第498話逃走と笑顔
海弟に言わせたい台詞を言わせる。
……難しい。
ああ、慣れって恐ろしい。
遅れたから、という理由で竜子とのバトルタイム二時間の延長。
はっきり言おう。
死ぬ。
とりあえず、この殴られまくりの状況に慣れてしまっている俺って恐ろしいなぁ、って。
……もう何が起こっているのかわからないッ!
今までの影流の生活を俺が引きついているんだろうが……何だか俺のほうが不幸な気がする。
何故だ? 何故なんだ?
もうすべてを投げ捨てたい気分になっていると、背後から近づいてくる影。
こんな廊下の中央で俺の後ろを付いてくるんだ、きっと俺に用があるのだろう、と後ろを振り返り立ち止まる。
すると俺をスルーしたどたどしい足取りで俺の隣を歩いて行ってしまうメイドさん。
「……そういう時もあるさ。うん、急いでたんだろうね。全然スピード出てなかったけど」
あのメイドさんの時速はきっと百メートルだ。
うん、絶対違うと思うけど。
高笑いをしながら俺の部屋へと向かう。
こっちの家で宛がわれた俺の部屋の方が向こうの俺の部屋より豪華なのは何故だろう。
……給料で今度家具でも買うか。
何を買おうか、とあれこれ考えてえながら歩く。
すると再び後ろから気配が……。
今度は騙されない。
歩くスピードをあげて振り切ろうと俺の部屋とは逆方向、十字路が見えてきたのでその右側へ曲がる。
すると後ろの人物も俺を追跡するかの如く、さっきよりもスピードを増して俺の後ろを付いてくる。
……クッ、振り切ってやるッ!!
俺の俊足逃走を見せてやるぜ!
もっとも、速すぎて見えないかも知れないが――あ、転んだ。
走ろうとした途端、何も無いところで躓いてしまう超不幸な俺。
いや、不幸とは関係ないか。
ちょっとした応答を脳内で繰り返しつつ立ち上がろうとしていると後ろから付いて来た人物に肩を叩かれる。
「……大丈夫?」
「虎子かよッ!!」
騙された!
きっと竜子家へ潜入してきたスパイか何かだと思ったのにッ!
『ふっふっふ、企業秘密? いいや、乙女の秘密を盗んでやるぜ』
酷い恋泥棒もいたものである。
影流サイテー。
「あ、あたしじゃダメだった?」
「いいや。ちょうど良い、マッサァァァジしてもらおう」
「叫んだ意味はないよね? っていうか嫌だよ」
「お前に拒否権などない。マッサァァァァジをしなければ要件は聞かん」
「要件ってほどじゃないんだけど……。一緒に――」
「マッサージ」
「……じゃあ、他の人誘うからいいよ」
「俺に出来ることなら言えばいいじゃないッ!」
何だよこれ。
俺が強制されてるじゃないか。
興味惹いておいて他の人とかふざけんなよ!
付いてもいない砂を払う動作をしつつ立ち上がると虎子の頭を撫でる。
特に意味はない。あえて言うならばさっきからぴこぴこ動いている耳を触りたい衝動を抑えた、というところか。
「別に抑える意味もないな。触らせてもらおう」
「……変な気分。まあいいや、来て」
何の用だろう?
耳を触っていた手をガシッ、と掴まれ何処かへ連行されてしまう俺。
ううっ、つい出来心で……すみませんしたぁ警官さぁん!
心の中で涙を流していると気づけば竜子家の外。
「ん? 何処に行くんだ?」
「あたしの家……かな。実家と、マンションの両方」
……今回の事の顛末を教えに行く、というわけか。
だいぶ後回しにしていたんだろうし、一人で行くとこっぴどく怒られる……ってことなんだろうな。
そして怒りを俺へ向けさせようと……虎子、悪い女になったな。
「見損なったぞッ!」
「ええぇ……。そ、そりゃあ、荷物も結構な量があるからさ……海弟も重たいと思うけど――」
「ん? 荷物運び? 実家はどうなった」
「顔を会わせるのは怖いから、この手紙を郵便受けに入れておこうかなー、って思ってるんだけど」
ポケットから紙切れを取り出す虎子。
……自分に正直な子でよかった。
俺は何を勘違いしていたんだろう。
はっはっは、はぁ?
