11章 「二日前」
「よろしいですか、アヤ様? そちらから、こちらまで歩み寄られ、この場所でこのように一礼。そして、王座の前まで進み、ハヤト様に向かって最敬礼。そして―」
「あー。ストップ! じゃなかった。待って、ゴウヤ! えーっと、ここで、こう?」
「違います。こちらで、この方角に向かって、このように一礼です」
「ああ、もう~」
披露目の儀の二日前。
祭祀官であるゴウヤの指導の下、綾は披露目の儀における式典のリハーサルを王座の間で行っていた。
(こんなの、学校の卒業式の方が、絶対に楽!!)
披露目の儀の日程が決定してからというもの、綾は通常の勉強や鍛錬の他に式に参加する各国に関することや、各国の外交関係、各国使者の名前と役職、式次第に作法等、覚えることが目白押しで、毎日目まぐるしく過ごしていた。
今日からは式典準備と、式典出席のために滞在している各国使節の相手が綾の主な仕事だが、「当日になって転ばれませんよう」と式典に着る予定の衣装と似た形の上衣を着ながらの式典のリハーサルに、予定以上に時間がかかってしまい、ゴウヤとケイを慌てさせていた。
「ごめん。最初から、もう一回!」
綾は裾が床に長く引きずっている上衣をずりずりと引きずりながら、王座の間の入口に戻る。
「アヤ様。お上品に。おしとやかに、ですよ?」
ケイが心配そうに言うと、リンに裾を直してもらいながら綾が「わかってるわよ!」と言って深呼吸をした。練習用の上衣は結構重みのあるものだが、式典当日に綾が着る衣装には豪華な刺繍が施されているので、これよりもさらに重い。
(今でさえお辞儀するのも一苦労なのに、これより重い衣装着て最敬礼って、私を殺す気?)
額にうっすらと汗を浮かべながら、綾は背筋を真っ直ぐに伸ばし、扇を持つ手に力を込めた。美しい装飾が施された扇は、カノの形見だ。綾が式典に着る衣装も、カノが生前に何かの式典で着たものだと聞いた。財政難のヤマト王家に綾のために衣装を新調する財力は無く、ハヤトは申し訳なさそうにしていたが、綾はカノのお古で十分だと主張した。実際、衣裳部屋に大切に保管されていた衣装は、二十年以上前に作られたとは思えないほど、きれいな状態で保存されていた。
ゆっくりと中央を歩きながら、部屋の中の空気を感じる。こうすると、弓道場にいた頃を思い出すのは不思議だ。ただ、木造りの弓道場の清清しい空気と違い、石造りの城の広間に流れる空気は暖かく、少し重い。
綾は広間の中央で一礼し、王座の側まで歩く。衣装の裾にも大分慣れてきた、と思う。
王座の前で、跪いて最敬礼をする。問題はここから立ち上がる時だ。裾を踏みつけないようにゆっくりと立ち上がり、王座の側まで数段、階段になっているところを登らなくてはならない。
一段づつ、慎重に上がり、最上段で身体の向きを変える。この時の裾捌きが「見せ場でございます」とはケイの言い分だが、自分でもここは格好よく決めて、参列者にいい印象を残したいところだ。
綾は最上段で衣の裾を軽く掴み、壇上へ引き寄せようとした。
「ん! あれ…? わ、うひゃあ!」
案の定、裾の一部を自分で踏んでいて、ヒールの高い靴を履いていた綾はバランスを崩したが、倒れる前に誰かの腕に支えられて、倒れずに済んだ。
「お怪我はございませんか? アヤ様」
(うげっ!)
聞き覚えのある艶やかな声に顔を上げると、そこには爽やかに微笑みながら綾を見下ろすサガミがいた。サガミの顔が綾の顔に近付いてきて、綾は慌てて両手でサガミの胸をやんわりと押し返した。
「あ、ありがとう、サガミ殿」
綾は体制を整えてサガミから離れようとした。が、サガミの腕が意外な程に強い力で綾を抱きかかえたまま、動かない。側で2人を見ているケイと目が合い、焦った綾はサガミを押す腕の力を必要以上に強めた。
「サガミ殿。もう、大丈夫ですから。早く腕を離していただけます?」
綾が少しトゲのある声でそう言うと、サガミは「ああ、そんなに急かされなくても」とやんわりと言いながら腕の力をゆっくりと解いた。
「あなたが、どうしてこちらに? お客様方のお相手をされていたのでは?」
各国使節の応対はサガミの仕事だ。
「今晩催されます晩餐会のことで、少し御相談申し上げようと思い参上した次第です。それにしても―」
サガミはまじまじと綾を見つめて言った。
「そうしていらっしゃると、お母上によく似ていらっしゃる。まぁ―」
サガミはクスクスと笑い始めた。
「カノ様は、間違っても『うひゃあ』とは申されませんでしたがね」
笑い続けるサガミを忌々しげに見つめながら、綾は強い口調で言った。
「で、御用件は?」
