10章 「誓い」
ヤマトの歴史書には、こうあった。
始祖が姫、天龍妃阿姫、男により攫わる
始祖、影放ち
男、討たるるが
既に阿姫、息も無く
その屍のみ、城に戻る
昼食後、天龍に呼び止められ、綾は部屋で天龍と二人でヤマトの歴史書を開いていた。歴史書の最初の方に記された小さな部分を指差すと、天龍は辛そうに顔を歪めた。それが、この一文だった。
「この『阿姫』っていうのが、アキのこと」
「うん…。でも、これだと、誘拐されて、その犯人に殺されたって」
「これは嘘。本当は男と駆け落ちしたんだ。リンが言ったように」
「え? ちょっと待って。ええっ?」
綾は混乱していた。
「だ、だって、アキって、あなたの奥さんだった人で、六龍を産んだ人で…」
「そう。その通りだよ」
何故、と言おうとして綾は言葉に詰まった。いつもと違って、天龍の顔が苦痛に歪んでいた。肉体的な痛みではなく、精神的な痛みに耐えている―。そんな天龍の姿を見て、綾は何も言えなくなった。
「…真実は、簡単なことさ」
天龍はポツリとそう言うと、綾のベットに腰を下ろした。
「アキは、僕のことなんて愛してなかったんだよ」
言い放った天龍の瞳は、今まで見たことが無いくらい深い悲しみに包まれていた。
「じゃ、どうして…? だって、六龍は…」
「始祖の一行が北からこの地にやって来た時、アキの許婚も一緒だったんだ。だけど、僕がアキに惹かれて彼らの前に現れたことで、全てが狂った。自分の国を欲した始祖は、僕と契約を結ぶ代わりにアキを僕に差し出すことを承諾した」
綾には何も言えなかった。天龍は淡々と話を続ける。
「アキはこの国のために僕の子供を産む事を約束して、僕に身体を許した。けれど、彼女が僕に心を許したことは、ただの一度もなかったよ」
綾はただ呆然としたまま天龍を見ていた。
「空しかったよ。僕が欲しかったのは、アキだったのに。出来ることなら、アキを丸ごと僕のものにしたかった。でも、その度に彼女がますます僕から離れていくみたいで怖かった。僕がどんなに愛しても、彼女の心には、結局はあの男だけしかいなかった」
綾は無言で天龍の隣に座った。
「六龍が生まれて、この地の気は満ちた。だから、僕はアキに言ったんだ。『もう十分だから、君の好きにするといい』って。僕には六龍がいるから、寂しくない。だから、彼女は彼女の好きな男と幸せになれば、僕はそれでいい。でも、その時にはもう、全てが遅かった…」
天龍は綾に自分の顔を見せないように俯いた。綾は、ただ黙って天龍の肩に頭を預けた。天龍は呟くような声で続ける。
「始祖は、アキが彼女の許婚と正式に結婚することを絶対に許さなかった。彼は、僕と彼女の事をこの国に人を集めるために利用していたからね。彼は…怖かったんだと思う。この国の力の象徴として使っている僕や六龍達が、彼から離れていくのが。あの男は、自分の娘よりも国と民を選んだ。父としての自分より、王としての自分を選んだんだよ」
綾はそっと天龍の膝の上に置かれた彼の手に触れた。天龍の手は小刻みに震え始めた。
「二人が城から逃げた時、二人が無事に逃げてくれたらいいと思ったよ。始祖が裏で密かに影の者を飼っているのは知ってたけど、まさか自分の娘を彼らに狩らせるとは、思ってもみなかった」
綾は、ただ黙って天龍の話を聴いていた。何かを言ってしまったら、その言葉で砕け散ってしまいそうに思えるほど、天龍が脆く、儚く感じられた。
「数日後、アキが連れ戻されてきた。目の前で恋人を殺されたせいで、抜け殻のようになってた。誰の声ももう、彼女に届くことはなかった。始祖はアキを人目につかないように幽閉して、周りにはアキは男に殺されたと伝え、自分は何も見なかったことにしていた。アキが、可哀想だったよ。
六龍が見舞いに訪れても、アキは何の反応も示さなかった。ま、無理もないけどね。元々、自分の意思とは関係ないところで無理矢理に作らされた子供達だったから。それでも、陸と澪は、懸命に彼女の世話をしていたよ。でも、駄目だった」
「え…?」
「アキが連れ戻されて、二月ほどたった頃かな。見張りが目を離した隙に幽閉されてた部屋から逃げ出して、崖から海に飛び降りたんだ。その翌日に、アキの死体が浜に上がった…」
天龍の手を握ったままの綾の手の甲が何かで濡れた。天龍の顔を見ると、彼は静かに涙を流していた。
「天、龍…」
