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この地に渡る風  作者: 成田チカ
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7章 「地龍の祠」

 地龍の祠へと続く洞窟の中は、奥に進むにつれ、どんよりと濁った生暖かい空気が辺りを満たしていた。

「これは酷いな。(くが)も気の毒に」

 眉をしかめながら呟く天龍の声を後ろに聴きながら、綾は静かに呼吸を整えた。先日、闇焦獣の気に当てられて酷いパニックを起こしたことを教訓に、呼吸と焦点はしっかりと保とうと心に誓っていた。

(でも、ここにいるのは闇焦獣みたいな力を感じない…。それでも、ゲームで言うところのダンジョン・ボスみたいなのが一匹いるみたいだけど)

 闇焦獣を先に見ていたのは逆に良かったのかもしれない、と綾は前向きに考えた。あれを見たことがなかったら、きっと小物の魔物にすら、綾は怯えてしまっていたかもしれない。

(ラスボスに最初に遭遇するっていうのも、何か変な話。それにしても、あんなに取り乱したの、きっと生まれて初めてだわ。記憶に無いもの)

 そんなことを考えながら歩いているうちに、先頭を行くスオウとケイが立ち止まり、壁際に身を寄せるのが見えた。

「アヤ様。あの先に地龍の祠があるはずです」

 綾の耳元でゴウヤが小さく囁いた。綾は軽く頷くと、スオウの手招きに従って同じように壁に寄った。

「結構、うようよといるな」

 中を少し覗いたスオウがうんざりとした顔で呟いた。

「大将が一匹。中位のが三匹。雑魚が八匹。合計十二匹」

 天龍がそう言うと、スオウが目を見開いた。

「確かか?」

「うん」

 天龍と違う声がして皆がその声の主に視線を移すと、それは綾だった。

「あれ? どうしたの、みんな?」

 綾は皆からの驚きの視線を受け、逆にきょとんとした表情で首を傾げる。

「アヤ様、中の魔物の数が、ここからおわかりになるんですか?」

 ケイの言葉に、綾は小さく頷くと、少し自信無さ気に答えた。

「え? うん。はっきりと見えるわけじゃないけど、十二匹、いるよ? 力が一番強いのはやっぱり大きいので。気になるのは、小さいのの中にも知能が高いのが数匹いるみたいなんだけど、それはどうする?」

 綾の言葉に、皆が一斉に息を飲んだ。皆が何故そんなに不思議そうな目で綾を見るのかが、その時の綾には全く理解できなかった。

「勝機があるな」

 ニヤッと笑ったスオウが言う。先程までのうんざりした顔はどこかへ行ってしまったようだ。

「よし。若干、作戦変更だ。俺が敵の大将に切り込む。ゴウヤは俺の援護。ケイは雑魚を頼む」

「私は?」

「アヤ様は俺たちの目になってください。松明を持ちながら武器を振るうのは分が悪い。同時に、近付いてくる敵は遠慮なく弓で射るように」

「ん。わかった」

 綾が頷くと、隣にいた天龍が不満げにスオウに言った。

「僕は?」

「あんたは命懸けでアヤ様をお(まも)りしていろ!」

「ま、妥当な選択だね」

 天龍の嫌味をしっかりと無視しながら、一向は戦いの準備の最終確認を行った。

「皆、準備はいいか?」

 スオウの言葉と同時に、その場に緊張感が走った。その張り詰めた空気が弓道場の空気に何となく似ているなと綾は思った。それと同時に、自分の心臓の鼓動が大きく、速くなるのを感じた。

「行くぞ!」

 スオウの合図に合わせて、全員が祠のある空洞の中に躍り出た。

 聴いたことの無いような奇声を発しながら襲い掛かってくる大小の魔物達を剣でなぎ倒しながら、スオウは一番大きな魔物に向かって真っ直ぐに走って行く。

()っ!」

 横からケイの凛とした声が響いた。ケイの投げ放った紙切れが淡い光を放つと共に中から巨大な氷の柱が現れ、小さな魔物達を次々と飲み込んで氷漬けにしていく。

(さん)!」

 綾の後ろにいたゴウヤの指先から踊り出た炎がスオウの剣先に飛び移り、剣が青白い炎を帯びる。

「うりゃぁぁぁ!」

 魔物の振りかざした爪の攻撃を交わしながら飛び上がったスオウが、ボス格の魔物の首に斬りかかった。その瞬間、綾はスオウの横に素早く近付く黒い影を見た。

「スオウ! 左!」

 綾の叫び声と同時にスオウが右へと飛びのいた。スオウが先程までいた辺りの地面に、大音響と共に大きな窪みができる。

(良かった。間に合った…! それにしても、みんな凄い…)

 綾が感心していると、近い距離から魔物の声が聴こえた。

「ギシャアアアア!」

「!!」

 綾の二倍ほどの大きさの魔物が奇声を上げながら、綾に向かって突進してくる。

「アヤ!」

 天龍が駆け寄ってくるのが目の端に見えるが、彼が助けてくれるのを待っていては間に合わない。

(私だって…)