「ああ、あなたの気分を害してしまったのなら、謝ります。今晩の各国使節との晩餐ですが、不躾ながら、私の方であなたの衣裳を御用意させていただきましたので、そちらをお召しになっていただけないものかと思いまして。同伴させていただきます私の衣装との兼ね合いもございますゆえ。衣装は先ほど、勝手ながらお部屋に運ばせていただきました」
「…わかりました。わざわざ御手配いただき、ありがとうございます」
ニッコリと微笑みながら会釈をする綾を見て、サガミは少し意外だという顔をした。
「何か?」
「あ、いえ…。今日はやけに素直でいらっしゃると思ったものですから」
どういう意味だ、と綾は思ったが、それをグッと堪えてサガミに向かって微笑んだ。
「失礼。私、まだ練習が残っておりますので」
綾はサガミの返事を待たずに踵を返すと、広間の中央で二人の様子を見ていたゴウヤの元へと歩いていった。
「大丈夫ですか? アヤ様」
ゴウヤが心配そうに綾の顔を伺った。綾はゴウヤに近付くと、小声で囁いた。
「うん。大丈夫。あいつに抱きかかえられたのは一生の不覚だけどね。…あいつ、行った?」
綾の肩越しに、広間から退出するサガミとサガミの後ろで閉められたドアを確認すると、ゴウヤは綾に囁いた。
「はい。只今、退出なさいました」
ゴウヤの一言を聞いて、綾が安堵の息を漏らした。
「はぁ。感情を抑えるって、結構疲れるものねぇ」
先日、皆との夕食会で、サガミが何らかのアクションを起こすまでは各々平静を保ち、何事も無かったように振舞うことに決めたのだ。
「私、笑顔が引きつってなかった?」
綾の問にゴウヤが笑った。
「大丈夫でしたよ。僕は、あなたがサガミ様を殴ってしまわないかが心配でしたが」
「…殴ろうかと思ったわよ。ドサクサに紛れて抱きつくんだもん、あの人」
「ええっ!」
驚くゴウヤをよそに、綾は広間の入口付近で控えていたリンを呼んだ。
「リン。聴いてた?」
「はい、アヤ様」
リンは亜人という事もあるが、聴覚が通常の人の数倍はあるかと思うほど、遠くの音を聞き取ることが出来る。
「サガミが用意したと言う衣装を、全て『確認』しておいてくれる?」
この場合の「確認」には、混入されているかもしれない異物の排除も含まれる。
「かしこ参りました」
会釈をして退出しようとしたリンを、ケイが引き止めた。
「わたくしも参りましょう」
「え、でも、私一人で大丈夫かと…」
戸惑うリンに、ケイはうっすらと微笑んで言った。
「サガミが用意したと言うのであれば、それは衣装だけではなく、それに合わせた髪飾りや耳飾などの装飾品も一緒に来るはずです。あの人は、そういう人ですから。準備まであまり時間がありませんから、二人で手分けして作業した方が早く終わると思います」
ケイの言葉の後、リンはチラッと綾を見た。綾が頷いて返すと、リンは安心したように微笑んでケイと一緒に広間を出て行った。
あの夕食会以来、ケイは余計な事を考えないようにするためか、仕事に没頭するようになった。元気もそれなりに取り戻しているように見えたが、サガミが関わってくると、いつにも増して寂しそうな瞳をするのを仲間は皆、知っている。
「大丈夫かな、ケイ…」
ポツリと綾が言うと、ゴウヤが優しい顔をして言った。
「あなたのお気持ちは、ケイ殿も良くご存知だと僕は思いますよ、我が主。しかし、今は…」
ゴウヤの顔が途端に厳しくなった。
「式典の練習が優先です! 先ほどのような失態は本番では許されませんよ、アヤ様! 大体、倒れるにしても、一国の姫君が『うひゃあ』はないでしょう、『うひゃあ』は!」
「す、すみませんでした…」
綾はすごすごと広間の入口に戻って入場の場面からやり直した。
鬼教官と化したゴウヤから、やっとの思いで及第点をもらって綾が開放されたのは、それから約二時間後のことだった。
サガミが綾に用意したという衣装を見たケイは、愕然としたままその場に立ち尽くした。
赤を基調とした衣に金糸で美しい花模様が刺繍されたその衣装は、サガミの母が所有していた晴れ着の一つで、ケイがサガミとの結婚式の後の披露宴に着る予定にしていた衣装だった。それが、ケイよりも小柄な綾のサイズに仕立て直されて、今、ここにある。
(どうして、これを、アヤ様に…? サガミ、どうして…?)
ケイの予想通り、サガミは衣装の他にそれに合わせた装飾品も一式用意していた。そのどれもが、ケイには見覚えのある品だった。金の土台に赤い花びらをあしらった髪飾りを手に取りながら、ケイは以前、サガミの家でこれを見た時の事を思い出していた。
(「お前にはこれが似合うね」って…。そう言ってくれたのは、何だったの?)