「僕の、せいだ。僕が、彼女の前に現れなかったら、彼女は幸せに…。幸せに、生きていたはずだったのに。なのに、僕が…」
(この人は、何百年もこうして、ずっと後悔し続けながら生きてきたのかな)
そう思った瞬間、綾の身体が勝手に動いた。気が付いた時には、綾は天龍を抱きしめていた。
「誰のせいでもないよ」
天龍は綾の胸に顔をうずめたまま、何も言わなかった。
「大丈夫。司。あなたのせいじゃない。大丈夫…」
二人はしばらく黙ったまま、お互いの鼓動と呼吸を感じていた。
「何でお前たちまでここにいるんだ?」
夕食の時間に指定された部屋に集まると、四龍の姿を見たスオウが呆れた顔でこう言った。
「おや? 僕はこの夕食会はアヤの側近達の親交を深めるためと聞いたのだが?」
天龍がいつもの調子で飄々と言ってのけると、綾は「誰もそんなこと言ってないって」と軽い突込みを入れながら席に着いた。
「まあ、いいじゃないですか。それにしても、えーっと、君は…?」
仲裁に入ったゴウヤが見慣れない少年に気が付いた。
「あ、初めまして! オイラは東風っていう名の風龍です! つい最近、姫さんと上様の熱い接吻のお力により、このように復活いたしました! 以後、お見知りおきを!」
ガタガタっと何かが崩れるような音がして、皆が音のした方を振り向くと、綾が視界から消えていた。転がり落ちた椅子を直しながら立ち上がると、綾は真っ赤な顔をしながら叫んだ。
「東風! 余計なことは、言わなくてよろしい!!」
綾の抗議に東風は肩をすくめると、他の紫影達と軽い自己紹介を交わした。
「そうですか。あなたが風龍様でいらっしゃるのですね?」
丁寧にそう返すケイに対し、東風は相変わらずの調子で「『東風』って呼んでくださいよ、お姉様!」と媚を売っている。
「何か、ある意味スゴイのが復活したようですね」
呆れた顔でスオウが綾に小声で囁いた。
「でしょ? 私も驚いた。残りの龍達が全員あんなんだったら、どうしよう…」
「あら、焔も割と性格は東風に似ていると思いますけど。ね、上様?」
綾の言葉を耳ざとく聴き付けた澪が天龍に尋ねると、天龍はゆったりと頷いた。
「そうだね。でも、焔は東風ほどお調子者じゃないけどね」
「その分、焔の方が気まぐれだがな」
陸がボソっと横から口を挟んだ。
「あ、それは当たってますぅ~。さすがは陸です」
綾は眩暈がした。クソ真面目、ドジっ娘、お調子者、気まぐれ男。天龍の子供たちはどうしてこう、皆揃いも揃って、一癖も二癖もある連中なのか。
「そう言えば」
ふと思い当たったことがあったので、綾は澪に訊いてみることにした。
「あのさ、澪ちゃん。龍達はみんな、どうして天龍の事を『上様』って呼ぶの? あなた達にしてみれば、天龍ってお父さんでしょう? 何か、他人行儀かな~、なんて思ったんだけど、どうして?」
「ああ、それは…」
言いかけて、澪がちらりと陸を見た。陸は少し不機嫌そうな顔をしたが、「私から話そう」と言って綾に向き直った。
「我々が成長するに従って、私と焔の二人は見た目が上様よりも年長になってしまいまして…。それで、上様が御自分よりも見た目だけとはいえ年長に見える者から『父上』と呼ばれるのはあまり嬉しくないと申されまして」
「…そんな、へっぽこな理由?」
呆れた様子の綾に、陸、澪、東風が真面目な顔で頷いたが、天龍はその横で不機嫌そうに「へっぽことは何だ、へっぽことは…」とぶつぶつ言っている。澪はクスっと笑いながら言った。
「それで、みんなで相談して、呼び方を『上様』に統一することに決めたんです~」
「へえ」
脱力した綾に対し、東風が得意気に笑った。
「何だよ。もっと感動してくれたっていいじゃん、姫さん。いい案じゃね? どっちにしろ、上様はオイラ達の父上でもあり、主でもあるんだからさ」
「まあね。でも理由が、何とも情けないと言うか…」
「なら、君は陸から『御母上』って呼ばれたいの?」
気が付くと、天龍が綾のすぐ後ろに立っていた。綾は一瞬、自分を母と呼ぶ陸の姿を想像してみた。
「うっ。えーっと…」
「ほらね?」
フンと鼻で笑う天龍の後ろで、陸が見た目も明らかにガックリと肩を落としているのが見えた。
「あ、違うの、陸。えーとね。ああ、もう。ほら、皆、席に着いてよ。リンが困ってる」
綾はこの場を逃れるために、無理矢理話を逸らせることにした。
「あ、いえ、そんな…、はい」
