素早く綾の髪の毛を首の後ろで鷲掴みにしたかと思うと、すぐさまその手を床に押し付けた。

「!!」

 髪に引っ張られ、そのまま床に倒れこんだ綾の身体にサガミの身体が覆い被さる。逃げようともがいても、手足が縛られている上に髪の毛を押さえられていて、頭を動かすこともできない。サガミの暖かい息が綾の顔に掛かり、足にはサガミの指が触れた。

(いやぁ! 助けて!)

 綾の身体にサガミの身体の重みがかかる。

(司ぁ!!)

 その瞬間、綾の心臓の鼓動が早くなると同時に、綾の身体から強い白光が(ほとばし)った。あまりの眩しさにサガミが身をよじって綾の身体から離れると同時に大きな衝撃が建物を襲い、次の瞬間、屋根があったはずの場所には大きな穴が空いていた。その穴の向こう側から、怒鳴り声が響く。

「バカ天龍! やり過ぎだ! アヤ様に怪我をさせる気か?!」

 聴き慣れたスオウの低い声に、それが例え無骨な怒鳴り声でも綾はほっと安堵の息を漏らした。

「うるさいな、スオウ! とっとと行けよ!」

「お前に言われなくても…」

 屋根の上から聞こえる天龍とスオウの遣り取りとは別に、壁の向こうから声がした。

「アヤ様、身を屈めて!」

 ケイの声だ。

(サイ)!」

 ケイの術式によって壁に大きな穴が開き、綾のいる部屋の中が土埃で白く霞んだ。その中から、こちらに向かってくるケイとゴウヤの姿が見えた。それと同時に―

「よっと」

 ドン、と大きな着地音と共に、スオウが屋根に開いた穴から飛び降りてきた。スオウは立ち上がると縛られたまま床に横になっている綾を目の端で確認し、すぐさま、疾風のような勢いでサガミに殴りかかった。鈍い音と共にサガミの身体が反対側の壁に人形のように吹き飛ばされ、サガミはそのまま壁に叩きつけられた。

「グ、フ」

 胃から込み上げるような声と共に、サガミが口から血を吐いた。

(スオウ、ダメ!)

 綾は叫ぼうとしたが、まだ口を布で覆われたままで、「んん!」としか音が出ない。

 さらにサガミに殴りかかろうとしたスオウの目の前に黒装束の女が素早く割り込んだ。二人は間合いを取りながら睨み合っている。

「アヤ様、お怪我は?」

 いつの間にかケイとゴウヤが綾の傍らに来ていて、綾の手足を縛り付けていた縄を小刀で断ち切り、口を覆っていた布も取り払ってくれた。

「だい、じょ、ぶ…」

 もっとしっかりと大丈夫だと言いたかったのに、綾の喉は渇ききっていて声がしっかりと出なかった。

「これを」

 綾の様子に気付いたケイが、綾に水の入った竹筒を手渡してくれた。乾いた喉に、水がひんやりと染み透っていった。

 その時、キーンという金属音が鳴り響き、綾が視線をそちらに向けると、黒装束の女とスオウがお互いに剣を抜いて戦っているのが見えた。二人とも物凄い速さで打ち合っている。ヤマト屈指の剣豪と言われているスオウと対等に戦っている女を相手に、スオウの顔にはいつもと違い、焦りの色が垣間見えた。二人の剣の勢いで、古い建物の壁が次々に崩れていく。

「アヤ様、今のうちにこちらへ…」

 ケイが綾を誘導し、半壊状態の建物の中から外へと足を踏み出したが、綾はそこでケイを押し留め、首を激しく横に振った。

「ケイ、スオウが押されてる。このままじゃ、危ないかも。ケイは戻ってスオウを援護して!」

「しかし、ここは危険です。あなたを天龍様たちのいらっしゃる場所へ無事に送り届けるのがわたくしの役目です!」

「嫌! 私は、もう誰も私のために命を落として欲しくないの!」

 馬鹿げてる。そう、綾は思った。

 自分一人のために、綾がこの世界に現れてからというもの、何人の人間が傷を負ったり命を落とした?