「ケイ様、大丈夫ですか?」
ケイの様子を心配したリンが声を掛けてきた。
「あ、ごめんなさい。わたくし…」
そっと、リンの小さな手がケイの手に触れた。その時初めて、ケイは自分の手の甲に血管が浮き出るほど強い力で髪飾りを握り締めていたことに気が付いた。
「あ…」
手の力が弱まると同時に髪飾りが床に落ち、小さな金属音が床に響いた。その瞬間、ケイの視界が白くぼやけた。自分でも気付かないうちに、ケイの瞳からは涙が零れ落ちていた。
「よろしいんですよ、ケイ様。今、ここには私と、ケイ様しかおりませんから。どうか、ご無理なさらないで」
リンの穏やかな声が、ケイが必死に抑えていたものを押し流した。
どれくらい泣いたのか、ケイにはわからなかった。わかることと言えば、これほど泣いたのは両親が亡くなった時以来だということだ。あの時にもう、一生分の涙を流したと思っていたのに、まだ自分は泣くことができるのだなとケイはぼんやりと考えた。
ひとしきり泣いて落ち着くと、重い雨雲が雨を降らせた後に小さな晴れ間が覗いたように、ケイは気持ちが少しだけ浮上したような気がした。
ケイが気持ちを落ち着かせている間、リンはただ、黙ってケイの側にいてくれた。
「まぁ~。アヤ様、よくお似合いですよぉ~」
綾の身支度をリンと一緒に手伝っていた澪が溜息を漏らした。
「本当、良くお似合いです」
リンも一緒になって褒めたが、当の綾は怪訝そうな顔をしたまま鏡の前に立っていた。
「…どうか、なさいました?」
綾の不機嫌オーラに気が付いたリンが恐る恐る尋ねると、綾は「うん、ちょっとね」と言ったまま、全身が映る鏡で横や後ろ側を確認している。
「本当、アヤ様にぴったりですよねぇ~」
澪の台詞に、綾が弾かれたように振り向いた。
「それよ!」
「へ? それって…何ですか、アヤ様?」
澪はポカンとしたまま綾を見ていたが、綾は悔しそうに鏡に映った自分の姿を見つめた。
「この服、どうして私の身体にピッタリなの?」
「それは、アヤ様の身体に合わせて作られたからじゃないんですかぁ~?」
「だからね、澪ちゃん! どうして、サガミが、私の体のサイズを知ってるの?」
「さ、『さいず』って、何ですかぁ~?」
綾の剣幕に泪目になりながら尋ねる澪を見て、綾は少し自分の態度を反省して深呼吸した。
「…寸法のこと」
「ああ、なるほど」
澪とリンが声を合わせて納得した。
「確かにぃ~、アヤ様のお身体に触り放題の上様ならともかく、サガミ様がご存知なのはスゴイですよねぇ~」
「澪ちゃん。例が露骨だよ…」
綾が顔を赤らめながら突っ込むと、澪はクスっと笑って肩をすくめた。
「本当、採寸もしてないのに、なんか気持ち悪~」
鏡台の前に座りながら綾がそう言うと、リンが困った顔をしながら綾の髪を結い始めた。
「リン。どうかした?」
リンの様子に気付いた綾が鏡越しに声を掛けると、リンが慌てて「いいえ、何でも」と答えた。
「『何でも』、何?」
リンを安心させるように綾が微笑むと、リンは申し訳なさそうに少しづつ呟き始めた。
髪が綺麗に結い上がり、髪飾りやその他のアクセサリーを着け終わると、綾はもう一度鏡の中の自分を見た。
「髪飾りが、アヤ様の髪の色と合っていて、とても映えますね」
リンが部屋の中を片付けながらそう言うと、綾は素直に「そうね」と答えてしばらくその場に佇んだ。
鏡の中の自分は、ハヤトの部屋に飾られていた絵姿の実母、カノによく似ていた。
(何か、不思議な感じ)
鏡の中の自分と絵姿の母の姿を重ねながら鏡を見つめていると、綾の部屋の扉がノックされた。リンが開けた扉からはサガミが入ってきた。
綾を迎えに来たサガミは入口で綾を見るなり、大げさなリアクションと共に綾の側へ颯爽と歩いてきた。
「ああ、やっぱり。私の見立ては正しかったようだ。大変よくお似合いですよ、アヤ様」
「それは、どーも」
綾に向かって一礼するサガミを見ながら、綾はこれが少女漫画だったら今のサガミの背景には大きな薔薇だのきらめく光だのが書き込まれているに違いないと想像して、笑いを堪えるのに必死になっていた。
「ご機嫌がよろしいようですね。それでは参りましょうか」
勝手にいいように解釈してくれたサガミに感謝しながら、綾は部屋を後にした。綾の数歩後ろからリンがついてくる。
階段を下りて広間のある3階に辿り着くと、思い出したように綾がサガミに言った。
「サガミ殿。本日は私に色々と御用意していただき、ありがとうございます」
他人行儀に綾がそう言いながら軽く頭を下げると、サガミがにこやかに微笑みながら言った。
「お気に召したのでしたら、光栄です。よろしければ、この衣装はアヤ様に差し上げますよ」
「…そうね。私に合わせて仕立て直しちゃったから、もう、ケイには着られないものね」
サガミの足が止まった。
綾はそのまま数歩先を歩いてサガミが立ち止まったままなのに気付くと、ゆっくりと後ろを振り返った。そこには、普段とは違い、冷たい能面のような顔をしたサガミが立っていた。
綾はサガミを真っ直ぐに見つめたまま、真顔で言った。
「あなたに、ケイがこの衣装を着る事をどれだけ楽しみにしていたか、わかる? ケイがいつもどんな顔であなたの事を話していたか、知ってる?」
サガミは何も答えず、ただ唇を噛みながらそこに立っている。
「ケイはね、私にとって、お姉さんみたいに大事な人なの。その人を悲しませることは、お願いだからしないで欲しい」
少しの間、二人は無言でお互いを睨みあったまま動かなかった。やがてサガミは少し苛立ったように髪を掻き揚げ、近くの窓から外を眺めた。いつもは穏やかな笑みを浮かべているその美しい顔には眉間に皺が寄り、暗い影が落ちていた。
「あなたは―」
ゆっくりと綾に向き直ったサガミの顔はいつもの自信に満ちたサガミの顔のようだったが、まるで悪魔が宿ったかのように瞳がギラギラと輝いていて、綾の背筋に悪寒が走った。
「あなたは、私が思っていたよりも面白い女だ」
フッと鼻で笑いながら綾に近付いてくるサガミに対し、綾の全身が危険信号を送っていた。
(これが、サガミ…?)
