6. 雨
フレイヨンを出てから五日後。イーレンは真っ暗な山道を、雨に打たれながらとぼとぼと歩いていた。ザナクの町はまだ見えず、山道は限りなく続いているように見える。足元はぬかるんで歩きづらく、先ほどから滑って二度も転びそうになっていた。もう前に進むのは諦めて、木陰で野宿することを考えたほうがいいかもしれない。麓の村で昼食を取ったときには、店の者にやめておけと注意されていたのに。距離はたいしたことはないが、上り坂はきついから、一泊して朝から出たほうが確実だと。それに今日は月末、明日は一日だぞ、と。でもバウドーを出て一週間、少しでも先に進んでおきたいと焦っていたイーレンは、自分なら夜になる前に着けると過信していた。その結果がこのざまだ。全身ずぶ濡れで、前もろくに見えないほど暗い中を、文字通り手探りで進んでいるのだった。
そうやって自分自身に悪態をつきながら半刻ほど進むと、ようやく坂が終わって平坦な道になった。すると遠くの方に、わずかな光がちらりと見えた。イーレンは喜びのあまり腕を突き上げると、泥水を跳ね上げながらその光に向かって走り始めた。
それは小さな小屋の軒先に吊り下げられたランタンだった。イーレンが近づくと、扉が開いて中から雨具を着た女が一人出てきた。
「誰?」
「旅をしているだけ。ザナクまで行きたいんだけれど」
「こんな時間に?」
「明るいうちに着くつもりが、山道で遅れちゃって」
「明日まで下で待っていればよかったのに」
「そうね、まったくその通り」
イーレンは泥まみれの手で顔をぬぐったが、何の足しにもならなかった。見張りの女は同情したような顔をしたが、何もしてくれなかった。小屋の扉の奥にもう一人いるのが見えた。しかし用心しているのか外には出てこない。
「まっすぐ進めば街に出るよ。もう迷うことはないさ。でも宿が空いているかは難しいね」
「そう……」
まずい。結局、町の中で野宿ということもあり得る。どこかの軒先で寝ることになるかもしれない。イーレンはがっくりと肩を落として、とぼとぼと町へ入っていった。
ザナクもまた、街道沿いの宿場町なので、宿が数件建ち並んでいた。イーレンは最初に見つかった宿に入ってみた。食堂は満席で、空きはどこにも見当たらない。とりあえずカウンターに向かってみるが、先に中にいる主のほうから声をかけられた。
「悪いが空きはないよ。すっかりずぶ濡れだが、いま着いたのかい?」
「ええ、まったくドジ踏んだ」
カウンターにすら空きがないので、イーレンは端から主に向かって話しかけた。
「せめて顔を拭くタオルだけでも貸してくれない?」
「一杯飲んでくれるんなら」
「わたし、酒は飲めないの」
「ジュースでも何でもいいよ」
そう言って主は奥へ引っ込むと、大きなタオルを持ってきてくれた。イーレンは礼を言って顔と髪を拭いた。
「どこか空いている宿はないかな」
「この時間にか……。どこも満室だと思うがな。クムタのところのスペシャルスイートなら空いているかもしれん」
「それ高いんでしょ」
「まあな」
「どこか休めるところはない?」
「悪いが食堂の方は夜中に閉める。町の集会場なら、今晩一晩は開けると思うぜ」
どうやら、少なくとも乾いた場所で眠れそうだ。
「せめて食事だけでもしたいんだけど、どうにかなんないかな」
「悪いが自分でなんとかしてくれや、こっちも忙しいんでな」
そこまでいうと、主は酒をねだる客のほうへ行ってしまった。
イーレンは、空きはないものかともう一度食堂を見渡したが、相変わらず混雑している。テーブルは二十ほどあるだろうか、主も店員も忙しそうに行き来している。これでは当分食事にありつけそうにない。しかし他に行く当てもないし、やることもないので、黙って待っているしかなさそうだ。
ふと、奥のほうのテーブルに、一人で座っている女が目に留まった。彼女は片目に眼鏡のようなものをはめ、手元を一所懸命覗き込んでいる。テーブルには皿やコップではなく、蓋を開いた大きなかばんが載っていた。向かいの席は空いているので、頼めば座れそうだ。イーレンはその席に向かってふらふらと近づいていった。
イーレンが目の前に立っても、その女はまったく気づく様子がなかった。イーレンはかばんの中をちょっと覗いて驚いた。そこはちょっとした宝石店のように色とりどりの石や指輪が並んでいた。一緒に、加工用の道具だろうか、ヤスリやタガネやハサミが詰まっていた。そして女は、小さな指輪を拡大鏡で覗きながら磨いているところだった。
