8章 「動き出す影」
「アヤ姫が無事に帰還された、と聞いたが…。それは真か?」
王城二階にある宰相執務室。
品の良い調度品で整えられたその部屋に不似合いな体格の大きい兵士達が三人、執務机の前に緊張した面持ちで直立していた。その男達に向かい、質素だが上品な衣服に身を包んだ長身の男性が、その穏やかな声に似つかわしくない鋭い眼光で兵士たちを射抜いた。
「は、はい。その通りでございます、サガミ様」
兵士の一人が恐る恐るそう言うと、サガミはフッと鼻で笑った。
「そうか。お前達はあの人数をもってしても任務を遂行できなかった、ということだな?」
「わ、我々は―」
言いかける兵士をサガミは手で制した。
「言い訳はいい。何が起こったのだ。数十人使っても仕留められなかったという、その理由を話せ」
兵士達は唇を噛み締めた。頭数を揃えるために盗賊上がりの者も含んでいたとはいえ、それぞれ剣の腕を自慢できるような者達ばかりで構成されていたはずだった。だが、終わってみれば、生きて動けるのはここにいる三人のみ。他の連中は皆、返り討ちに遭って死んだか、重症を負って起き上がることも出来ないという。
まず、綾達が地龍の祠に向かう道中に仕掛けていた斥候数名が全員、スオウに倒された。スオウは意味も無く先行していたわけではなかったということだ。
そして、彼らは綾の一行が祠の魔物に歯が立たないだろうと思っていた。少なくとも、そこで相手の戦力が半減するだろうと予測していた。が、これも見事に外れ、それどころか相手は具現化した地龍を伴って洞窟から出てきた。戦力が半減するどころか、増えてしまったのは大きな誤算だった。
「あの洞窟に入って無事だった者は、今までおりませんでした…」
彼らの情けない報告を聴き終え、サガミは忌々しげに窓の外に視線を移すとチッと舌打ちをした。
「スオウとケイがそこまでやるとは、予想の範囲外だったな。ゴウヤも足手まといになると思っていたが…。しかし、それでもあの洞窟の魔物を倒したのは、奴らだけでは不可能であったはず。と、すると…。天龍の仕業か…?」
「ざ、残念ながら、我々には彼らがいかに洞窟の魔物を退治したのかは分かりかねます。尾行していた者がその後の戦いで殺られてしまい、他には誰も見ていなかったのです」
「そいつは何も状況報告を残していなかったとでも? お前、随分と怠慢な仕事の仕方をするのだな」
「め、滅相もございません!」
兵士たちが全員、青ざめた顔をして叫んだ。そのうち、一人の兵士が思い出したように言った。
「確か、その者が死ぬ間際に、姫君の光がどうとか申しておりました」
サガミはその言葉に興味を示した。
「『姫君の光』…? 何なのだ、それは?」
「も、申し訳ございません。それ以上は私には、何とも…」
サガミは腕を組みながらしばらく一人で考えていた。
「光、か…。ふむ。面白い」
少しの間、執務室の中に沈黙が流れた。ものの数分であったその沈黙は、兵士たちにとって何時間もの長さに感じられるほど、苦痛な時間だった。
サガミがゆっくりと兵士たちに向き直った。
「お前達は明日から通常業務に戻れ。こちらから連絡をするまで、ここには近付くな。よいな」
「はっ」
兵士達はサガミに一礼すると、そそくさと執務室から退出した。彼らの足音が遠ざかると、サガミは一言「役立たずが」と吐き捨てるように言った。
部屋の中に静寂が戻った。
「サキ。そこにいるか?」
サガミがどこへともなくそう言うと、部屋の隅の暗がりから女の声がした。
「はい。サガミ様。ここに」
控えめな声と共に、暗がりから黒装束の女が現れた。後ろに一つに束ねられた長い黒髪が背中に揺れ、その頭は黒いウサギのような耳がある。
「作戦変更だ。娘の処理はしばらく保留とする。先に奴らの処理を。頼めるか?」
「御意のままに」
サキと呼ばれた女はサガミの前に跪いて一礼すると、すぐに闇の中へと気配を消した。