 綾は矢の焦点を絞る。

「せい!」

 綾が放った矢が魔物の頭に突き刺さった。痛みにのけぞった魔物の首が次の瞬間、スオウによって切り落とされる。

「アヤ様、御無事ですか?」

「う、うん。ありがとう」

 スオウは綾が無事なのを確認すると、綾に背を向けて天龍を探した。

「天龍! アヤ様の側から離れるな!」

 スオウはそう叫びながら、また魔物に向かって走り出す。

「わかってる! ゴウヤ、後ろだ!」

 天龍の声に振り向きながらゴウヤが指先から白い光を放ち、光の柱が地面を駆け、その直線上にいた魔物達の身体が二つに裂けて地面に落ちた。

 空洞の中ではおびただしい量の血しぶきが飛び交い、魔物の悲鳴が反響した。綾が魔物の血から漂う生臭い臭いに慣れた頃、祠の空洞にはボス格の魔物が一匹だけ残った。

 自分の3倍くらい大きな魔物と睨み合ったまま、スオウが笑いながら言った。

「やっぱり、大将は強いな。大層しぶとい」

「楽しそうですね、スオウ」

 呆れ顔でケイが言う。

「まあな。実戦は久しぶりだからな」

「僕、実戦って、実はこれが初めてなんですよね」

 肩で息をしながらゴウヤが言った。

「え? 本当に?」

 綾の言葉に、ゴウヤが少しはにかんだ。

(ゴウヤも初めての実戦なのに…。私、ちっとも役に立ってない)

 綾は唇を噛むと、弓を持つ手に力を込めた。綾は視線を魔物から逸らすこと無く、静かに弓に矢をつがえた。

(大丈夫。昨日の魔神に比べたら、こいつなんか全然怖くない…!)

 弓を構えた綾の鋭い視線に気付いた魔物が、一瞬怯んだような気がした。

「今!」

 綾の叫び声と共に、スオウが地面を蹴り、ケイとゴウヤの二人の手から光の矢が飛び出す。

「うりゃぁぁぁ!」

「破っ!」

「散!」

 綾はスオウに向かって振りかぶった魔物の眉間に焦点を絞って矢を放った。

「せい!」

 大きな力がぶつかり合い、光の矢が魔物の身体を貫く。綾の矢を受けて眉間から血を流しながら苦しそうにもがいてはいるものの、魔物は大きな腕でスオウを薙ぎ払うと、ケイとゴウヤを威嚇した。

(まだ、だめなの? こいつ、他の魔物と全然違う!)

 スオウがよろめきながら立ち上がるのを確認して安堵の息を漏らしながら、綾は矢筒から矢を取り出して弓につがえようとした。その時、不意に天龍が綾の横に立った。

「アヤ。手を」

 突如、天龍に手を取られ、矢が綾の手から落ちた。

「え。何?」

「『滅せよ』と強く念じて」

「『滅せよ』?」

「そう」

 天龍は綾の手を上に掲げた。魔物が力を振り絞って最後の攻撃に出ようとしているのを感じて、綾は焦った。

(何かよくわからないけど、このままじゃ間に合わない! 『滅せよ!』)

 その瞬間、綾は自分の身体中の血が逆流するような錯覚を覚えた。それと同時に、天龍に掲げられた綾の手の平が熱くなり、そこから眩しい七色の光が魔物に向かって注がれた。

 魔物は光に包まれると断末魔の叫び声を上げ、徐々に空気に溶けるように消え去った。

 綾の手の平から注がれた残りの光が空洞全体に広がり、地面に倒れ付していた魔物の屍骸さえもが消えてなくなった。洞窟全体を覆っていた濁った空気も魔物の血の臭いも、今はもう感じない。

「こ、これは…?」

 辺りを見回していたスオウ達が綾の方を見た。綾は何が何だかよくわからない状態で、ただ天龍に手を上に掲げられたまま、その場に立っていた。

 下ろされた手の平を見ても、何も以前と変わりはない。

(何だったの? さっきの光…。私の手の平から出てた…?)

 綾はただ呆然と自分の手の平を見つめていた。


「お掃除、終了、と。ゴウヤ。儀式の準備を」

 呆然と立ちすくむ綾の横には、いつもの軽い調子でゴウヤに指示を出す天龍がいた。

「は、はい。只今!」

「わたくしも手伝います」

 ゴウヤとケイが慣れた手つきで祠の祭壇を飾り付けていく。忙しく動き回る二人の側で、天龍が祠を見つめている。綾はその様子を、少し離れたテレビの画面を見ているような感覚で見ていた。

(これは、何…? 私は一体、何を…?)

「アヤ様。いかがなさいましたか?」

 スオウが背後から声を掛けたが、綾にはそれが聴こえなかった。

(私の手から出た、あれは、何…?)

