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この地に渡る風  作者: 成田チカ
20/25

12章 「前日」

 曙の光が、窓の外をうっすらと照らし始めていた。

 サガミは窓辺に座りながら、うっすらと淡い茜色に色づき始めた遠くの水平線を眺めていた。少し湿った穏やかな潮風が喉に心地良い。

「今朝は随分と早起きでいらっしゃるのですね」

 サガミの背後から、艶やかな女の声がした。

「ああ。起こしてしまったかい?」

 サガミが振り返らずにそう言うと、女はクスっと笑って言った。

「あなたが動けば、わたくしも動く。影とは、そういうものではありませんか?」

「…そうだね」

 サガミはゆっくりと立ち上り、自分のベットに戻ると、そこに裸で横たわる黒髪の女に口付けた。

「君が側にいれば、誰が私の妻と名乗ろうが関係ないんだけどね。そうは思わないかい? サキ」

 サガミの言葉に、サキは嬉しそうに微笑んで頷くと、サガミの首にそのしなやかな腕をまわし、彼の耳元で囁いた。

「あなたの御心の赴くままに。我が主」


 穏やかな朝の日差しの中、綾は気持ちよく目を覚ました。

「う、うーん…」

 ゴン!

「痛~~!」

 思いっきり伸びをしようとしてのけぞった綾の頭に、何か硬いものが当たって、綾は思わず声を挙げた。すると、何故か背後から声がする。

「それは、こっちの台詞だよ、アヤ。もうちょっと加減してよ」

「あ! ごめん、天龍…って、あれ? 何でここにいるの?」

 綾が布団の中で身体の向きを変えると、そこには顎を押さえたまま目に涙を浮かべている天龍がいた。

「君、昨日、僕の膝の上ですーっと寝ちゃったの、覚えてない?」

 天龍の言葉に綾は一瞬キョトンとしていたが、すぐに顔を赤らめた。

「…お、覚えてない」

 綾の様子を見て微笑みながら天龍は綾の頬に手を伸ばした。暖かな手のひらが心地良く、綾は少し眼を閉じた。

「よっぽど疲れてたんだね。よく眠れた?」

「うん…。顎、大丈夫?」

「ああ、何とかね」

 二人が顔を見合わせてクスクスと笑っていると、扉から控えめなノックが聞えてきた。

「アヤ様、天龍様。あ、あの…。お時間ですので、入ってもよろしいでしょうか?」

 リンに入室を促すと、リンは天龍の着替えを携えて入ってきた。

「天龍様、お着替えはこちらに置きますね」

 リンは少しはにかみながらそう言うと天龍の着替えを長椅子の上に置き、まだカーテンが閉められたままの窓に向かって歩き始めた。

 天龍はベットからするりと抜け出すと、長椅子に置かれた自分の着替えに袖を通し始めた。

「さすがはリン。いつも気が利くね」

 リンは天龍の言葉にカーテンを開けかけた手を止め、にっこりと微笑みながら振り返った。

「お褒め頂き光栄ですが…。それは今朝、澪様より承りました」

 リンの言葉に、天龍は一瞬絶句したが、すぐにやわらかい笑顔に戻った。

「あいつ、ドジなんだか優秀なんだか、本当にわからないな。何百年経っても、不思議なやつだ」

「あ、それで、澪様が-」

 何かを思い出したように言いかけたリンの頬が、少し赤く染まった。

「どうしたの、リン?」

 綾がベットから起き上がりながら尋ねると、リンは少し俯きながら言った。

「あの、その…。澪様から、本日の昼食に、お赤飯を用意すべきかどうかを尋ねられたのですが、どうお答えすればよろしいのか、私にはわからなくて…」

「は?」

 目を見開いて首を傾げる綾を見て、天龍がクスリと笑った。

「いいんじゃない? そのまま赤飯炊いてもらえば」

「え? どうして?」

 着替え終わった天龍が、まだベットの上にいる綾の側へ近づくと、ベットの上に腰掛けた。

「僕らが夫婦になったお祝いってことでしょ?」

「なってないのに?」

「…何でわかるんだよ」

 不満げな顔になる天龍に、綾は笑顔で答えた。

「あなたはグースカ寝てる私をどうこうするような人じゃないでしょ?」

「ふーん。随分と僕を信用してくれるようになったんだね、アヤ」

 綾の肩に手を回しながら得意気に微笑む天龍を見て、綾は微笑んだ。

「前よりは、ね。それにしても―」

 綾の口調が変わったのを、リンは聞き逃さなかった。目を細めてリンを見る綾の目の前で、リンの垂れ下がった耳が一瞬ピクっと震えた。

「いつも気の利くリンちゃんが、どーして昨日は天龍をそのまま置いていっちゃったのかしら?」

 リンはまるで不可動の術式を掛けられてしまったかのように直立不動の体制になった。

「あ、そ、それでしたら、不可侵の術は、御本人様が札を円陣の上に置かなければ発生いたしませんので…。アヤ様、大変お疲れのようでグッスリお休みになられていたので、お起こししては申し訳ない、と…」