サガミが近付くにつれ、綾の体中の毛が逆立つような感覚に襲われる。
(負けちゃ、だめだ)
綾はサガミの身体から滲み出す黒く、毒のある空気に負けてしまわないよう、手に握り拳を作って気合を入れると、サガミに顔を向けた。
「行くわよ。お客様をお待たせするのは、よくないわ」
広間に向かおうとする綾の腕を、サガミが咄嗟に掴んで引き寄せた。
「!」
バランスを崩した綾を、サガミが抱きとめる。サガミの顔が近付いて、息が綾の顔にかかった。
「アヤ様!」
後ろからリンの声が聴こえた時には、綾の口がサガミの唇に塞がれた後だった。
「ん…ん、ん!」
離してと言いたくても声が出ないし、押し返したくてもサガミに強く抱えられているので腕が動かない。綾の全身が離せと悲鳴を上げ、それに伴ってすぐ近くで物凄い殺気を放つ存在を感じた。
(リン…?)
殺気を放っているのはリンだと思ったが、確認したくてもサガミの髪が綾の視界を遮っていて、何も見えない。
とてつもなく長く感じた数秒の後、遠くの方からこちらに駆けつけてくる複数の足音が聞こえ、それと同時にサガミの身体が綾からするりと離れた。それと同時に、綾はぺたんと床に座り込み、両手で自分を抱きすくめた。小刻みに震える綾の前にリンが綾を守る形で立ちはだかる。いつもは垂れている彼女の犬のような耳がピンと上に向かって立ち、それはまるで小さな翼のようだ。その右手には小ぶりの少し使い込まれた短剣が握られ、手入れの行き届いた鋭い切っ先は、真っ直ぐにサガミの喉元へと向けられていた。
やがて足音が大きくなり、二人の人影が現れた。
「アヤ様、御無事ですか?」
「何か、凄い殺気を感じたんだけど…って、リンかよ?」
駆けつけてきたのは陸と東風だった。二人はその場にいる綾、サガミ、リンの様子を見ると、まだ床にへたり込みながら肩で息をしている綾を囲むように立ち、サガミに向き直った。当のサガミはうっすらと微笑を浮かべながら、自分の口に付いた綾の口紅を指で丁寧に拭っていた。
「貴様…!」
陸と東風も臨戦態勢に入る。
「やめて」
立ち上がりながら綾が何とか言葉を口に出すと、リンが頭だけ綾の方へ振り向いた。
「で、でも…」
「いいから。これ以上、お客様を、広間でお待たせするわけには、いかないから」
リンは綾に向かって頷くと、短剣を背中に隠していた鞘にスルリと収め、綾の側に跪いた。
「アヤ様、紅が…」
リンはエプロンのポケットから紅の入った小さな器を取り出すと、綾の口紅を直してくれた。
「ありがとう、リン」
「お、お役に立てなくて…。私…」
俯いて泣きそうになるリンの肩に手を置くと、綾はゆっくりと首を横に振った。
「あれで十分よ。ここは広間から近いから、大きな騒ぎになったら大変だったもの」
「…はい」
綾がリンから顔を上げると、サガミはいつの間にかちゃっかりと数十メートル先にある広間の大扉の前に立っていた。
「じゃ、行ってくるね」
「我々も、お供できればよかったのですが」
陸が申し訳なさそうに言う。
「大丈夫。不意を突かれただけだから。それに、私が怒らせちゃったの。それじゃ、行ってきます」
広間に行こうとする綾の後ろから、東風の声がした。
「あんま、無理すんなよ。姫さん」
その声に綾は一瞬立ち止まり、後ろを振り向いて笑顔で頷いた。
広間の前に到着すると、綾はサガミに向き直った。サガミの整った顔を見ながら、後ろの方で心配そうに綾を見守る三人や、天龍やスオウ達の事を考えた。
(大丈夫。私はもっと、強くなれる)
綾は息を吸い込むと、真顔で言った。
「サガミ。あなたのしたことに対して、今はとやかく言うつもりはないわ。今はこの『営業』が大事だから」
「営業、ですか…?」
「そう。他国に対する営業よ。あなたはヤマト国の宰相として、きっちりといい仕事をして下さい。いいわね?」
サガミは綾の態度に片眉を上げて「意外だ」という顔をしたが、すぐにいつもの爽やかなサガミ・スマイルに戻った。
「やはり、あなたは面白い女だ」
爽やかさの影に威圧感を漂わせるサガミの笑顔を見ながら、綾はきつく両手を握り締めた。
(負けてなんか、やるもんか。絶対に…!)