突然、綾に振られた言葉に恐縮していたリンだが、全員が座り始めるとすぐに手際よく給仕に入った。リンの他にも数名が給仕を手伝っているが、リン曰く、「紫影の中から選んで来てもらいましたから、お気になさらずに」とのことだった。
「そう言えば、ゴウヤは最近、鍛錬が始まったんでしょう? どんな感じ?」
綾が尋ねると、最近少し痩せたゴウヤが苦笑いをしながら答えた。
「やっぱり、通常の鍛錬よりもきついですね。まあ、当たり前のことではありますが」
「どんなことするの?」
「僕は術者としてなので、瞑想から始まって、気の扱いと術式が主です。幸い、僕には一応基礎がありますから、応用編といったところでしょうか」
「それに加えて、通常業務もきちんとこなしていらっしゃると聞きましたが、大変ですね」
イヨの労いの言葉にゴウヤは照れくさそうに笑った。
「父が色々と補佐してくれているので、大分助かっています」
「え? ワダチさんが? ゴウヤが紫影になるの、反対してたんじゃなかったの?」
綾が驚いてそう言うと、ゴウヤは何かを思い出し、少し顔を赤らめた。
「あ、いえ。僕の好きなようにすればいい、と。紫影に関しては、応援してくれています」
「へー。じゃ、何に関してはダメなんだよ?」
東風が鋭い突込みを入れると、ゴウヤは真っ赤になりながらたじろいだ。
「い、いや。別に、何でもないですよ。あ、僕、お腹がすいてるんで、食べ始めてもよろしいですか?」
「あ、逃げやがったな」
東風の追撃を受け流し、皆は一斉に食事を始めた。やはり、大勢で食べる食事は楽しいものだと綾は思った。
食事の間は、皆、取りとめもないような世間話をしていたが、その中で綾は今まで知らなかった彼らの一面を垣間見ることができたようで、楽しかった。
それぞれの家族の形も様々だ。ケイには家族がいない。スオウの家は母親が早くに亡くなったので男だらけ。ゴウヤの家は亭主関白でワダチの一言で全てが決まり、イヨの家は共働きで、最近は忙しい彼女の代わりに旦那さんが仕事の傍ら、家事や子供の面倒を見てくれるそうだ。
食事が一通り済み、お茶の段階になると、給仕はリンを残して全て下げられた。部屋から彼らの足音が遠ざかるのを確認すると、スオウが立ち上がった。
「さて、では、本題に入りましょうか」
スオウは部屋に運び入れていた箱の中から紙束を取り出し、それらをテーブルの上に並べていった。一つ一つの紙束の一番上には人の名前、顔の似顔絵、役職などが書かれている。綾は、彼らの似顔絵にどこか見覚えがあるような気がした。
「あ!」
突然、綾が一枚の紙束を見た瞬間に声を上げた。
「どうなさいました、アヤ様」
「す、スオウ、この人! この人、私、覚えてる!」
動揺するアヤに対し、スオウは落ち着き払った声で尋ねた。
「どこでです?」
「地龍の祠から出る時。この人、私に『御覚悟!』って言って、斬りかかって来た人によく似てる」
「『御覚悟』、ですか…」
スオウは何かを考えながら、綾の示した紙束を手にとって眺めた。
「城の警備兵だった、か。恐らく、あなたのお顔をどこかで拝見したことがあった者でしょう」
「スオウ。この者達は…」
ケイとゴウヤは食い入るようにテーブルに並べられた男たちの似顔絵を見ている。
「何人か、見たことのある顔がいるようようですね。それも、ここでではなく、恐らくはここに来る旅の途中で」
鋭い陸の指摘に、部屋中にピンと糸を張ったような緊張が生まれた。
「スオウ。陸殿のおっしゃることが正しいのなら、この者たちが、例の、あなた方を襲ったという集団に加担していた、ということですか?」
イヨの問にスオウは「はい」と短く答えると、自分の椅子に座った。
「この者達は、城に兵士として仕えていた者達です。全員が我々が地龍の祠に向かう旅を行っていた期間中に休暇を取り、休暇期間後にそれぞれ何らかの理由で戻ってこなかった」
皆、黙ってスオウの言葉を聞いていた。
「これらの兵士は、恐らく我々によって倒された者達だと思っていいと思う。ただ、この三名は―」
そう言いながら、スオウは三人の書類を手に取った。
「この三名は、休暇期間終了後に一度城に戻ってきて職務復帰している。いや、『していた』だな」
部屋の中が深淵の中にいるかのような静寂に包まれた。その中で、スオウの低い声が響いた。
「彼らは我々の帰還後、二週間の間に次々と殺された」
