7. キーア
翌日、イーレンはいつもより早く目を覚ました。同室の者がいて落ち着かなかったこともあったし、もしキーアがぐずぐずしているようなら、それを言い訳に先に出かけてしまおうと考えたからだった。しかしキーアは、早起きをしたにも関わらず準備万端整えていた。鞄や長物を収めた荷物を背負子にまとめ、イーレンの後ろについて来た。
二人は宿を出て、雨上がりの通りへ足を踏み出した。地面はまだぬかるんでいたが、昼までにはすっかり乾いてしまうに違いない。二人は構わず、西へ向かって歩き始めた。途中で集会所の前を通りかかると、ちょうど月初めの儀式をやっているところだった。キーアが足を止めたので、イーレンも付き合うことにした。
儀式に参加しているのは二十人ほどだった。町の住人の数からすればごくわずかに過ぎないが、バウドーの村でも似たようなものだったので、イーレンは何も感じなかった。町の顔役と思われる人物が広場の真ん中に立って、ちょうど果物を並べようとしているところだった。月初めの儀式では、円周上に七つの供え物を置くのが慣わしだった。
キーアがぽつりとつぶやいた。
「ここはリンゴなのね」
「あなたのところは?」
「オレンジが多いかな。名産だから」
「ふうん」
それから町の顔役は、円の真ん中に立って両手を広げ、ぐるりと一周して回った。次に空へ向かって感謝の言葉を述べた。
「収穫をもたらす、雨をありがとうございます。
収穫をもたらす、土地をありがとうございます。
われらは働き、作物を得ます。
そしてその一部を、あなたにお返しします」
顔役が言い終わると、町の人々は三々五々に別れていった。子供が二人駆け寄ってきて、リンゴを取って行ってしまった。これもよく見る光景で、それを咎める者は誰もいなかった。イーレンとキーアは、再び歩き始めた。
それから二人は、南に折れる街道を外れ、山へ続く別の街道へと向かっていった。南にある本街道は首都スタブロを経由して平坦な道が続く。途中には宿場も整備されていて、快適な旅ができるだろう。一方二人が選んだ鉱山街道経由の道は、峠を越えて無人地帯を数日かけて抜けなければならず、過酷な道のりになる。しかしこちらの方が日数は半分になるので、徒歩で突破できる体力のある者が少なからず選ぶ道だった。二人はまず山の麓の村、リーニアクを目指した。ここまでは三日かかる道のりだった。
ザナクからリーニアクまでは、畑ばかりの長閑な風景が続いていた。昔この辺りは小麦の生産で知られた場所だったが、最近はジャガイモが多いようだった。イーレンとキーアは、小さな農村を次々に通りながら、目の前に迫ってきた山の峰を目指して歩いていった。
キーアは確かに旅慣れた様子で、イーレンの長い歩幅にもよくついて来ていた。歩いている間のキーアはあまりしゃべらず、背負子の肩紐をがっちりと手で持って、一定のペースで足を繰り出していた。しかし休憩のときに水を飲んだり食事を取ったりする時間になると、とたんにおしゃべりになるのだった。キーアはもっぱら旅で見たいろいろな村のことを話した。いろいろな食べ物や、会った人物のことを話した。服装や靴についても詳しかった。しかも、帝国だけでなく、辺境の国々にも詳しいようだった。イーレンはキーアの話に驚きながら、いったい彼女は何歳なんだろうと思い始めた。同年代と思っていたが、とてもそうとは思えないほど国の内外を歩いて回っているようだった。
リーニアクまでの道程は順調に進み、二人は三日目の夜に村に着いた。キーアは村で一番大きな部屋に泊まりたがったが、イーレンは逆に落ち着かないといって、普通の部屋を選んで泊まることにした。イーレンが日課の剣の手入れをしていると、キーアは一人で外へ出かけていき、一刻ほどで乗り合いフライヤーを見つけて戻ってきた。ここから先にある峠の村まで、それで登っていこうというのだ。結構な運賃になるはずだったが、キーアはイーレンの分まで出すという。イーレンはキーアの気前の良さに、かえってばつの悪い思いをしたが、キーアは一向に気にしない様子だった。仕方なく、イーレンはキーアの提案を受け入れて付き合うことにした。