そう思った瞬間、綾の顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「あなたも、面白いわよ。ぜんっぜん、私の好みじゃないけど」
微笑みながら睨みあう二人の前の扉がゆっくりと開かれ、晩餐会が始まった。
ティーカップに茶を注ぐ手をふと止めながら、澪は天龍の部屋の窓の外に広がる空を見た。日が沈みかけた空は、オレンジと紫のグラデーションが美しい。
動きの止まった澪に気付き、天龍が読んでいた書から顔を上げて静かに澪の名を呼ぶと、澪はハッと我に返り、その勢いで茶が少しテーブルの上にこぼれた。
「あああああ! 申し訳ございません~!」
「どうしたんだい、澪?」
溜息混じりに天龍が尋ねると、澪は溢した茶を手拭で拭きながら言った。
「あ、えーっと、その…。アヤ様に、何もなければいいな~と…」
「…じきにわかるよ」
天龍がそう言って再び書に目を落としてすぐに部屋の扉がノックされ、天龍が促すと、開いた扉から陸と東風が入ってきた。勢いよく部屋に入ってきた二人は、天龍の近くに来るにつれて歩みに躊躇いが出た。
「…どうだった?」
天龍が書から目を離さずにそう言うと、東風は気まずそうに頭を掻いた。
「あ、あーっと、陸、頼むわ」
「なっ!」
「頼むよ~。オイラより、説明上手じゃん」
東風は陸に仕事を押し付けると、テーブルの側の椅子にちゃっかりと腰を下ろし、澪に自分の分の茶を頼んだ。
天龍の側に立ったままの陸は、どのように説明したものだかと考え続けていた。
少しの間、部屋に沈黙と微妙な緊張感が漂った。天龍は読んでいた書物を閉じると、陸の顔を見上げた。
「殺気の主は、リンだろう? あの娘があれほどの殺気を放つんだ。一体、サガミはアヤに、何をしたんだい?」
直球でそう言う天龍の瞳は、決して笑ってはいなかった。陸は一つ溜息をつくと、覚悟を決めて話し始めた。
「我々が到着した時には既に離れていらっしゃいましたが、状況から言って、アヤ様がサガミに襲われていらっしゃったようです」
「…どんな『状況』?」
部屋の空気が一気に凍りついたような気さえした。
陸は一つ、深呼吸をしてから静かに言った。
「アヤ様がお召しになられていた口の紅が、サガミの口に」
「…そう」
天龍からの激しいリアクションを想定していた陸は、天龍の意外にもあっさりとした返事に一瞬拍子抜けしたが、それは間違いだとすぐに気付いた。俯いたまま無言の天龍から、今にも城を吹き飛ばしかねないくらいの怒りが沸々と沸き起こり、それらが身体から滲み出るのに気付いたからだ。
「う、上様…?」
恐る恐る声を掛けた陸をよそに、天龍はブツブツと床に向かって呟き始めた。
「この僕に向かって、宣戦布告か? あの男…」
「上様…!」
「フッ。上等じゃないか」
「上様ぁ~」
「さて、どうしてくれようか…」
「上様!!」
「何だ、お前達。うるさいぞ」
天龍が顔を上げると、そこには心配そうな顔をした三龍が立っていた。
「何なんだ、三人とも」
「上様、今、とっても、とっても黒いですぅ~」
涙目になりながら澪がそう言うと、陸と東風が揃って頷いた。
「黒いとは何だ。黒いとは」
「ま、真っ黒な心の声が、駄々漏れでしたぁ~。怖いんで、辞めてくださいぃ~」
泣き始めた澪を東風が「よしよし」と子供をあやす様に慰める。
「…相変わらずだな、澪は」
天龍が溜息をつきながらそう言ってテーブルに頬杖を突くと、陸が澪の頭をくしゃくしゃと撫でながら言った。
「澪は我々の中で一番争いを嫌いますし、負の気に影響を受けやすうございますから」
泣く澪。慰める東風と陸。こんな風景を遠い昔にも見たような気がするな、と天龍は思った。
(ああ、そうか。あの時か?)
紫影に連れ戻され、幽閉されたアキに天龍が罵られたのを見た澪が、あんな風に泣いたことがあったのを天龍は思い出した。
天龍は少し髪を掻き揚げると、深呼吸をして澪に向かった。
「すまない、澪」
「!!」
天龍の言葉に、三龍が驚いて天龍を見つめた。
「…何だい? そんなに驚いて」
「う、上様。今、『すまない』と申されましたか?」
目を見開いたまま尋ねる陸に軽く頷いて「ああ。言ったけど?」と言うと、三龍はお互いに顔を見合わせた。
「何だよ、みんな。僕は変な事は言っていないぞ?」
「だ、だって…」
澪が瞳に涙を浮かべながら言った。
「上様が謝られるなんて…! 私、生まれて初めて聴きましたぁ~。澪、感動ですぅ~」
「え?」
澪の言葉に天龍が逆に驚くと、三龍は「本当ですよ?」と頷いた。
(謝ったことが、なかった…? そうだったか?)
思い返せば、「謝る」という行為はしたことがなかったかも知れなかった。何故なら、彼は自分が常に正しいと信じていたのだから。
(僕の中で、何かが変わってきている、とか?)