「そうそう。リンは僕をアヤの護衛代わりに置いて行ったんだから。気が利いてるよね~、本当、リンちゃん、最高!」

 天龍の妙にハイテンションな援護に小さく溜息を付くと、綾は「ま、確かに疲れてたから、いいけど~」と言い、ベットを降りてリンの側に近づいた。

「アヤ様、何でしょう?」

 不思議がるリンの耳元で、綾が囁いた。

「でさ、前みたいに変な噂は立ってないよね?」

「前…?」

 リンは一瞬考えてから、「ああ」と思い出して答えた。

「あ、はい。今のところは…」

 リンの言葉に、綾の目が細くなる。

「『今のところは』…?」

「はい。澪様と東風(こち)様のお口から漏れない限りは、大丈夫かと」

 リンの言葉に、綾はガックリとうな垂れた。

「…もうだめじゃん、それ」

 リンは困ったような顔をして「そうですよねぇ」と言うと、綾の着替えを手伝い始めた。

(あーあ、お客様にまで広まってなけりゃぁいいけど…。これでさらにお嫁に行けなくなったわよ)

 綾が憂鬱に思っていた丁度その時に、(みお)東風(こち)(くが)の三龍が綾の部屋に入ってきた。

「おはようございま~す。朝餉のお時間で~す」

「おはよーっす、姫さん、上様」

「おはようございます、アヤ様、上様」

 三龍は綾を見つけると、着替え終わったばかりの綾の姿を上から下まで品定めをするように見た。

「お、おはよう…。何? 何してるの、みんな?」

 綾が狼狽しながら尋ねると、澪と東風が溜息を付きながら肩を落とした。

「な~んだ。上様、ダメじゃん」

「そうですよねぇ~。せっかく期待してたのに。お赤飯~」

 澪と東風がお互いの顔を見合わせながら、また溜息をつく。

「ふ、二人とも、やだ。何を期待してたのよっ! っていうか、どうしてわかるの??」

 綾が顔を赤らめながら言うと、陸が無言のまま、申し訳なさそうに綾に向かって会釈をした。

(無言なのも、何だか嫌だ~!!)

 綾が心底焦っていると、リンが皆に声をかけた。

「皆様、朝餉の支度が整いました。どうぞこちらへ」

 リンの声に導かれてテーブルに向かうと、そこには少し決まり悪そうに座っている天龍がいた。

 椅子に座りながら、東風が軽く溜息を突いて天龍に言った。

「ま、そういうこともあるわな」

「おい、ちょっと待て、東風。別に僕のせいでまだってわけじゃ…」

「ちょっと待ってよ、二人とも。『まだ』とかって止めてよね」

 真っ赤な顔をした綾が天龍に詰め寄ると、天龍は「さ、食べようか~」と話を逸らした。

「…ところで、東風と澪ちゃん。他の人に何か変なことを言ってないでしょうね?」

 朝食のテーブルに付きながら綾が厳しい口調で問い正すと、澪と東風はお互いの顔を見合わせて、バツが悪そうに肩をすくめた。綾がそれを見逃すはずがなかった。

「ちょっと。そこの仲良し二人組。何か、言っちゃったの…?」

 黒いオーラを漂わせながら二人を詰問する綾を見て、東風と澪は慌て始めた。

「え、え、ええーっと…」

「き、気にしない方が、きっと今日一日幸せですよ、アヤ様ぁ~」

 綾が二龍を睨んでいたその時、バンッと大きな音がして、綾の部屋の扉が大きく開いた。

「あ、アヤ様、御無事でいらっしゃいますかっ!?」

「て、天龍! き~さ~ま~!!」

 慌てふためいたゴウヤと、怒りを全身にあらわにしたスオウの二人だ。

(最低…!)

 綾は東風と澪をキッと睨んだ。

「東風…? 澪ちゃん…?」

「あ、アヤ様。落ち着いて下さいぃぃ~」

「オイラ達、あの二人には何も言ってねーし…」

 ガッと大きな音がして、綾は座っていた椅子から勢いよく立ち上がった。

「東風! 澪! いいから、二人ともそこに正座!!」

「は、はいぃぃぃ!」

「うお、こえぇぇぇ!」

 澪と東風は即座に床に転がり落ちるように降り、綾に向かって正座した。

「いい? 憶測で物事を他人に言いふらすのは、反則よ? それに、これはあくまでも個人の問題でしょ? それを、何なの? まったく、あなたたちはいつもいつも…(以下略)」

 いきなり始まった綾の東風と澪に対する嵐のようなお説教を聴きながら、スオウとゴウヤは怒りの矛先を失い、ただ呆然と扉の前に立ち尽くしていた。


 朝は昨日と同様、式典のリハーサルが行われていた。今日は明日に向けて、主要な人物たちが集まっての合同リハーサルとでも言うべきものが行われ、これにはハヤトも参加していた。

 綾がこちらに来てからというもの、ハヤトの病状は少しずつ回復に向かっているようだった。顔色も大分良くなったし、寝たきりだった身体も、今では杖を突きながら歩けば部屋の中の短い距離なら何とか自分の足で歩けるようになっていた。それでもババ様がこっそりと綾だけに知らせてくれた話によると、これも一時的なものであろうということだった。

