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杏奈

伊藤杏奈あんなが初めて間近で見たネズミは人間の言葉を喋った。

「はぁーい」

と陽気に手を振るネズミの姿を見て杏奈は悲鳴を上げ、その直後に卒倒した。六歳の時のことだった。

それから極度のネズミ恐怖症になってしまった杏奈は、執事型アンドロイド『(じい)や』にお願いして、屋敷中にネズミ捕りの罠をしかけてもらった。猫も飼い始めた。

「ネズミが喋りましたの」

そう言っても誰からも信じてもらえず、笑われてしまうのが悲しかった。

結局、一匹もネズミは罠にかからず、一年後には爺やが片付けてしまった。

その頃には杏奈も、動物が喋ることはないということを学んでいたため、一年前の出来事は空耳かあるいは夢だったのだと思うようになっていた。

ところが、十二歳の時にまたしても、杏奈はあのネズミに遭遇した。

冬の夜、寝つきが悪く、爺やにホットミルクを持ってきて欲しいと頼んでベッドの上で待っていた時だ。

本を読んでいた杏奈は、焦げ茶色の何かが床を動くのを感じ取って顔を上げた。すると、あのネズミが後ろ足で立って、杏奈のことを見つめていた。

「やあ、杏奈。久しぶりだね」

 旧知の仲のように前足を振ると、そのネズミはベッドに近づいて来ようとした。

「きゃぁ~~~!」

杏奈が絶叫すると、

「いや、怪しい者じゃないんだけど」

ネズミは慌てて両手を振って杏奈の興奮を鎮めようとしたけど、その人間じみた動作に恐怖して、杏奈は叫び声をさらに大きくした。

廊下から飼い猫がドアを爪でガリガリと削る音が聞こえ、そのすぐ後に、

「お嬢様、どうなさいました?」

ノックの音と爺やの声が聞こえてきて、

「また来るね」

ネズミは慌ててどこかへ去って行ってしまった。

「もう来ないでくださいませ」

涙ながらに呟いた杏奈は、爺やにネズミトラップを仕掛けるよう頼んだ。

それから月日が流れて、十八歳の誕生日を迎える前夜、ドレッサーに向かって髪の毛を梳かしていた杏奈は、背後に不吉な気配を感じた。鏡越しにあのネズミが映ってる!

叫ぼうとした瞬間、

「このまま結婚して、好きでもないひとの子どもを育てることになってもいいのかい?」

ネズミが必死になって早口で言ったその言葉に、杏奈は心を奪われた。

「どうしてそれをご存じですの?」

思わず、人間に接するように訊いていた。

杏奈は高校卒業後に父・(ゆう)一郎(いちろう)の政略のため、あるグローバル企業の御曹司と結婚することになっていた。

そして、結婚すれば精子と卵子の提供が義務化され、ビッグマザーが妊娠&出産してからビッグファーザーに『天界』行きの判定をされれば、実子として育てていくことになる。

――好きでもないひととの子どもを、愛情をもって育てることなどできるの?

頑固で押しの強い父親に逆らえず、政略結婚させられることが決まってから、杏奈は悩み続けていた。

そのことを母・百合子(ゆりこ)にこっそり相談すると、

「大丈夫ですよ」

微笑みながら断言された。

「わたしがそうでしたから」

百合子は二十五歳の時に十五歳上の雄一郎と政略結婚して、その年にビッグファーザーから送られてきた杏奈を娘として受け入れた。

杏奈がこの十八年間を振り返ってみると、母親は確かに深い愛情をもって育ててくれた。

ただ、父親と母親の関係は杏奈が物心ついた時からすでに冷めきっていた。

――お母様よりも七年も早く、家庭に収まらなくてはいけないの? わたしの人生って一体何?

そんな悩みを抱えていた時に、ひょいと現れたネズミにそんなことを言われたものだから、杏奈はつい耳を貸してしまったのだ。

「どうしてそれをご存じですの?」

杏奈は振り返って、後ろ足で立っているネズミを見下ろした。

「ふぅー、やっとまともに話してくれるみたいだね」

ネズミは安堵のため息を吐いて、

「今はただ、ネズミの姿を借りてるだけで、本当は神様の使いをする天使なんだ。名前はミカエル。よろしくね、杏奈」

右手を斜めに下ろしながら恭しくお辞儀をした。

「天使?」

その見た目とのギャップがおかしくなり、杏奈は声を出して笑った。

「何がおかしいのさ?」

ミカエルは仁王立ちして怒った振りをする。その様子がまた杏奈にはおもしろく思えたけど、失礼だと思って笑いをこらえ、

「結婚を回避する方法があるのですか?」

マジメに訊いた。

「あるよ」

「それは何でしょう?」

「杏奈が拒否すればいい。『嫌だ』ってお父さんにガツンと言ってやるんだ」

「そういうことですか……」

 杏奈は落胆した。そんなことができるくらいなら最初から悩んだりはしない。

「でも実際、そうするしかないでしょ。他にあるとしたら、相手から婚約破棄されることだけど、そっちは望みが薄そうだからね」

杏奈の許嫁(いいなずけ)竹田(たけだ)茂樹(しげき)は、四十歳になる今まで定職に就いたことがなく、親の脛をかじって贅沢三昧。見栄えが良くないながらも、その財力をもってして女性関係は激しく、これまで女優やモデルたちと数々の浮名を流してきた。