「!!」
綾と澪は息を飲んだが、他の全員は冷静なまま、スオウの言葉を待っている。
「表向きは病死や事故死になっているが、こちらの調べでは恐らく、全員他殺だ」
「口封じ、ということですか?」
ケイの言葉に、スオウが頷く。
「そう考えた方がいいだろう。我々を襲うことを計画した首謀者が、その計画に関わった者を口封じのために殺した、と」
綾の胃の中に何か重いものが入ったような気がした。喉が渇いてティーカップに手を伸ばしたが、手が震えてしまって、カップが皿の上でカチャカチャと神経質な音を立てた。
「アヤ」
綾の隣に座っていた天龍の手が綾の腕に置かれた。それに気付いた綾が天龍を見ると、天龍は心配そうな顔をして綾の顔を覗き込んでいた。
「あ。だ、大丈夫」
綾の手の震えが収まった。
「大丈夫。ありがとう」
まだ顔を引きつらせたままの綾に向かってふわりと微笑むと、天龍は顔を引き締めてスオウに言った。
「首謀者は誰なんだ? 君のことだ。もう見当はついているんだろう?」
スオウはニヤッと笑って言った。
「おや。意外にも、信用されたものだな」
スオウの皮肉に、天龍は鼻で笑いながら髪を掻き揚げた。
「君はアヤに忠誠を誓っているからね。当然だろう?」
スオウは一瞬フッと笑うと、一息ついてからケイの方を横目で伺った。少し青ざめた顔で俯いていたケイはスオウの視線に気付き、少し顔を上げると、スオウに小さく頷いた。
「首謀者は、やはりサガミだとみて間違いないと思う」
スオウの言葉に驚く者は誰一人としていなかった。
「…何だ。皆、驚かないのか。つまらないなぁ」
呑気にそんな事を言う天龍だが、皆の反応が少しづつ違うことには気が付いていた。
ケイは辛そうな顔をしていたし、イヨとゴウヤは残念そうな表情を浮かべ、四龍達は各々緊張した面持ちでスオウの言葉を待っていた。
「あいつ、最近アヤにしつこくちょっかいかけてくるから、一度締めてやりたいと思ってたんだよね。好都合」
あっさりと物騒な事を言う天龍に、綾は小声で囁いた。
「ちょっと、天龍…」
「何?」
綾は目線でケイを示したが、それを確認すると、天龍はニヤッと口元だけで笑った。
「別に? 僕だって、ケイがあいつの婚約者だってことくらい、知ってるよ? それに、もしかしたらケイがあいつ側の人間かもしれないと思ってるし?」
「!!」
天龍の言葉に、その場が一瞬にして凍りついた。ケイは真っ直ぐに綾を見ているが、その瞳には僅かな「揺らぎ」が見えるような気がした。
(いつも真っ直ぐで自信に満ちたケイが、揺らいでる…。不安なんだ、ケイも)
綾は深呼吸をすると、気合で笑顔を作ってみた。「気持ちを強く持ちたい時には、笑顔を作りなさい」というのは、ミトが常日頃から綾に教え聞かせていたことだ。「ニセモノの笑顔でも、それが本物に変わっていくから」と。
無理矢理作った笑顔でも、それだけで気持ちが楽になる。楽になった気持ちと同時に、無理矢理作った笑顔も本物へと変わり、不安が少しずつ消されていく。
「あの、ね? ケイ」
綾の笑顔に、ケイの揺らぎが大きくなった。
「えーっとね、上手く言えないんだけど…。ケイは、ケイの信じた方に行けばいいと思う。ババ様のこととか、紫影のこととか、私のこととかは抜きにして。建前とか、義理とか、仕事とか、そういうのは全部忘れて、自分のしたいことを、すればいいと思う。ケイが『こうだ』って信じた方に。あ、これって、ここの言葉で、『あなたの風の赴くままに』って言うんだっけ?」
綾の言葉に、東風が声を上げて笑った。
「姫さん、気付いた? この国にオイラにまつわる言葉が多いってこと」
得意気な東風に、陸が横から水を差す。
「別に、お前が起源ではなかろう。多くの言い回しは、我々が生まれる前からこの地にあったものだ」
「っんだよ~。別に、いいじゃん」
膨れっ面をする東風のお陰で、その場に張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
「この国は元々農民や漁民、それに遊牧民が多かったから、その影響で風が色んな意味を持つ。そうよね? イヨさん」
綾の問いかけに、イヨは満足そうに微笑んだ。
「その通りです。彼らは風を色々な指標に使っていましたから。それで、この国には風にまつわる言い回しが数多く残っているのですよ」
「『この地を渡る風』、とか?」