「アヤ様…? 大丈夫ですか?」

 ハッと我に帰って後ろを振り向くと、そこには心配そうな顔をしたスオウが立っていた。

「だ、大丈夫。ちょっと、自分のしたことに驚いただけ」

 明るく取り繕ってそう言う綾の顔を覗き込み、スオウは真剣な顔をして言った。

「本当に『ちょっと』ですか?」

 いつもながらのスオウの鋭い指摘に、綾は俯いて小さな溜息を一つついた。スオウに隠し事をするのは、綾には無理らしい。

「大分、かな。正直なところ…」

 俯いたまま地面を見ていた綾の視界に、スオウの足が見えた。それとほぼ同時に額に何か弾力のあるものが当たり、大きな暖かいものが綾の後頭部を包み込んだ。あまりの心地良さに、自分がスオウの胸の中でスオウに頭を撫でられていることに綾はしばらく気が付かなかった。

「私、情けないな」

「…なぜです?」

「何だか、あの戦いの間中、私、役に立たなかったね」

「そんなことはありません。初めてにしては、よく動いておられた」

「嘘!」

 綾は顔を上げてスオウを見た。綾に真っ直ぐに視線を向けられ、スオウは一瞬たじろいだ。

「私、わかってるの。これまでずーっと学校で学んできたことも、弓を習ってきたことも、ここでは何の役にも立たない。私、何してきたんだろう。悔しいよ。初めての実戦だって言っても、ゴウヤはあんなに立派に戦っていたのに。私は…」

「敵の位置を教えてくださったではありませんか。それに、敵を数匹、矢で射てくださった」

「でも…!」

「アヤ様」

 スオウの穏やかな声に制されて、綾の高ぶっていた感情が少し抑えられた。スオウはまるで子供を宥めるような静かな口調で言った。

「あなたは訓練を受けた兵士や術師ではない。それでも今、戦いの後にここにこうして無事に生きている。だから、安心してください」

 スオウと話していると、いつも正論を叩きつけられて自分がただの駄々っ子であるように感じられる。今も綾はスオウの前で子供のように屁理屈をこねてしまった自分を恥じて、バツが悪そうに俯いていた。そんな綾を、スオウは黙って待っていた。

「…あの光、何だったのかな」

 ふと思い出したかのように、綾がポツリと呟いた。

「あの、最後に魔物を消し去った光ですか?」

「うん」

 少しの沈黙の後、スオウが尋ねた。

「あれは、一体どうやって…?」

「『滅せよ』と念じろって、天龍に言われたの。だから、そうしただけ」

「『滅せよ』、ですか…」

 スオウが黙ってしまったのに気が付いて、綾はスオウの顔を見上げた。スオウは横を向き、祠の前で佇んでいる天龍を直視していた。その横顔は、少し険しかった。

 少しして綾の視線に気付いたスオウが綾を見て、少し困惑したような顔をした。

「力があるのに、不安なのですか?」

 「不安」の言葉に、綾がビクっと身体を震わせた。その言葉がスイッチになってしまったかの様に、脳裏に自分の手の平から出た光と、それに包まれながら空気に溶けて消えた魔物の姿が何度も何度もリピートされた。

「私は…」

 綾は言いかけて口をつぐんだ。一瞬、言いかけたことが少し自分が思っていることと違うような気がして、もう一度頭の中で言葉を捜した。それでも、なかなか綾の胃の中でぐるぐると激しく渦を巻く重い物の正体が何なのか、ピッタリとした言葉を見つけることができなかった。

 綾のそんな様子を察してか、スオウは綾の頭をくしゃっと撫でた後、綾をそっと抱き寄せた。スオウの服は魔物の血にまみれていたが、不思議と嫌な臭いはしなかった。

「アヤ様―」

 少し呼吸を置いてから、スオウの声がスオウの胸を通して響いてきた。

「これから先、このような戦いを強いられることがまた起こるかもしれない。次の相手は、あのような魔物ではなく、俺たちと同じ人間かもしれない。訓練を通して、あなたは様々な力を得られ、今よりもずっと強くなられるかもしれない。そうなった時に、俺はあなたに敵を殺しても『平気』だと感じてしまうような悲しい人間になって欲しくはありません」

「スオウ…?」

「これは、俺の勝手な願いだと言うことは、重々承知しています。あなたは、このヤマトの民の主導者として、誰よりも強くあるべきだと周りは言うことでしょう。でも、俺達の前で強がる必要は、どこにもありません。辛いこと、恐れることがあっても、俺が常にあなたのお側におります。だから、どうか―」

 スオウの腕に力が込められ、スオウの吐く暖かい息が綾の首筋に掛かった。

「『あなた』は、『あなた』のままで」

 綾の耳元で囁かれたスオウの言葉で、綾の眼から涙が一気に溢れ出した。自分でも気付かないうちに張っていた緊張の糸が、一気に緩んでしまったように。

「うん…。ありがとう」

 綾はしばらく目を閉じて、スオウの温かさを感じていた。先程まで感じていた得体の知れない不安や焦りが、涙と一緒に少しずつ溶けていくような気がした。綾にはそれが嬉しかった。