「ちょっといい?」
イーレンが声をかけると、ようやく女は顔を上げた。拡大鏡がポロリと落ちて、素顔が初めてあらわになった。それはまだ若い少女だった。イーレンは驚いた。もしかしたら自分と同じ年ぐらいかもしれない。
「あら、ごめんなさい。どういたしました?」
「その、もしよかったら相席してもいいかな」
少女はぽかんとイーレンのことを見つめていたが、やがてようやく理解したというように大きくうなずいた。
「ええ! どうぞどうぞ」
イーレンは大丈夫だろうかと内心思ったが、許しを得ることができたのでほっとして女の向かいに座った。手を上げて店員を呼び、夕食を注文して少女のほうに視線を戻した。すると、少女と視線ががっちりと合ってしまった。少女にまじまじと見つめられていたのだ。
「えっと……。ごめんね、急に。邪魔だったかな」
「いいえ、とんでもない。私こそ、いつのまにかこんなに人が増えてて。そういえば今日は月末だもんね」
「ええ。わたしも途中で雨に降られてこんな有様」
イーレンは泥の跳ねた上着の肩を引っ張って見せた。少女は驚いて言った。
「あら、これは大変。すぐに洗濯しないと!」
イーレンはその口ぶりに、思わず噴出してしまった。
「いいの、これくらい。それに今日は部屋が一杯で洗濯どころじゃないんだ」
「あら、それは大変」
「また同じだね」
「あら。えへへ。よく言われるんだ」
少女はぺろりと舌をだした。イーレンはくすくすと笑った。
店員が食事を運んできたので、イーレンはがつがつとそれを食べた。そのあいだ、少女はイーレンの食べっぷりを黙ってみていた。イーレンは少女にじろじろと眺められるので落ち着かなかったが、相席を頼んだ立場なので文句を言えない。腹も減っていたので、とにかく大急ぎで食事を片付けた。
「ふーう、食った食った」
「すごい勢いだったね!」
「え? ええ」
褒められたのかどうなのか、微妙な突っ込みにイーレンは戸惑いながら答えた。少女はイーレンの困惑に構わず、話を続けた。
「あなたは剣士でいらっしゃるの?」
「そう、そうね。いやそうじゃないかも。今は修行中。……どうして?」
「立派な剣を持っているから」
イーレンは少女が何を見ているのかようやく気づいた。脇に立てかけた剣を眺めていたのだ。どうして彼女がこんなものに興味を示すのだろう。突然、体の中で警報が鳴り響いた。
「剣……が、どうかした?」
「ほら、私、仕事がこんなんだから、金属細工に興味があって。その頭金の造り、すばらしいね! そんなよい剣をお持ちなら、腕も立つんでしょうね」
「これは師匠に頂いたものだから……」
「そうなんだ! すばらしいね!」
そういって、少女はうっとりとした表情をした。イーレンはますます困惑した。剣を見てうっとり?
「その……、とにかくありがとう。おかげで食事もできたし、そろそろ行くね」
「あら、もう行っちゃうの?」
「うん、今夜の宿を探さないと」
「当てがあるの? 今日は満室みたいだけど」
「集会所があるって聞いたから、そこへ行ってみるつもり」
「そうなんだ……。その、もしよかったら私の部屋はどうかな?」
「えっ」
「広い部屋だから、二人で泊まっても大丈夫だよ。もう支払いも済んでるし。それにもっと剣の話がしたいし」
「剣の話、ねえ……」
剣にばかりこだわる相手に、イーレンは警戒せざるを得なかったが、雨に濡れて疲れていることもあって、背に腹は代えられないという思いもあった。イーレンは迷った挙句、自信なさそうにこう言った。
「うん、その、もしよければ……」
「よし、そうときまれば乾杯かな! 私はキーア」
「リニアン」
「よろしくね!」
*
イーレンは、キーアの部屋へ通されて驚いてしまった。宿の中でも一番大きいであろう立派な部屋だったからだ。浴室も専用の部屋があって、キーアが注文して湯を用意してくれた。すべて部屋代に入っているから気にするな、とキーアが言うのだが、イーレンは一層用心深くなった。
大急ぎで身体を洗い、濡れそぼった服から泥を落とし、部屋の中に吊るして乾くのを祈る。そして、これまた宿が用意している部屋着を着て寝室へ戻った。するとキーアは部屋の隅のテーブルに座って、食堂にいたときと同じように指輪を矯めつ眇めつしているところだった。イーレンの背嚢と剣は、並べて壁際に立てかけてあった。イーレンはそちらを確かめることにした。