東風が悪戯っぽくそう言って笑ったが、その一方で、ゴウヤが真剣な顔をして綾に告げた。
「アヤ様。僕は、あなたが『この地を渡る風』になると信じています」
「この地を、渡る風…? それは何?」
綾にとっては、初めて聴く言葉だった。綾の戸惑いを受け、ゴウヤが少し興奮気味に語った。
「春風が種を運んでくるように、『この地を渡る風』はこの国に未来の実りをもたらす存在です。太古の昔は行商人や旅芸人など、人々に富や笑顔をもたらす者の事を指したようですが、始祖が自らを『この地に渡る風』と称されてからは、偉大なる王や施政者を指す言葉となりました」
「偉大なる王…? ええっ?」
真っ赤になりながらうろたえる綾に、スオウが穏やかに笑顔で頷きながら言った。
「あなたは、我らの風となるべき方。ゴウヤだけではなく、俺もそう信じています」
綾の顔がますます赤くなった。
「ちょ、ちょっと、待ってよ。私、まだ色々と勉強しなくちゃいけないこともあるのに、皆、何か凄く買いかぶってない?」
慌てる綾の隣で、天龍がクスクスと笑いながら言った。
「買いかぶっているかどうかは、まず君がやってみてからじゃないとわからないだろう? とりあえず、今は来週の披露目を済ませて、とっととサガミを降参させようよ」
サガミの名を聞いた途端、全員がまた沈黙した。
「リン」
スオウがリンの名を呼ぶ声が静まり返っていた部屋に響くと、リンが部屋の隅から数歩前に歩み出た。
「はい。スオウ様」
「最近、アヤ様の近辺の状況はどうだ?」
「怪しい動きをする者はございません。お命じになられた通り、アヤ様の御部屋に届けられるものは全て確認しておりますが、毒などの混入はございませんし、術式が掛けられた様子もございません」
「そうか」
綾はリンとスオウの遣り取りに目を丸くして驚いた。
「えっ? リンって、もしかして、私の部屋に出入りするもの、全部確認してたりするの?」
驚く綾に対し、リンは黙って微笑みながら頷いた。
「アヤ様。何のためにリンがあなたに付いていると思っているんです?」
スオウが呆れた顔で言った。
「だ、だって…。単に身の回りのお世話だけかな~と…」
「リンの任務は、あなたに近付くものや届けられるものの監視と調査。これには毒見も含まれます。また、非常時の護衛も彼女の仕事です」
「ど、毒見って…」
綾にとって、毒見などは時代劇とかでしか聴かない言葉だ。それが実際にここで、しかも綾のために行われているとは、全く想像もつかなかった。
「まったく、あなたと言う人は、未だに御自分の御立場を理解されていないのですね」
溜息混じりにケイが言った。
「あなたは、この国でただ一人の王位継承者でいらっしゃいます。あなたの御身に何かあれば、この国は次の王の座を狙う者達が争い始めることでしょう。他国との戦の傷がまだ癒えていないこの国で、王位を争ういさかいで民を傷つけるようなことは、決してあってはならないことです」
「それは、わかってるわよ」
綾が多少ムッとしながらもハッキリとした口調でそう言うと、ケイが意外とでも言いたげに目を見開いた。
「私は、自分の立場はわかってるつもりよ。ただ、私のためにリンが毒見とか、出入りの監視とかをしているのを知らなかっただけ。私は、この国における自分の存在価値を、ちょっと、計算し間違えてた…」
綾の存在自体がすでに大きな意味を持つ。さらに綾が動き始めれば、それに伴って大勢のヤマトの民が動くことになる。それは綾にとって、眩暈がするほど大きな力だ。それを自分が手にしているというのは、時々震えが出るほどの恐怖を感じる。しかし、その力を、いつかは綾がこの国で、この世界でやりたいことを実現するために使うかもしれない。
「私は、この国を元の、できればそれ以上に豊かな国にしたいと思ったから、ここに残ったの。旅をして、私にしなくちゃいけないことが山のようにあるってことも知ったわ。先の戦でお母様が禁呪を放ったことを知って、私にはこの国を元通りの美しい国に戻す義務があるって思った」
皆、アヤの言葉をじっと耳を澄ませて聞いている。
「最初はきっと、小さなことしか出来ないと思う。でも、そういう所から少しづつ、変えてみせるよ」
綾は椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「アヤ様…」