「えー、コホン」

 わざとらしい咳が聴こえた方を見ると、そこには呆れ顔のケイが立っていた。

「お取り込み中のところ、失礼いたします。儀式の支度が整ったので、お呼び立てをしに参りました。ゴウヤも天龍様も気を集中し始めましたので、お早めにお願いいたします。それで―」

 ケイがニヤっと笑った。

「お二人とも、そういう関係?」

「え? あ!」

 綾とスオウは慌てて身体をお互いから引き離した。

「いや、これは、その…」

 顔を赤く染めながらドモるスオウに、ケイは「ああ、別にわたくしは気にしていませんから、お好きなように」と素っ気無く言うと、祭壇の方へとスタスタ歩いて行ってしまった。後に残された綾とスオウの間に、何となく気まずい空気が漂った。

「えーっと。元気付けてくれてありがとう、スオウ。助かりました。それで、えーっと。じゃ、向こうへ行きましょうか」

「…御意」

 スオウが少しふて腐れているのが気にはなったが、綾は気持ちを切り替えて儀式に集中することにした。


 地鎮めの儀が始まった。

 ゴウヤが祝詞を唱えながらヒイラギの枝を掲げ、供物を祭壇に供えて今年の豊作を祈る。開け放たれた祠の中には、きれいな黄金色の宝珠を掲げ持ち、今にも空へ飛び立ちそうな姿をした龍の置物が中央に鎮座している。大分古いもののようだが、宝珠はロウソクの明かりを受けて美しい山吹色の光を放っていた。

 綾は今、ゴウヤの後ろで天龍の左横に座り、瞑想をしている。綾の右手は天龍の左手に添えられていた。触れ合う腕から、天龍の体温と呼吸が伝わる。

 やがてゴウヤの祝詞が終わり、天龍が綾を伴って祠の前へと進み出た。

「少し痛いけど、我慢してね」

 天龍はそう言うと、綾の人差し指をゴウヤの持っていた小刀で少し傷つけた。血がうっすらとにじみ出た綾の指をゆっくりと祠の中の地龍像へと近付ける。よく見ると、地龍像はうっすらと光を放っているようにも見えた。

「この血で、気を満たせ。(くが)

 天龍はそう言うと、綾の人差し指を地龍像の持つ宝珠に触れさせた。不思議なことに、綾の血は宝珠の表面を汚すことなく、むしろ宝珠の中へと吸い込まれていった。珠の中で、綾の血の赤と宝玉の光の山吹色が混ざり合いながら小さな光を生み出し始めるのを、綾はじっと見ていた。

(不思議。でも、何だろう。この、どこか懐かしい感じは…)

 皆が見守る中、宝珠から眩しい光がほとばしり、空洞の中を昼間のように明るく照らした。

(あ、この感覚。天龍に初めて会った時にちょっと似ているかも)

 光が祠から少し離れた空間に寄り集まり、少しずつ形を作り上げ、やがてそれは山吹色に光る鱗をまとった大きな龍になった。

(くが)! また会えて嬉しいよ」

 天龍がそう言いながら地龍に歩み寄った。

「上様。こうして再び会い(まみ)えることができましたこと、深く感謝致します」

 地龍から低音のよく通る声が響いた。龍は少し離れたところから地龍を見上げていた綾に視線を移した。

「姫君も。ありがとうございます」

 綾は地龍の言葉に一瞬戸惑った。まだ「姫」と呼ばれるのに慣れていないのだ。

「あ、えっと、いえ。どういたしまして」

 慌てて返答を返す綾を見て、皆が微笑んだ。

「復活早々、申し訳ないのだが、あまり遅くならぬうちに麓の村まで急ぎ戻った方がいいと思う」

 スオウの言葉に頷くと、ゴウヤとケイは祠や祭壇の周りを片付け始めた。

「陸、お前も一緒に来るだろう?」

 天龍が地龍に向かって微笑むと、地龍は「勿論です」と言って身体を変化させた。淡い山吹色の光が一つに集まって人のような形を作ると、それは体格の大きい三十代前半くらいの男性の姿に変わった。褐色の肌に鎧を付け、手には長い錫杖(しゃくじょう)を持っている。茶色の髪はさっぱりと短く切りそろえられていて、ぱっと見た感じでは軍人のようだ。誰かに似ているな、と思った時に丁度スオウが綾の視界に入った。

(ああ、なるほど。地龍はスオウに似てるんだ…)

