夢3
転移先でも、僕は脇腹にものすごいダメージを受けた直後だった。息が詰まって、とっさのことで右側に跳んで、あいつから逃げる。
二度目の夢で見た、あの警備員。今もその目は虚ろだ。
さっきは無我夢中で駆けていたが、無事転移できているところを見ると、前回と同様にあのスナックの看板にぶつかったらしい。
まあ、僕の状態が無事といっていいかはわからないけど。
僕は目の前の警備員をにらみつける。奴は、赤く点滅する誘導棒をぶんぶん振り回して、わけのわからぬことを呟く。
あばらが折れたかと思うほどの初撃を受けて、未だその脅威にさらされながら、僕は必死に頭を働かせた。前回、僕は男の次の攻撃を避け、男の背後数メートルのところにある交差点を目指した。何かはわからなかったけど、交差点の真ん中に、赤く点滅するものが埋め込まれていたからだ。感触はブラスチックのようだった。
だけど、結果として僕は最終地点の踏切に飛ばされた。この選択ではダメなのだ。
男はにたにた笑いながらじりじりと距離を詰めてくる。くそ、殺される。
何か打開策はないか、僕は必死にあたりに目を凝らす。しかし前回と同じように、あの交差点以外に赤く光るものなど見当たらない。
考えろ。さっきはどうだった。
ここに転移してくる前、僕はあの母子との接触を避けることで、あの場面からは脱出することができた。不思議とあの選択が正解だということは今となっては分かる。
しかし、今はどうだ。今も、この男から逃げるべきなのだろうか。いや、それをして前回はゲームオーバーになったのだ。
だとすると……。
「ああああ!」
男が獣のような声をあげて僕に襲いかかった。くそ、仕方がない。
僕は瞬時に、壊されてもいい部位を選ばなければならなかった。反射的に、手のひらを男に向けるようにして、左腕を差し出す。
ぼきっという、変な音がした。ああ、これが、腕が折れる音か。
次の瞬間、左腕を信じられない痛みが襲った。悲鳴すら出せず、たまらず僕はしりもちをつく。結果的に、そのあとの頭部への一撃は避けられた。
くそう、めちゃくちゃ痛い。なんでだよ! ちゃんと赤く光るものに触れただろうがっ!
僕はさっき、この状況に対してたった一つの選択肢を思いついた。それは、一か八か、あの誘導棒に触れることだったのだ。転移の前後には赤く光るものが必要となる。この場面へは、誘導棒を通して転移してきた。だったら、もう一度この赤く点滅する誘導棒に触れたらまたどこか違う場面へ転移できないだろうか?
そう思ってのことだった。しかし、それではダメらしい。転移もしないし、当然左腕の痛みも消えない。同じ場面で一度触ったものは、もう転移の効力を失うのかもしれなかった。
絶えず襲い来る痛みの中でも、なぜかそんな冷静な分析ができた。くそ、夢の中なのになんでこんなに痛いんだよ……。僕は少しでも早くこの痛みから解放されたかった。条件とか、電車とか、どうでもいい。どうでもいいから、一刻でも早く……。
予想以上の痛みのせいで、僕の気持ちは折れかけていた。
誰か、助けてくれないだろうか。周りの人だかりを見るが、夢の中の脇役だからか、さっきの場面同様、みんなスマホを見たり、電話で話したりしているだけだ。救世主など、望めそうにない。
絶望的な気持ちの中、警備員と目があった。目がうつろなのに、なぜか強い殺意が込められているのが分かった。
このままでは、父に殺されるのを待つだけだろう。
……父?
俺は今、父といったか? 父さん?
そう思ったとき、何かをつかめた気がした。この夢の違和感の正体。さっきの母親を思い出す。子供を思い出す。
しかし、せっかくのひらめきも、警備員の咆哮によってかき消されてしまった。奴の振り上げた誘導棒が、今にも僕の頭を砕こうと怪しい光を放つ。
夢なら覚めてくれ、今更そんなことを思いながら僕は目を閉じた。いっそ殴られた痛みで目が覚めたらいいのに。
カンカンカン……。
あの音が、遠くで聞こえた。
ああ、僕を迎えに来たのか。
転移したのだと思った。しかし、すぐに違和感に気付く。
この音は……違う。遮断機の音ではない!