「アヤ様!」

 パシっと乾いた音がして、次の瞬間、綾の左頬がジンジンと痛み出した。綾が呆然としながらゆっくりと視線を前に戻すと、ケイが真っ直ぐに綾を見ていた。

「いい加減になさいませ! あなたはこの国の唯お一人の王位継承者。目先の数人の命より、ヤマト数十万人の民の命をお考え下さい!」

 ケイの言葉に、綾の脳裏にワトや近隣の町の人々の姿がよぎった。しかし、綾には綾の言い分もある。

 綾はギュッと唇を噛み締めると、ケイに向き直った。

「仲間の命も守れなくて、数十万人の民の命を守れるわけ、ない!」

「そうだよねぇ~」

 その場に似つかわしくない緊張感の無い声と共にポン、と肩を軽く叩かれ、綾がハッと横を見ると、そこには人の姿に戻った天龍が立っていた。

「遅いから、迎えに来ちゃった。さっきは屋根を吹き飛ばしてごめんね。君が襲われてるみたいだったから、焦ったら加減が利かなかった」

 飄々とした態度で暢気に立っている天龍を見て、ケイの顔が青ざめる。

「天龍様、あちらでお待ち下さいと…」

「僕らだって、剣は握れなくても戦えるよ? 僕が綾を守るから、君はアヤの言う通りスオウを援護して。僕も嫌味を言える人間がこの世からいなくなるのは不本意だね」

 ケイは天龍の言葉に一瞬、目を見開いて驚いた様子だったが、すぐにしっかりとした顔つきに戻り、口元に笑みを浮かべて天龍に向かって頷いた。

「それでは、行って参ります」

 ケイは天龍と綾に一礼すると、ヒラリと踵を返して家の中に戻っていった。

 遠くの方ではスオウと黒装束の女のものであろう金属音が鳴り響き、違う方向からはゴウヤと東風が放ったであろう竜巻が唸り、何人もの人の悲鳴が聴こえた。恐らくはサガミの手下が潜んでいたのだろう。陸の錫杖が唸る音も聴こえる。

「私も、行く」

 緊張した面持ちで綾がそう言うと、天龍は仕方がないなと言いながら、どこからか朱色の弓と矢を出して綾に手渡した。初めて手に取る弓のはずだが、それは何故か綾の手にしっくりとなじんだ。

「あ、ありがとう…」

「どうせ止めたって行くんだろう? なら、僕も一緒に行くよ」

 天龍が綾を止める気が無いのを見て、綾の顔が綻んだ。

「うん」

「…髪」

 不意に天龍の手が、綾の足元近くまで伸びた髪に軽く触れた。綾は肩をすくめながら答えた。

「うん。何かね、歌を歌ってたら、こうなっちゃった」

「歌?」

「うん。覚えてる? 小さい頃に、あなたが教えてくれた歌」

 綾の言葉に天龍は少しの間、無言になり、綾は天龍の言葉を黙って待った。やがて天龍の口から言葉が漏れた。

「…ああ、それで、か」

「うん」

 頷く綾に向かって、天龍がいつに無く真剣な顔で尋ねた。

「他には…? 何か、『思い出した』?」

 その問に、綾は少し困ったような、悲しいような、何か微妙な表情をして軽く微笑んだだけで答えず、踵を返して数本の矢を帯に挟むと、戦場と化した建物の中へと足を踏み入れた。


 綾のいた部屋の中には、まだサガミがスオウに打ち付けられた壁にもたれかかったまま気絶していた。綾はサガミに近づき、呼吸と脈があるのを確認すると、そっとサガミの身体を床に横にした。

「そんな奴、放っておけばいいのに」

 天龍はそんなことをブツブツと言いながらも、サガミの身体を動かすのを手伝ってくれた。綾には素行がどうであれ、スオウの実の兄であり、ケイの婚約者であるサガミをこのまま死なせるわけにはいかなかった。

