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転生遺族の循環論法  作者: はたたがみ
第2章 スウガク部編
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ゲンカクエンカウンター【4】

 次の日の朝、心音は階差の家の前にいた。呼び鈴を鳴らすと彼女の母が心音を出迎え、母に呼ばれた階差が慌てた様子でやって来た。

「部長、おはようございます」

「う、うん。おはよう!」

 平然を装おうとしているようだが、ニヤニヤと笑いそうになっているのを隠しきれていない。どうやら先日の心音の予想は当たっていたようだ。

 既に支度は済んでいるらしく、心音はそのまま階差と学校へと向かう朝の通学路へ足を踏み出した。春になったとはいえまだ少し寒く、心做しか空気が澄んでいるように感じられる。

「そういえば部長の家って綺麗っすよね。水色で分かりやすいし」

「うん。おかげで道に迷わないんだ」

「実は私の家って部長の家とは方向違うんすけど」

「あ、そうなんだ」

「はい。だから昨日同じ方向って言ったのは嘘っすけど、今こうしてるの結構楽しいんで嘘ついてよかったかもっす」

「はあ」

 階差は別に心音の話に興味が無い訳ではない。気の利いた返答が思いつかなかったので汎用性のある相槌を打っているだけだ。心音はそのことを既に知っていたので適当な返事にも気を悪くはしなかった。

 加えて階差が本人も気づかないうちに安堵していることを察していた。心音が自分の家とは違う方向なのにわざわざ嘘をついて階差に気を使わせないようにしてまで送り迎えをしてくれるというのは、本来階差にとっては心音に迷惑をかけてしまう最悪の展開だ。しかしそんな最悪の展開が起きたというのに心音は今の状況をよかったと言っている。

 最悪の場合(ルート)が実現しても悪いことが起きないというのは、最悪の場合が起こらないことよりもさらに安心をもたらすものだ。

 嘘をついたと打ち明けてよかったと心音は思うことができた。


「……」

「部長?」

「あ、うん」

「何かあったっすか?」

 階差は途端に挙動不審になった。具体的には心音と少しだけ距離を離そうとしている。心音は首を傾げた。

 実は階差は自分が汗をかきやすく学校に着く頃には多少汗臭くなっていることも珍しくないと今頃になって思い出したのだが、内容が内容なだけに心音に説明できないでいた。

 夏はまだまだ先だが、教科書とノートの詰まったリュックを背負っているというだけで元々の運動神経も体力も乏しい階差にとっては汗が流れ出すのに十分な負担だ。しかも1人で学校の誰にも知られずひっそりと登校しているいつもと違い、今は隣に心音がいる。気持ち悪がられていないかと不安がるせいで余計に汗が吹き出す悪循環に陥っていた。

「汗かいて臭うとかだったら別に気にしなくていいっすよ」

「え……あ、うん」

「今のところ臭ってないですし、臭ってたとしても私全然気にならないっすよ」

「ああ、うん」

 心音は階差が汗をかきやすいことを知っていた。そして彼女が何を気にしているかも大体分かっていた。

 別にそこまで気を使ったり何かを我慢したりした覚えは無い。ただ本音を伝えただけだ。

 朝の通学路は涼しい。だが冷房の効いた室内のような全知全能な涼しさを誇ってもいない。暑い場所はちゃんと暑い。

 心音たちの歩いている場所が日の当たる道になり、涼しい日陰が彼女らは無視して通り過ぎる予定の曲がり角に行ってしまった。


 その曲がり角に差し掛かった時、心音はたまたま日陰の方に目をやった。これといった理由など無い。適当に辺りの景色を眺めていただけだ。その結果曲がり角の向こう側を見てしまったに過ぎない。

 単なる偶然によって、心音は怪獣を見つけた。

「……っ!」

 思わず立ち止まった。階差は急にどうしたのかと心音の顔を覗いていたが、しばらくしてようやく彼女の視線の先を見るという発想に至った。

「わあああああっ⁉︎」

 階差も少し遅れて怪獣に気づき、悲鳴をあげた。

 特撮番組で見かけるようなビルや民家を易々と踏み潰してしまう程の巨体ではない。せいぜい人間より少し大きいぐらいだ。皮膚は爬虫類のような質感と思われ、四足歩行をしている。ずんぐりとした体型だ。

 そいつが今、心音たちを見ていた。

 階差はどうしていいのか分からず心音の方を向いた。

 怪獣はゆっくり近づいて来ている。

「走って!」

 心音は階差の手を取って走り出した。

 怪獣も彼女らを追うように走り出した。


 とにかく走る。全力で走る。


 足よ動いてくれと願う。止まるなと乞う。


 心音だけならばもっと速かっただろう。


 これだけ全力を出したことは無かった。火事場の馬鹿力というやつだろうか。遅刻しそうになって全力疾走している時よりずっと速く感じられた。


 しかし何度も手を繋いだ先がこれ以上先へ進むことを阻むかのように心音を引っ張り、心音は何度も転びそうになった。


 一方の怪獣は止まらないし減速もしない。今にも追いつかれそうだ。ドシドシという地鳴りにも似た足音が響き渡る。

「振り返らないで! とにかく走って!」

 足を止めれば追いつかれてしまう。そしたらどうなるのか。食べられるのか、踏み潰されるのか。思いつく余裕は心音には無かったが、きっと恐ろしい目に遭うということだけは言葉にする必要すら無く直感が感じ取っていた。