それに気付いた瞬間、僕はほぼ反射的に上体を右に寄せた。
左肩に激痛を受け、また僕は声にならない悲鳴を上げたが、ひどい状態の体とは裏腹に、僕はかすかな希望を抱きつつあった。
なぜって、僕は、まだあの警備員の攻撃を受けていた。痛みはまだ続いている。足も、こうして動かせる!
僕は、まだ転移していなかった。
サイレンの音が、どんどん近づいてくる。
それは、遮断機の警報ではなかった。救急車の、サイレンだ。全然違う音じゃないか。ついに僕もまいっていたみたいだ。
男を見ると、そのサイレンの音に気を取られているようだった。イラついているのが分かる。さっきも、サイレンの音に男の意識が向かなければ、僕の頭は砕かれていただろう。
救急車のサイレンは、確実に大きくなっている。人だかりの中の誰かが、通報してくれたのだ。やけに到着が早い気もするが、そんなことはどうでもいい。夢の中なんだ、ちょっとくらいのご都合主義があってもいいじゃないか。
まだ、終わりじゃない。
こうして新しい展開になったということは、まだ希望はあるということだ。
左腕は肩の先から動かせないし、左の脇腹もズキズキ痛む。頭もくらくらするし、極度の緊張からか、視野は狭いし、体が上手く動かせるかも定かではない。
だから、なんだってんだ。
僕はまだ、腹から下を失ってなどいない。血もそんなに流れちゃいない。ちゃんと足は動かせそうだ。それに、もうすぐ助けが来る。
ここでこらえなければ、僕は死ぬ。夢の中でも、そして、現実でも。
そんなことになるのは、ごめんだ。
まだ僕にはやらなければならないことも、やりたいこともたくさんある。
しかし、悪夢は僕を待ってくれない。
警備員が、再び誘導棒を振りかざした。さっきみたいに、逃げ続けられるとも思えない。救急車が到着するまで、逃げ切らねば。でも、走って逃げ切るのは難しいと思う。この怪我だ。まともに走れるとも思えないし、すぐに追いつかれるだろう。
どうすればいいんだ。
その時、僕の右手の中に何かの熱を感じた。はっとして手を開くと、誘導灯の赤い光を反射して、ビー玉がきらりと輝いた。
さっき、母子からすぐに逃げ出さずに、手の中にあることを確認したビー玉だ。子供には渡さずに、そのまま持ってきた。なぜそうしたかは分からない。勘だった。宝物を取るような真似をして、あの子供には悪いことをしたと思う。
だけど、ここにきていきなりその存在を強く意識した。こんなものが役に立つとは思えなかったが、もう余裕はなかった。ええい、もう一回、一か八か。
僕は、右手を握りしめた。そして大きく振りかぶって、ビー玉を男めがけて投げつけた。
左半身は使い物にならないから、腕だけで投げるような感じになった。お世辞にも威力があるとは言えない。コントロールも最悪だったかもしれない。
だけど、当たってくれ。当たって、少しでもその男を食い止めてくれ。
僕の祈りが通じたのか、それとも夢の中だからか、ビー玉は男の目に命中した。がっ、と男はうめいて、顔面を手で覆う。
その時、角を曲がって救急車がついに姿を現した。それを見た僕は、自分の選択が間違っていなかったことを知った。次のステージへの扉は開かれた。僕は最後の力を振り絞って、駆け出す。
救急車は甲高い音を立てて止まると、後ろからストレッチャーを押して救急隊員が出てきた。僕を見て駆け寄ろうとする。
しかし僕は彼らを無視して、一直線に救急車の前方へ突き進む。右手を伸ばして、点滅しながら赤い光を放つ、車体の前部につけられたライトに触れた。