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【Vol.02】

 その頃。

 誰もいない店内を、ジュンが掃き掃除する。

 営業を終えてガランとした中に、天井の窓から朝の光が差している。

 酔客たちが汚したテーブルも床も、無駄のない動きでみるみる片付けていく。

 時々ちらりと時計を見る。時間が迫っているらしい。

 作業途中で、ああ忘れてた、という顔になり、玄関扉をあけにいく。

 扉の隙間から外をのぞく。誰もいないのを確認してから、手だけを外へ伸ばす。表扉に釘で下げてある看板「猫カフェ・JUN」を裏返し、「喫茶・JUN」にする。


 やがて時計が朝の八時をしめす。

 店の奥の階段から、老婦人が降りてくる。還暦手前の、エツコさんである。

 品のいい、親しみのある笑顔をしている。生成りのシンプルなワンピースにカフェエプロンをつけて、すこしだけ流行をとりいれた薄メイク。一人で生きてきた人独特の雰囲気の中に、どこか守ってあげたくなる可愛さがある。

 店内はすっかり様変わりをし、お洒落な喫茶店になっている。インテリアはそのままなのに、酒場の面影はかけらもない。天井あたりの採光窓から落ちてくる光が、落ち着いた優しい喫茶店の雰囲気を醸しだしている。

 ジュンはカウンターで丸くなって眠っている。

 柔らかなエツコの足音で目を覚まし、カウンターを飛び降りて、駆け寄る。

 エツコは宝物のようにジュンを抱きあげ、抱きしめる。

「ここにいたのね、看板娘ちゃん」

 この猫なしには生きていけない、この猫のためなら何でもできる、そんな顔をして。

 まるで百年も会えなかった恋人たちのように、エツコとジュンが頬を寄せ合う。

「今日もお仕事、お手伝いしてね。あなたがいると珈琲が美味しく淹れられるのよ」




 エツコの降りてきた階段。

 鉄柵の螺旋階段を登っていくなら、階上にはエツコの居室がある。

 内装はアーリーアメリカン調のログベース。日々の暮らしを楽しんでいるのだろうシンプルながらも趣味のいい明るい木材の家具、フローリング、花と三毛猫をあしらったラグ、その奥には北欧風の書斎机がある。


 机の壁には、状差しがある。古い遠方の友人からの葉書が入っている。

「ご主人のこと、お悔やみ申し上げます。長いあいだ施設にいて会ってなかったもの寂しくないわ、なんて、気丈なあなたは言うのでしょうね。愚痴なら聞くから、寂しくなくても連絡してくださいね」


 書斎机にはノートパソコン。

 喫茶店の経理ソフトが立ち上がったまま。

 適性仕入価格。安定した客の入り。ローンも終わった古い持ち家での営業だから損益分岐点も低く、バランスシートもそう悪くない。人と猫とが暮らしていくなら充分な経済状況なのがうかがえる。ささやかな暮らしには充分な、穏やかな数字である。


 パソコンの横には、三通の書面。

 ひとつめは、銀行からの回答状。

「誠に申し訳ありませんが、追加の融資はいたしかねます」などと機械的な文面が書かれている。

 もうひとつは、税理士から。

「通常であれば小規模宅地等の特例が適用されるのですが、本件は名義の関係上それが使えません。また本来なら配偶者控除の範囲内で収まるのですが本件は立地の路線価が高額なために控除を越える相続税が発生しております」

 最後の一通は、税務署から。督促状である。

「今月末までに相続税のお支払いがなければ、不動産等の差し押さえ等の措置をいたします」

 水面下では穏やかならざる事態となっているのが読める。


 部屋のすみにはシングルベッド。きっとお気に入りなのだろう少女のようなベージュ基調のカバーがかけられている。

 ベッドの枕元には、猫用ベッド。手作りなのだろう、ベッドカバーと同じ布で作られている。

 そこに生後三か月くらいの、サバシロ柄の赤ちゃん猫が眠っている。安心しきった幸せそうな寝顔で、リラックスして手足をのばして、あおむけでいる。

 赤ちゃん猫が目をさます。

 あたりを見回す。

 誰もいない。

 ああ、と、赤ちゃん猫が寂しくてたまらない顔になる。




 カラン、とドアベルが鳴り、喫茶店に客が入ってくる。

 入ってきたのは大介である。爽やかな長身で、黒猫の紅葉にハーネスつけて抱っこしている。

「あら、いらっしゃい」

 カウンターからエツコが微笑む。

 大介は採光窓の真下の明るいテーブルに着く。

「申し訳ないです、いつも猫連れで」

「あら、いいわよ。でも保健所にみつかったら怒られるから、見回りの日は前もって知らせるわね」

「うん。ありがとう」

 大介は本を読みはじめる。

 紅葉はカウンターで寝ているジュンと、目を交わす。

 そして紅葉は大介の腕をすりぬけ、自分でハーネスを外し、店の奥へと勝手に入っていく。ジュンがその後をついていく。

 コーヒーミルを挽きながら、エツコが二匹の後姿を見送る。

「不思議な猫ちゃんね」

 大介は頭をかく。

「信じてもらえないかもですけど、あいつがこの店に来たがるんですよ。インスタントコーヒーの袋くわえて振るんです。それをされたらすぐこの店に連れてきてやらないと、パソコンとか壁紙とか引っかかれて大損害になりまして」