サガミは窓辺に立ち、暗闇の広がる外を眺めた。湿った風が頬をかすめ、やがて雨が降り始めた。
「ふん。あの娘、なかなかやるねぇ。とすると、次は…」
サガミはしばらくの間、自分の顔に当たる雨の感触を楽しんでいた。
「アヤ様、御無事で何よりですぅぅ!」
澪の興奮した声がハヤト王の寝室に響き渡った。
一行が地鎮めの儀を無事に終わらせ、地龍を見事復活させて戻ってきた翌朝。一行は全員揃ってハヤト王の寝室へと旅の報告をするために参上した。取次ぎを済ませて寝室の中へ一歩踏み出した途端、綾は澪からの熱烈な歓迎を受けた。
「ありがとう、澪ちゃん。何か変わったことはなかった?」
綾が自分に抱きついたまま離れない澪の頭を撫でながらそう言うと、澪は元気に首を横に振った。
「変わりはありません! あ、ハヤト様が最近、だいぶ床から起き上がれるようになられました」
「本当ですか? お父様」
綾の言葉にハヤトは目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「ああ。澪が戻ってから、随分身体の調子が楽になったよ。それに、昨日久しぶりに降った雨のお陰で、今日は呼吸をするのが随分と楽だ。これもお前のお陰だね、アヤ」
そんな、と恐縮する綾の耳に天龍が囁いた。
「アヤと僕の愛の力だよね、やっぱり」
「はいはい」
綾は自画自賛に軽いセクハラを加えた天龍を軽く受け流し、ハヤトのいる寝台の側へと近付いた。確かに、ハヤトの顔色は綾達が旅立つ前よりも良くなっているように見える。ハヤトの寝台の横にはいつものようにババ様が椅子に座り、皆の様子を観察している。
綾は寝台の手前で止まり、ハヤトとババ様に向かって深々と一礼をした。
「では、改めまして。お父様、ババ様、無事に戻りました」
「うむ。大儀であった。我が娘ながら誇りに思うぞ、アヤ」
綾はハヤトの言葉に、何と答えていいのかわからなかった。今まで、誰かに「誇りに思う」と言われたことが無かったために、ハヤトの言葉を嬉しく思う反面、自分はこの旅でほとんど役に立っていなかったと自覚している綾には、ハヤトの言葉を素直に受け取ることができなかった。
「どうしたね、アヤ? 何か問題でもあるのかい?」
ババ様は綾の戸惑った様子に気付いたらしい。綾は慎重に言葉を選びながら答えた。
「あ、いえ。ただ、ここにいる皆の力で無事に戻ってこられたので、私ではなく、彼らを褒めていただきたいな、と」
綾の言葉に、ハヤトとババ様は顔を見合わせて笑った。
「言われずとも、彼らがしっかりとお前を守ってくれたことはわかっておる。案ずるな」
「はあ…」
「どれ、手をお貸し、アヤ」
何のことかよくわからず、取り合えず言われた通りに手を差し出すと、ババ様の皺がれた手が綾の手を包み、綾はハヤトの近くへと連れられて行った。ババ様は綾の手に、さらにハヤトの手を添え、目を閉じて何かを呟いた。その瞬間、綾の手から熱がほとばしる。
(何、これ?)
綾は目を見開いて光に包まれた自分と父とババ様の手を見ていた。光の中に、小さな自分やスオウ、ケイ、ゴウヤ、そして天龍が見えた。まるでビデオの早送りを見ているかのように場面が流れていく。
「これは…?」
「アヤ様。これは、幻視の術です。ババ様が術を用いて、アヤ様の御覧になってきたものをハヤト様と共に御覧になっていらっしゃるのですよ」
後ろに控えていたケイが囁いた。
やがて光の中に昨日見たワトの北門が近付いてくると、ババ様はそこで術を切った。
「…やつらは一体、何者だ」
ハヤトが呟いた。その口調からは、怒りが滲み出ていた。
「恐れながら、申し上げます」
珍しく、スオウがケイよりも先に口を開いた。
「あの者達は盗賊のなりをしてはおりましたが、恐らくはいづこかの兵士かと。ほとんどの者が正規の剣の鍛錬を受けたと思われる太刀筋でしたし、あの統率の取り方は盗賊というよりは、軍隊のものです。そこらの野盗風情とは、異なっておりました」