 一方の階差は半ばパニックに陥っていた。もはや何も考えられない状態で心音の手を握りしめ、訳も分からず足を動かし続けていた。

「……っ、っっ……」

 10秒と経たず、一定のペースを守っているようで明らかに苦しそうな呼吸が聞こえ始める。階差の息が乱れたようだ。

 まずいという単語が心音の脳裏をよぎった。とにかく階差と一緒に怪獣から逃げることだけを考えていた心音はこの時初めて思い出したのだ。階差が運動神経も体力も絶望的に持ち合わせていないことを。天文部の部室がある5階まで上がるだけでも息切れを起こし、持久走を1分もさせれば砂漠のど真ん中で死にかけているような姿になる。

 そんな人間が突然他人に手を引かれて自分のペースを超える速さで無理矢理全力疾走を強いられたらどうなるか。答えはとても簡単だった。

 とうとう心音について行けなくなり、階差は転んだ。

「部長!」

 心音も足を止めざるを得なかった。慌てて階差に駆け寄る。

 まだ衣替えには遠い春だったおかげで手足が直にダメージを受ける子は無く、スラックスの膝部分が擦り切れる程度で済んだようだ。しかし階差の顔は既に真っ赤に染まり、滝のような汗が吹き出していた。まともに体力が残っているとは到底思えない。

 心音が階差に駆け寄ってからからそれらの状況を把握するのに要した時間は1秒前後でしかなかったが、たったそれだけでも命取りとなった。

 怪獣が追いついてしまった。

「あっ、ああああああああ……」

 階差はもはやまともに言葉を発せないでいた。体力切れによるものか、それとも恐怖に頭が支配されているせいなのか。

 心音は咄嗟に怪獣と階差との間に立ち塞がった。

 怪獣の生気の無い目が心音を睨みつける。まるでメドゥーサに睨まれて石になったかのように、心音の足は言うことを聞かなくなった。今やただガタガタ震えるだけの骨と肉の塊だ。

 怪獣の荒い鼻息が心音にかかり、その大口が汚らしい涎を垂らしながらゆっくりと開いた。

 いや、ゆっくりと開いたという表現は適切ではないのかもしれない。死ぬ直前は世界がスローモーションに見えるという話があるが、それが心音に起こっただけなのかもしれない。

 いずれにせよその程度のことは所詮些細な問題。肝心なのはその後のことだ。

 怪獣が口を開けた時、心音は怪獣と階差の間に立ったままで逃げなかった。そして心音の左脚がある筈の場所から激痛が伝わると同時に彼女は物理的に立てなくなり、尻餅をつくように転倒してしまった。今や彼女のシルエットは左右非対称だ。

「うぐっ……」

 スカートの端に血がかかっている。布が傷口に触れるだけでも痛い。

 怪獣の口からは心音の右足と同じデザインの靴を履いた人間のパーツがはみ出ていた。怪獣はそれを咀嚼する様子は無く、まるで噛みちぎる行為さえ特に意味は無かったかのように適当に吐き捨てた。

 怪獣の顔が心音たちの目と鼻の先まで迫る。心音は今度こそ()()食われるんだという予感がした。階差は恐怖で頭が回らなくなっていた。

「部長……っ」

 怪獣が口を開く。とうとう――


「君、大丈夫?」

 声がした。焦りのひとつも見られないとても呑気な声だ。知り合いのものではないその声は人見知りの階差に軽度の恐怖を緊張を与える一方、怪獣によって極限まで強くなっていた恐怖心を「ちょっと怖い」の段階まで引き下げていた。ちなみに「ちょっと怖い」で済んでいるのは向こうから既に話しかけられた後だからであり、仮に階差の方から話しかけるとしたら「かなり怖い」には余裕で届いていた。

「おーい。眼鏡のきみー」

 顔を上げるという発想に階差がようやく行き着く。

 見知らぬ女性がいた。肌は日に焼けたような褐色で、学校の先生のように清楚で当たり障りの無い服装だ。屈んで階差を見つめている。

「何かあった?」

「え、あ……」

「いいや皆まで言わなくていい。私には分かるよ。大変な目に遭ったみたいだね」

 どこかふざけているかのような口調だが、不思議と有無を言わせない力強さがあった。単に階差が混乱のあまり碌に話せる状態じゃなかったというのもあるが。

「取り敢えず君が落ち着くまで待つとしようか。大した怪我も無さそうだし」

 褐色の女性は地面にそのまま座ってコンクリートブロックにもたれかかった。そしてポケットから携帯電話を取り出し、携帯電話に繋がったイヤホンを耳につけるといかにも暇を潰していると言わんばかりに携帯電話の画面を空っぽな目で見つめ始めた。

 階差はまだ気づいていないが、実はこの時点で心音の声も怪獣の気配もしなくなっている。何故なら階差が怪獣に追われて転倒した場所からテレポートしたからだ。

 本来なら自分がテレポートしたことに対して混乱したり、目の前でタッチパネルが機体の大半を占める携帯電話を横にして何かのゲームに興じている女性についての疑問を持ったりするのが適切な頭の回り方の筈だが、階差の脳は未だに怪獣に追いかけられたことに注意を向けさせられていた。

 彼女の頭の中では心音の手を取って常識外れなルートで怪獣からの逃走に成功する自分の姿が妄想され、昨晩聴いた音楽の一節が今も尚ループし続けている。故にまともで現実的な思考をできるだけの容量は既に残されておらず、自分が現実の事象に意識を向けていないことにすら階差は気づいていなかった。


 3分から5分程度経過。階差はやっと現実に気づいた。

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