 顔はあまり似ていないけれど、声や話し方、体格や雰囲気がスオウと地龍はよく似ていた。

 やがて一向は洞窟の外へと向かった。道中、スオウと話す地龍を見て、綾は思わず笑ってしまった。

「どうかなさいました?」

 綾の隣にいたケイが綾に尋ねた。

「あのね。スオウと地龍って、何か似てるなって思って」

 綾の言葉に、ケイはスオウと地龍を交互に見比べた。

「うーん。そうですか?」

 ケイが首とウサ耳を傾げながら言った。

「あ、顔じゃないのよ。体格とか、雰囲気とか、話し方とかが似てない?」

「ああ、そう言うことですか。そう仰られてみると、そうかもしれませんね」

「そういう意味でしたら、地龍様の方がサガミ様よりもスオウさんに似ていらっしゃいますよね」

 横からゴウヤが口を挟んだ。

「サガミ様? って、誰?」

 綾が尋ねると、ケイが今まで見せたことも無かったような乙女な顔で答えた。

「スオウの兄上様であらせられます」

 ゴウヤは何故か少し困ったような顔を綾に向けて言った。

「若くしてヤマト国の宰相になられた、凄い方なんです」

「ああ、宰相さんの名前なんだ。スオウのお兄さんだとは知らなかったわ。…で?」

 綾が二人に尋ねた。

「『で?』とは…?」

 ケイとゴウヤは綾の質問の意味がわからずに戸惑っている。

「ケイが明らかに、変」

 三人の話を聴いていたのか、前を歩いていたスオウが振向いた。

「ああ、それは―」

「スオウ!」

 何故かケイが必死になってスオウを止めに入った。ゴウヤは訳が分からないといった様子で二人を見ている。

「何だよ、ケイ。もう隠すことでもないだろう?」

 スオウがニヤニヤと笑いながら、スオウの口を塞ごうとしているケイを軽くあしらう。

「でも、まだ正式には…!」

 顔を真っ赤にしながらしつこくスオウを止めようとしているケイに呆れながら、スオウが言った。

「サガミはケイの婚約者なんだよな」

「ええっ?」

 何故か、ゴウヤの驚いた声が洞窟中に響き渡った。綾、天龍、地龍の三人は逆にそんなゴウヤの声に驚いた。

「ゴウヤ。そんなに驚くことなの、これって?」

 呆れた調子で綾が言うと、ゴウヤが皆を見回して言った。

「だって、サガミ様ですよ。『あの』サガミ様ですよ? 優しい口調で立ち直れないほどキッツイ言葉を言う、あのサガミ様ですよ? あの方のせいで、何人の女官が辞めたと思ってます?」

 ゴウヤの言葉に、うんうんと頷きながらスオウが付け加える。

「そうそう。『あの』サガミだよな~。外面(そとづら)は完璧な宰相殿で、中身は極悪商人並みに真っ黒の」

「そうです。聖職者のような清らかな外見に、地獄の番人のような内面を持った、あのサガミ様です」

「だよな~」

「えーっと、あのさ…」

 心配になった綾が、申し訳なさそうに間に入った。

「何かよくわからないけど、とにかく『凄い』人なのね、スオウのお兄さんって」

「それはもう!」

 ケイがウサ耳と共にいきり立った。

「サガミ様は品行方正、眉目秀麗、天下無敵の素晴らしい殿方です!」

 ウサ耳ごといきり立ちながらケイが言い切った。

(ケイ。『天下無敵』って、それってどうよ…)

 突っ込み所が満載のケイのサガミ賛美に、スオウとゴウヤはウンザリした様子で相槌を打つ。

「腹黒だけどな~」

「キッツイ性格ですけどね~」

 そんな二人に対し、ケイは必死に思いつく限りの四字熟語を使って反論している。綾は三人の間に割って入って手で制すると、「…何となく、人となりは分かりました。ありがとう。城に戻るのが楽しみよ、全く…」と溜息混じりに言った。

「そう言えば、アヤ様はサガミとはまだお会いになられていらっしゃらないのですか?」

「うん。何か、ずっとお父様の代行として行っている公務が忙しいとかで。そうこうしているうちに、私もこの旅に出ちゃったし。でも、お披露目の前には一度ちゃんと会うことになってると思うけど」

 ああそう言えば、と頷くスオウとケイの横で、ゴウヤが「うーん」と唸った。

「ケイ殿とスオウ殿は、アヤ様のお披露目の儀が延期になった理由をご存知ですか? 我ら祭祀省では、アヤ様御帰還と共にお披露目を行うものだと思い、準備をしておりましたのに、今回の出発前に突然延期を言い渡されまして。代わりの日程を尋ねても不明としか聞かされていないのですが」