スオウの言葉にケイが頷き、その言葉にゴウヤが「え? そうなんですか?」と驚いた顔をしていた。
(やっぱり、野盗なんかじゃないんだ…)
綾にとっては何となく腑に落ちたと言った方がいいような状態だった。彼らに襲われた時、祭祀官の正装をまとったゴウヤよりも「ただのお付き」であるはずの綾を狙っていたのは変だと思っていたし、綾を狙っていると言うことは、彼らが綾が何者であるかを知っている、ということになる。旅の間中、綾は天龍の紋章をずっと服の中に隠し持っていたので、紋章から綾の身分を判別することはできなかったはずだ。
「言いたくはないが、明らかにアヤを狙っていた奴もいたね。お前達、襲ってきた連中の顔に見覚えはなかったのかい?」
ババ様の問に、スオウ以外の全員が首を横に振った。スオウは腕を組みながら、じっと何かを思い出そうとしているようだった。
「スオウよ。あの者達に見覚えがあるのか?」
ハヤトが問いかけると、スオウはハッと顔を上げ、慌てて首を横に振った。
「…申し訳ございません。何人か、見たことがあるような気もしたのですが、はっきりとは思い出せません。自分の思い違いかもしれませぬ故―」
「そうか。しかし、そなたが見たことがあるかもしれんと言うと、軍部の者が混ざっておったのやもしれぬ。ふむ。警戒を強めねばなるまい」
ハヤトの言葉に、ババ様が頷いた。
「そうじゃな。そこで、スオウとケイには頼みがある」
ババ様の言葉に、スオウとケイは姿勢を正した。
「お前達、表向きはアヤの教育係ということで、アヤの側に付いていてやってくれんかの」
この申し出をスオウが断る理由は何一つ無い。
「異存はございません」
スオウがそう言って頭を下げるのを見届けると、ケイは静かに「わたくしも異議はございません」と答えた。二人の言葉を聞いて、不満気にゴウヤが口を挟んだ。
「ババ様。どうしてスオウ殿とケイ殿だけなのですか? 私では力不足でしょうか?」
ゴウヤが名乗りを上げ、その場にいた全員が目を丸くした。
「意気込みは立派じゃが、お前にアヤが守れるのかい?」
ババ様が意地悪そうに微笑むと、ゴウヤが胸を張って言った。
「ババ様だって、私がしっかり戦っている雄姿を先ほど幻視で御覧になったばかりではありませんか。私もアヤ様の教育係に任命してください!」
ゴウヤの言葉に、綾は少し感動していた。王からの信頼を示す紫玉を持つケイやスオウはともかくとして、ゴウヤまでもが綾を守ってくれようとしているのが綾には嬉しかった。
「ババ様。私の教育係ということにするのであれば、スオウとケイだけよりは、ゴウヤもいた方がそれっぽいんじゃないのかな」
綾は、心ばかりの助け舟を出してみた。
「ふむ…。それもそうじゃな」
綾の意見を少し考え、ババ様はにっこりと笑った。
「そうであれば、四省からそれぞれ『教育係』を出した方が筋が通るかもしれんな。アヤよ。残りの人選はわしに任せてくれるかの?」
「はい。宜しくお願いいたします」
綾が一礼すると、ババ様が嬉しそうに微笑んだ。
「よしよし。では、わしの『とっておき』を用意するからの」
「え? ババ様の『とっておき』って、ケイとスオウだけじゃなかったの?」
綾の問に、ババ様はカッカッと声を上げて笑った。
「このわしを見くびるんじゃないよ、アヤ。わしの『とっておき』はまだまだおるぞい」
「その『とっておき』とは、紫影と呼ばれる者たちのことですよね?」
ゴウヤの言葉と同時に、部屋の中に妙な緊張感が漂った。綾は一瞬眉を動かしたケイとスオウの他にも何かが静かに、しかし強い殺気を放っているのを感じたが、ババ様とハヤトは落ち着いた表情のまま、黙ってゴウヤを見ている。
(何、この気は? お父様達、これが平気なの?)
