モテない男
このひとはよくこんなにも、つまらない自慢話を長々と楽しそうに喋り通せるものだと、杏奈は心の中で呆れながら愛想笑いを続けていた。
杏奈の十八歳の誕生日の夜を一緒に過ごしたいと、高級レストランへ案内されてから一時間あまり。竹田茂樹のマシンガン・トークは一向に止まりそうにない。
お遊戯会で自ら作曲した曲をピアノ演奏したことで、神童と謳われた幼稚園時代から始まり、今はちょうど、大学生レベルの数式を軽々と解いたという、小学三年生の時の話をしている。
茂樹は自分がいかに特別な人間かということをアピールしようとしているけれど、杏奈にはまったく効果がなかった。学友にはそんな、元天才児たちが揃っている。ビッグファーザーによって選ばれた者たちだ。みんな、何かしらに優れた才能を持ち合わせている。これまで出会った同級生たちを思い返すと、杏奈はビッグファーザーの査定が優れていると認めざるを得なかった。
けれど、世に出ているひとを見渡してみると、一概にそうは言えなかった。
『十で神童十五で才子二十過ぎればただのひと』とはよくいったもので、ビッグファーザーはその見本市を作っているのではないかというほど、成人してから堕落するひとが多いと杏奈は感じていた。
目の前にいる茂樹もご多分に漏れず、今はただ親の資産を頼りに贅沢三昧するばかりで、杏奈の誕生日を祝う席だというのに、シャンパンを手酌して目を真っ赤にさせている。喋る度に二重顎にシャンパンが垂れて、早くも呂律が怪しくなっていた。
――このひとに死ぬまで添い遂げなければいけないの?
そう考えれば考えるほど悲しくなり、自分の境遇を呪いたくなった。
けれど、双子の姉がビッグファーザーの手違いによって下界へ送られてしまったことを知ってからは、この不幸でさえも不幸とは言い切れないのではないかと考えるようになった。
特にここ最近は、ビッグファーザー反対派のデモが活発化していることに対するネガティブな印象操作のためなのか、下界の治安の悪さを訴える報道が多く、プロパガンダだと理解しつつも、下界に良い印象を持てないでいる。
それだけに、
「しばらく、杏奈と真理愛が入れ替われば、竹田が婚約を破棄するように仕向けることができるんじゃないかな」
ミカエルの提案に乗る決心はつかないでいた。下界での暮らしに耐えられるか自信がなかった。それも、婚約破棄に至るまでという漠然とした期間だ。その生活がどれぐらい続くのかわからないのだ。
それに、婚約破棄が決まったら、次はビッグファーザーの破壊工作が待っている。
「実行するのは僕と真理愛だし、杏奈が手を汚すことはない」
ミカエルはそう言っていたけれど、真理愛が杏奈になりすまして正式な手続きをして『聖父母』地区に入り、誰にもバレることなくビッグファーザーを破壊することなどできるとは思えない。いくら首相の娘といっても、身体検査はあるに違いない。爆発物を持ち込むことなど不可能だ。
ミカエルの提案を断るとなると、あとはもう高校卒業を待って、茂樹と結婚するという道しか選択肢はなくなってしまう。どちらに転ぶにせよ、茨の道が待ち受けているということだ。
杏奈はついため息をついてしまい、ハッとなって慌てて口を手で抑えた。
「少しお疲れ気味ですかな?」
茂樹は気分を害した様子はなく、口元に笑みを浮かべたまま訊いてきた。
「いえ、茂樹さんの逸話があまりにも多く、感嘆のため息が出てしまいました」
咄嗟にそう言い繕うと、茂樹はこれを真に受けて、
「お上手で参りました」
薄くなった頭を撫でて照れる。その姿を見た杏奈の胸の内には、サッと冷たい風が吹き抜けた。
「よろこんで頂けているならよかった。今夜はとことんまでお付き合い頂いて、茂樹のすべてを杏奈さんに知ってもらおうと思っていますから」
茂樹がニタリと笑い、テーブルの上にホテルのルームキーをそっと置いたことで、杏奈の全身にゾワゾワッと鳥肌が立った。
政府は個々の妊娠と出産を禁じてはいるものの、それに至る行為までは禁止していない。これまでにも茂樹からその誘いはあったけれど、杏奈はどうにかこうにか断り続けてきた。
「初めてで慎重になるのはわかります。しかし、勇気を出して一歩を。この茂樹が大人の階段をのぼる手助けを致します」
茂樹の誘い文句はいつも同じだ。その言葉が悲鳴を上げたくなるほど嫌だったし、そもそも杏奈はとっくにバージンを捨てていた。
――早く解放されたい。
杏奈は斜め前のテーブルをチラッと見た。細面の美青年と目が合う。
上原蓮という名のナイト。杏奈が父親に内緒で交際する恋人で、茂樹が無茶なことをしないかと、デートの時にはいつも同じレストランに来て見守っていてくれる。
茂樹のくだらない話を聞くのを我慢できるのも、隙を突いては蓮と視線を交わして、目の保養ができるからだ。
――蓮と離ればなれになるなんて耐えられない。
それこそが茂樹との結婚を拒み、真理愛と入れ替わって下界で暮らすことにもためらう最大の理由だった。
杏奈が迷っていると勘違いしたのか、蓮への視線を遮るようにして、
「今夜こそ、杏奈さんの初めてを、この茂樹に捧げてくれますか?」
茂樹がデリカシーのない質問をしてきた。
気分を害しても杏奈はグッと我慢して微笑む。こんな思いをするのはもう嫌だ。ましてや一生続くなんて耐えられない。
それならほんの少しだけ、下界での生活を我慢した方がいいのではないかと、杏奈の心は揺れた。