皆のざわめきが聴こえるが、綾は気にしない。
綾は顔を上げると、皆に向かって微笑んだ。
「私には、皆の助けが必要なの。私は、まだ全然、未熟だから。皆が今まで、見えるところや見えないところで色々と私の事を助けてくれて、とても感謝してます。これからも、この通り、よろしくお願いします!」
綾が再度、頭を下げると、パチパチと拍手の音が聴こえた。それは二人、三人と増えていき、綾が顔を上げた時には、その場にいた全員が綾に向かって立ち上がって拍手をしていた。
「やはり、あなたは『この地に渡る風』になられると、俺はそう思います」
スオウがそう言いながら、自分の右手を左の肩に置き、跪いてヤマト式の最敬礼をすると、横にいたケイやイヨ、ゴウヤ、そして奥に立っていたリンもそれに従った。
「え、えっと、皆、ありがとう! で、えーっと、いいよ、もう、ほら、椅子に座ってよ~!」
耳まで真っ赤になりながら綾が皆にそう言うと、ゴウヤを残した全員が椅子に座った。
ゴウヤはテーブルを周って綾のすぐ横に来ると、綾に「アヤ様、お手をよろしいでしょうか?」と尋ねた。
「へ? 何?」
意味もわからずに首を傾げている綾に微笑みながら綾の右手をそっと取ると、ゴウヤは綾の前に跪き、綾の右手の甲を自分の額に当てた。
「ゴ、ゴウヤ!」
「僕も、あなたと共にあります、我が主。どうか、お導きを」
ゴウヤの「忠誠の誓い」を、綾は全身を硬直させながら受けていた。今では「忠誠の誓い」の重さを知っている綾は、恐る恐るゴウヤに小声で尋ねた。
「…後悔、しない?」
ゴウヤは跪いたまま、パッと顔を上げて綾を見上げた。
「後悔など、するわけがありません、我が主。僕は、あなたと共にあなたの風に導かれようと決めたんです。あなたがこれから創る国を、僕にもお手伝いさせて下さい」
顔を上げたゴウヤの顔に、迷いなど垣間見ることもできなかった。綾は一つ頷くと、微笑んで言った。
「ありがとう、ゴウヤ」
「ああ、よかった!」
ゴウヤはつっかえていた物が取れたように爽やかな笑顔を見せながら立ち上がった。
「イヤとか言われたら、どうしようかと思いました」
「え? これって、拒否権あるの?」
綾の素朴な疑問に、ゴウヤが一瞬にしてたじろいだ。
「えええ! ダメなんですか?」
「いや、ダメじゃないけど。素直に嬉しいよ?」
「ああ、よ、よかった…。驚かせないで下さいよ、アヤ様…。心臓が止まるかと思った…」
安堵するゴウヤに、皆が微笑んで拍手を送った。
「いいよな、ゴウヤ。俺の時は拍手なんて無かったぞ」
スオウが少し不貞腐れながらそう言った。
「だって、スオウの時は、周りにお母さんしかいなかったじゃない?」
綾がそう言うと、スオウが「そう言えば、そうでしたね」と言って笑った。
頼もしい仲間達に囲まれながら、綾はこの幸せな時間が永遠に続けばいいのにと、そう、思わずにはいられなかった。
数日後、綾とスオウ、ゴウヤの三人は、ババ様に呼ばれ、術式省の中にあるババ様の部屋に通された。
綾が初めて足を踏み入れたババ様の部屋には、真ん中に炎が燃え続ける小さな炉があり、部屋の中は微かに御香か何かの、少し懐かしい感じのする香りが漂っていた。
まだ昼過ぎなので、窓からは暖かな日の光が差し込み、部屋を明るく照らしていた。
「忙しい中を呼びつけて悪かったね。まあ、三人ともそこにお座り」
炉の近くの定位置に座っていたババ様に促され、三人は炉の周りにある座布団の上にそれぞれ座った。三人が座り終えると、ババ様がニヤリと笑いながら言った。
「ケイから、スオウだけではなく、ゴウヤも綾に忠誠の誓いをしたと報告があってね」
綾達は何かまずい事をしたかな、とそれぞれ背筋を伸ばしてババ様の言葉を神妙な面持ちで聴いていた。
「王家の者に対する忠誠の誓いは、普通に誓っただけでは十分ではないのでな」
「え、えええっ?」
スオウとゴウヤが同時に驚きの声を上げた。
「十分じゃないって、それはどういうこと? ババ様」
綾が尋ねると、ババ様はフォッフォッフォといつものように笑って言った。
「言い方が悪かったようじゃな。王家の者に対する忠誠の誓いは、誓った上に紋章を繋げねばならんのじゃ」
「紋章を、『繋げる』…?」
「そうじゃ。本来は王家の者が誓いを受けた後に行うことじゃが、アヤにはまだ教えておらんでな。ほれ、まず、スオウの紋章とアヤの紋章を向かい合わせに重ねてみるのじゃ」