 最近はそれなりに親子のように接することができるようにはなったが、それでもまだ、どこかにぎこちなさが残ってしまう―。綾はハヤトの残された時間を、彼の娘として何ができるのかを考え続けていた。

 ハヤトの病状を気遣って手短に行われた合同リハーサルの後、綾は祭祀官長官のワダチから、最終的な確認を受けた。

「アヤ様。緊張なさっておいでですか?」

 一通りの確認が終わった後に出されたワダチからの問に、綾は苦笑しながら答えた。

「はい。やっぱり、少しは。ゴウヤ先生がかなりしごいて下さったお陰で、大分気持ち的にも楽にはなりましたけど」

 ワダチは腹の底から出るような太く、低い声で大きな笑い声を上げた。

「それはようございました。あやつも少しはアヤ様のお役に立てているようで、何よりです」

「少しなんて…。ゴウヤが私の側に付くことをお許しいただき、本当に感謝しております、ワダチ殿」

 そう言いながら綾が軽く頭を下げると、ワダチは微笑みながら綾の肩に手を置いた。

「ワシに向かって頭を下げるなど…。もったいないばかりですぞ、アヤ様。ワシは、あやつのしたいと言ったことをさせておるだけです」

(ワダチって、本当に暖かい人だなぁ…)

 綾がワダチに微笑むと、後ろからゴウヤの小さな咳払いが聴こえた。

「祭祀長官殿。そろそろ御時間です」

 祭祀省では披露目の儀の前日である今日、「露払いの儀」と言う、大きな式典が行われる際にその無事を祈るための儀式が行われるとかで、ゴウヤも今日はこの後ずっと祭祀省にある祭殿に籠りっきりになる。

「うむ。では参るか。それでは、アヤ様。明日はよろしくお願いいたします」

 綾に向かって会釈をするワダチとゴウヤに「こちらこそ、よろしくお願いします」と声をかけると、ゴウヤがふと、心配そうな顔になった。

「どうしたの、ゴウヤ?」

 綾の言葉に一瞬ハッとしたゴウヤは、懸念を振り払うかのように軽く首を横に振った。

「いえ。何でも。僕は明日の式典までお側に付くことが叶いませんが、その、くれぐれも…」

「わかってる。気をつけるね?」

「はい。では、行って参ります」

 ゴウヤは去る直前も少し不安そうな顔をしていたが、そのままワダチと共に去っていった。

「もう。本当に心配性だな、ゴウヤは…」

「それだけ、アヤ様のことが心配なのですよ」

 横から不意にケイの声がした。

「うん。わかってる。今朝もすごい剣幕だったもん」

 綾の言葉に、ケイがクスっと笑った。

「アヤ様の剣幕の方も、大分凄かったと思うのですが」

 綾が東風と澪に説教をしている時にケイが部屋まで迎えに来たのだ。

「あ、あれは…。うん、そうだよね」

「東風様も澪様も、随分と反省なさっておいででしたね」

「あー、うん。あとで一緒にお茶でもして、士気を高めてもらうことにする」

「あら、随分と寛容になられたことで」

 ケイがすました顔で皮肉を言う。こういうところは、何故かケイとスオウはよく似ている。

「私もちょっと、怒り過ぎたから」

 綾がそう言って肩をすくめると、ケイが微笑みながら頷いた。

「それがお分かりであるなら、それで良いのです。わたくしたちは人間ですから、一時の感情に流されることもありましょう。その後に、それに気付いて対処ができるかどうかが問題なのですよ」

「…しょっちゅう逆切れする人の台詞だとは思えないけど」

 綾がシレっと言うと、ケイの顔が少し赤くなった。

「わ、わたくしだって、ちゃんとわかっているのですっ!」

 綾はケイに向かってニヤッと微笑むと、「私にだってわかってます~」と言って微笑んで広間の出口に足を向けた。

「あれ? スオウ?」

 広間の出口の柱に背中をもたれさせながら、スオウが綾を待っていた。綾には珍しく、スオウは近衛隊の正装をきちんと着ていた。

「あ、やっぱりスオウだ。久しぶりね。その服をちゃんと着てるところを見たこと無かったから、一瞬、誰かと思った」

 綾がスオウに近づいて声をかけると、スオウは軽く微笑んで綾のいる方へと数歩近づいた。

「ここのところ近衛隊での警護の任が忙しく、お側に付くことができませんで、誠に申し訳なく思っております」

 律儀に頭を下げるスオウを見ながら、綾は苦笑した。

(この人は、本当に相変わらずだなぁ…)

「いいのよ。隊長さん直々にお願いされちゃったし、それに、私にはケイやリンが付いていてくれるし、天龍達もいるから、大丈夫」

 綾はスオウが綾の元を離れて任務に付く事を「主への義に背く」と言って、始めは受け入れようとしなかった。だが、賓客相手の護衛が足りないのは綾も重々承知していたので、綾は強硬手段として「主」としてスオウに命を下さざるを得なかった。綾がスオウの「主」として命を下したのは、これが初めてのことだった。僕であるスオウにとって、主の命は絶対である。

「で、どうしてスオウは今、ここにいるわけ? 護衛の任は?」

 綾の問に、スオウが一瞬怯んだ。

(まさか…)

