導入
まず、許されなければ、愛することもままならない。
「時間も場所も鎖でつないで、選択肢のないまま選ばせるなんて、したくない。
何も縛られないお前に望まれたなら、ずっと、ずっと大事にできる。そう思うんだ。」
独り善がりな思いで人を傷つけてしまうのは耐え難い苦しみだと教えてくれたのは天使様だった。
その天使様は身丈に合わない薄い着物をまとい、ほっそりとした足首は錆びついた足枷を引き摺っていた。翼はなかったが、その柔和な顔立ちや睫毛の影からのぞく瞳の優しさは微かな明かりを背負っていることも相まって酷く神々しく見えた。
「学校の怪談」について聞いたことがあるだろうか。有名なものであればトイレの花子さん、口裂け女、テケテケ。これらはTVでも取り上げられたり本や漫画、ゲームなどでも紹介される。学校によっては独特の話が生まれていることもあるだろう。大概、学校の敷地は昔墓場だったとか、自殺した生徒の恨みなどから話は始まる。最も生命力の強いころ、死に興味を持つのは自然なことだ。その証拠に一番初めに興味を持つのは10歳前後の女子だ。周りより、少し大人びたくて、みんなが持ってない話題を提供したくなるのだろうか。そのうち好きな男の子に夢中になってこっくりさんをはじめる足掛かりでもある。
中学で「この学校には天使様がいる。」と聞いたとき少し醒めたのは内容の陳腐さだった。陸上大会の移動中に聞いた話で、聞いている周りの奴らはもりあがっていたがそんな話は小学生の女子がするものだと思うから得意げに話す同級生が幼稚に見えた。なんでも、この学校が建つ前、ここにはキリシタンの寺院があったらしい。今の屋外倉庫には懺悔室が設けられており一目を忍んで信者が人には言えないようなことを告白しに通っていたらしい。天使様はそのころから懺悔室にいた。今でも誰にも見られずに懺悔出来れば天使様がそれを聞いて許してくれるらしい。それを聞いて、神社の丑の刻参りみたいだなとか、許すってなんだ。テストで0点取って許されたら返って困るんじゃないかと思ったが黙っていた。どうせただの暇つぶしだからここで否定しても場が冷めるだけだ。県大会に進むことが決まり、マイクロバスは浮足立っていた。窓から見える景色は等間隔に並んだLEDの街灯の残像を夜に引き伸ばしていた。出発も早かったのに一番くたびれているのは付き添いの顧問だった。天使様の話は帰りに寄るコンビニで何を買うかに流され、誰かが新商品をスマホで表示して数人が液晶に群がった。
「俺のところに来いよ。門下生は住み込みで他にもいるし、一人くらい増えたってなんでもない。
俺のそばだったら絶対に居場所で困らせやしないし、ずっと一緒だ。」
風呂敷を抱えて、ロオランは虚を突かれたように瞬いた。大きな瞳を正面から見つめるうち、顔が熱くなってシメオンは「どう思う!」とロオランの肩を掴んだ。薄い布越しに華奢な鎖骨と肩甲骨が分かり、壊してはいけないと力を抜こうとすれば指先が震えていた。自分はひどく緊張しているのだと気づいた。
ぱちぱちと瞬いたあと、ロオランは無骨な顔を真っ赤にして迫るシメオンに耐えられなくなったのか「お前が何を考えているか、分かるよ。」と嫣然とした笑みを浮かべた。
「どう思うかって?お前、日曜集会でしか顔を合わさなかったのに最近走り込みで毎朝寺院まで来ているな。俺が毎日朝のつとめをしているのを不憫に思ってくれたのか?長老衆にこき使われてでも居場所を作ってるって?そんなことは断じてない。私が好きでやってることだ。」
両手が塞がっているからか、コテンと首をかしげて右肩に乗ったシメオンの手の甲に頬を当ててなだめるように擦り付けた。節の目立つシメオンの手とロオランの透き通るような白い肌は同じ人間であることが疑わしいほどに異なっていた。ロオランが手の平で撫でようとしたとしても同じことだったろう。二人の手は二回りほど違っていたから。
「それに、私に武術は荷が重い。毎朝おつとめして聖書を読んだりするほうがずっといい。寺院は読むべき本が溢れているし、私が読んで解説するのを長老衆は大事に聞いてくれている。」
「...っ別に、門下生にならなくったって、いいんだ。お前と長く居たいだけだ。
滅多と微笑んだままの表情が動かないお前が驚いたり笑ったりするとその日は穏やかな気持ちになるんだ。辛いことも平気になった。お前が俺のそばにいてくれるだけで満たされるんだ。言いたいこと、分かるか?」
ロオランは頭を止めて掬い上げるようにシメオンを見つめた。顔色がすこし落ち着いてきていた。
「まるで嫁でも貰うみたいな言い草だな。」
ロオランのこぼした言葉でシメオンの顔がまた赤くなったがロオランは気にせず続けた。
「私もお前のことをよく考えるよ。お前がそばにいるだけで安心する。私たちはお互いに失い難く思っている。そうだろう?だからこそ距離が必要なんだ。容姿も生活も、違うことを尊重しあおう。」
言い終わると身を屈めてシメオンの腕からすり抜けた。シメオンは不貞腐れた顔をしていた。ロオランと話すといつもこうだ。自分の言葉の足りなさにうんざりする。結局ロオランに的を射た言葉を与えて貰い、主導権を差し出すことになる。そのうえ目をまっすぐ見つめて無防備に触れてくるものだから喉元で言葉は散り散りに霧散してしまう。次の日曜までにもっと食い下がれるような言葉を探しておかないと。こんなことを言うのは初めてだったけれど驚かせたが嫌がられはしなかった。今日の言いくるめられ方は悔しかったが機会はこれからいくらでもあるのだ。