綾は不安を抱えたまま、ババ様に尋ねた。
「バ、ババ様。『しえい』って…?」
ババ様は部屋の中を一回見渡すと、「ああ、まだ教えていなかったね」と言いながら軽く右手を挙げた。それは、眼に見えない何かを「押し留めた」様に綾には見えた。その証拠に、部屋の中に漂っていた殺気が一瞬にして引いていった。
「紫の影と書いて、紫影と呼ぶんだよ。ゴウヤ、お前はどこまで紫影について知っておる?」
「私が知っているのは、ここに勤めている者ならば誰もが知っている範囲でしかありません。『王家をお守りするために影として付き従う者達を紫影と呼ぶ』とだけ。ただ、この旅での経験から、スオウとケイの二人が紫影であるのではと、ずっと思っていました」
綾はスオウとケイを見た。二人とも平静を装ってはいるが、ババ様の動向を注意深く見守っているのが見て取れた。
「その紫影って、要するに、裏組織とか、忍者みたいなものなの?」
綾の問に答えたのはハヤトだった。
「まあ、言うなればそのようなものだ。紫影は王家を守る影。表立っての活動はせぬ。彼らは王の命令一つで王家の剣となり、盾となり、耳となり、腕となる者達だ」
「そして、わしが彼らの教育を施し、統率をしておるというわけじゃよ。ほっほっほ」
(「ほっほっほ」じゃないわよ、ババ様…。それって、すごいことじゃないの)
しかし、考えてみると、ただの四省の長であるババ様が常に王の部屋に入り浸っている理由が分かる。そして、所々で魔物が出る他は割と「平和」なはずのヤマトの中で、ケイとスオウが妙に戦闘慣れしていることも理由が付く。
「そんな組織が必要な程、ヤマトは不安定な国なんですか?」
「それは違うぞ、アヤよ」
ハヤトがいつになく真剣な眼差しで綾を見た。その姿からは「王の威厳」が漂っている。
「どの国も、水面下では様々な取引や計画が行われているものだ。国民が知るのは、その上に出てきたほんの一握りの事柄に過ぎない。安定した国と言うものは、その水面下での事柄が上手く処理されているだけに過ぎない」
「不安定な国は、その水面下での事柄が上手く処理されていないから、それらが表面に出やすくなって不安定に見えるってことですか?」
綾が真っ直ぐに返した視線を、ハヤトは王として返した。
「うむ。そうだ。少なくとも、わしはそう思っておる」
綾はハヤトからの王としての言葉を真摯に受け止めた。と、同時に一抹の不安が心をよぎる。
(国を動かしていくってことは、私が思っているよりも沢山の事をやらなくちゃいけないんだな。それも、細心の注意を払って…。そんなこと、私にちゃんとできるのかな)
綾の不安を察してか、ババ様が言った。
「心配することは無い。お前が仕事をしやすい様に、紫影はおるのじゃぞ。」
「で、その紫影に私も加えていただけますか?」
ちゃっかりとゴウヤが尋ねると、ババ様は困ったような顔をして言った。
「それがのお…。以前、お前を紫影に入れたいと言ったら、ワダチに猛反対されてのお…」
「父が? 何故です?」
食って掛かりそうな勢いのゴウヤに、ババ様がニヤッと笑って答えた。
「お前に、紫影の鍛錬は耐えられんと言っとったわ」
「!!」
ゴウヤは俯きながら唇をきつく噛み締め、顔を真っ赤にしながら黙っていた。ババ様はゴウヤの肩をポンと軽く叩くと、微笑んで言う。
「まぁ、取りあえず、まずはワダチとちゃんと話をしてくるのじゃな。お前は元々欲しかった人材じゃ。お前がやりたいというのであれば、わしは喜んでお前を迎え入れよう」
「あ、ありがとうございます!」
興奮するゴウヤの後ろで、ケイとスオウが小さな溜息をついたのを綾は見逃さなかった。
報告会は滞りなく済み、一行は一度解散して、各々の仕事へと戻っていった。
綾はその日は特に何も予定が入っていなかったので、澪とリンから留守中の様子を聞き、その後に天龍と地龍を交えて綾の部屋で昼食を取った。
食事の間中、澪は地龍に引っ付いたまま離れなかった。
「澪ちゃんって、本当に地龍さんが好きなのねぇ」
食後のお茶を飲みながら綾が言うと、澪が嬉しそうに言った。
「陸は澪のだ~い好きなお兄様ですもの。当然ですぅ」