「さぼってる、の?」

 いつもより低い声で問いただす綾を見ながら、スオウは何とか平静を保とうとしているのがわかる。

「きゅ、休憩中です」

 答えるスオウの歯切れが妙に悪い。

「スオウ…?」

 綾が目を細めながら詰め寄ると、スオウが観念したように綾の足元に跪いた。

「我が主。お願いです。ゴウヤは露払いで籠ってしまいますし、御身にまた何かあったらと思うと、落ち着いて仕事ができません。どうか俺をお側に付かせてください!」

(やっぱり…)

 綾は苦笑しながら隣に立つケイを見ると、ケイもまた、困ったような顔をしていた。実は、今日到着する賓客の相手も兼ねて、ケイもこの後、綾の側から離れなければならないのだ。スオウとゴウヤにそれを知られると絶対にどちらかは自分の任務から離れると言い出すのがわかっているから、あえて二人には言わないでおいたのに、これではケイが綾の側を離れることができない。昨日のこともあり、スオウとゴウヤが綾の護衛を強化したがっているのは、綾にはよくわかっていた。

 どうしようかと綾が悩んでいると、少し離れた場所からリンが声をかけてきた。

「ケイ様、ババ様がお呼びだと…」

 綾とケイはお互いを見て頷くと、ケイは「では、アヤ様。用が済み次第、お部屋へ伺います」と言って足早に広間を去っていった。

 綾は足元のスオウに立ち上がるように言うと、立ち上がったスオウを見上げながら言った。

「スオウ。お願いだから、お客様の護衛に戻って。お客様に何かがあったら、どうするつもり?」

「しかし、昨日のようなことがありましては…」

「昨日の、こと…?」

 綾がどぎまぎしながら尋ねると、スオウはバツが悪そうに俯いた。その口から低い声が漏れる。

「…サガミの件です」

 サガミの名を聞いた瞬間、綾の胃が小石が入ってしまったかのように重く感じた。

 知らないうちに身を守るように両腕で自分を抱きかかえていた綾を見て、スオウは綾の肩に手を置こうとして躊躇い、その手を下ろしながら言った。

「申し訳ありません」

 スオウの口から出た謝罪の言葉にハッとしながら綾がスオウを見ると、スオウは怒りと悲しみの混じったような顔をしていた。

「どうして? どうしてスオウが謝るの? あなたは何も悪くないじゃない」

「しかし、サガミは俺の…」

「そんなの、関係ない。スオウは悪くない」

 スオウの瞳を真っ直ぐに見つめながらはっきりとそう言う綾を見て、スオウは観念したようにニヤッと笑った。

「やはり、あなたはお強い」

「え?」

「あなたは本当にお強い。俺にはやはり、あなたが必要です。我が主」

「スオウ…」

 綾はスオウにニッコリと微笑んで「ありがとう」と言うと、不意に真面目な顔に戻って言った。

「あのね、スオウ。これから先、私に何が起こっても、絶対に自分を責めちゃダメよ。それだけは約束してくれる?」

「えっ? そ、それは…」

 うろたえるスオウに、綾は一歩近づいて言った。

「約束して」

「し、しかし…」

 狼狽するスオウに、綾はさらに詰め寄った。

「約束してくれなかったら、忠誠の誓いを切るから!」

「それは!!」

 綾はババ様から、忠誠の誓いは一生物とは言うが、主の側から反古にすることが出来るという事を教わっていた。

(本当はそんなことしたくないけどね。でも、今のこの人にはこれが一番効くでしょ? さあ、どうだ!)

 綾はさらにスオウににじり寄った。

「スオウ。約束は? できないって言うの?」

 スオウの顔に息が近づくほど近くに寄った綾の顔を見て、スオウの顔が徐々に赤く染まっていった。

「わ、わかりました。約束します」

 やっとスオウが折れた。綾はスオウから少し離れると、得意気な顔をして言った。

「じゃ、ちゃんとお客様の護衛の任務に戻ってね? うちは資金難で人手が足りないんだから。こういう時にワガママ言わないの!」

「…御意」

 スゴスゴと広間を去っていくスオウのやる気の無さが滲み出た背中を見送りながら、リンが綾の隣に来て言った。

「私、アヤ様のお側にお仕えさせていただくまで、スオウ様ってこう、もっと大きくて怖い方だと思ってました」

 綾はリンの言葉にプッと噴出すと、笑いながら言った。

「私も初めは無口で無愛想な人だなって思ってた。でも、意外と可愛い所があるのよね、スオウって」

「はぁ。『可愛い』ですか?」

 キョトンとしたままのリンと一緒に、綾は自室へと戻って行った。


 さて。本日最大の難関が今日のランチだ。

「で、その『えれべえたあ』と言うものは、どのような姿をしておるのじゃ?」

「それはですね。こう、人を乗せる箱があって、それを吊るす太いワイヤーがこう…」

「待て。『わいやあ』とは、何じゃ?」

「えーっと、ワイヤーって言うのは、鉄で出来た繊維をより合わせて作った丈夫な太い紐状の物で―」

「ほお! そなたの世界では、鉄を繊維に出来ると申すのか?」

「えっと…」

 綾はシンサイ国王子、シンガと共に、城の庭園の一角で昼食を取っていた。いや、「取ろうとしていた」が正解かもしれない。

 約束の時間ピッタリに従者を伴って庭園に現れたシンガは、席に着くなり綾を質問攻めにあわせ始めた。まず、綾の世界に存在する主な機械仕掛けの物を片っ端から聞き出し始め、その中から興味のあるものに関しては重点的に細部にわたって知りたがる。機械が専門ではない綾にとって、これはとても大変なことだったが、それに加えて、やはりシンサイ国もカタカナ言葉はまるで通じないらしく、うっかり綾が出したカタカナ言葉にシンガはいちいち敏感に反応し、それはどういうものかを尋ねてきた。