そんなプレイボーイが半年前、あるパーティー会場で杏奈をひと目見るや気に入り、それからはプレゼント攻勢。身を固めることを決心して、親の伝手で強引に結婚を決めてしまった。

杏奈は茂樹のその強引な性格も好きになれなかった。

「ねえ杏奈、自分が不幸だと思う?」

ミカエルが突然、そんな質問をしてきたものだから、杏奈は戸惑った。

首相の娘。その肩書だけで、何不自由のない生活を送っているはずだと他人は言うけれど、実際はその身分に(かな)った振る舞いが求められ、息の詰まるような毎日だった。

「不幸かはわからないですけど、幸せとは思いません」

杏奈はそう答えた。

「そっかぁ」

ミカエルは感心したように頷くと、

「じゃあ、死ぬまで下界で生きるのと、どっちが不幸だと思う?」

そんなとんでもない質問をしてきた。今の生活と下界での人生を比べるなんてあまりに極端すぎる。

杏奈が返答に困っていると、

「たとえば、ビッグファーザーのエラーで杏奈が下界に送られていたとしようか」

ミカエルはそう仮定して、

「それで、双子の姉は天界、つまり今の杏奈の暮らしをしていたとする。そうしたらきっと、杏奈はそのお姉さんのことを妬ましく感じたと思うな」

と言ったけれど、どうしてそんな話をするのか、杏奈はますますわからなくなってしまう。

「そうだよね、そんなこと想像もしたことがないよね。混乱するのも無理はないか」

ミカエルはまるで杏奈の心の中の声を聞いたようにそう言うと、

「君にはビッグマザーから一緒に生まれた双子のお姉さんがいるんだ。マリアという名前のお姉さんが。真理の真に理科の理、ラブの愛と書いて真理愛」

また突拍子もない発言で杏奈を戸惑わせた。

「だけど真理愛は、天文学的な確率で起こった偶然によって、ビッグファーザーに下界行きの烙印を押されてしまった」

「わたしにお姉様が?」

杏奈は呆然とミカエルを見つめる。その存在そのものが冗談みたいなものだけに、どう反応すればいいのかわからなかった。

「真理愛はビッグファーザーのせいで、これから一生、下界で行きていかなければいけない。杏奈は子どもを育てることで悩んでるけど、下界のひとはその悩みすら持てないんだ」

下界のひとが十八歳になると強制的に生殖機能を奪われることは、杏奈も知っていた。

「極端な優生学に基づいて造られたビッグファーザーを使用することは、人道だけでなく神の倫理にも背く行為だと思うんだ。まあ、ビッグマザーにしても、神の倫理には背いてるけどね。人道的には議論の余地はあると思う」

色々と話をするけれど、ミカエルがここへ来た目的が杏奈には見えてこないため、

「それで、ミカエル様はどうしてここへお見えになったのでしょうか?」

率直に訊いた。

「うん。僕はビッグファーザーを真理愛に壊してもらうつもりなんだ」

ミカエルのこの返事は、さすがに冗談だと杏奈は思った。けれど、

「冗談じゃないよ」

心の中を読んだミカエルにすぐさま否定されてしまった。

「でも、そんなことどうやって……」

そんなことをしたら、日本の根幹を揺るがす大事件になる。

「そのために杏奈、君の力が必要なんだ」

ミカエルは杏奈に駆け寄って来て、前足を組んで祈るように言う。

「協力してくれるなら、結婚は破棄されることになると思う」

「結婚が? わたしは何をすればいいのですか?」

杏奈は床にひざまづき、ミカエルに顔を近づけて訊いた。婚約が解消されるのなら、何をしても構わないと思った。

「本当に何をしても構わない?」

ミカエルはまた、杏奈の心の中の声に反応した。

「はい」

「じゃあ、まずは真理愛に会って欲しいんだ」

「はい」

ひとりっ子の杏奈は姉妹に憧れがあった。本当に双子の姉が存在するのなら会ってみたいという気持ちはあった。

「お姉様にお会いして、何をすればいいのでしょう?」

「うん。しばらく下界で暮らしてもらいたいんだけど、大丈夫?」

ミカエルに軽い調子で訊かれて、杏奈は返事に窮してしまった。


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