 お披露目の儀の件はゴウヤもケイも初耳だったらしく、二人ともお互いの顔を見合わせて「さあ?」と言って首を傾げるだけだった。

「不思議ですね。お二人でも御存じないのですか? と言うことは、延期の件はハヤト様やババ様のお指図ではないのでしょうか」

「王やババ様以外にそんな命令を下せるのは…。サガミか?」

 眉間に皺を寄せながら、スオウが言った。

「とするならば、それは一体何故なのでしょう? 正統な王位継承者がお戻りとあれば、即刻国民に知らせて安心させるべきかとは思うのですが」

 ゴウヤは両腕を胸の前で組みながら首を傾げている。

「何か、あの方なりの崇高なお考えがあるのでしょう」

 ケイがうっとりとそう答えた矢先、スオウが何かに気付いて立ち止まり、前を見据えたまま言った。

「その『崇高なお考え』ってやつは、例えば?」

 ケイはスオウの表情を見ると一瞬ハッとして歩みを止め、数十メートル先に見える洞窟の出口を睨んだ。

「…まさか」

 次の瞬間、ケイとスオウが臨戦態勢に入った。

「待ち伏せ、か。相変わらず仕事がバカっ丁寧で、本当、嫌になる」

 出口からは薄暗くなってきている空が見えていたが、その空間は徐々に人影で覆われていった。


 戦った敵は「人間」だった。

 盗賊のような格好をした男達が十数人。全員が何かしらの武器を持ち、こちらを襲ってきた。

 綾は混乱のあまり、序盤に自分が何をどうしたのか、よく覚えていなかった。ただ、スオウの振り上げる剣から振り上げられる血しぶきや、ケイとゴウヤが繰り出す術式の光は覚えていた。

 綾は天龍と地龍の二人に守られながら、自分達と同じ「人間」が倒されていく様を呆然と見ていた。魔物相手の時とは違い、綾は自分から敵に向かって矢を射ることは全くできなかった。身体がどうしても、思ったように動いてくれなかった。

 敵を全員倒すか逃げられるかして祠の洞窟を脱出し、六人が何とか無事に麓の村まで辿り着くと、村人達は一行の血まみれた姿に驚いた様子だった。スオウが洞窟や途中の山で魔物や獣と戦ったと言うと、彼らは安堵の息を漏らしながら皆に暖かい湯を用意してくれた。

 その晩の宿に借りた部屋で、綾がタライに張られた湯の中に座って身体や髪に付いた血を洗い落としていると、ケイが着替えを持って入ってきた。

「アヤ様。今夜はこちらの着替えをお召しになってください。先程までのお召し物は、今晩のうちに洗っておきますので」

「…うん。ありがとう」

 綾はケイの方を見ずに、タライの中で膝を抱えたまま返事をした。

「着替えが終わられました頃に、お食事をお運びいたしますね」

「…うん」

「…大丈夫ですか?」

 ケイの言葉に顔を上げると、綾の側で心配そうな顔をしたケイと目が合った。疲れた顔をしているケイを見て、綾は一言「ごめんなさい」とケイに謝った。

「なぜ、わたくしに謝られるのです?」

「だって、あの人達、私を狙っていたのでしょう?」

「それは…」

 言いかけて口をつぐみ、ケイは一つ深呼吸をしてからはっきりと「わかりません」と綾に答えた。

「でも―」

 言いかけた綾に、ケイは静かに首を横に振った。それを見て、綾はその先を続けるのを止めた。ケイは綾の着替えをタライの近くに置かれた椅子の上に置くと、思いついたように言った。

「お食事は、皆で一緒にいただきましょうか」

 綾はケイの提案に少し躊躇したが、独りになって余計なことを色々考えてしまうのは避けたかった。

「…うん。お願い」

 ケイは綾の返事に安心したように微笑むと、そのように計らいますと短く言って部屋を出た。

 ケイが部屋から出て行くと、綾は膝を両腕で抱えてその中に顔を埋めると、ポツリと呟いた。

「あの時―。あの男は、『御覚悟』って私に言ったのよ…」

 戦いの最中、一人の男がスオウやケイの攻撃をかいくぐって綾の目前まで迫り、剣を振り上げながら綾に向かって「御覚悟!」と叫んだ。男の剣が地龍の錫杖に弾かれ、男の身体がゴウヤの術式で貫かれるのを、綾は自分を抱きかかえて地面に臥した天龍の腕と身体の隙間から見ていた。男の身体は綾と天龍のすぐ側に倒れ落ち、命の気配が無くなって冷えた目が、(うつ)ろに綾を見ていた。

 あの瞳が、今も綾を見ているような気がしてならない。

(また、あんな戦いが起こるのかな…)

 綾は背筋に悪寒が走るのを感じた。これが恐怖からなのか、冷めた湯に身体が冷えたからなのかはわからない。綾は急いで髪をすすぎ直すと立ち上がり、タライの側に掛けておいた布で身体を拭いてタライから出た。

 タライの中の冷めた湯は、魔物と人の血で赤黒く濁っていた。


 翌朝から一行はワトへの帰路に着いた。

 途中で一度、別の野盗一味に襲われたりもしたが何とか無事に切り抜け、帰路三日目の夕方にはワトの北門が遠くに見えてきた。

「帰ってまいりましたね」

 御者台の上でケイが風に髪とウサ耳をなびかせながら歌うように言うのを、綾は隣で聴いていた。

「ケイ、嬉しそうね」

「それは、もちろん。あの街が私の帰る場所ですから」

「サガミさんもいるし?」

 綾の言葉にケイは顔を赤らめた。

「もう…。あんまり苛めないで下さい。恥ずかしいですから」

「婚約者同士なのに?」

「そう言うアヤ様だって、天龍様がいらっしゃるじゃありませんか」

「あー。天龍ねー」

 そう言いながら、綾は前日の昼の休憩中に、河で水浴びをしていたところを天龍に不意打ちを食らって抱きつかれたことを思い出した。

(あんのセクハラ大魔王~。思い出しても腹が立つ!)