天龍は戸惑ったが、その戸惑いさえもが彼には新鮮だった。それと同時に、何故か無性に綾の顔が見たくなった。
「陸。東風」
自分でも驚くほど、天龍の心は穏やかになっていた。
「命令だ。アヤが出席している晩餐の会場の周りを見張れ。不審な者は逃がすな。必ずアヤが無事に部屋に戻るよう、計らえ」
陸と東風は天龍の前に跪くと、最敬礼をした。
「御意」
「お任せを」
二龍は足早に部屋を去ると、天龍は澪に向かって微笑んだ。
「澪。茶を淹れ直してくれないか?」
「あ、はい!」
澪がティーポットと共に部屋を出るのを見送ると、天龍は窓辺に向かって外を眺めた。すっかり日が沈んだ空には、満点の星空が広がっていた。
「今度はちゃんと、僕が守るよ」
天龍はそうポツリと呟くと、瞼を閉じて瞑想に入った。
映画やテレビで見た晩餐会と言うものは、もっとこう、ゆったりとしたオホホウフフな場所ではなかったか、と綾は苦々しく思っていた。
出席者の自己紹介の後、次々と繰り出される国内外に関する話題や、やんわりとした雰囲気の中で繰り広げられる皮肉の応酬。ハヤトが欠席しているため、綾が発言することは全てこの国の意思だと思われてしまうので、綾は頭をフル回転にターボまで搭載した状態で会話に参加していた。先ほどの仕返しか、答えに窮してサガミに目配せしても、サガミは「さぁ」とか「ああ」とか言うだけで、ちっとも綾を助けようとはしてくれなかった。
(助け舟は出さないってわけね。上等よ!)
大学の講義で行われる議論は真正面からの討論だが、ここでは「会食」という設定上、全員がそれとなく、何気なく、あくまでやんわりと色んな議題を振ってくる。それらに対し、笑顔でやんわりと、時には当たり障りの無いように、時にははっきりと対応していた綾だが、食後のお茶の段階で、それまでの食事のどの皿がどんな味だったか覚えていないほど、会話の応酬に全神経を集中させていた。
「アヤ姫。少し、よろしいか?」
晩餐会が何とか無事に終わり、綾とサガミが退席していく客人達を見送っていると、一人の若い客人がアヤの元へ歩み寄ってきた。
「はい。どうかなさいましたか? シンガ様」
シンガと呼ばれた若者は、ヤマトの隣国であるシンサイ国の第二王子だ。ケイの資料によるとアヤより二つ三つ年上のはずだが、ヒョロっとしたあまり筋肉質ではない体型と童顔のせいで年下に見える。会食の間、黙々と食事を食べ続け、たまに口を開くと何だかすっとぼけた事を言って周りの出席者を苦笑させていたから、妙に印象に残った人物だ。
ゆるゆると綾に近付いてきたシンガは、綾に近付くと、綾をまじまじと上から下まで見た。
「あ、あの…。何か?」
「ああ、すまぬな。そなたが異世界で育ったと聞いたので何か違うのかと思うたが、そうでもないらしい…」
(失礼な~! 大体、私はこっちの生まれだっつーの!)
綾は一瞬ムッとしたが、すぐに無理矢理笑顔を作った。
「こちらの人間も、あちらの人間も、姿形は同じですよ、シンガ様」
シンガは「ふむ」と言ったが、まだ綾の顔をじっと見ている。
「…そのようじゃな。過ぎた事を言ったようだ。許せ」
「はあ」
間の抜けた返事を返した綾を気にせずに、シンガは明らかに好奇心で一杯になった瞳を綾に真っ直ぐに向けてきた。
「で、どうなのだ?」
「どうって、何がです?」
「あちらの世界と言うのは、やはりこちらとは色々と違うのか?」
(ああ、なるほど。興味があるのね)
綾は先ほどまでのシンガの態度を何となく理解した。
「そうですね、やはり、文化は違うと思います。あちらは機械が発達していますから」
綾の「機械」と言う言葉に、シンガは異常なまでの反応を示した。
「ほお! その、機械とやらは、一体どのような物があるのだ?」
(おもちゃ屋の前の子供みたい、この人…)
綾は物凄い勢いで興味を示すシンガに少し引いたが、同時に彼の裏表の無い様子にほんの少しだけ好感を抱いたが、捕まると長くなりそうな嫌な予感がした。
「残念ながら、私は機械は専門ではありませんので」
(お願い。これで空気を読んで~!)
綾の祈りが届いたのか、シンガは残念そうな顔をして「それでは仕方がないな」と言ったので、綾は少し安堵の息を漏らしかけた。が、シンガはすぐに気を取り直して尋ねてきた。
「いや、でも、少しくらいはどのような物が存在するのかくらいは話せるであろう? どうだ?」
(だめか~!)
