エピローグ
気付くと、目の前にパソコンの画面があった。は。何があった。
僕の焦点は画面に合っておらず、一瞬くらっとしたが、ちゃんと焦点を合わせる。
『明日の宿題のことなんだけど……』
『分かった分かった、教えてやるよ』
『ありがとうございます!』
パソコンの画面に表示されていたのはチャットのようだった。僕と友達の会話だ。
そうだ、僕はさっきまで友達と会話していたんじゃないか。
友達が明日提出の宿題について教えて欲しいというので、僕が解説していたところだったのだ。なんでこんなことを忘れたのだろう。
疲れているのかもしれない。最近、いつも悪夢を見ているみたいだったからな。内容は覚えていないけど、眠りが浅くて疲れが取れていないのかもしれない。年寄りみたいだ。
よし、さっさと済ませて早く寝よう。僕は返信を打とうとマウスから手を放す。その時、マウスから赤く点滅する光が漏れているのが見えた。これは、電池がそろそろ切れるという合図だったはずだ。さっきからずっと光っていたな、そういえば。後で電池替えないと。
「俺が思うに……」
僕はそう文字を打った。しかし、画面には違う文字が現れる。
「僕が思うに……』
あれ、おかしいな。「僕」はこんな言葉遣いじゃないはず……。
あれ?
なんだよ、「僕」って。友達の前や、自分の心の中では、「僕」なんて言わなかっただろう? 「僕」は。いつもは、「俺」と言っているはずだ。中学に入ったくらいから、「僕」なんて言うのは恥ずかしくて、「俺」と言い始めたはずだろう?
「僕」なんていい子ぶった言い方をするのは、母の前でだけだ……。
冷房は効いているはずなのに、冷や汗が流れた。
待てよ。おい、待ってくれよ。
「僕」と母は昔、父に捨てられた。顔は写真でしか見たことがない。しかし幼い「僕」にとって父は母とは違って恐怖の対象ではなかったようで、「僕」は父の真似をして「俺」と言っていた……。
それを怒ったのは母だ。父がいなくなってからも「僕」が「俺」という一人称を使っていたことを、烈火のごとく怒った。手も上げられた。
母がどう思ったかなんて聞いたことはないけれど、「僕」を父のような人間に育てたくなかったのだろうか。それとも、父を思い出させるから、嫌だったのだろうか。
今でこそ母に恐怖やまして責めたりする気持ちなんてないが、あれは完全に常軌を逸していたと想像できる。想像しかできないのは、当時のことをほとんど覚えていないからだ。
徹底的に「僕」と言うようにしつけられた「僕」だったけど、中学生になって自我が芽生え始めたのだろう、外では「俺」を使うようになった。周りの友達もみんな「俺」と言っていたし、そのころには母も落ち着いていたからだ。
だけど母の前では「僕」という言葉を使い続けた。怖いとかそういう気持ちじゃなくて、純粋に母を想ってのことだったと思う。あまり昔のことは思い出させたくない。
だから、「僕」が友達とのチャットで「僕が」なんて言葉遣いをするはずがないのだ。さっきも「僕」は「俺が思うに」と打ったはずで……。
おい、さっきからなんで「僕」は「僕」なんて言って……。
血の気が引いた。急に、あたりがうすい靄がかかったような感覚に襲われる。最近、これと同じような感覚を経験したことがあった。あれは確か。
『抑圧された心理が、夢の中で現れた』
ふと、夢の中では無意識の欲求が出てくるのだという話を思い出した。「僕」は、いまだに無意識下では母の言う通りに、「僕」と言っていたのか。忘れたつもりだったけど、母への恐怖は心の底にはしっかりと残っていたと言うことか?
「僕」は今、どこにいるのだろう。あの時みたいに。どこかに行けるのだろうか?
視線を向けると、いつの間にか、マウスが発する赤い光は消えていた。
完
裏設定
カケル父の前の職業:電車の運転手