ババ様に言われたように、綾は自分の天龍の紋章とスオウの白虎の紋章を向かい合わせに重ねた。不思議なことに、紋章はカチンと言う金属音と共に、しっかりと重なり合った。
「アヤよ。二つの紋章を両手でしっかり挟んで持ち、こう胸元に掲げ持つのじゃ」
「こう?」
「そうそう。そして、仕上げにこう言って念じるのじゃ。『我に忠誠を誓いしこの紋章に、我が庇護龍の加護のあらんことを』とな」
綾はババ様に言われた台詞を数回頭の中で反復してから、深呼吸を一つして瞳を閉じた。
「我に忠誠を誓いし、この紋章に、我が庇護龍の、加護のあらんことを!」
一瞬、両手の中が暖かくなり、閉じているはずの瞼に光を感じた。そっと目を開けると、綾の手の中の二つの紋章は眩しい七色の光を放っていた。
「俺の、紋章が…」
スオウは息を飲みながら、自分の何の変哲も無いはずの白虎の紋章が七色の光を放つのを見つめている。
皆が見守る中、二つの紋章は徐々に光を弱め、その光は紋章からほのかに滲み出る程度に収まった。
「スオウの紋章はどんな塩梅だい?」
「あ、は、はい」
ババ様の声に慌ててスオウの白虎の紋章を自分の紋章から放すと、綾は驚きのあまり言葉を失った。
スオウの紋章に刻まれた白虎が、綾の天龍と同じ七色に輝いていた。
「え…? ど、どうして?」
綾がよく顔を近づけてスオウの紋章を見てみると、その表面にうっすらと龍石の加工が施されているのがわかった。
「スオウの紋章に、龍石が…?」
綾は七色に輝く白虎の紋章をスオウに差し出した。スオウは自分の紋章を受け取ると、信じられないと言う顔をしながら紋章を色々な角度で眺め続けた。
「馬鹿な。俺の紋章には、龍石など付いていなかった。どういうことだ、これは、一体…」
ババ様は目を細めながら言った。
「これが、龍石の持つ不思議のうちの一つじゃ。王家の者が『繋げる』ことによって、龍石は忠誠を誓ったものの紋章にも宿る。己の紋章の龍石はそのままに、な。そして、移った龍石もまた、元の龍石と同じ色に輝く。まっこと、不思議なものじゃて」
スオウは、じっと自分の紋章を眺めていた。ゆらゆらと輝く7色の光が、スオウの顔をぼんやりと照らしている。
「誓いの紋章は、主の死か、自分の死。もしくは自分の裏切りを持ってその光を失うそうじゃ」
ババ様の言葉に、ゴウヤが尋ねた。
「つまり、僕らが主の側にあり続ける限り、僕らの紋章は龍石を宿したままだと?」
「そういうことじゃ。お前達、下僕の龍石は、いわばお前たちと主の繋がりを示すものじゃな」
ババ様の言葉に、三人はしばらく顔を見合わせたまま黙っていた。兄弟のいない綾にとって、スオウとゴウヤの間に生まれたこの絆は、とても暖かな、そして綾を強くする絆だ。兄弟の絆のように、一生、切れることの無い絆―。綾は不思議な気持ちでスオウとゴウヤの顔を見比べた。
「アヤ様。僕の紋章も、お願い致します」
ゴウヤが真っ直ぐに綾を見ながら、自分の朱雀の紋章を綾に差し出した。綾はそれを頷きながら受け取ると、スオウの紋章と同じように綾の紋章と重ね合わせ、静かに念じた。
「我に忠誠を誓いしこの紋章に、我が庇護龍の加護のあらんことを!」
ゴウヤの朱雀にも綾の龍石が宿り、七色に輝き始めた。ゴウヤに紋章を返すと、ゴウヤはしばらく感慨深げに自分の紋章を見つめていた。
ババ様は三人を満足気に見渡すと、不意に険しい顔になった。
「お前たちもわかっておろうが、披露目の儀も近く、客人やそれに伴う人の出入りも頻繁になろう。その中にどんな輩が紛れ込んでいるやも知れん。万が一の場合、お前たちの持つ繋がりが役に立つじゃろうが、用心は怠りなさるな」
「はい」
三人が強い瞳でババ様に答えると、ババ様は目を細めて微笑んだ。
「…龍石が、増えた。何故だ?」
自分に与えられている城の部屋でくつろいでいると、天龍はふと、何かの違和感を感じた。いつも感じている綾の気配とは別に、二つの龍石の気配が天龍の意識に紛れ込んできたのだ。
「龍脈の乱れか…? いや、違うな」
「上様、どうなされましたか?」
陸が天龍の様子を心配して声をかけた。天龍はしばらく目を閉じたまま瞑想していたが、一つ小さな溜息をつくと、陸を見た。
「ん。天龍の龍石の気配を感じたんだ。綾のものよりはずっと小さいけど、二つ。この城の中にある。どういうことだ、これは?」