(もう、30分くらいずっとしゃべりっぱなし…。いい加減、お腹空いたよ~!)

 キュルキュルキュル~と情けない音が綾の腹から鳴り響いた。

「シ、シンガ様…。あの、お腹空いたんで、そろそろ食べてもよろしいでしょうか…?」

 綾が堪えきれなくなって尋ねると、シンガはやっと目の前の食事に気がついた様子だった。

「おお。これはすまなんだ。食事が用意されているのに、気付かなかった」

(まじですか…)

 確かに、シンガの前はシンガが綾の話を聴きながら書きなぐったメモやイラストが散乱していて、肝心の食事がそれらを避けるように遠巻きにセットされていた。

「ふむ。これらはまだ続きがあるしの…。うむ。では、()は食事の間はそちら側に移動するとしよう」

 シンガが立ち上がって椅子の移動をしようとすると、彼の従者が音もなくススッと近寄り、シンガの椅子を持ち上げて移動させ、また音もなく後ろへと下がっていった。

(うわ~。何か、歌舞伎の黒子みたい…)

 綾が従者の身のこなしをじっと見ていると、それに気付いたシンガが不思議そうな顔をして綾に尋ねた。

「どうしたのじゃ? ラライのことが気になるのか?」

「え? ラライ?」

「そうだ。あれは余の従者で、名をラライと言う。幼い頃から世話をしてくれている、誰よりも余のことを理解しておる男だと言っても過言ではないぞ」

「そうなんですか。何かこう、無駄の無い動きをする人だなぁ~と感心していました」

「ラライの作法は天下一じゃ。余の自慢の従者よ」

 ふふん、と得意気に胸を張るシンガは、まるで自分のおもちゃを誉められて得意がっている子供のようだった。

(やっぱりこの人、子供みたいな人だな)

 子供のようなシンガに対し、遠くの方でシンガを見守っているラライは落ち着いた大人で、静かな夜の湖みたいな人だな、と綾は思った。

「そなたにも、誓いを持った従者がおるのであろう?」

「え? どうして…?」

 予想していなかったシンガの言葉に驚いた綾を見て、シンガは「そんなこと、少し見れば自ずとわかることじゃ」とそっけなく言った。

「『見れば』って…?」

「紋章じゃ。そなたと同じ色の石の入った者を二名、この城で見かけた」

「ああ…。よくお気づきで」

 綾の言葉を聴いて、シンガは自分の懐から掌大のメダルを取り出した。

「あ、紋章…?」

 シンガの紋章には、美しい一角獣の文様が刻まれていた。その身体は美しい黄金色に輝いている。

「我が国も、紋章を用いておるからの。我が国だけではなく、この近郊の国々では似たような紋章が用いられておる。故に、この地域を『紋章地方』と呼ぶ者もおる」

「へえ~。そうなんですか。知らなかった…」

 綾は自分の紋章を手に取り、シンガの紋章と見比べた。

「これは、一角獣ですか?」

「いや。麒麟(きりん)じゃ」

「キリン? でも、首が短いですよ?」

 綾の問が余程可笑しかったらしく、シンガは声を上げて笑い始めた。

「そなたは面白いな。それとも、そなたの世界では、麒麟は皆、首が長いのか?」

 綾は少しムッとしながら側にあった紙に筆でキリンの絵を描いた。

「ええ。こう、首が長くて…。黄土色と白のまだらで…」

「角は二本か? 面白い動物だの。是非一度、この目で見てみたいものだな」

 目をキラキラと輝かせながら綾の書いた不恰好なキリンを眺めるシンガは、本当に綾より年上には見えない。

 二人はその後も次の予定の時刻になるまで、庭園でエスカレーターや自動車について話をしていた。

 終わりの時刻が近づいたその時、思い出したようにシンガが言った。

「そうじゃ。今回の講義の報酬に、何か欲しいものはあるか?」

 綾はチャンスとばかりに切り出した。

「報酬と言うか、お願いがあるのですが」

 シンガは興味深そうに「ふむ」と言って椅子の背もたれに寄りかかると、「遠慮なく申せ」と言って微笑んだ。

「シンサイ国は穀物や果物が豊かに実る土地だと聞きました。そこで、食料を少し分けてはいただけませんでしょうか? ヤマトでは魚が戻って参りましたが、穀物、野菜や果物はまだ、収穫まで日が遠く…。昨年よりはいい収穫を見込んでおりますが、秋の収穫までの間と、収穫後に再計算し、不足分を補うための食料が必要なのです。タダでとは申しませんので―」