「あ、アヤ様…?」

「ごめん。昨日のことを思い出しただけだから」

「ああ、あの件ですか」

 そう言ってケイはクスクスと笑い始めた。

「ケイ…。笑い事じゃないんだけど。私、本当にもう、どうしようかと思ってめちゃくちゃ焦ったんだんだから」

 皆から離れて一人で水浴びをしていた綾は、当然のことながら裸だったのだ。そこを、気付かないうちに近付いていた天龍に背後から抱きつかれた。その瞬間、綾は「ぎゃー」とも「ひー」ともつかない奇声を発し、それを聞きつけた他の連中が、慌てて飛んで来てしまったのだ。

「あの時の、アヤ様の姿ったら…。フフフ…。傑作でしたわ」

「だ、だって、すごくビックリしたんだもの」

「わたくし達もビックリしましたわ。また何かに襲われてしまったのではないかと思って」

 それがまずかったのだ。

「私、まさか皆に自分の裸を見られるとは思ってなかったんですけど」

 そう。問題は、全員に裸を見られてしまったことだ。

「スオウは天龍に殴りかかろうとするし、ゴウヤは鼻血出して倒れちゃうし。もう、最悪」

 実際には、スオウは地龍に羽交い絞めにされたので天龍は事なきを得た。しかし、ゴウヤに至ってはよっぽど女性の全裸を見たのがショックだったのか、あれ以来、綾と目を合わせてくれなくなった。

「ゴウヤは免疫が全くございませんから。小さい時にお母様のを見て以来だったらしいですよ?」

「ゴウヤはまだいいのよ。問題なのは、しっかり見ておいて平気な人たちでしょ?」

「あら。そちらなんですか? そうですねぇ…。天龍様はまぁ、ああいうお方ですから。地龍様は、確かに動じていらっしゃらなかった御様子ですね。さすがです」

「スオウだって、動じてないわよ」

 綾の言葉に、ケイがプッと噴出した。

「スオウはしっかり動じてますわよ。もう、あの慌てぶりといったら…。うふふ。」

「え? そうなの? あれで?」

 綾の問にケイが笑顔で答えた。

「はい。アヤ様の前では格好つけて普段通りに振舞っているようですけれど、アヤ様がいらっしゃらない時はもう、顔が赤くなったり、青くなったり。見ていて大変面白いです」

 顔を赤らめて慌てるスオウ。綾はそんなスオウをどこかで見たなと思った。

「あ、そう言えば、祠のところでも、スオウってば顔を赤くして慌ててたかも」

「ああ、あの、お二人で抱き合っていらっしゃった時ですね?」

 ケイの言葉に、綾は顔を火照らせた。

「あ、あれは、別に抱き合ってたんじゃなくって…」

「はいはい」

「ケイ! もう…」

 二人はお互いの顔を見合わせて笑った。この旅を通じて、綾はケイと姉妹のように仲良くなれたような気がしていて、綾はそれがとても嬉しかった。強がってはいるものの、お母さんっ子だった綾にとってミトの存在に代わる人が出来たということは、とても心強いものだった。

 先行していたスオウと合流した馬車が北門に近付くと、北門の警備兵達がスオウを見るなり背筋を伸ばして敬礼した。

「スオウ様、遠路からのお帰り、お疲れ様です!」

「ああ。何か、変わったことは?」

「特にございません!」

 一行は敬礼したまま直立不動の警備兵たちの間を通り、北門を抜けた。

 北門を通り抜けた後、綾は後ろを振り向いて北門の見張り台を見た。

 戦で闇焦獣によって母親と共に飲み込まれた見張り台はその後きちんと修理され、まるで何も起こらなかったかのように夕日の中に佇んでいた。


 暗い室内で、中央に置かれた炉の中の光だけが周りをぼんやりと照らしていた。

 炉の前には老婆が一人、ただそこに座ってじっと炎を見つめている。

 やがて老婆は近付いてくる人の気配に気付き、視線を出入り口へと移した。控えめなノックの音が響き、老婆の「お入り」という老いてもハリのある声が響くと、長身の女が一人「失礼します」と言って入ってきた。

「お帰り、ケイ。御苦労だったね。地龍の復活は、予定通り無事に成されたようだね」

「はい。ありがとうございます、ババ様」

 ケイはババ様に向かって一礼すると、ババ様と炉を挟んで向かい合うように腰を下ろした。

「で、あの子は?」

「アヤ様は御自室へお戻りになり、すでにお休みになられました。ハヤト様への御報告は、本日はもう遅いとのことで、明日の朝、お目通りされる予定になっております」

 ケイの報告を受け、ババ様は満足気に微笑むと真顔に戻ってケイに尋ねた。

「アヤの力は、何かわかったかい?」

 ケイは「はい」と答えると、少し身を乗り出して声を低くした。

「アヤ様は心眼の力をお持ちです。今はまだ弱いものですが、壁を隔てた向こう側にいる個体の数を正確に把握することができるくらいには確かなものです。また、ミト様仕込みの弓ですが、中々の腕前でいらっしゃいます。それから―」