天龍の問を受けて、陸は瞳を閉じて軽く瞑想をした。陸の意識の中に、二つの新しい龍石の気配が見出されると、陸は微かに微笑みながら答えた。
「これは、アヤ様の下僕の龍石でしょう。今、西に見えるのが恐らくスオウの、南に見えるのがゴウヤのものかと」
「何故奴らが龍石を持っているんだ?」
「そりゃぁ、姫さんの紋章と繋げたからだろ?」
窓からふわっと東風が入ってきた。
「東風。お前、また窓から。今は城に他国からの客人が次々と到着しておるのだ。誰かに見られたらどうする」
陸が東風をたしなめると、東風は肩をすくめながら答えた。
「他の国にだって、オイラ達みたいなのがいるんだろう? 中にはオイラみたいに身軽な奴もいるんじゃねーの?」
「それでも、慎め。厄介事は、サガミの件だけで十分だ」
「わかってらぁー」
東風はそう言うと、不貞腐れながらソファにどかっと勢いよく腰掛けた。
「東風~? あまり埃を立てないで下さいね~? お掃除するの、大変なんですから~」
澪が少し危なげな手つきで四人分の茶を運んできた。
「…手伝おう。見ておれん」
「陸、ありがとうございますぅ~」
陸と澪が茶の用意を整えると、四龍はテーブルを囲んで日課のお茶の時間に入った。
「で、『繋げた』って、何だ?」
天龍が尋ねると、澪が驚いた顔をして言った。
「上様、忘れちゃったんですか~? 主と下僕が忠誠の誓いの後に紋章を繋げるのは、一般常識ですよぉ~?」
澪の言葉を陸が静かに訂正する。
「一般常識、ではなかろう。これは我らの庇護下にある王家と、王家の者に忠誠を誓った者のみに行われることだ。上様が覚えていらっしゃらないのもいた仕方なかろう。上様は今まで一度も庇護下の者が紋章を繋げたことがないのだから」
「あ、そう言えばそーか。上様、庇護龍になったのこれでたったの二度目だしな~。オイラなんて、もう何度も庇護龍にされて、紋章もガンガン繋げられたっつーのに」
東風が不満げにそう言うと、天龍は眉間に皺を寄せながら陸に尋ねた。
「だから、何なのだ、その、紋章を繋げると言うのは」
「王家の者と忠誠を誓ったものは、王家の紋章とその者の紋章を合わせ、王家の者の祈りと共に龍石が移り、主の庇護龍の色と同じに輝きます。以後、その者も主と同じ庇護龍の庇護下に置かれます」
「…面倒だな」
「上様~。心の声が、駄々漏れですぅ~」
澪がお茶を優雅に飲みながら言う。
「だって、そうだろう? 僕はアヤだけ庇護したいのに、庇護しなくても大丈夫そうなスオウと、庇護するのが面倒そうなゴウヤの二人も、これから僕は庇護しなくちゃいけないわけだ。面倒臭い!」
子供のように文句を言う天龍に、さらに子供のような東風が茶々を入れる。
「でも、これ決めたの、神さんっすよ。オイラ達じゃどうにも出来ないことだから、諦めて仕事した方がいいっすよ、上様」
「う…。それは、さらに面倒だが、むぅ」
「まぁ、よろしいではないですか。間も無く披露目の儀も執り行われ、そのためにこの城には他国からの客人やら、商人やら何やらが大勢出入りしておりますゆえ、我らだけではアヤ様をお守り通すことが難しいかと」
陸がたしなめると、天龍はフンと鼻息を荒くすると、テーブルに頬杖を付いた。
「サガミがこの国の宰相じゃなかったら、もう何とか解決してたかもしれないんだが。あいつ、ここのところ警戒して、ちっとも尻尾を出さないからな。頭のいい奴はこれだから嫌いだ」
天龍がブツブツと文句を言うと、他の三人が顔を見合わせて笑った。
「何なんだ、お前達…」
怪訝そうに天龍が顔を上げると、澪が笑顔で答えた。
「い~え~。何か、上様が可愛らしくていらっしゃるなと思ってぇ~」
「オイラはガキみて~とかって思ったけどな」
「お前に言われたらお終いだ、東風。しかし、上様がそのように気取らずにいらっしゃるのが、やはり珍しいと言うか…」
「お前達。言いたい事を言うようになったね…」
天龍が溜息をつきながらそう言うと、三人とも声を上げて笑った。
「アヤ様に巡り会えて、本当によかったですねぇ~、上様」
何気ない澪の言葉が、すっと天龍の胸に落ちた。天龍の中でバラバラになっていた絵合わせの札がしっかりと合わさったような、そんな不思議な感覚がして、天龍は自分でも気付かぬうちに顔に満面の笑顔を浮かべていた。
「そうだね。僕もそう思うよ、澪」
披露目の儀が行われるまで、残り数日と迫っていた。