「わかった。食料だな?」

 あっさりと返答を返され、まだ話が全部終わっていなかった綾はポカンと口を開けたままシンガを見ていた。

「あ、えっと、はい。ありがとうございます。で、あの、代金の方なんですが…」

「いらん」

「はい?」

 今度は予測不可能な返答を返され、綾は呆然としていた。

「え、えっと…。今、何て」

 シンガは綾の反応が理解できないとばかりに首を傾げると、「『いらん』と言うたのじゃ。聞こえなんだか?」と不思議そうに尋ねた。

「いらないって、でも…」

 まだ困惑している綾の目の前で、シンガがひらひらと手を振って「案ずるな」と言って笑った。

「でも、それじゃ―」

「何だ。そんなに心配なら、余を婿にとるか?」

「へ?」

「また聞えなんだか? 余を、婿に、とらんかと訊いたのじゃ」

(はい?)

 シンガという人は、どうしてこう常に綾の斜め上を行くのだろうか。全く予測不可能だ。

「えーっと、どうして食糧援助の話から、結婚話になったんですか?」

 話を整理させようとして綾が尋ねると、シンガはニッコリと微笑みながら言った。

「食料は無料で隣国援助の名目で出す。無料が嫌だと申すのなら、余がヤマトに婿に入ればいいであろう? 王子の結納金代わりだと言えば、シンサイの人間は納得しよう。どうじゃ、一石二鳥じゃろう?」

「それは、まあ。ある意味、筋は通ってますけど、でも…」

 ギブ・アンド・テイクとはよく言うが、国民の食料と引き換えに、どうして機械マニア王子を婿に迎えねばならないのかが、綾にはさっぱりわからなかった。綾にとっては一石二鳥というよりは、お菓子の箱を開けたら、付いてきたおまけがこれかよ?っていう感じだ。

 考え続けている綾の顔を覗き込みながら、シンガがうっとりと言った。

「きっと、余はそなたのような女性を待っておったのじゃ。そなたと一緒にいたら、色んな新しい機械の研究ができそうじゃなぁ…。ああ、楽しみじゃ…。えれべえたあ…。えすかれえたあ…」

 夢見心地に妄想モードに入ってしまったシンガを見ながら、綾はどうして昨日、この昼食を断れなかったのかを心底後悔していた。


 その日の午後は慌しく過ぎていった。

 新たに到着した賓客のお出迎えを済ませ、晩餐会に出るための支度を整えようと部屋に戻ると、綾の部屋の前に背の高い女性が大きな箱を抱えて立っていた。

「あれ? ケイ…?」

 綾は一瞬、ケイが立っているのかと思ったが、近づくにつれ、その女性がケイとは別人であることに気が付いた。艶やかな軽いウェーブの掛かった長い黒髪を緩やかに後ろに束ねたその女性の頭には、ケイによく似たウサギのような耳が出ている。下仕えの者が着るシンプルな衣を身に付けてはいるが、どことなく気品と、少し妖しい雰囲気のある人だ。

 女性は綾達が近づくと、軽く会釈をして微笑んだ。

「アヤ様でいらっしゃいますね。わたくし、サガミ様の使いで参りました。こちらの衣装を本日の晩餐会にお召し下さると光栄ですとのことです」

「えっ。また?」

 綾が驚きながら女性の持っている箱を見つめていると、その様子を見たサガミの使いと名乗った女性はクスっと笑った。

「ああ、失礼いたしました。本当に、噂に違わず、お可愛らしい姫君だと思ったものですから。どうぞ、御遠慮なさらずにお受け取り下さいませ」

「ありがとう。リン、扉を開けてくれる?」

「…」

「リン?」

 じっと女性を見つめていたリンは綾の言葉にハッとして我に帰ると、慌てながら綾の部屋の扉の鍵を開けた。

 女性は持っていた箱を扉の近くの小さなテーブルの上に置くと、会釈をして去って行った。

「今度は、一体何を持って来させたのよ、あいつ…」

 綾が箱を開けようと手を伸ばすと、リンが綾が出した手に触れた。

「アヤ様。私が確認いたしますから、それまではあちらでお待ち下さい」

「あ、うん。そうするね。じゃあ、お願い」

 リンは微笑みながら頷くと、箱に向かって掌を向け、何かの呪文を詠唱した。

(えーっと、あれって、何の術式だっけ? ここしばらく術式の勉強をしてないから、すっかり忘れちゃったな~)

 椅子に腰掛けた綾が見ている前で、リンは箱の蓋を開け、黙々と確認作業を始めた。リンが確認し終わったサガミから送られてきた衣装は、オレンジと赤のグラデーションが夕焼けのように美しい衣装だった。

「これもまた、豪華な衣装ねぇ…」

 上衣には細かな花模様の刺繍が施され、昨日の今日で調達できる品ではない。

「これも、サガミのお母さんの遺品かしら」

 綾がポツリと呟くと、最後の品を確認していたリンが一瞬止まり、部屋に沈黙が流れた。

「ねえ、リン。私、ケイの幸せを吸い取ってしまってるのかな?」

 この問には、リンは答えることが出来なかった。


 晩餐会は前日同様、チクチクと針を刺されるような会話の応酬を何とかうまく乗り切って終わった。明日に備えるために今夜の晩餐会にもハヤトは出席していないため、話の中心は相変わらず綾と綾に同伴している宰相であるサガミに向けられていた。