「多分、こうするのはね…。私の自己満足、かな」

 幸い、サガミの外傷は大したことが無いようだ。ただ、壁に当たった瞬間に血を吐いていたのが気になる。肋骨が折れているのかもしれない。

 心配そうにサガミを看ている綾を見て、観念したように天龍が言った。

「君さ、僕が天龍だって事、忘れてない?」

「え? 忘れてないよ?」

「じゃ、僕の能力って言うか…。ああ、もう。ほら、ちょっと下がって」

 綾が身体を少しサガミから離すと、天龍がサガミの胸の辺りに両手をかざし、何か呪文のようなものを呟いた。天龍の身体がボウっと明るい光に包まれ、光が腕から手に、そしてサガミの身体へと流れ込むのが見えた。

「ふう。終わり」

 光が天龍から消えると、天龍の顔には若干疲労の色が見えた。

「…大丈夫?」

「ああ、僕は大丈夫。それよりも、ほら。こいつ、起きちゃうと思うけど?」

 天龍の言葉に驚いてサガミを見ると、サガミが小さな呻き声を上げながら上体を起こそうとしていた。

「あ、ゆっくり。気をつけて?」

 綾がサガミの肩に手を回してサガミが起き上がるのを助けると、サガミにケイからもらった竹筒の水を飲ませた。

「な…、…た?」

 水を飲み終わったサガミが何かを呟いたが、綾には聞き取れなかった。

「は? 何か言った?」

 綾の問に、サガミが忌々しげに答えた。

「何故、助けた?」

 今度ははっきりと聴こえたサガミの質問の意味を少し考えてから、綾はそれに答えた。

「えーっと…。あなたが生きてたから、かな?」

 サガミは綾の答えに面食らったような顔をしていたが、すぐに目を細めながら別の問をよこした。

「では、お前は僕に、何を求めている?」

 綾は一瞬、はあ?という顔をした後、何が可笑しいのかプッと噴出して「何も?」と言うと首を少し傾けながら小さく笑った。

「では、何故…」

 再び考え始めるサガミを見ながら、綾はすっくと立ち上がった。

「ああ、もう。うるさいな~。『生きてたから助けた』で十分でしょ? あなたみたいに損得ばっかり考えて行動してたら、何も出来やしないわよ! それよりも…」

 綾は真っ直ぐにサガミの目を見ながら単刀直入に尋ねた。

「こんなことして、何になるの?」

「簡単なことだろう?」

 サガミはそう吐き捨てると、フイっとそっぽを向いた。

「ヤマトの王になろうと思った、な~んてありきたりな台詞は期待してないけど?」

「……」

「あら、だんまり?」

「なら、お前は、どんな台詞を期待している?」

 投げ遣りなサガミの問に、綾は真顔で答えた。

「もっとこう、根底が深くて暗くてドス黒くってネチネチしてて、そこからこの世界全体にぶわ~っと悪魔の力が広がっちゃうような何かってとこかな。具体的な台詞は残念ながら思い浮かばないけど」

 サガミは綾の答えに一瞬、面食らったような顔をしたが、それはすぐに呆れたような表情で歪んだ。

「…やっぱり、お前は面白い女だな」

「でも、あなたの愛人になるのは御免だわ」

「正妻では?」

「もっと嫌」

 そう言って立ち去ろうとした綾と天龍をサガミが呼び止めた。

「今度は何?」

「僕をここに一人で残すのか? お前は、それでいいのか? 僕はこのまま、逃げてしまうかもしれないんだぞ?」

 サガミの言葉を聞いて、綾はニヤッと笑った。綾のその表情が、何故か自分の弟に似ているとサガミは思った。剣や弓の稽古が上手くいくと、スオウはいつもこんな風に得意気に笑った。

「逃げたければ、逃げれば? 私は気にしないから、どうぞ御自由に。あなたがどこへ逃げようと、追いかけたりしないから安心して?」

「では―」

 サガミが必死の形相で綾に問いかける。何だか形成逆転だな、と天龍は心の中で苦笑した。

「では、もし…。もしも、僕が城へ戻ったら…?」

 このサガミの問を受け、綾は一瞬、視線を穴の開いた天井へと走らせた。夜空は少し白んできていて、あれほど暗かった夜空が薄い灰色になっていた。

 ふと、一陣の風が綾の側を駆け抜け、綾の長く伸びた髪を揺すった。その風が綾の心の中のくすんだ部分を払い去って心の掃除をしてくれたような、そんな気がした。

「サガミ」

 綾はこれまでに無かったような穏やかな声でサガミの名を呼ぶと、凛とした態度で、口元に微笑みを浮かべながら言った。

「あなたの風の、赴くままに―」

 綾はそう言うと踵を返して足早にその場を去り、天龍が後に続いた。

 綾と天龍が立ち去った後、サガミはふと我に返った。その時まで、サガミは自分が綾のいた方向に向かって最敬礼の体制をとったまま床に跪いているのに、全く気が付かなかった。