 ケイはババ様の目をしっかりと見据えて言った。

「天龍様とお二人で、『浄化ノ光』を発現されました」

 ババ様の両目が大きく見開かれた。

「ほお…。『浄化ノ光』を…。この短い間に、それほどまでに育ったか。アヤも、天龍も。こりゃ、アレも近いかの」

 ババ様はそれきり瞳を閉じて黙ってしまい、ケイはじっとババ様の次の言葉を待った。

「ケイよ」

 ババ様が目を開けた。真っ直ぐな視線がケイを貫く。

「はい」

「お前は、どうするのじゃ?」

 ババ様の言葉に、ケイは一瞬たじろいだ。ババ様が言わんとしていることは、ケイにはよくわかっていたが、今のケイにはまだ迷いがある。

「…わたくしには、まだわかりません」

「そうか」

 ババ様はそう言って傍らの壷から粉を一握り掴むと、指の間からパラパラとそれらを炎の上に振りまいた。炎が一瞬、舞い上がる。

「お前には辛かろうが、わしはお前にこのままアヤの側に付いていてもらいたいと思っておる。あの子は、この国に今、最も必要とされておる娘じゃ。そして、あの子にはお前たちが必要じゃ」

「…はい」

「アヤの側におるということは、お前は恋人を裏切ることになるやもしれん。それでも、お前にはアヤを守ることができるかい?」

(恋人を…)

 ババ様が再び粉を炎の中に振りまいた。その瞬間、ケイはサガミの姿を炎の中に見たような気がした。それと同時に、旅の中盤からずっと感じてきた違和感が沸き起こる。ケイの中で、一人の「女」としての自分と「術式省副官」の自分がぶつかり合い、それに新たに生まれたアヤに対する姉のような感情が絡みつく。

「わたくしは…」

 ずっと、感じてきた黒い影。盗賊を装った刺客達の背後に感じていた黒い影。その黒い影に自分の恋人の「臭い」を感じてしまってから、ケイは密かに悩み続けていた。

 黙ったままのケイに、ババ様は強い口調で言った。

「ケイ。忘れてはならん。玄武の紋章を授かったその日から、わしらには四柱の一員として、この国を守る義務がある」

 ババ様の言葉にハッとして、ケイは自分の腰から下がった玄武の紋章を見た。

(玄武の紋章。王家を支える四柱の一つ…)

 ケイは顔を上げ、ババ様を見た。炉から漏れる灯りに照らされたババ様は、いつに無く厳しい眼差しをケイに向けていた。

「よいか、ケイ。サガミが、このまま大人しくしておれば良し。じゃが万が一、アヤに再び危害を加える事があるような場合。その時は…」

(その時は、サガミを殺してでも止めなくてはならないのだろうか。恋人のわたくしか、弟のスオウが)

 スオウはこの事を知っていたのだろうかと、ケイはふと思った。

(だから、アヤ様に忠誠を誓ったの? もう後戻りはできないと知った上で…?)

 スオウが綾を気に入ったと言っていたのは紛れもない事実だろう。しかし、今はそれとはまた別の、スオウの苦悩と覚悟をケイは初めて知ったような気がした。

 不意にケイの瞳から涙が一粒こぼれた。それを見たババ様が、少し優しい口調で言う。

「すまぬな。じゃが、わしには流れ始めてしまったものを元に戻す力は無い」

「…はい」

 ケイは深呼吸を一つすると、ババ様に向き直って伏礼をした。

「アヤ様の件、承知いたしました」

「…うむ」

 ケイは無言で立ち上がると、出入り口に向かって歩き始めた。

「ケイ」

 ケイの手が扉にかかった瞬間、ババ様がケイを呼び止めた。ケイは無言で振り返る。

「これだけは、心に刻んでおいておくれ。どうか、アヤを恨まないでやって欲しい。あれは、お前と同じ。ただ、大きな運命の流れに呑まれてしまっただけなのじゃよ」

「…わかっております」

 ケイはそう言って軽く会釈をすると、部屋から出て行った。

 部屋の扉が閉まっても、ババ様はしばらくそこにケイが佇んでいるのを感じていた。ババ様は炉の中の炎を吹き消すと、部屋の奥にある祭壇に向かい、静かに祈り始めた。

(流れを戻すことはできん。じゃが、アヤとケイに、この流れの中で自らの力で立ち上がることが出来る強さがあれば、流れを変えることができるやもしれん。さて…)

 半開きになっていた窓から、湿った空気が風に運ばれて入ってきた。

「明日は雨か。いいことじゃ…」

 翌日に降った雨は、ヤマトでは実に半年振りの雨だった。

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