「あ、そうか。澪ちゃんと地龍さんは兄妹になるのね。と、すると、他の四龍も兄弟ってこと?」
綾の問に地龍が頷いた。
「ええ。その通りです。我らは上様を父とし、同じ母から生まれた兄弟です。それにしても、アヤ様」
「何?」
「その…。私のことは、どうぞ陸と名前でお呼び下さい。あなたから『地龍さん』と『さん』付けで呼ばれるのは、恐れ多いと申しますか…」
陸の言葉に首を傾げる綾の横で、天龍が笑いを堪えているのがわかった。
「…何でそこで笑ってるのよ、天龍」
「いや、確かに、『地龍さん』はないよな。義理の息子に対して」
「なっ! ちょっと、『義理の息子』って何!」
真っ赤になって反論する綾をよそに、天龍は余裕の顔で綾の肩に手を回しながら言った。
「当然じゃないか。僕らが結婚すると、六龍は君にとって、かわいい義理の子供たちになるんだよ」
「か、かわいい…?」
綾はそう言って陸を見た。陸はどう見ても三十代前半。身体つきも天龍より二回りくらい大きい。
(澪ちゃんは「かわいい」けど、陸は、えーっと…)
「…無理」
「ええーっ? アヤ様、ひどいですぅ~」
綾の呟きに対して澪が頬を膨らませながら反論した。
「あ、別に、澪ちゃんが可愛くないって言ってるんじゃないよ? 澪ちゃんは可愛いよ? ただ、その、何? 私、まだ『お母さん』とか呼ばれたくないかな~って。ほら、私まだ、二十一だし?」
「まあ、確かに陸が息子って言うのもなぁ…」
天龍はそう言いながら呑気にお茶を飲んでいる。
「あんたは実の父親でしょう?」
「でも、僕はこの通り、見た目は陸と違って、若者だし?」
「陸だって見た目は若いわよ?」
「陸はどう見てもおっさ…。いや、すまん、陸。君は大人の魅力たっぷりでステキだよ」
見ると、テーブルの向こう側で陸が天龍を睨み付けている。
「陸~。目つきが怖くなってますよぉ~」
澪が陸の顔を両手で挟み込むと、陸は無理矢理口元で笑顔を作って見せた。
「それにしても、六龍って、えーっと、陸が長男で、澪ちゃんが末っ子ってこと?」
「いえ。私が長男なのは合っておりますが、澪は二番目です。東風が三番目、焔が四番目。月影と日向は双子で、彼女たちが末です」
「ご、ごめん、陸…。『こち』とか『ほむら』とかって、誰?」
「ああ、申し訳ございません。東風は風龍、焔は火龍、月影は陰龍、日向は陽龍の名です。我らはお互いを名で呼び合いますので、つい…」
恐縮する陸に向かって綾は微笑んだ。
「ああ、ごめん。いいのよ。気にしないで? えーっと、じゃあ、皆はかなり歳の離れた兄弟って感じなのかな?」
「いいえ~。私たち、生まれ年はお互いにそんなに離れていないのですけれど、見た目がかなり違うと言うか。どういう訳か、私が一番見かけは若いんですよね~」
「はい?」
綾はいまいち澪の言ったことが理解できなかった。
(歳は近いのに、見た目が皆てんでバラバラで、しかも二番目のはずの澪ちゃんが一番見た目が若い? 何それ?)
「まぁ、僕らはほら、普通の人間と違って、ある時を境に成長が止まると言うか。それに、アヤだって、もし僕がヨボヨボのおじいさんの姿してたら、お嫁になりたくないでしょう?」
「そ、それはそれで、悲しいような…」
「なら、細かいことは気にしない」
(ああ、またいいように丸め込まれてるような気がする…!)
お茶を飲み干してティーカップをテーブルに置く時に、天龍の足元が目に入り、綾はふと、天龍の影にはまだ東風がいるはずだと思い出した。
「それはそうと、残りの龍達の様子は最近どうなの?」
綾の問に、天龍が困ったような顔をして答えた。
「あの旅のお陰で君とまた近づけたと思ったんだけどねぇ…。東風はまだ具現化しないし、焔は応答無し」
「そっか…」
綾は膝に肘をついて頬杖をついた。その綾を後ろから抱きかかえるようにして、天龍が耳元で囁いた。
「で、月影と日向は、いつ作る?」
「ちょっ!!」
驚きのあまり、綾の肘が膝の上から滑り落ちた。
「変なこと言わないでよっ! 『作る』とかって言わないの!」
「ええ~? 僕は真面目に言ってるんだよ?」
「その話は却下!」
「君となら、七龍どころか十五龍くらいまでいけそうだと思うんだけどなぁ…」
(何を言うんだ、この男は!!)