 綾は家から少し離れた枯れた森の中でスオウと黒装束の女を見つけた。二人とも長いこと戦っていたせいか、肩で息をしながらお互いを睨み合っていた。それでも、遠目でも二人の間に一瞬触発とも言える緊張の糸がピンと張られているのがわかる。

 ここに至るまでに、床や地面に倒れたままの男達を見た。全員、サガミに雇われた者たちだろう。

 途中で合流したゴウヤたちの話によると、シンガの従者のラライが物凄い勢いで倒していったという。

「全く。どんな訓練を受けているんだ、シンサイ王家の従者とやらは」

「ま、お陰でこっちは無傷ですんだけどさ~」

 陸と東風が軽口を叩きながら廃村の中を見回っていたが、もう今の時点で動いている敵は黒装束の女ただ一人だ。空は大分白んできている。

(ど、どうしよう…。何か、二人を止める手立ては?)

 綾は自分の知識をフル動員させて何とかこの二人を止める方法はないかと考えたが、考えれば考えるほど、実用向きではない方法しか思いつかない。

 そんな綾の側で、東風、陸、澪の三龍がひそひそと話をしている。

「だから、オイラの風でさぁ…」

「よせ、東風。真剣勝負の邪魔立てはするな」

「んだよぉ、陸」

「そうですよぉ~。ケイさんでさえスオウさんに怒鳴られたのに~」

 この状況下でも小声だという以外は全く変わらない三龍の会話に多少脱力しながら、綾はまだあれこれと考えていた。

 そうこうしているうちにも、二人の激しい打ち合いが続いている。二人とも、相当疲労している様子だ。

(このまま、どちらかが倒れるまで続くの?)

 その時、綾の肩に手が置かれ、天龍の声が綾の耳元で囁かれた。

「大丈夫だよ」

「な、何が大丈夫なの? これの、どこが?」

「だって、ほら」

 天龍が指差した横の方に、長身の人影が見えた。

「サキ! 終わりだ! 剣を引け!」

 人影から発せられたサガミの声を受け、黒装束の女はスオウの前からフッと消え、瞬く間に彼女はサガミの傍らに跪いていた。

 彼女の退却の素早さに一瞬呆気にとらわれながらも、スオウは剣を右手にしっかりと握って目線は黒装束の女に定めたまま、綾達のいる方へと足早に歩いてきた。スオウが近付いてきて始めて、綾はスオウの服に刻まれた斬り跡や血の染みを見ることができた。

「スオウ!」

 綾の声に皆の待つ顔を見たスオウは、バツが悪そうに左手で頭を掻きながら「俺もまだまだ、修行が足りんな」と独り言を呟いた。

「大丈夫?」

 スオウの傍らに駆け寄り心配そうにスオウの顔を見上げる綾を見て、スオウはフッと笑みをこぼした。

「俺は大丈夫です。それよりも、あなたは大丈夫ですか?」

「私? 私は無傷だし」

 笑顔でそう言う綾に向かって困ったような表情をすると、スオウは綾の両手を少し上に持ち上げた。綾の手首には縛られた時の縄の痕がくっきりと赤く痣になっていて、ところどころ血がうっすらと滲み出ていた。

「これでも、『無傷』とおっしゃるか?」

 綾を見下ろしながら凄むスオウに押されながら、綾はモゴモゴと返事を返した。

「あー、うん…。でも、スオウの傷よりも浅いし、少ないし…」

「足もでしょう?」

「ん…。そう、かも…?」

「『かも』…?」

「あ、あはは…」

 次の瞬間、綾の足が地を離れ、綾はスオウにお姫様抱っこの形に抱きかかえられていた。

「ちょ、ちょっと、スオウ!」

 恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染める綾にお構い無しに、スオウはゴウヤに向かって叫んだ。

