運命の朝1
カケルは伸ばした手で先ほどから鳴りやまないそれを止めた。けたたましい音と、赤く点滅する光が消えた。
カケルはうつぶせの姿勢のまま、じっと動かなかった。目覚まし時計はもう止まったが、停止ボタンに伸ばした右手を引っ込める気にはなれない。寝起きは最悪だった。
きっと、さっきまで見ていた悪夢のせいに違いない、とカケルは思った。しかしそれがどんな夢だったかのか、カケルは思い出せなかった。カケルは夢の内容を覚えているほうではない。
カケルは呼吸を整えてから、意を決して腕の力で体を起こした。カケルは体が動くことを確認して安堵した。それは、体の半分を欠損するという悪夢を無意識に受けてのことだったのだが、カケルには知るよしもない。
カケルは制服に着替えて、通学鞄を持って一階に降りた。カケルの母・ミチコが朝食を作っている。リビングにハムの焼ける香りが漂っていた。
「おはよう、母さん」
「ん、おはよう」
キッチンの中からミチコが答えた。カケルは鞄をソファーに置いてから、ダイニングテーブルのいつもの位置に座った。
カケルの位置からは、鼻歌を歌いながら料理をするミチコの姿が見える。いつもように、起きたときのまま髪ははね放題で、ぶかぶかのパジャマを着ている。キッチンとダイニングを隔てるカウンターで見えないが、下はズボンも履かずに下着しか身につけていないことが、カケルにも容易に想像できた。
息子相手に恥ずかしいもなにもあったものではないが、もう少し配慮してほしいと、カケルはいつも思うのだった。カケル自身は思春期真っ盛りなので、パンツ一丁でうろつくなどという行為ができなくなっていた。
「もう少しでできるわ。待ってて」
「はーい」
カケルはあくびを噛み殺しながら返事をした。
ミチコが豪快にフライパンを振るたびに、ぼさぼさの黒い髪が跳ねる。たかが朝食を作るのに、こんな激しいフライ返しが必要であるわけがないと、カケルはいつも不思議に思うが、朝食自体はカケルが作るものよりもおいしい。
時間つぶしに、ぼーっと、自分の見たであろう夢のことを考えたが、やはり思い出せない。
「母さん、今日は悪夢を見たみたいなんだ」
「あら、ぎゅって抱きしめましょうか」
「僕はもう子供じゃないよ」
ミチコは完成した朝食を食卓に並べ始めた。カケルも手伝う。ハムエッグとトーストに牛乳。ミチコとカケル二人分の食事だ。この家に父親はいない。
「いただきます」
ミチコが手を合わせると、カケルもそれに倣う。この家で毎朝見られる光景である。夜に顔を合わせることは滅多にない母子のルールの一つに、朝食はなるべく一緒に摂るというものがあった。
父親が蒸発して以来、ミチコが繰り返し主張してきたことだった。夜は看護助手の仕事でミチコの帰りがどうしても遅くなる。ミチコに合わせるとカケルの夕食が遅れるということで、夜勤明けの朝に一緒にご飯を食べることにしたのだ。
それでもミチコにとってはつらいはずだとカケルは思う。看護助手の仕事は体力勝負であるし、さらにミチコは掛け持ちで昼にバイトを入れている。午前中いっぱいはゆっくり寝ていたいはずだ。そこを、カケルと朝食を摂るために遅くに帰ってもこの時間にはきちんと起きる。
しばらく無言の時間が続いた後、ミチコが口を開いた。口の横にジャムが付いていた。
「あなたって、小さい頃、よく怖い夢を見たって泣いていたわよね」
「そうだっけ?」
「そうよ。それで私がぎゅって抱きしめてあげたのよ」
良い母なのだが、家の中での無頓着な恰好や、こういうことを照れもなく言うところなど、思春期のカケルがむず痒い思いをすることも多い。
また、ミチコの前では言葉遣いに気を付けているが、友達の前などでは結構粗雑な話し方をするようにもなっていた。
カケルは否定するだろうが、彼も無意識のうちに反抗期のようなものを迎えていたのかもしれない。
カケルは恥ずかしさから、逃げ道を探すように時計に目をやった。
「あ、そろそろ時間だ。食器洗わないと」
「それくらいやっとくわよ」
「いいよ。僕の分くらいは僕がやるよ」
息子に対するからかいと慈しみを含んだ視線から逃げるように、カケルは手早く食器を洗うと、鞄を持って慌ただしく玄関へ向かった。
「今日も、頑張ってらっしゃい」
「……はい!」
靴を履きながら、にやけたミチコの顔が思い浮かんで、カケルはため息をついた。昔から母には敵わない。
電車を使って三〇分ほどの距離にある高校にカケルは通っている。家から近い距離にある高校に通えていることで、家事をする余裕が生まれていた。母は好きにしてもいいと言ったが、カケルは部活に入っていない。部活動に興味がないわけではなかったが、自分を女手ひとつで育ててくれたミチコを手伝いたいという気持ちが勝ったのだ。
俗に言う、マザコンといったものではないと、カケルは思っている。毎日遅くまで働く母。父親のいない家。そういったことを考えると、どうしても自分の役割を果たさないと、という気持ちになるのだ。
ホームでスマホを見ながらカケルは電車を待っていた。友達に勧められてやっているソーシャルゲームだ。時間つぶしにはちょうどいい。
カケルは今日は電車待ちの列の先頭に立っていた。いつもならば会社員風のスーツを着た男がそこに立っていて、カケルはその一つ後ろに並んでいるはずだったが、今日はその男がいないので先頭にいたのだ。
カケルは気に留めることはなかったが、この時もっと注意しておくべきであった。
駅の構内にアナウンスが響いた。特急電車の通過を知らせるものだった。毎日聞いているのでカケルが意識をそちらに向けることはなかったが、ふとカケルの注意を引いたものがあった。それは先ほどから聞こえていたある音。
カケルはスマホから顔を上げ、駅から少し離れたところにある踏切の方を見た。
カンカンカン……。
無意識に人々に警告を与え、そして不安を駆り立てるような規則的な音を発する遮断機を見て、カケルもまた不安を覚えた。そして、カケルは思い出したのだ。
カケルの脳裏を、あの夢が駆け抜けた。
裏設定
朝食の用意は当番制で、カケルが作る日もある。