綾は上目遣いに天龍を睨み付けた。
「…お黙り、このセクハラ男」
天龍はいつもの調子で「はいはい」と言うと、椅子にもたれながら悠々とお茶を飲んだ。
「あの~ぉ」
綾と天龍の遣り取りを黙って見ていた澪が、申し訳なさそうに口を開いた。
「何? 澪ちゃん」
「アヤ様、『せくはら』とは、何のことですか?」
「ああ、それはね」
天龍が得意気に答える。
「美しい女性を敬い、褒め称える愛の行動を、アヤの世界ではそう呼ぶのだよ」
「ぜんっぜん違う! あんたみたいに平気でイヤラシイ言葉をポンポン口から出したり、許可もなく身体に触ってくる行為の事をそう呼ぶのよ!」
綾の言葉に、天龍は動ずることも無く、ニヤッと笑って綾を抱き寄せる。
「僕らの間に、許可など必要あるまい?」
(…だめだこりゃ)
綾は天龍を押しやってソファから立ち上がると、ドアへと向かった。
「アヤ様。どちらへ?」
入口の近くに控えていたリンが綾に声を掛けた。
「あ、うん。ちょっと気分転換に庭にでも行こうかと思って。さっき窓から外見たら、大分雨も止んできたみたいだし。」
「それならば、せめてどなたかと御一緒に。スオウ様から、アヤ様をお一人でお部屋の外に出さぬようにとキツーーク申し渡されておりますので…」
「もう~。子供じゃないのになぁ、私」
綾がふて腐れると、リンはくすっと小さく笑った。
「スオウ様は、アヤ様のことが心配なだけですよ。聞けば、御身を狙う者がいるとのことではありませんか。城の中とはいえ、用心に越したことはありませんから」
「ありがと。じゃ、えーっと。澪ちゃんはお父様の所に戻るのよね? それなら、陸。一緒に来てくれる?」
「は。…あ、えー」
陸の歯切れの悪い返事に視線を少し横にずらすと、「何で僕を呼ばないんだ」とふて腐れる天龍がいた。綾は溜息を一つつくと、天龍に言った。
「しょーがないから、あんたも来ていいわよ、天龍」
綾の言葉に、天龍は先程までのふて腐れた顔をすっかり脱ぎ捨て、自信満々に「最初からそう言えばいいのに」と言いながら立ち上がった。
「それじゃ、行って来ますか。陸、行こう」
「はい。アヤ様」
「私もハヤト様のお部屋の前まで御一緒いたしますぅ~」
澪も席を立った。
「いってらっしゃいませ」
リンが笑顔で見送ってくれた。
「ところでさ」
部屋から出たところで、綾が天龍に尋ねた。
「あなたには六龍みたいに名前は無いの?」
綾の問に、天龍が「んー」と言いながら上向き、少し考えてから答えた。
「君は知っていると思ってたんだけど…。覚えてない?」
「え?」
首を傾げながら天龍の顔を見上げる綾を見て、天龍は少し悲しげな顔をした。
「いや。覚えてないなら、いい」
先に行こうとした天龍の袖を綾はとっさに掴んで引き止めた。
「何よ、それ」
「ううん。さぁ、行くよ」
「ちょっと、天龍!」
散歩の間中、天龍はそのことについては何も話してくれなかった。
「父上。お話があります」
その日の晩。ゴウヤは両親と共に暮らす自宅に戻ると、夕食の後に父のワダチに声を掛けた。ワダチはゴウヤの表情を見ると、少し微笑んで「よかろう」と自分の書斎へと移動した。
扉を閉め、父と向き合うと、ゴウヤは早速話を切り出した。
「父上。私が紫影に加わりますこと、お許し願えませんでしょうか」
「…ババ様から聞いたのか?」
「いいえ。私からババ様にお願い申し上げたところ、ババ様は父上に一度断られているとおっしゃいましたので」
「まあ、座れ」
ワダチはゴウヤに椅子を勧めると、自分は向かい側に座った。ワダチは真っ直ぐに自分を見つめるゴウヤを見て、満足そうに微笑んだ。
「今回の旅は、お前を色々と成長させたようだな。いい顔をしている」
父からの予想していなかった言葉に、ゴウヤは一瞬躊躇った。大体、普段簡単に褒め言葉を言うような人ではないのだ。
「あ、そ、それは、どうも」
「何が、お前を紫影へと導いたのだ?」
ゴウヤの中心を射抜くかのような鋭いワダチの視線と言葉に、ゴウヤは姿勢を正した。この質問は想定内だ。
「今回の旅で、私に足りないもの、そして私がしたいことが見えたような気がしたからです。そのためには、紫影に入るのが最良の選択だと思いました」