床はふかふかの絨毯だったので、迷わずそこに胡坐をかいた。まず背嚢の中を確かめる。背嚢の中には水が染みていたが、手紙は油紙に包んであるので無事だった。イーレンは中身をすべて取り出して、乾くように壁際に立てかけ戻した。次に剣を取り、分解して掃除を始めた。こちらも雨に濡れていたので念入りな手入れが必要だった。イーレンは柄を外すために留め釘を抜いた。それから柄を左手でつかんで、右手の拳で軽く叩いた。少しずつ軽く叩くと、茎が緩んでくるのが分かる。イーレンは充分に緩めたところで、鎺を押さえて柄から茎を抜いた。
イーレンは、自分の作業をキーアがじっと見つめていることに気づいた。最初に会ったときから、彼女の剣に対する興味は尋常ではない。ただそれは、好奇心というよりは職業的な興味のようにも思えた。イーレンは思い切って声をかけてみた。
「見る?」
キーアは顔を輝かせると、イーレンと同じように床に座った。そしてイーレンが差し出した柄を遠慮がちに受け取り、息をころして調べ始めた。鍔は楕円が四つ組み合わさった文様で、シンプルで実用性重視のデザインだった。何度か刃が当たり削れた跡がついていて、修羅場を潜ってきたことが伺える。柄元に被せた金具も地味で、特に飾りがあるわけでもない。柄に巻いた紐も雨に濡れているので、できればきれいに乾かしてしまいたいところだ。
キーアが柄の拵えを調べている間に、イーレンは刃についた水分を丁寧に拭った。それから油を塗り、これも拭い落とし、もう一度油を塗った。それから刃のほうもキーアに見せてやった。キーアはまず、茎に刻まれた銘に見入った。
「これ、なんて書いてあるのかご存知?」
「剣を作った人の名前だって聞いた。わたしは読めないけど」
そこに書かれているのは密語と呼ばれる特殊文字で、世間一般では誰も使っていないものだった。イーレンは、サルビリニアスがどこでこの剣を手に入れたのか聞いていなかったので、なぜここに密語の銘が刻んであるのかは知らなかった。もしかしたら、神殿が由来なのかもしれない。
「そう……、あなたの師匠はすごいんだね。こんなすばらしい剣をあなたに贈ってくださるなんて」
「あなた、これが読めるの?」
「キューホウバッツショー」
「え?」
「キューホウバッツショーという人が作った剣って意味だよ」
「変わった名前だね」
「そうね、でもこれがすばらしい剣であることは間違いない」
「ふーん。でも、肝心なのは切れ味かな。そういう意味だったら、これは確かにすばらしい剣だよ」
イーレンは乾いた布を取ると、丁寧に剣を拭い始めた。それからさらに油を塗り直し、次に鞘と柄に取り掛かる。ありとあらゆる部品をきれいに掃除し、金属部分を油の染みた布で拭き取った。本当なら柄と鞘をきちんと乾かしたいが、バラバラのままでは置いておけないのでやむを得ず組み立て直した。明日また手入れをやり直すことになるだろう。イーレンは手を動かしながらキーアに向かって言った。
「あなた、宝石屋かと思ってた。剣にも詳しいの?」
「指輪細工はね、私の趣味なの。私、見習い鍛冶師なんだ。これからハンツまで行くところなの」
「へえ、ハンツまで……」
ハンツには大きな鉱山と、金属加工ギルドの鍛冶場がある。キーアの目的地もそこなのだろう。
「あなたは? どこまで?」
「わたしもハンツまで……」
イーレンは剣の手入れに気を取られて、ついうっかり本音を漏らしてしまった。キーアは顔を輝かせて言った。
「本当!? じゃあ一緒に行こうよ。一緒に旅ができる人がいたら、私も心強いし」
「でもわたし、鉱山街道を行くつもりなんだけど」
「それならよかった、私もだよ」
「ええっと、でもわたし急いでるし……」
「大丈夫、こう見えても旅慣れてる方だから。足を引っ張ったりはしないよ。ね、お願い、いいでしょ? 宿代だって節約できるよ」
「そんな風に甘えるわけにはいかないよ」
「そうね、じゃあ用心棒ってことでどうかな。この先鉱山街道は険しい山道だし、お互い助けがあった方がいいと思うし。私もあなたも助かると思うんだ。ね?」
顔を輝かせてしゃべるキーアに、イーレンは返す言葉がなかった。一番心配なのは、道連れができるせいでハンツに着くのが遅れることだった。だが今ここで断るのは難しい。明日出発した後、彼女が遅れるようなら、置いていってしまえばよい。イーレンはそう決めて、とりあえずこの場は調子を合わせることにした。