「ゴウヤ! 治癒!」

「はい!」

「あ、私もお手伝いいたしますぅ~」

 スオウに抱きかかえられたまま、綾はゴウヤと澪から手首と足首の治癒の術式を受けた。少しズキズキとしていた場所が、少しずつ落ち着いていく。

「ありがとう、みんな…」

 綾は綾を取り囲む仲間達の顔を見て微笑むと、他の皆も綾に微笑み返してくれた。その時、澪が何かに気付いて慌て始めた。

「あ、あの…。みなさん…!」

 澪がオズオズと何か言いたげにしている。

「何? 澪ちゃん」

「えっと、えっと、そうこうしているうちに、サガミ達、消えちゃいましたが…」

「えええっ!」

 悔しそうに辺りを見回す仲間達の姿を見ながら、綾は声を出して笑い始めた。

「ア、アヤ様…?」

 ケイが不可解そうな顔をして綾を見た。

「いいのよ、みんな。私、サガミに『あなたの風の赴くままに』って言っちゃったから」

 綾の言葉に、ゴウヤ達が呆れて口をポカンと開けた。

「『言っちゃった』って…。自分を襲った人間に(はなむけ)の言葉を送って、どういう気なんですか、あなたは!」

 スオウはそう言い放った後に、その言葉に全く動ずることなく微笑んでいる綾を見て、フッと微笑んで肩の力を抜いた。

「ま、あなたのそういう所が、我々は好きなんですけどね…」


 空は大分明るくなり、無残にもボロボロになった建物の残骸を爽やかな朝の光が包んでいた。綾達はその様子を埃まみれの姿のまま見ていた。

「何とも、変な光景よね…。爽やかなんだか、みすぼらしいんだか」

 綾の独り言を聞いていた東風が、元気に提案した。

「いっそ、全部吹き飛ばしちまったら、もっとスッキリ清々しくっていいんじゃねーの?」

「東風、だめですよぉ~」

 澪がたしなめると、東風が小さく舌を出しながら肩をすくめた。

「わかってらぁ」

 後ろから、陸の溜息が聞えた。

「東風。お前の冗談は、冗談に聞こえん…。それで、アヤ様」

「何? 陸」

「あそこに倒れている残党共はどうなさるおつもりです? 放っておけば野垂れ死ぬだけだとは思いますが、治療をしてやるにも、我々であの人数は不可能ですが」

 綾の仲間達に倒されたサガミが雇った男達。恐らくは旅の途中で綾たちを襲った連中と同様に城の兵士上がりか金で雇われた野党の一味だろうが、それでもこのまま野垂れ死にさせるわけにもいくまい。

「あら、大丈夫よ。自力で各自、お帰りいただくことにはなるけど」

 綾はそれだけ言うと、ふいっと一団から数歩離れ、建物の残骸に向かって目を閉じて深呼吸をした。綾の身体を覆う白光が、徐々に綾の額に集まってくる。

「命の、流れよ…。帰れ、その主の元へ」

 綾の小さな呟きに、周りにいた龍達は一瞬皆、目を見開いてお互いの顔を見た。

 綾の額に集まった白光は光の矢となって飛び散り、地面に倒れている男達の身体へと吸い込まれていった。

 皆がじっと見守る中、先ほどまでまるで生気の感じられなかった瓦礫の中から一人、二人と男達がもぞもぞと動き始めるのが見えた。それを見て、ケイとゴウヤは息を呑んだ。

(この方は、一体…?)