「お前に『足りないもの』とは?」
「実戦での経験です。僕はまだ、応用力や判断力に乏しいし、危険を察知するのもアヤ様にすら劣るほどで…」
ワダチの眉がピクリと上がった。
「ほお。アヤ様は危険を察知することがお出来になるのか」
「はい。気に対して大変敏感でいらっしゃいます。それに多分、心眼と呼ばれる能力をお持ちではないかと思うのですが」
ワダチは「心眼」の言葉に一瞬眉を上げたが、満足そうに頷いた。
「なるほどな。では、やはりあの方がアヤ姫さまであることに間違いはない、というわけだ。心眼は王家に特有の技だからな」
ワダチの言葉に、ゴウヤが両目を見開いた。
「父上…。父上は、アヤ様の事を疑っていらっしゃったのですか?!」
ゴウヤの問に、ワダチは首を軽く横に振った。
「いや。天龍の紋章をお持ちの段階で疑ってはいないよ。あの紋章は、御本人が近くにいらっしゃらない時は庇護龍の光を発せず、ただの龍の彫り物でしかない。ただ、それ以上の何らかの確証が欲しかっただけだ」
「ああ、そう言う意味ですか」
ゴウヤは少し緊張を解いた。だが、ワダチは真剣な表情でゴウヤを見ている。
「それで、お前の『したいこと』というのは?」
ゴウヤは慎重に言葉を選びながら言う。
「僕は、アヤ様の手助けをさせていただきたいのです」
「手助けならば、祭祀省副官として今のままでも十分にできるであろう? なのに何故、紫影なのだ? 理由には不十分だな」
「僕は―。僕は、今のままではアヤ様をお守りすることが出来ないんです! あ…」
咄嗟に言ってしまってから、「まずい」とゴウヤは思った。が、時すでに遅し。出された言葉を取り返すことは出来ない。ワダチは難しい顔をしてゴウヤを見つめている。
「ゴウヤ。お前…」
「あ、これは、その…。へ、変な意味ではありません。僕は、あの方がいつも一生懸命で、必死で頑張っていらして、だから、その、あの、お手伝いを…」
耳まで真っ赤になりながら口籠るゴウヤに、父の冷たい視線が突き刺さる。
「ゴウヤ」
「はい」
観念したゴウヤが真っ直ぐな視線をワダチに向けると、ワダチは大きく溜息をついた。
「お前は、自分の立場をわかっているのか? あの方は、天龍の印を持つお方なのだぞ」
ワダチの静かで低い声が、ゴウヤの身体に直接響く。
「…わかっています」
「わかっていない!」
バン!と目の前の机に手を打ちつけ、苛立ったワダチが立ち上がった。
「頭を冷やせ、ゴウヤ! よいか。祭祀官であるお前なら知っておるはずだ。このヤマトの長い歴史の中で、今までに天龍の印を持つ者が王家にお生まれになったのは、たったの二度だ! アヤ様はそのお一人。そしてもうお一人は―」
「アキ様。ヤマト始祖の姫君にして、六龍の御生母」
静かに言い放ったゴウヤを見下ろしながら、ワダチが息を整えた。
「…そうだ」
ワダチがゆっくりと椅子に腰を下ろし、二人はしばらくお互いを見詰め合ったまま、沈黙を保っていた。
スウ、とゴウヤが息を吸うのが聴こえた。
「僕は―」
ゴウヤが口を開いた。
「僕は、別にあの方から何も望んではいません。ただ、あの方をお守りし、お助けしたいんです。あの方は、この国のことなど何も知らずにお育ちになって、それなのに、一生懸命にこの国の事を考えてくださっています。ミト様と一緒に元いた世界に帰ることだってできたはずなのに、あえてこの地に留まって下さって、この国の事を知ろうと努力されています。何も出来ない子供のように泣かれていたかと思うと、力一杯立ち上がって前を向いていらっしゃる」
ゴウヤは自分の身体が熱くなるのを感じていた。
「僕は、あの方が、『この地に渡る風』になられると。そう、信じています」
ゴウヤの話を黙って聞いていたワダチが、ポツリと呟いた。
「『この地に渡る風』か…。しかし、やはりお前が紫影となるには…」
「僕は、昔の僕とは違います。身体も丈夫になりましたし、何も心配されるようなことは―」
「子を心配しない親がどこにいる?」
ワダチがゴウヤの言葉を遮って言った。