 晩餐会の間、サガミはいつも通りお得意の「爽やか好青年」を好演しており、綾は昨日同様、全くフォローを入れてくれないサガミに内心苛立ちながらも、何とか愛想良く努めていた。

 綾はこの二回の晩餐会を通して、何となくこの近郊の国々の縮図が見えてきたような気がしていた。それまで講義で散々聴かされてきた話が、ここでは実態として感じることができる。誰もが自分の国の利益を一番に考えているのは確かだが、それでもこちらに対する援助を惜しまないもの、渋るもの、最初から全く考慮に入れていないものなど、他国に対する態度は様々だ。そんな彼らの思惑を、緊張していた昨日と比べ、今日は数段良く「見る」ことが綾には出来た。綾はそれらを慎重に観察しながら、ヤマトへの援助先を模索していた。今年を乗り切れば、ヤマトはどうにか建て直しのための原動力を得ることができるはず―。そのためには、全ての国民が冬を越すまで乗り切らねばならない。

「大分、慣れていらっしゃったようですね」

 食後のお茶を飲みながら、サガミが綾にそう言いながら微笑んだ。

「お陰様で」

 綾が素っ気無くそう言って顔を背けると、サガミは綾に近付き、その耳元に囁いた。

「賢い女は嫌いじゃないが」

 綾の首筋に鳥肌が立った。

「あ、あなたに好かれなくても、結構です」

「おやおや。相変わらず私には手厳しい。弟にはあんなに懐いていらっしゃるのに」

 綾は一瞬ムッとしたが、それを何とか押し留めた。よく見ると、綾の視線の遠くの方に、会場の端の方にさり気なく立ちながら警護の任にあたっているスオウが見えた。スオウの腰帯から、七色の光を淡く放つ紋章が下がっている。

「…私は、スオウを信頼していますから」

「信頼、ね」

 不思議なことに、そう呟いたサガミの声から一瞬、綾は哀しみを感じた。嫌な胸騒ぎがして振り返ると、サガミはすでにそこにはいなかった。

「どうしたのじゃ?」

 後ろから不意に声をかけられ、振り向くとそこにはシンガが従者のラライを従えて立っていた。

「あ、シンガ様…。いえ、何でもありません」

 綾が笑顔を取り繕ってそう言うと、シンガは無邪気な子供のようにニッコリと笑った。

「で、昼間の話の答えは出たか?」

(昼間…? あ、あっ! ああああ!!)

 綾はシンガに突然プロポーズされたことを思い出した。

「ま、ま、まだです! それに、まだ父にも相談しておりません!」

 慌てる綾をよそに、シンガは得意気な顔をして言った。

「ああ、ハヤト殿のことは案ずるでない。あの後、非公式ではあるが、その旨を伝える書状を書いて、ラライが届けた」

「はあ?」

 またもや、綾の考えの斜め上を行く状況が起こっているようだ。

「返事は追って連絡するとのことじゃがの」

「ええ?」

「ま、感触はよかったみたいだぞ」

「は、はあ…」

 綾は内心、シンガのプロポーズを冗談だと思ってハヤトに報告しなかった自分を責めた。

(私が話すより先にお父様に知られちゃったよ~! まずいよ、これ。絶対にまずい!)

 まだ普通なら起きていそうな時間だが、明日に備えてハヤトはもう寝てしまっているに違いないし、明日の披露目の儀のことがあるので、この件でハヤトの眠りを妨げたくない。明日は一日披露目の儀と祝宴で、ハヤトと二人でゆっくり話す時間はなさそうだ。

「アヤ…? 大丈夫かや?」

 ハッとして我に返ると、シンガは顔を少し赤らめながら頭をワシワシと掻きながら続けた。

「や、やっぱり、その、余とそなたは婚約者同士じゃし、『アヤ』と呼んで構わんかの…」

 綾は自分の目の前に立つひょろ長い自称「婚約者」を見上げながら言った。

「ちょ~っと待って下さい、シンガ様。いつ、婚約が成立したんです?」

 綾の言葉に、シンガは意外だと言う顔をして答えた。

「今日、したではないか」

「お申し出はいただきましたが、成立はしてません!」

 強い口調で断言する綾にムッとしながら、シンガは目を細めて言った。

「ほお~。そなた、そう断言するのか。食料はいらんのか~?」

「うっ…」

(き、汚い手を…)

「民が飢えるぞ~?」

(ひ、卑怯者~!)