「わかるわ。うちのジュンちゃんも、そういうとこあるの。年とった猫って何か、全部をわかっててしてるところがある気がするわ」

「知ってます?そういう猫を大切にすると、思ってもみなかった幸運が降ってくるって言い伝えがあるらしいですよ」

 エツコは目を丸くする。何かを考え、遠い目になる。

 そして、くしゃっと顔を歪ませる。まるで泣き笑いのような表情で。

「そうなったら、いいのになぁ・・・」

 大介はその顔に気づいて、何かを言いかける。

 だが、言わない。本を読んでいて気がつかないふり。

 それ以上は、ただの客が踏み込んでいい領域ではないと、知っているから。

 やがて店内に、挽きたての珈琲が濃く香りはじめる。




 エツコの居室にて。

 紅葉とジュンが並んで書斎机に乗っている。

 紅葉がパソコンのキーを肉球でぷちぷち押している。

 モニタには経理ソフト。

 紅葉の横でジュンが数枚の現金と領収書を広げて見せている。紅葉はそれを見ながら入力している。

 リターンキーを押して、データ保存して。

 ジュンが不安そうにモニタをのぞいている。

「どう?・・・私はこういうのは読めなくて」

 紅葉は渋い顔。

「黒字ではあるんだがな。月末までに、あと三百万を稼ぐのには足りないな」

「私、もっとたくさん営業時間を増やしたらいいのかしら」

 紅葉は督促状や税理士の書面を見て、口をひらきかけて、閉じる。すでにそういう次元の話でなくなっていることを、口にできないでいる。

 ジュンは紅葉のその顔を見て、悟る。悲しい顔をして笑う。

「ごめんなさい。お客様にこんなことさせて」

「いや光栄だ」

「あと、ひとつお願いがあるの」

「何でも言ってくれ」

「これ以上の迷惑はかけたくないの。お気持ちは嬉しいのだけど、どうかこれ以上は何もしないと約束してください」

 紅葉の顔から表情が消える。

 そんな意味じゃない、とジュンが首を横にふる。

「あなたは夜は自由に動けるけれど、昼はこうして人間を使わなければ訪問もできない。こんなに良くしてくださって、嬉しいわ。でもだからこそ心配なの。いつか危険な事になりそうで」

「ああ、わかった・・・」

 紅葉、精一杯の笑顔を作る。

 踏み込みたいけど踏み込めない、薄い膜のようなものがふたりの間にある。

 それがもどかしくて。だけどどうにもならなくて。

 重い空気をどうにかしようと、ジュンが話を変える。

「あなたがこの街へ来たの、数か月前だったわね」

「ああ。大介たちに拾われた」

「どこで生まれたの?」

「大昔、西のほうだ」

「どうしてここへ?」

「主君を失った。浪人になった。今は大介たちの食客だ」

「そう。あなたも大切な人を失ったのね」

 ふふふ、とジュンが笑う。

 私たちは似たもの同士ね、と。

「私、野良だったの。大切な母さんがどうなったのかは聞かないでね。それからずっと一人で生きてきた。でもエツコさんに出会った。今は幸せよ。・・・今まではね」

 そのとき廊下から、ぐすん、と、泣き声がする。

 はっとしてジュン、廊下へ出る。

 サバシロ柄の赤ちゃん猫が、へたりこんで泣いている。

 ジュンが抱きあげ、頬をなめる。

「お昼寝から覚めてたのね。寂しくて私たちを探しにきちゃったんだわ」

 紅葉もそばにくる。

「こないだ保護した新入りか」

「行き倒れてたの。エツコさんが保護したわ。やっと元気になったとこ」

 えぐえぐ泣いているのを首筋くわえて、ジュンが赤ちゃん猫をベッドへ連れていく。

 護衛するように後ろを歩きながら、紅葉。

「なぁ、・・・聞いてもいいか。不躾で恐縮だが」

「なぁに?」

 赤ちゃん猫をくわえたままジュンがベッドへ飛び乗る。

 猫ベッドへ寝かしつけ、毛づくろいをしはじめる。

 赤ちゃん猫はしばらくグズッているが、やがて寝息をたてはじめる。

「エツコさん、金策に奔走したな。こんなに必死にがんばった形跡はあるのに、引越の用意をしていない。今月末にここを立ち退く人間の部屋じゃないぜ」

 ジュン、毛づくろいが一瞬止まる。

 言葉を探してから、また毛づくろいをしはじめる。

「エツコさん今、ネットで私たちの里親を探しているわ」

「・・・エツコさんが?」

「私はいいわよ、もとが野良だもの。この子もちゃんと育ててみせるわ。どこでだって生きていける」

「・・・しかし」

「問題はエツコさんよ。命より大事なものを失った人間がどれだけ脆いか、あなたならわかるでしょう」

「・・・ああ」

「生きてる理由がなくなるの。指にささくれができただけでも死んでしまうの。ありとあらゆる楽しいことがすべて消えるの。心が死んだら、体も生きていけないのよ」

「・・・」

「ごめんなさいね、こんな話」

「いや。わかるよ。つまりエツコさんは」

「死ぬ気はないと思う。でも生きてもいないから、いずれこの世から消えるでしょう。私を失ったら、あの人は生きていられない」

「きみは?」

 ふふっ、とジュンが笑う。

 毛づくろいをしながら。

「この子、モモちゃん」

「男の子だったっけ」

「女の子みたいに可愛い顔だから」

「ああ、かわいいな」

「私ね、この子を育て終わったら、エツコさんと一緒に暮らすことにしているの。この世じゃなくても、私たちはずっと一緒よ」

 微笑むジュンの目尻から、一粒の涙がこぼれる。

 胸元のエメラルドよりも大きく輝く、一粒が。

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