翌朝、早めに準備を整えて宿を出た二人は、村はずれの待ち合い場からフライヤーに乗り込んだ。イーレンとキーアの他には、若い男が一人、大きな荷物を持った年老いた女が一人いるだけだった。
バスはフライヤー・トラックに布の天蓋を被せただけの粗末なものだったが、険しい峠道をどんどん進んでいくフライヤーは、確かに旅を楽にしてくれる乗り物だった。速度はせいぜい駆け足ぐらいのものだが、丸一日休まずに坂を登り続け、夜になる前に峠の頂上にあるスマタトの村についた。
「あーあ、一日中フライヤーに揺られてお尻が痛くなっちゃった。今晩は大きな部屋にしようよ。ねえ?」
「一晩横になってればすぐによくなると思うけど……」
「ああもう、いいじゃない。私に選ばせてよ、ね?」
仕方がないとあきらめて、イーレンはキーアについていった。
*
キーアは言葉通り、村で一番大きな部屋を持つ宿屋を探し出した。そこで荷物を部屋に入れると、食堂で夕食を食べた。キーアは食後のお茶をすすりながら、イーレンに向かって尋ねた。
「剣士というのはどんな仕事なの?」
「さあ……。剣士という仕事があるわけじゃないよ。それにわたし、修行の身だし」
「じゃあ、どんな仕事をしようと思っているの?」
「分からない。まだ決めるのは早いかも。ハンツへ行って、よく考えないと。そもそもわたし、剣士になれるか分からないし」
「剣士になるには、どうすればいいの?」
「そこが難しいとこだね。よく考えてみたら、剣を持ってれば剣士と言えなくもない」
「じゃあもう立派な剣士だね!」
二人はふふふと笑いあった。イーレンは内心こう思った。剣で相手を切り殺していればどうだろう? 自分はもう剣士と言えるだろうか? そもそも人を切り殺すことが仕事だなんて言えるだろうか?
「でも剣士だからといって、仕事になるかどうか、わかんないな」
イーレンは口に出していった。
「あなたはどう? 鍛冶の仕事で食べていけるの?」
「鍛冶仕事はまだまだね。見習いだし」
「鍛冶になるにはどうすればいいの?」
「まあ、槌を振って剣を打ってれば、鍛冶になれるかな」
「あはは、そんなわけないじゃん」
イーレンはくすくすと笑った。
「そんなもんだよ、実際のところは」
「でもさ、ハンツに行くってことは、あなた鍛冶ギルドなんでしょう?」
「ええ、そう。ギルド会員だよ」
「選抜試験とか、適正試験とかあったんでしょう? 誰でもなれるわけじゃないでしょ」
「もちろんあるけど、一番肝心なのは鍛冶になりたいかどうか、だよ。世界で一番の剣を作ってやるんだって気持ちさえあれば、それでいいんじゃないかな」
「ふーん」
そういう考え方もあるだろう、とイーレンは思った。剣士になるなら簡単だ。剣を振ることさえできれば剣士と言える。しかし軍人になるならどうだろうか。軍人になりたいからといって、ただ名乗りさえすれば軍人になれるわけではない。帝国軍に入るには、訓練学校で入隊訓練にパスしなければならない。士官を目指すのであれば士官学校に入学できるだけの才能を示さなければならない。それには戦闘能力だけではなく、知識や技能も身につけなければならないのだ。
でも、とイーレンは思った。志願して基礎訓練をやり遂げれば、少なくとも兵士には、帝国軍軍人にはなれる。そこから先、どのような仕事をすることになるかはまったく分からないが、兵士になれれば、剣の腕を振るう機会は必ずあるはずだ。イーレンはそう思いながら、ぼんやりと質問を続けた。
「鍛冶ギルドに入ってない鍛冶屋もいるよね」
「もちろん。全員がギルドの会員ってわけじゃないよ」
「キーアはどうして鍛冶ギルドに入ろうと思ったの?」
「さあ、どうしてかな……。師匠に勧められたっていうのもあるけど。ギルド会員なら、ハンツの大きな炉を使って、小さな鍛冶場ではできないような色々なことができるし。鉱山から出た珍しい石や材料の研究もできるし。たくさんの師匠から技を教えてもらえるし。そういうのは、ギルドにいないと、なかなかね」