 ほのかに光る朝日を受けながらも、自らの白光に包まれながら穏やかに遠くの空を見ている綾を見ながら、スオウは自分はもっと精進しなければな、と苦々しく思った。そうでなければ、スオウはこの先、綾に付いて行く事すらできないだろう。そして、同じことをゴウヤも感じていた。

 残党の男達の中には瀕死状態の者も含まれていたはずなのに、全員が徐々に立ち上がり始めている。男達は自分の身に何が起こったのかをまだ把握しきれていない様子で、お互いに何が起こったのかを尋ねあっている。

 遠目から彼らの回復を確認すると、綾は満足げに微笑んだ。

「じゃ、帰ろっか」

 皆に振り返りながら綾がそう言って歩き始めると、弾かれたようにケイが慌てて言った。

「そ、そうですわ! 披露目の儀が始まってしまいます!! 急ぎませんと!」


 残党の目を避けるために少し離れた場所まで足を運ぶ途中、綾はふと思いついて天龍に尋ねた。

「それにしても、よく私の居場所がわかったわね。紋章が無かったから、もう誰も見つけてくれないのかと思ってたのに」

「ああ、それならババ様が」

 彼らの側を歩いていたゴウヤが答えた。

「ババ様が? でも、どうやって?」

 さあ、と言うゴウヤに代わって、天龍が答える。

「王族と龍の気配は龍脈に現れる。トキはそれを読むのに長けてるんだ。ま、彼女の血が成せる業ってところかな」

「血?」

 綾の問に、天龍は頷いた。

「ああ。トキは、陸の娘だからね」

「え? え、えええっ!!」

 複数の驚きの声が辺りにこだました。

「ば、ババ様が、陸の娘? え、えええ?」

「そう言えば、少し目元が似てる、か…?」

「ど、どこがっ?」

 龍たちとラライ以外の全員が驚きの声を上げていると、陸が恐縮したように言った。

「あ、まぁ、その…。その昔、王家の姫君と…。それで、その…。」

 それきり、陸は少し赤らんだ顔を皆から背けるようにして早足で先に行ってしまった。

「ああ、あの頃が懐かしいですねぇ~」

 澪がうっとりとそう言いながら、陸の後を追いかけた。

「王家の姫と? じゃぁ、ババ様って、私のおばあ様だったりとか?」

 綾の問に、天龍は首を横に振った。

「いいや。直系じゃないよ。それに、トキはああみえて、もう三百年くらい生きてる」

「さ、さんびゃく…?」

「トキには龍の血が入ってるからね。普通の人間よりも長寿だ」

「ああ、なる、ほど…」

(やっぱり、ババ様には逆らわないでおこう…)

 綾は妙な決意を胸に、龍に化身した天龍の背に乗った。


 白んだ朝の空を、天龍、地龍、水龍の三龍が渡って行く。

「アヤ、寒くない?」

 飛びながら天龍が自分の背に乗っている綾に声を掛けると、綾が天龍に聴こえるように大きな声で答える。

「大丈夫! スオウが風除けになってくれてるから」

 天龍の背には、綾を守るようにスオウが一緒に乗っていた。

「スオウ…。相変わらず、嫌な男だね、君は…。僕に対する遠慮ってものを知らない」

 天龍の言葉に、スオウは一瞬片眉を上げて怪訝そうな顔をしたが、すぐにフッと鼻で笑って言った。

「我が主を守るのが俺の主命だ。大体、何故お前に遠慮などしなければならん?」

「僕はアヤの婚約者だよ?」

「誰が決めた? そのような発表はされていないが?」

「僕がアヤの庇護龍になった時点で決まってるんだよ」

「それは名づけの儀の時のことだろう?」

 スオウはニヤリと笑って言った。 

「フッ。甘いな」

 天龍の頭がピクリ、と動いた。

「甘い? 何のことだい?」

「俺はアヤ様がまだカノ様の身体に宿っていらっしゃった時に、カノ様直々にアヤ様の伴侶となることを約束された。従って、俺の方が先だ」

 思い掛けないスオウの言葉に、綾も天龍も驚きの声を上げる。

「ち、ちょっと待って! それ、初耳!」

「そ、そうだ! スオウ、妄想はいけないと思うが?」

 驚く二人に、スオウが自信に満ち溢れた声で語った。

「何が妄想だ。お前と一緒にするな。俺が父上にくっついて城を訪ねた時に、身重のカノ様と対面する機会があってな。その時に、カノ様が仰ったのだ。『スオウ君。この子が女の子だったら、大きくなったらスオウ君のお嫁さんにしてくれる?』とな!」