……あ、あそこに見えるのは虎子の爺さんじゃあありませんか!
ご老人! お散歩ですかな?
……この距離は見つかる。
「虎子、隠れろッ!」
「で、電信柱の――」
「そこは無理だ! 隠れきれん!」
「え、えぇ……」
何と、見つかってしまったようで(悪い意味で予想通り)爺さんが近づいてくる。
「何をしとった!」
「……すみません」
「すみませんではないわい! 何を考えておるのだ、もう一週間はここを出て行ったきりで、マンションのほうにもいなかったそうじゃないか」
「……ごめんな――」
「爺さん、恨むなら俺を恨むんだな。ふっふっふ」
「……何じゃ、いたのか」
老人とはいえ、俺は手加減をしない男だぜ?
「炎のナックルクリティカルッ!!」
別に燃えていない拳で爺さんの急所……言い換えよう、男の急所へ向かっていく拳。
「ほっ、と」
しかし目的地にたどり着く前に俺の体は横へ倒れていく。
どうやら爺さんが足払いをかけたらしいが……見えなかった。
「……虎子、わしは町内の集まりがあるから少し家を出る。それまで家の中で待っていなさい」
「は――」
「い、とは言わせないぜ。爺さん、俺はまだ死んじゃいねぇ」
無言で蹴りを入れてくる爺さん。
そしてそのまま去っていく。
……クソぅ。
認めたくはないが……今の俺は手加減モードだったということか!
はっはっは、本気モードになる条件がわからないんじゃあ、負けても仕方ないなぁ。
……見苦しい。あまりにも見苦しすぎる。
「……虎子。手紙なんて不要だ、行くぞ」
わき腹を押さえつつ立ち上がり言う。
「……でも、怒ってたし」
「勝手に怒ってればいいさ。あの爺さんがお前を怒った後に、爺さんは絶対……笑顔なんて見せないぞ?」
「……笑顔?」
「ああ、お前が……唯一望んでいるものはそれだろ。たぶん」
何処か戸惑いの混じった表情を浮かべている虎子。
「……違うよ。あたしは怒られなきゃいけないことをしたから――」
「怒られるのは嫌か?」
「……でもっ!」
「嫌だから逃げる。正論」
「違うよ!」
……正論ってところは撤回しよう。
「逃げちゃ、何も見えないし何にもならない。だって、そうでしょ?」
言いたいことだけ言って少し、涙を見せる虎子。
自分のことをわかってもらいたい、ってか。
ふっふっふ、泣き虫が大層なことを言ったな。
でも、逃げまくってる俺は言うべき台詞が見えているぜ?
「そりゃあ、アレだな。一人で逃げてるからこそ言える台詞だな」
「……」
「言ってやろう。お前は一人か? 違うだろうッ!」
俺は、俺自身の胸を叩く。
わき腹を蹴られていたので響いたが、関係ない。
「さて、あえて誰かは言わないが。二人で、逃げりゃあ笑ってられるものだぞ?」
「……笑って、られるのかな?」
「少なくとも俺は笑う」
ニヤリと、笑ってやる。
「俺に任せろ」
「……不安しか、ないよ。へへ」
それでいいさ。
不安だろうが何だろうが、俺に任せてくれれば何とかしてやる。
「逃げるぞッ! あの爺さんのことだ、次出会ったら酷い目に会うに決まってる!」
「いつかは会わなきゃいけないんだよ?」
「そのいつかの自分に押し付けろ!」
クハハハハハッ!!
一人で逃げたことしかない奴はいい笑顔を知らないもんだぜ?
という自分の座右の銘にかけて書いた一話……なんてドラマチックなものじゃないです。
海弟が殴り蹴られればいいなぁ、と思いつつ書いた一話。