「私は紫影ではないから、彼らの鍛錬がどれほどのものかは実際にはわからん。が、相当に辛いものだと聞き及んでおる。ババ様からのお申し出を受けた時、お前はまだ十で身体も弱く、とてもではないが鍛錬に耐え切れないと思った。だから、お断り申し上げた」
「やはり、僕の身体のことが原因だったのですね」
頷いたワダチは、とても優しい穏やかな目をしていた。
「あの頃ほど倒れはしないといっても、やはり心配なのだよ、ゴウヤ。お前は私たちのたった一人の息子なのだから」
ゴウヤはただじっと黙ってワダチの言葉を受けていた。その姿を見て、いつの間にか「子供」から「大人」へと脱皮していた我が子の成長を嬉しくも寂しくも思い、ワダチは少し複雑だった。
(巣立ちの時か…)
ワダチは心を決め、ゴウヤに微笑みかけた。
「ゴウヤ。決心があるならば、やれるだけやってみるといい。お前の風の行く先に心のままに従うのもいいだろう。ただ、これだけは忘れないでくれ」
ワダチの大きな手がゴウヤの肩に置かれた。以前はこの手にすっぽりと収まってしまっていた肩が、気付かぬうちに随分と大きくなってしまったものだとワダチは思った。
「私も、母さんも、お前の幸せを誰よりも願っている。よいな」
ゴウヤ黙って頷くと、泣きそうになるのを堪えて立ち上がった。
「ありがとうございます。父上」
その夜、綾は子供の頃の夢を見た。
綾が八つくらいの時だったか。その頃の綾は人の気配に妙に敏感で、そのせいか人付き合いが苦手になってしまい、学校が終わるといつも家の裏手の空き地で一人で遊ぶようになっていた。
そんな時に、「お兄ちゃん」と出会った。
暖かで穏やかな気をまとったお兄ちゃんは、他人に対して警戒していた綾でさえ、安心して一緒に遊ぶことが出来た。綾よりも三つくらい年上で、ふわふわした少し明るい色の髪をしていて、とても綺麗な顔立ちをしたお兄ちゃんに綾はすぐに懐いた。
自然に、綾は毎日放課後その空き地でお兄ちゃんと遊ぶようになった。綾はその時間がとても好きだった。不思議なことに、お兄ちゃんと遊ぶにつれ、綾の他人への警戒心や気への異常なほどの過敏性が徐々に薄れていった。
半年ほど経ったある日、お兄ちゃんが言った。
「ごめんね、アヤちゃん。僕、もうここへは来られないんだ」
「やだ! どうして?」
泣きそうになる綾をなだめながら、お兄ちゃんは「ごめんね」を繰り返す。
「じゃあ、綾がお兄ちゃんのおうちへ遊びに行く!」
綾の言葉にお兄ちゃんは困ったような顔をして言った。
「だめだよ。僕の家は、ここからとても遠いところにあるんだ」
「遠いの?」
「うん」
「電車に乗ったら、行ける?」
「電車でもダメだよ」
「じゃあ、ひこーき?」
お兄ちゃんは黙って首を横に振り、綾の前にしゃがんだ。
「また、いつかきっと会えるよ。多分、アヤちゃんが大きくなったら」
「本当?」
お兄ちゃんは笑顔で頷いた。
「でも、綾、お兄ちゃんの名前も知らないし。大きくなってもわかるかな?」
お兄ちゃんは綾の耳元で内緒話をするように囁いた。
「…司」
「え?」
「僕の名前。『司』って言うんだ。覚えておいて?」
「つかさ…?」
「そう。忘れないで」
そう言ってお兄ちゃんは綾の頬に軽くキスをした。
「うん! 忘れない!」
それから綾がお兄ちゃんに会うことは二度となかった。
「つ、かさ…?」
ぼんやりと目を開けると、まだ外は薄暗かった。
「あ、れ? 何か、久しぶりに久しぶりな人の夢を見たような気がする…。何だったのかな、あれ」
日がもう少し昇るまで、もう一眠りしようと目を閉じる。閉じたまぶたの裏で、夢で見たお兄ちゃんの面影が映し出され、それがぼやけて綾の知っている顔と重なった。
「!!」
綾はパッチリと目を開いて飛び起きた。
「ど、どうして? 何で? 嘘…!」
重なった顔は天龍の顔だった。
綾の頭の中で、「覚えてないならいい」と寂しげに微笑む天龍の顔と「忘れないで」と微笑むお兄ちゃんの顔がオーバーラップする。二人の顔立ちは、偶然とは思えないほどよく似ていた。
「司、お兄ちゃん…? そんな、馬鹿な」
綾はそのまま、リンが起こしに入ってくるまでベットの上で悶々と悩み続けていた。