 シンガは何も言えない綾を見下ろしながら、ニヤッと笑った。

「これも外交戦略の一つというやつじゃ。覚えておくのじゃな。いつの世も、国力の強いものが有利になる」

「確かに、我が国には有利になるものは何一つありません、けど…」

「あるではないか」

「へ?」

 シンガの意外な言葉に綾がキョトンとした顔をすると、シンガは声を上げて笑い、周りにいた他の賓客たちが驚いてこちらを一斉に見た。

「ここに、あるではないか」

 シンガが真っ直ぐ指差した先には、綾の他に何も無い。

「わ、私…?」

 シンガは微笑みながら頷くと、綾の額を指差した。

「そなたは、この世界よりも進んだ技術を持つ世界で育ち、その使い道を知っておる」

 次に、綾の髪を指差した。

「そなたは、古の巫女の血を濃く継いでおる。母君の影響じゃな」

 シンガの指は、今度は綾の腰帯に下がっている紋章を指した。

「そしてそなたは、天龍の加護を受けし娘。古より、天龍の加護を受けしはヤマト始祖の姫君のみと聞いておる。そなたは二人目じゃ」

 周りにいる賓客たちがざわつき始めたが、シンガは一切気にしていないようだった。

「そなたは余が今まで出会った誰よりも面白い。余は、そなたが起こす風がどのようなものになるのか、見てみたいのじゃ」

「私が、起こす風…?」

 そう言えば―と、綾は思った。スオウとゴウヤが言っていた。綾は「この地を渡る風」になるであろうと。何故、皆は綾にそのような期待をかけるのか、綾には未だにわからない。それにどれだけ自分が応えられるかもわからない。

「案ずるな。余はそなたを助けたい。じゃから、婿に入ると言ったのだ!」

 周りから一斉に歓声が上がった。皆、口々に「これはめでたい!」とか「これでヤマトも安泰ですね」とか言って盛り上がっている。だが、周りが盛り上がれば盛り上がるほど、綾の気持ちは沈んでいった。

(もう、人の気も知らないで…!)

 耐え切れずに、綾は踵を返すと、晩餐会の会場になっている広間にあるテラスに向かって歩き始めた。

「あ、アヤ様…」

 ガラス戸を抜けて外にすり抜けていく綾を見つけてスオウは後を追おうとしたが、リンに止められた。

「私が参ります。スオウ様はこちらの警護がございますでしょう?」

「あ、ああ…。頼んだ」

「はい」

 リンは速やかに綾の後を追ってガラス戸を通った。

「…御感想は?」

 スオウの後ろから、冷ややかなケイの声が聴こえた。

「何のだ」

 ドスの効いた低い声で尋ねると、ケイが困ったような顔をして肩をすくめた。

「だから、あなたのお姫様が隣の王子様に求婚された感想」

 ケイの言葉に、スオウはふて腐れながら呟いた。

「…面白くねー」

「あら、随分と素直ね」

 ケイは拍子抜けした顔でそう答えると、未だにシンガを囲んで盛り上がっている賓客たちに視線を移した。

「どうなさるのかしらね、アヤ様。天龍様、シンガ様、あなた、ゴウヤ、そして…サガミ」

 ケイの質問に答えること無く、スオウはただ溜息を一つついた。


 しばらくして、一人、二人と賓客達が自分の宿泊している部屋へと戻り始めた。

「アヤ様が…いない」

 客を見送っているサガミの横にいるはずの綾の姿が見えないことに気付いたスオウは、ケイに合図を送った。それに気付いたケイが辺りを見回してみたが、綾の姿は会場のどこにも見あたらなかった。

「まさか…」

 スオウが慌ててテラスへと抜けるガラス戸を通ると、そこにはリンが身体の至る所から血を流しながら倒れていた。

「リン!」

 スオウがリンに駆け寄って脈と呼吸をみると、微かではあるが反応を感じた。リンはまだ生きている。だが、出血がひどい。

「これはまずい。ケイ!」

 スオウの呼び声に、ケイが慌てた様子でテラスに駆けつけた。

「スオウ、え…、リン? これは一体…。アヤ様は?」

 スオウは自分の服の裾を引き裂き、血がまだ流れているリンの身体に巻きつけながら言った。

「わからん。それよりも、リンの手当てを、早く」

「わかりました」

 スオウは自分の上衣を脱いでリンをそれで包むと、ケイにリンを託した。

「俺はこの辺りを捜索する」

「気をつけて」

「ああ」

 ケイはリンを抱き上げると、速やかにそこから去って行った。

「…畜生」

 スオウはテラスに立ち上がり、そこから周りを見渡した。辺りはもう暗く、ただ暗闇だけが広がっている。

 その暗闇の中に、スオウは小さな光を見たような気がした。

(あれか?)

 テラスの手すりを跳び越して地面に降り立つと、スオウは光を見た方向へ向かって走り始めた。

(この辺りだと思ったんだが…)

 数分程走った先には、何も無かった。

(アヤ様…)

 スオウは辺りの暗闇を見回し、耳を澄ませて気配を探ったが、何も感じることはできなかった。

(一人でこれ以上動くのは得策じゃないな。一旦城へ戻って応援を呼ぶか)

 スオウが歩き出そうとしたその時、スオウの足が何か硬いものを踏んだ。

「何だ…?」

 身を屈めて拾い上げると、それは龍の印の入った紋章だった。ただ、持主から遠く離れたそれは、いつものように七色の光を放ってはいなかった。

 辺りには、ただ暗闇と静寂が広がっていた。スオウは綾の紋章を握り締めると、城へ向かって走り始めた。

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