 スオウの言葉に、綾と天龍が絶句した。

(お母様の言葉に驚けばいいのか、スオウの(多分、一応)お母様の声真似に驚けばいいのか、どこに焦点を置けばいいのかわからないわ…)

 天龍はとりあえず「ああ言えばこう言う」的な議論をスオウと激しく展開中だ。

「そんなのは、カノがアヤを門の向こう側の世界に行かせた時点で無効だ!」

「なら、お前だって無効だろう?」

「僕は有効に決まっている。僕は今! 現在! アヤの庇護龍だからな」

「でも、お前は龍で、アヤ様は人だ」

「フッ。知らないのか? アヤは『せい―』。あ、いや、とにかく、そんなものは僕と彼女の強い絆があれば関係ないことさ」

 アヤは天龍が言いかけた言葉に敏感に反応した。

「天龍」

「何? アヤ」

「質問があるの」

「何?」

「私は、『精霊の娘』なの?」

「……」

 天龍が黙ってしまった。

 黙ってしまった天龍の様子から、綾には答えがわかった。あの時、白光と共に自分の頭の中に激流のように流れ込んできた様々な「記憶」が、綾に自分が何者なのかを教えてくれた。ただ、それを確かめたかっただけなのだが、綾は何か自分が訊いてはいけないことを訊いたような気がして黙ってしまった。

 二人のただならぬ様子に、スオウも様子を見て沈黙を守った。


 しばらくして、遠くにワトの街と城が見えてきた。たった一晩いなかっただけなのに、何故か長い旅から戻ってきたような妙な気分がした。

 三龍は城の庭に降り、背に乗った仲間が全員降りると人の姿へと変化した。儀式の準備に関わるゴウヤとケイが駆け足でその場を去り、ラライも綾と天龍に一礼すると、静かに己の主の待つ部屋へと去っていった。

 城の中全体が慌しく動き始めている。

「あ、そうだ。アヤ様」

 綾がスオウに振り向くと、スオウが自分の上着の内側から、綾の紋章を取り出した。

「これをお返しせねばと思っていたのですが、忘れておりました」

 ずっと一緒に天龍の背に乗っていたからなのか、スオウの手の中の綾の紋章の龍は光を取り戻し、七色の光をゆらゆらと漂わせていた。

「良かった。スオウが拾ってくれたの? ありがとう」

 綾の礼に微笑みながら、スオウは龍の紋章を綾に手渡した。綾の手の中で、紋章に刻まれている龍が一瞬強い七色の光を放ったような気がした。

「それでは、俺も部屋に戻って儀式の準備を」

 スオウがそう言って綾に一礼をして去るのを見送ると、綾も自分の部屋へと戻ろうとしたが、歩き出そうとした綾の腕を天龍が掴んで引き留めた。

「何…?」

「君は、何を『思い出した』の?」

 天龍の声は、切羽詰ったような緊張感があった。綾は天龍の顔を見つめると、悲しそうな瞳で答えた。

「…『全て』、かな」

 綾の答えに、天龍が真剣な眼差しで言った。

「それは、いつからの記憶…?」

 真っ直ぐに綾を見る天龍の瞳に、泣きそうな顔をした綾が映っているのが見えた。綾は深呼吸を一つすると、無理に作った壊れそうな笑顔で言った。

「この世界の始まりからの、全ての『精霊の娘』の記憶…。全ての出会いと別れ…。そして、アキの記憶も…」


 精霊の娘

 世界の始まりに生まれ、転生を繰り返す

 それは命を紡ぎ、繋げる者

 世界の時をその身に刻み

 それは世界の命を紡ぎ、繋げる者


 古文書に書かれた一節を読み終えると、ババ様は自室の窓から外を見た。外には青空が広がり、開け放たれた窓からは風と共に潮の香りが漂っていた。

「全ては、ここからが始まりじゃな…」

 その時、コンコン、と扉を叩く音がした。ババ様が返事を返すと若い術式官が入室し、儀式の刻限を告げた。

「うむ。参るかの」

 ババ様は式典用の裾の長い上衣に袖を通すと、静かに部屋を後にした。

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