夢2
これは夢だ。どこかで僕はそうわかっていた。
だけど、夢の中の「僕」はそのことに気づいていない。
一方では現実ではないと分かっていながら、その非現実のルールに合わせようとする、夢とはそういうものだろう? 僕はまさにその夢の中にいたのだ。
おかしな話だ。自分が主人公の映画を見ているような感覚。
夢の中で、またも――「またも」? 僕はランニングをしていた。いつも走っているコースだった。ランニングコースとなっている遊歩道から坂を下れば国道に面した歩道に出る。僕は呼吸を整えながらその坂を歩いていた。
坂を下るときに走ると、ひざを痛めてしまうような気がして、僕はその坂をいつも歩いて下っていた。夢の中でもそのことは守られているようだ。
坂のすぐ横にある塾の教室をのぞいた。今日は塾が休みなのか、照明はついていなかった。
その坂の一番下、歩道とつながるところにはポールが何本か立っている。車やバイクが入るのを防ぐためなのだろう。白い、腰くらいの高さのポールが等間隔に並んでいる。
その一本に、コーンがかぶさっていた。
工事現場で見られるような、ありふれた、白い縞模様の赤いコーンだった。ただそれは、学校においてあるようなカラーコーンではなく、まさしく工事現場においてあるような、赤く点滅するコーンで、淡い光を規則的に発していた。
光るコーンなどあたりには見当たらず、僕にはそのコーンが、この世界でたった一つだけ残された赤く光るコーンに思えた。君の仲間は、もうみんないなくなってしまったのかい?
コーンに尋ねても、答えが返ってくるはずもない。そのコーンの明滅は、心臓の鼓動を思わせた。まるで、この赤いコーンが生きているような感覚に襲われた。
その時、僕はコーンの光が一度目よりも弱くなっていることに気付いた。……一度目?
そうだ。僕はこの夢が初めてではないことが分かっていた。二度目だったのだ。
その瞬間、不思議な確信が僕の頭をよぎった。この夢は無限には続かない。コーンのライトの電池が切れたときが、タイムアップなのだと。
僕は思わずコーンに手を伸ばしてしまい、決意を確かめた後、触れた。
次の瞬間、僕はさっきとは別の場所に立っていた。呆然とした。コーンを触った姿勢のまま。赤く光る何かをつかんでいる。
夢でここに来るのは、二度目だった。
そう、僕が触っていたのはコーンではなく、自転車だった。自転車の後部に取り付けられて反射板が赤く点滅していて、それをつかんでいたのだ。
はっとした。すぐに前回の記憶がよみがえった。コーンに触っていたシーンから、急にあの母子がいるシーンへ飛んだのだった。こんなことが起こるのも、僕が夢を見ているせいだ。
僕は再びこれまでの記憶、つまり自転車をつかんで母子を呼び止めるまでのシーンを思い出していく。
母親が自転車を押し、並ぶようにして子供が歩いていた。ちょうどそこは狭い歩道だったので、自転車から降りて歩いていたのかもしれない。子供も歩いているのは、下手に自転車に乗せるとバランスがとりづらいからだ。
僕がその自転車をつかむ十数秒前のことだった。子供が何かを落とした。きらりと光るもの。ビー玉か。近寄って僕はそれを拾い上げる。子供にとってはこんなものでも宝物なんだよな。僕にも経験がある。
僕はその母子に声を――かけようとして、やめた。僕は、この母子を知っている、ふいにそう思ったのだ。
一度目の夢で見ていたからじゃない。それ以前に、どこかでこの母子を目にしたような……。一度目の夢では気付けなかったこと、それに気付いた僕は愕然として、声が出せなかったのだ。
母子は止まらない。僕は黙ったまま無理やり自転車をつかんで、止めた。
おかしいことは色々あったが、もっともおかしかったのは、僕がつかんだのはあろうことか自転車の後部に付いている反射板だったということだ。
……赤く点滅する、ってさっきのコーンみたいじゃないか。
「わあ、これ俺の!」
僕が手のひらを広げてビー玉を見せると、子供はそう歓声をあげた。
ビー玉? 僕は昔、ビー玉を……。
『カケル、ビー玉が好きなの?』
母の声だ。急に割り込むようにして、若き日の母の顔がパッと浮かんだ。これは、夢の中の僕が思い出したことなんだろう。映画を見ているみたいに夢を体験しているこの僕には、いきなり場面に割り込んできたように見えた。
『拾ってきたのね。後で洗おっか』
「拾ってくれたんですね。ありがとうございます」
突如、また場面が変わって、さっきの母の顔が現れた。夢の中の僕が、回想から現実に引き戻されたってところか。しかしいったいどういうことだろう。僕には幼き日の母と今目の前にいる母親が同じ人に見える……。
母親は、息子に向かって言葉を続けた。今回はちゃんと聞こえた。
「カケル、こんな時は何て言うの?」
僕はもう嫌になった。とてつもなく恐ろしいものを見ているような気分だ。僕は、この場にいちゃいけない、この母子と会ってはいけないと、思った。
僕はとっさに駆け出す。
「おじちゃん、ありがとう……!」
その子供の言葉がぐわんぐわんと頭の中に響くのもかまわず、僕は走り続けた。それに、きっとこれが正しい選択だ。
目の前の光景がただ恐ろしかったということもあるけど、もう一つ理由はあった。前回、あの母子と会話を続けたおかげで、僕は子供の靴に触りたいという、変な欲求にかられたのだ。あれは何だったのだろうか? 夢の中とはいえ、嫌な感覚だった。
そして、無理矢理に靴を触ろうとした僕は子供に顔面を蹴られたことで転移して――。
あの後僕に起こったことを、僕はこの時夢の中で初めて理解した。そして、この夢の最終目標も、分かったような気がした。
少しでも遠くに母子から逃れるため、僕は止まらずに走り続ける。だんだん、植木や放置自転車といった障害物が多くなってくる。歩いてくる人も現れ始めた。
それでも僕は速度を落とさない。落としてはならない。強迫観念にとらわれながら、僕は歩道を駆け抜ける。
歩いてくる人はみんなスマホの画面を見ているから、全速力で走る僕に気付く様子もなく、直前まで避けてくれない。僕が避けなければぶつかってしまうだろう。それはダメだ。追いつかれる。
そうこうしているうちに、ついに僕は転移の瞬間を迎えた。ベビーカーを押した女を避けた次の瞬間、突如として目の前にスナックの立て看板が現れた。看板の縁には、ピカピカ光る赤い電球があって――。
まずい、と思ったのと、左の脇腹に強烈な一撃を食らったのはほぼ同時だった。場面が変わる。
裏設定
カケルがランニングコースの帰り道にある塾をのぞいたのは、タイプの女性講師がいるため。