「でもギルドにいると、規則や義務も多いでしょう」
「そうね、それはお互い様かな。やるべきことはやらないとね」
「たとえばどんな?」
「徒弟の頃は掃除ばかりだった」
キーアがそういうと、二人は同時に笑い出した。
「あなたも? みんなそうね!」
「チビすけにやらせる仕事なんて掃除ぐらいしかないし」
「まあそうね。それから炭と石炭を運んだり、しまったり、灰を捨てたり、片付けたり」
「それは大変そう」
「暇を見つけては、包丁とか、鎌とか、他には鋤や鋏なんかも作ったりしてね。もともと削るのは得意だから……」
「そういえば、指輪を作っているのはどういうこと? 鞄にいっぱい詰め込んでいるじゃないの」
「あれは趣味みたいなもの。もともと金細工が好きでね。石を嵌めると高く売れるから、あちこち旅をしながら売って歩くと、色々便利なの」
「なるほどね……」
イーレンは失敗に終わった夜警の仕事のことを思い出しながらうなずいた。自分ももっと経験を積んでいかなければ。
「ギルドでは、師匠に付いて作剣の訓練も受けるの。最初は相槌を打ちながらだけど、筋を見込まれれば自分で打つ許しももらえるし」
「あなたは? 自分で打ってるの?」
「まあね、最近ようやく」
「そうなんだ。それでハンツへ修行に?」
「ハンツではもっと剣を打ちたいけど、材料の研究もするつもりなんだ。たとえば硬度を高めるための炭素の調整方法とか」
「えっ」
「うーんとね、刃には硬いところと柔らかいところがあるんだけれど」
「ああ、その硬度ね」
「そう。それを決めるのは鉄に含まれる炭素の量で決まるわけ。ハンツではいくつか決まった規格の鋼鉄を作っているんだけれど、必ずしも剣に最適なものじゃないんだよ。そういう調整は大量生産用の方法と、ごく少量しか作らないときの方法では全然違うから、それぞれ調べて身に付けておきたいと思って。刀鍛冶の師匠の中には、銑鉄から自分で精錬している人もいるし」
「……難しいなあ」
「あなたの剣はね、硬さの違う鋼を合わせて作ってあるの。刃のところは硬くて薄い鉄、鎬のところは厚くて柔らかい鉄で出来ていて、切れ味と強靭さを両立させてるの。すごいでしょ」
「さすが鍛冶屋、詳しいのね」
「剣士さんはそういうことは学ばないの?」
「この剣と旅をするのはこれが初めてなんだ」イーレンは正直に言った。「謂れも、構造も、何も聞けなくて……。慌てて出てきたから」
「そうね、普段目にする長剣はこういう造りにはなっていないものね。手間がかかりすぎるし」
「どうしてこうしないのかな? 使ってみると、とてもいい剣なんだけど」
「そう? どんなところがいいと思う?」
イーレンはじっと考えて、それから言った。
「スピード勝負のわたしには合ってると思う」
「なるほどね。それから?」
「軽くてバランスがよくて、速く動かすのにちょうどいい。両手でも片手でもうまく使えるし……。師匠には、両手剣は左手で使えってよく言われたな……」
思い出すような表情になったイーレンを、キーアは興味深そうに覗き込んだ。
「師匠はどんな方なの?」
「え? うん……。背が高くて、話が上手な人。強くて、頼りになる人。どんなときも……」
イーレンはそこまで言うと黙り込んでしまった。キーアは続きをじっと待っていたが、イーレンは言葉に詰まって何も言えない。キーアはやがて、イーレンの指にそっと触れていった。
「どんなときも?」
「とってもやさしくて、厳しくて、わたしを鍛えてくれた……」
「そうなんだ。今はどうされているのかしら?」
「分からない、分からない。わたしったらどうしてこんなところまで来ちゃったんだろう」
イーレンが急に顔をしかめたので、キーアは驚いた。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫……。サールならきっと大丈夫」
「もう今日は疲れちゃったから寝ようか」
キーアはイーレンの手を引いて食堂を出た。イーレンは言われるままに、ふらふらとキーアについていった。