綾は何とかこの場から逃れる術を考えようとした。断るにも、シンサイ国はヤマトの隣に位置する友好国。資源が豊富で財力もあり、今までも散々援助を受けてきたということだし、この先も国が立ち直るまでの間は、彼らからの援助が不可欠だ。
(背に腹は代えられません…。貧乏国の辛いところね。売れるものは何でも売っておかないと損かな)
綾は笑顔でシンガに言った。
「わかりました、シンガ様。ただ、ちょっと長い話になるかと思いますので、明日にでもお時間のある時でよろしいでしょうか?」
綾の返答にシンガは一瞬子供のように口を尖らせたが、少し考えた素振りを見せると、綾に言った。
「うむ。そうだな。今夜はもう遅い。では明日、昼食を共に取ろうではないか。どうだ?」
(うっ。しまった。断る口実が無い…。この人、絶対に来るよ~)
綾は腹をくくった。
「わかりました。場所はこちらでご用意いたしましょうか?」
「うむ。そうしてくれ。使いを部屋によこせ。では、明日な」
シンガは軽く手を振って踵を返すと、意気揚々と広間を出て行った。
シンガの後姿を呆然と見送っていた綾の後ろで、押し殺した笑いが聴こえてきた。
「…サガミ。言いたいことがあるなら、遠慮なさらずにどうぞ?」
サガミは「ああ、申し訳ございません」と言いながら、まだ笑っている。こういうところはスオウに似ているのかもしれないと綾は思った。
「アヤ様も、大変な方に好かれたものだな、と思いまして…クックックッ」
笑い続けるサガミを見ながら、綾は溜息をついた。
「あなたがそう言うなら、よっぽどなのね、あの王子。何となく、そうかな~とは思ったけど」
綾はそう言って広間の中を見回した。全ての客人は退席し、城の召使達が後片付けをしている。
「じゃ、私ももう部屋に戻るわ。今日はお疲れ様でした。明日も宜しく」
そう言って歩き出そうとした綾の手を、サガミが素早く掴んだ。
「…今度は、何?」
イライラとしながら綾が睨みつけると、サガミはやんわりと微笑んで綾の手の甲にキスをした。
「おやすみの挨拶をしたかっただけですよ、姫君」
綾の手にサガミの暖かな息がかかり、咄嗟に綾は手を引こうとしたが、サガミはそれを離さなかった。
「フッ。そんなにお逃げにならなくても。真っ赤な顔をして、お可愛らしい。それとも、それはわざと私の気を引いていらっしゃる?」
「冗談じゃないわ。離してよ」
サガミは上目遣いで綾を見ながらクスリと微笑み、綾の指に唇を落とした。綾の小指を、何か暖かくて湿ったものが触った。
(ひゃあああああ! 舐められたぁぁ!)
綾の背筋に蛇の大群が走り抜けたような強い悪寒が走った。
「おやすみなさいませ、姫君。いい夢を」
ニヤッと笑ったサガミの手が緩んだ瞬間、綾は自分の手をサガミの手の中からサッと抜き取ると、足早にリンの待つ広間の出口へと向かった。
自分の部屋に着くなり、綾は着替えもせずにバッタリと自分のベットの上に突っ伏した。その様子を見て苦笑しながら、リンが手際よく寝そべっている綾から髪飾りや服の止め具を外していく。
「お疲れ様でございました、アヤ様。何かお飲み物でも、お持ちしましょうか?」
「ありがと、リン…。お水ちょうだい…」
「かしこまいりました。お着替えはこちらに置いておきますね」
リンが部屋を去ってすぐに、誰かが綾の部屋の扉をノックした。
「誰ぇ~?」
綾がベットに突っ伏したまま間抜けな声を出すと、扉の向こうから天龍の声がした。
「アヤ、僕だよ。術、掛かってない?」
「ん~。掛かってな…、あ、ちょっと待って!」
綾は自分が服の止め具が全部外れて半裸の状態で寝そべっていたことに気が付き、慌ててベットから飛び上がった。
綾が着替えを掴み、ベットの近くで着替えようと服を脱いだ瞬間に、扉の開く音が聴こえた。
「アヤ、何やっ…、あ、失礼」
「ちょっとぉ~。待ってって言ったでしょう?」
失礼と言いながらもそのまま部屋に入ってくる天龍を見て、綾は慌ててベットに潜り込んだ。天龍は動じることもなく、綾の潜り込んだベットに腰をかけた。
「今日はお疲れ様、アヤ。晩餐会はどうだった?」
「うん。ケイやゴウヤが色々と頭に詰め込んでくれたお陰で、何とか乗り切ったわよ。外交って、疲れる…」
ポンポンと天龍は軽く綾の頭を毛布の上から撫でた。
「御苦労様。そうそう、巷の噂では君は今日、サガミと大層親密な様子だったとか?」
「な、何のことよ?」
綾が毛布の中から顔だけ出すと、天龍と目が合い、綾は身体を硬直させた。
(うわ…。天龍が、笑ってない…)
まずい、と綾は思ったが、その時には既に身体の動きを封じるように天龍の身体が綾に覆いかぶさり、天龍の手が綾の手首を押さえつけていた。
「お、重いよ、天龍。手首、離して…」
「文句を言うのは、その口かい? サガミが口付けたっていう、その口?」
(陸! 東風! 何話してんのよ、バカ~!!)
「この手にも」
天龍が綾の手首を掴む力を少し強めた。
「あいつの唇が触れたって?」
(誰だ! 告げ口したのは!! っていうか、どこから見てたのよ!!)
天龍の顔が焦りながら黙ったままの綾の顔に近付く。
「…何とか言ったら?」
天龍の鼻が綾の鼻に触れ、天龍の息を直に肌に感じた。
「…ごめん、なさい」
「よろしい」
天龍の唇が綾の唇に軽く触れた。
(あれ?)
何かが違うな、と綾は感じた。
(何だろう。えーっと、そもそも何と違うの?)
天龍が身体を起こした後も、綾はベットの上でキョトンとしたまま天龍を見つめていた。
「どうしたの?」
「え? うん…。あ! そうか」
「は?」
今度は天龍が訳がわからずにキョトンとしたまま綾を見つめた。綾はそんな天龍の表情を見るのは初めてで、思わず笑ってしまった。
「何だよ。何か変だぞ、アヤ。サガミに変なクスリでも飲まされたんじゃないだろうね」
「もうー。嫌な冗談は止めてよね」
綾は毛布を手繰り寄せて身体に巻きつけると、身体を起こして天龍の横に座った。
「私ね、サガミにキスされた時はすごく嫌で、メチャクチャ気分が悪くなったの。でも、あなたとの時はそうじゃなくて―」
綾は言いかけてハタとあることに気づき、口籠りながら俯いた。
(まずい。何言ってんの、私! これじゃ、まるで…)
顔を赤らめて俯いた綾を見て、天龍が意地悪な声で尋ねた。
「僕との時は、何?」
(こいつ~)
綾は俯いたまま、ボソっと小声で言った。
「…言わない」
「何で? 言ってよ。聞きたいな~、ああ、聞きたい」
「やだ。絶対に言わない」
「言ってよ。ほら」
天龍が綾に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと、天龍!」
「僕との接吻は、何?」
(接吻って言うな~! しかも、耳元で、そんな声で言うな~!)
真っ赤になりながらジタバタと暴れる綾を見て、天龍は声を上げて笑った。そんな風に心から楽しそうに笑う天龍を、綾は初めて見た。
天龍は綾の額にキスしながら言った。
「僕のことは、嫌じゃないんだ?」
「…うん」
「好き?」
「言わない!!」
「けち」
「けちで結構!!」
何だか自分たちの様子がおかしく思えて、二人は顔を見合わせて笑った。その時、扉から控えめなノックが聴こえてきた。
「あ、あの~。アヤ様。もうそろそろ、よろしいですか…?」
「あ、ごめん、リン。入ってきていいよ」
リンは部屋に入ると、水差しとコップをテーブルの上に置くと、遠慮がちに言った。
「アヤ様、不可侵の術は、本日はどうされますか…?」
「いらないよね、アヤ?」
当然だと言わんばかりに余裕な態度でそういう天龍を横目で見ながら、綾はリンにはっきりと告げた。
「いるわよ、当然。リン、札を出しておいて」
「はい」
リンが札を綾の机から取り出しているのを見ながら、天龍は忌々しげに綾を見つめた。
「何か文句でも?」
得意気に微笑む綾を見ながら、天龍は大げさに溜息をついてみせた。
「いつになったら、僕らはちゃんと夫婦になれるのかな~と思って」
「なっ!」
綾は真っ赤になって慌てた。
「あ、あのね? 物事には、色々と手順ってものがあってね? あなたはただでさえそれをかなりすっ飛ばしてるんだから、少しは相手を思い遣りなさいよ!」
「思い遣ってるよ?」
「はあ?」
首を傾げながら天龍を見上げる綾の耳元で天龍が囁いた。
「愛してる」
「!!」
(不意打ち!)
さらに真っ赤な顔をして硬直している綾に、天龍は得意気にニヤっと笑ってみせた。
「今のは、効いただろ?」
「ずるいよ、もう~」
綾は一気に脱力して、天龍の肩にもたれかかった。天龍の体温が、何故だか綾を落ち着かせる。肩にまわされた腕も、綾の髪を優しく触れる手も、全てが心地良い。
ふと、綾はサガミに触れられた事を思い出した。途端に身体中に悪寒が走る。
「アヤ、どうかした?」
天龍は綾が彼の衣の袖をギュっと握り締めていることに気が付いた。
「あ…。ご、ごめんね? えっと、その…。思い出したら、怖くなっちゃって」
「…サガミの、こと?」
「うん」
天龍は綾を少し強めに抱きしめた。
「絶対に、僕が守るから」
「司…?」
「君だけは絶対に、守るから」
「うん…」
天龍の体温と心臓の音が心地良くて、綾はいつの間にかそのまま眠りについてしまった。
しばらくして、リンが天龍に小声で尋ねてきた。
「あら。アヤ様、もうお休みですか?」
天龍も綾を起こさないように小声で答える。
「うん。疲れてたんだろうね。ぐっすり眠ってる。リン、悪いんだけど、アヤに寝巻きを着せてあげて? 僕がやってもいいんだけど、そうすると多分、後で滅茶苦茶怒られると思うんだよね…」
「あ、はい。只今」
天龍が毛布に包まったままのアヤをそっとベッドの上に横たえて少し離れると、リンが手際良く綾に寝巻きを着せた。
「それでは、あとはよろしくお願いいたしますね、天龍様」
そう言って会釈をするリンの言葉に天龍は一瞬驚いた顔をしたが、リンの笑顔を見て安心したように微笑んだ。
「ああ。おやすみ、リン」
「お休みなさいませ、天龍様、アヤ様」
リンが静かに灯りを消しながら部屋を出て行くと、部屋には静けさが広がり、天龍の耳には綾の寝息だけが聴こえる。
天龍は綾の身体をベットの少し右側にずらすと、自分も一緒に横になり、綾に寄り添った。
「安心しておやすみ。アヤ」
綾はその夜、「お兄ちゃん」の頃の天龍と一緒に、小さな自分が実家の裏庭で仲良く遊ぶ夢を見た。
あの頃の不安で怯えていた綾を、暖かく包んでくれた優しいお兄ちゃん。今では彼が天龍だと知っているから、何だか変な感じだ。
夢の中で、小さな綾とお兄ちゃんは仲良く手を繋いだまま、裏庭から畑へと続くあぜ道の上を二人で歌を唄いながら、楽しそうに歩いていた。天龍の手は暖かくて、その手がここにいてくれるなら、自分はきっと大丈夫だと綾は思っていた。
穏やかで暖かな日差しが、青い空から降り注いでいた。